みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
活動②(記録)

2014年遺骨収集3日目、今日の仕事は辛かった?

ジャングルから出てきた不審な汚れ男。誰?

ジャングルから出てきた不審な汚れ男。誰?

2014年の遺骨収集活動の3日目、本日も昨日と同じニービの壕で作業しました。途中、叩き付けるような激しい雨が降り、一時中断する羽目に。壕の中は問題ないのですが、外でバケツリレーするチームがびしょ濡れになるので、仕方なく、1時間ほど小雨になるのを待ちました。2日間の作業で、20㎝ぐらいしか入り口が開いていなかった壕は、人が中に入って作業できるほどに広がってきました。本日も、兵庫県明石市の千住啓介・市議らが応援に来てくださり、昨日同様、とても助かりました。遺留品も、徐々に出始めており、遺骨が見つかる可能性もありそうです。

不審な汚れ男は夫でした。雨に濡れたニービでコテコテに。今日の仕事は辛かった‥

不審な汚れ男は夫でした。雨に濡れたニービでコテコテに。今日の仕事は辛かった‥

この場所は、間もなく来てくださる仲間たちに掘ってもらおうと思っている壕で、何とか作業が円滑に進むように準備をしておきたいからです。でも、連日の重労働に、夫婦揃って、ややバテ気味です。特に、夫の哲二は、人一倍汚れ性で、作業が終わる度に泥まみれになっています。それが、余計に疲れて果て、落ちぶれているように見え、恥ずかしいぐらいです。他の人はそんなに汚れていないのに‥。でも、大丈夫。明日は親方に用事が出来たので、この壕での作業はお休みにします。ちょっと別の事情で、行動していますので、何か用事がある時は携帯にご連絡ください。

2014年遺骨収集2日目、ニービとの戦いと最強の助っ人

壕の前に積み上がったニービをスコップで取り除く作業。全員が大汗をかいた

壕の前に積み上がった土をスコップで取り除く作業。本日の那覇の最高気温は21度、全員が大汗をかいた

2014年の遺骨収集活動を始めて2日目、本日は浦添市内の傾斜地にある埋没壕で作業しました。住宅街の断崖に、沖縄独特の「ニービ」と呼ばれる赤色の細かい砂が堆積した壕でした。それが、重機にでも押し込まれたように壕内に流れ込んでいるため、掻き出す仕事からです。当然、我らの国吉勇・親方と一緒です。そして、本日は埼玉県行田市の柿沼貴志・市議と大阪府高石市の畑中政昭・市議がお手伝いしてくださいました。

ニービと呼ばれる土砂が堆積した壕の前を掘るメンバーたち

ニービと呼ばれる沖縄独特の土砂が堆積した壕の前を掘るメンバーたち

週末の休日を使って、わざわざ沖縄まで来てくださったそうです。その心意気に、親方も嬉しそうだったのですが、なんと一緒に作業する約束は昨日からだったらしく、どうも親方が約束を忘れていて、会えなかったようです。過去にも、多くの方が、この煮え湯を飲まれており、やはり親方にはスケジュール調整したり、お客様の応対をしたりする私設秘書が必要だと、痛感いたしました。ご迷惑をお掛けした皆さまに、心よりお詫び申しあげます。ほんと、ダメですよ親方、忘れちゃ‥。

収集活動に参加して下さった柿沼・行田市議(手前右)と畑中・高石市議(後方左)

収集活動に参加して下さった柿沼・行田市議(手前右)と畑中・高石市議(後方左)

しかし、そんな目に遭わされながらも、お二方は、壕前に積み上がったニービの山と、壕内に何十トンと詰め込まれた土砂を運び出すのに獅子奮迅の働きで応えてくださり、とても大助かりでした。柿沼市議は、もう10年近く遺骨収集活動に参加して下さっているベテランです。そして、今回が初めてだった畑中市議は、いきなり中身が入った完全品の薬瓶を掘り出され、親方を喜ばせていました。ご両人とも30歳代の若さで、パワー満ち溢れる作業姿勢です。私たち3人だったら3、4日はかかりそうな量の土砂を、たった1日で掻き出されました。心より、感謝いたします。明日からも、この壕で作業を続ける予定です。たぶん、手つかずだと思われますので、壕内に溜まったニービをすべて出せば、御遺骨が出てくる可能性もありそうです。期待しながら、明日からの作業に臨んでゆきます。

 

 

2014年の遺骨収集作業の宿は豊見城市です

宿舎の壁面にはシーサーが

宿舎の壁面にはシーサーが

今年も、戦没者の遺骨収集のため、沖縄入りしました。那覇の気温は摂氏23度。深浦を出発した時は、氷点下6度でしたので、上下30度近くの差となります。出発時はダウンジャケットを着ていましたが、今は半袖のTシャツに短パン姿で、宿舎のインフラ整備に励んでいます。

部屋でパソコンを見る筆者②。暑いからと言いながら、このスタイル。ホッチャレてきていることに気づかないようだ

宿舎の部屋でパソコンを見る筆者②。暑いからと言いながらのこのスタイル。ホッチャレてきていることに気づかないようだ

深浦に比べると、那覇はやはり都会です。美味しいものを食べさせるお店も数多くあり、スーパーマーケットや市場にも商品がたくさん並んで活気づいています。今回は、那覇市の隣にある豊見城市のレオパレスを借り受けました。狭い1Kですが、夫婦が暮らすには十分な規模です。

築年数が若いレオパレス。南国の空は青い

築年数が若いレオパレス。南国の空は青い

夫のお尻の具合も大事なので、洗浄便座のある部屋を選択しました。築年数を経ていないから、とても綺麗で快適な部屋です。新築マンションに引っ越したような気分になっています。肝心の遺骨収集作業は、2月1日から。今年は何人の方々を「recovery」できるのでしょうか。

この記事と写真は、筆者①の律子が担当しました。今回の夫は、到着後も部屋でゴロゴロするだけなので(怒)

 

野戦作井中隊に所属した戦没者の遺留品を返還

松木加造さんの印鑑。木製で中央が割れている

松木加造さんの印鑑。木製で中央が割れている

沖縄県の遺骨収集家・国吉勇さんが保管されている遺留品を再検索して、ご遺族へ返還する活動を続けています。今回は、2002年2月に糸満市大里の陣地壕で掘り出した印鑑のお話です。木製で、金具のついた印鑑ケースに入っていました。ケースの表面には、おそらく何かの革が張ってあったようです。印鑑には、フルネームの氏名が篆書体で彫られており、素人には読めません。専門家に問い合わせてみましたが、良い返事は帰ってきませんでした。

糸満市大里の陣地壕付近から掘り出した不発弾処理のため、警察官と相談する国吉勇さん(右端)

糸満市大里の陣地壕付近から掘り出した不発弾処理のため、警察官と相談する国吉勇さん(右端)

それで、壕などでの遺骨収集活動を終えた夕刻、妻と二人で泥まみれの作業着のまま平和祈念資料館に通い、その名前に近い字を様々に組み合わせて、戦没者のデータベースで検索してみました。2週間近く掛かって、ようやくそれらしい名前が。「松木加造」さん。長野県出身の戦没者です。沖縄や大阪市内にある老舗の印鑑屋さんにも見てもらって、字が合っていることを確認し、遺族探しの調査を始めました。

松木加造さんの印鑑。ケースに入っていたため、それほど劣化していない

松木加造さんの印鑑。ケースに入っていたため、それほど劣化していない

印鑑ケースの中に入って出土した

印鑑ケースの中に入って出土した

まず、長野県庁の健康福祉部地域福祉課・保護恩給係に問い合わせて、調べて戴きました。本来、戦没者の遺留品返還活動は、主に国の機関である厚生労働省が担当しています。が、調査に時間が掛かりすぎるのと、木で鼻を括ったような味気ない返答を繰り返すため、仕方なく今回も出身県の自治体へお願いしました。イレギュラーだと言う声も、問い合わせる度に聞こえてきますが、終戦から70年近くが過ぎ、遺族も高齢化するなか、悠長なことは言っていられません。直接依頼する例が少ないので、最初は戸惑っておられた県の担当者も、「最近は個人情報保護の規定が徹底されている。ゆえに簡単ではないが、できる限りのことはする」と、尽力してくださいました。すると、調査を始めて3ヶ月程で、ご遺族にたどり着くことができ、68年ぶりに印鑑が身内のもとへ帰ることになったのです。そして、松木加造さんが、どんな方であったのかが、朧げに見えてきました。

1Kのアパートの一室で、深夜まで戦没者の情報を検索する筆者、那覇市内で

1Kのアパートの一室で、深夜まで戦没者の情報を検索する筆者①、那覇市内で

沖縄守備隊第32軍の62師団野戦作井第14中隊に所属。中国東北部の旧満州から転戦してきた部隊でした。沖縄戦で組織的な戦闘が終了した翌日の6月24日に、「沖縄本島山城(現在の糸満市山城)」で戦死したと記録されています。亡くなった時の階級は伍長です。加造さんは1921年7月に7人兄弟の末っ子として誕生。兄弟のうち二人が出征し、次男であるお兄さんは生還して、結婚。無事に家庭も築かれたそうですが、加造さんは24歳の誕生日を迎えずに独身のまま戦死しました。

平和の礎に刻まれた松木さんの名前、糸満市で

平和の礎に刻まれた松木さんの名前、糸満市で

松木さんの名が刻まれている平和の礎

松木さんの名が刻まれている平和の礎

返還した印鑑は、親類であるご遺族のもとへ送り届けました。終戦から68年。加造さんを覚えている家族はすべて鬼籍に入っておられ、記憶している身内の方は誰もいないそうです。ただ、戦地から送られてきた白木の箱には、遺骨ではなく木片が入っていたと言い伝えられていました。ご遺族からは、「菩提寺と相談して、できれば遺骨代わりにお墓に納めようと考えています。加造の兄弟である亡き父も喜んでくれると思います。ありがとうございました」と、丁寧なお礼の言葉を戴きました。

糸満市大里の陣地壕などから出た不発弾の処理に来た若い自衛官ら。松木さんはどんな思いで彼らの活動を見つめているか

糸満市大里の陣地壕などから出た不発弾の処理に来た若い自衛官ら。松木さんはどんな思いで彼らの活動を見つめているか

国吉さんも、「おー、見つかったの。良かったねぇ。こうして、ご遺族が喜んでくれるのが一番のやりがいになるね」と話されています。そして、「野戦作井部隊?、何をする兵士たちだったのかな」と、疑問の声。防衛省のOBや専門家に聞くと、作井隊とは、主に軍の給水を確保する部隊で、井戸も掘れば、汚水を飲料水に浄化する役割も担ったそうです。インドネシアやマレー半島などでは、現地にある石油掘削などにも関わったとされる記録も残っています。

若い警察官と一緒に不発弾を見る国吉さん(右端)

若い警察官と一緒に不発弾を見る国吉さん(右端)

沖縄本島の中南部で、旧日本軍の大きな隊が駐屯していた壕や野戦病院壕などには、今も水を湛える井戸があるのを見かけます。だいたいが、50~100Cm四方のきちんとした正方形に掘られており、こんこんと清水が湧き出している場所もありました。そのほとんどが、沖縄のクチャという粘土質層の壕で、ジメジメして崩れやすく、コウモリなども数多く棲息していました。こんな過酷な場所で、加造さんも井戸掘削をしていたのかも知れません。

大里の陣地壕近くで見る買った旧日本軍の不発弾。近くに小中学校がある

大里の陣地壕近くで見つかった旧日本軍の不発弾。近くに小中学校がある、糸満市で

今回は、長野県庁が親身になって相談に乗ってくれ、尽力してくださったおかげで、戦没者の大切な遺品をご遺族の元へお返しすることができました。そして、ご遺族の代表者から、心のこもった感謝の気持ちを伝えて戴きました。関係各方面の皆さまに、心よりの御礼を申し上げます。

大里の陣地壕などから出た不発弾を警察官らに説明する国吉さん

大里の陣地壕などから出た不発弾を警察官らに説明する国吉さん

ただ本来は、国の手で迅速に進めてほしい仕事です。そして、強い憤りを感じます。赤い紙切れ一枚で召集して戦場に送り出し、国のため家族のために命を落とした日本人たちに、何たる仕打ちであるのか、と。せっかく無事に返還できても、何故かいつも、やるせない思いが募る仕事です。

「戦没者慰霊の会ひょうご」との活動

楠田委員長から(左から2人目)、収集に当たっての注意事項を聞くメンバー、糸満市で

楠田委員長から(左から2人目)、収集に当たっての注意事項を聞くメンバー、糸満市で

ここ数年、熱心に遺骨収集活動に参加してくださるグループがあります。兵庫県のNPOグループ(民間の非営利組織)「戦没者慰霊の会ひょうご」の皆さんです。いつも会員らボランティアのメンバーを沖縄県まで引率し、現場で収集活動の指導をするのが実行委員長の楠田誠一郎さん。先の大戦で亡くなった戦没者を、「一日でも早く、一柱でも多く、冷たく暗い土の中からお出ししたい」との思いで、沖縄県を中心に収集活動をされています。

収集した遺骨を国吉勇さん(中央)らと仕分けるメンバーら

収集した遺骨を国吉勇さん(中央)らと仕分けるメンバーら

戦争の惨劇や平和と命の尊さを伝え、二度と同じ過ちを繰り返さないために、地獄の戦場だったといわれる沖縄戦を、後世へ語り継ぐのも責務であるとされています。その活動は、遺骨の収集だけにとどまりません。戦没者の遺留品返還や埋没壕の調査、戦闘の記録、壕内の見取り図作成などもされています。毎年、日本全国から公募した十数人のメンバーで訪れ、朝から夕方まで、みっちりと働いてくださいます。

お昼休みのひと時。会員らは個人の参加動機などを語り合った

お昼休みのひと時。会員らは個人の参加動機などを語り合った

「戦没者の遺骨を初めて目の当たりにし、手で触れた」、「こんな酷い状況が今も放置されたままとは考えもしなかった」‥と、遺骨収集の現場に初めて立つ方々が多いのですが、楠田実行委員長の元、経験者らが小まめなサポートでメンバーを率いて下さり、とても戦力になる頼もしいNPO団体です。今年の参加者は、兵庫県を始め、青森や千葉県など、日本全国から駆けつけて頂き、お仕事も教職員であったり、通関士であったりと、社会で様々な経験を積まれた方々が来られていました。

発掘した遺骨を前に祈りを捧げる楠田誠一郎・実行委員長(中央)ら

発掘した遺骨を前に祈りを捧げる楠田誠一郎・実行委員長(中央)ら

ここ数年は、遺骨収集家の国吉勇さんと活動を共にされることが多く、私たちも現場でご一緒させて戴く機会が増えました。気配り上手で、とても働き者である楠田委員長は、まだ四十歳代半ば。ツルハシを振るっても、スッコプを握らせても、まさに獅子奮迅の働き振りで、いつもは厳しい国吉さんも、「良い人が来てくれたねぇ」と頬を緩めます。そして、楠田委員長も、「沖縄で遺骨収集といえば、やはり国吉勇さんです。私たちは自らの活動もさることながら、国吉さんとの活動を通じて学ぶことも大切にしたい」と力を込められます。

大腿骨を手にした国吉さん(中央)から、骨の部位の説明を受けるメンバーら

大腿骨を手にした国吉さん(中央)から、骨の部位の説明を受けるメンバーら

今回も、産業廃棄物の捨て場の横にある陣地壕内を深く掘って下さり、旧日本兵の遺骨と、当時の兵士や避難民の暮らしぶりが垣間見える遺留品を数多く掘り出して下さいました。

発掘された中川清さんの万年筆

発掘された中川清さんの万年筆

そして、「中川清」さんと掘り刻まれた万年筆も見つけて下さり、現在、持ち主とご遺族を探索中です楠田委員長らによると、 沖縄戦でお亡くなりになられた中川清さんは計3名。福井県に2名、石川県に1名いらっしゃいます。現在、両県に問い合わせて調査している最中です。

発掘された中川清さんの万年筆

発掘された中川清さんの万年筆

ただ、戦闘で亡くなっていない生還者の持ち物である可能性もあります。「沖縄戦の最中、どこかで万年筆を紛失した」、「戦場で中川清さんから預かったが、どこかで紛失した」など、さまざまな可能性が考えられます。出征前に、中川清さんから進呈された方が持っていた可能性もあります。もし、心当たりがある方は、「戦没者慰霊の会ひょうご」(〒678-0043 兵庫県相生市大谷町8-8 ☎090-6667-7661 mail:irei-hyougo@zeus.eonet.ne.jp)の楠田誠一郎、もしくは、当ホームページのコメント欄に情報をお寄せください。下記に万年筆を発見した場所や、この地に駐屯していた部隊の経緯など、楠田委員長が調べた情報を記してあります。ご参考までにお読みください。

①万年筆の発見場所は糸満市糸洲

②掘り出した壕は人の手で掘られた人工壕で、独立歩兵第21大隊(福井県敦賀)が駐屯しており、1945年6月5日以降に構築された

③同年6月8日からは独立歩兵第23大隊(福井県敦賀)もこの場所に合流している

④同年6月16日の夜間、独立歩兵第21大隊・第23大隊は宇江城・真栄平方面へ移動

⑤それ以降はこの場所に組織的な日本軍は駐留していない

もし、これらの情報に心当たりがあったら、どのような些細な情報でも構いませんのでお知らせください。国吉さんを始め、同会も私たちも遺留品の返還は、すべて無償のボランティア活動なので、安心してお問い合わせください。

近くから出た腕時計

近くから出た腕時計

この万年筆が出土した場所から一緒に出てきた遺留品を紹介いたします。この品々にも記憶が残っている方がいらっしゃれば、お問い合わせください。

湯呑hp

花の絵柄のおしゃれな湯呑も=写真上

ポマードhp

誰が使っていたのでしょうか、整髪料のポマードの瓶です。中身が残っていました=写真上

ハサミhp

おしゃれだったんでしょうか、ヒゲなどの=写真上

石鹸箱hp

中身が残っていたモダンな模様の石鹸箱。お風呂もないのに=写真上

針箱?hp

誰が使ったのでしょうか、針箱も出土。中身は劣化していた=写真上

歯ブラシhp

そして、支給品とみられる軍用の歯ブラシ。純毛のブラシ部分は残っていない=写真上

中身が残っている赤チンの瓶。持ち主は生き残ったのであろうか‥

中身が残っている赤チンの瓶。持ち主は生き残ったのであろうか‥

懐かしの赤チン。今はほとんど見かけません。すべて、万年筆が出土した半径10メートル以内で出土した遺留品です。見覚えがある方は、どんな些細な情報でもお知らせください。

 

 

戦没者への憶いを歌声に乗せて:歌手・正木麻衣子の遺骨収集

リンク先:朝日新聞デジタルの記事と動画にジャンプ

ステージで歌う正木麻衣子さん、神戸市で

正木麻衣子さん

ステージで歌う正木麻衣子さん、神戸市で

ステージで歌う麻衣子さん、神戸市で

沖縄での遺骨収集ボランティアは、多くの人に支えられながら活動を続けています。その中でも、ガマの中へ一緒に入って汗と涙を流し、辛く悲しい想いを語り合う大切な仲間がいます。その一人が、西宮市出身の正木麻衣子さんです。神戸に拠点を置く、ジャズを専門に歌うプロの歌手です。

普段は明るくて、表情が豊かな麻衣子さんだが、ヘルメットをつけて収集活動に臨むと一変する。真剣に取り組むため、収骨中はほとんど言葉を発しなくなる、糸満市で

普段は明るくて、表情が豊かな麻衣子さんだが、ヘルメットをつけて収集活動に臨むと一変する。真剣に取り組むため、収骨中はほとんど言葉を発しなくなる、糸満市で

正木さんと最初にお会いしたのは9年前。彼女が参加したNPO団体の遺骨収集活動を、那覇市の遺骨収集家・国吉勇さんと一緒に指導したのがきっかけでした。その時入った壕は、旧日本海軍が使用していた手掘りの構築壕でした。中は広くて迷路の様に枝分かれしており、奥は崩落しているので狭く、空気も薄いためロウソクの火が消えそうになるような過酷な現場でした。この団体の参加者は、ほぼ全員が収集活動の初心者で、すべて基本からの指導となりました。

一歩間違うと落ちてくる巨岩の下敷きになりそうな壕の穴から、恐るおそる出てくる

一歩間違うと落ちてくる巨岩の下敷きになりそうな壕の穴から、恐るおそる出てくる

壕の入り口は家電などの粗大ごみが散乱し、暗い内部は火炎放射器で焼かれて壁面の土が真っ赤に変色しています。初心者には過酷だし、空気も薄くて怖いだろうと思いつつも、更なる内部への見学者を募ったところ、正木さんだけが最後までついてきました。ガッツがある女性だなぁ、と思って参加理由を聞くと、「戦争で亡くなった方の置かれている現状を、自分の目で確かめたいと思いました」と決意を秘めたような口ぶり。団体との活動が終了した後、一人で私たちの所へ来て、「明日からも数日ご一緒させて下さい」と頭を下げられました。国吉さんも了承したので、一緒に活動することになりました。

壁面が真っ黒に焼かれた壕で作業する。マスクをしないと粉塵で喉や肺をやられる

壁面が真っ黒に焼かれた壕で作業する。マスクをしないと粉塵で喉や肺をやられる

それをきっかけに、毎冬、国吉さんを頼って遺骨収集のボランティアをされるようになりました。約2週間の期間ですが、雨が降ろうが風が吹こうが、1日も休まず亜熱帯の原野に出向いて行かれます。時にはジャングルを歩き、時には狭いガマの中に潜って掘り続けるのが、最近の収集活動です。それは、目に見える場所にある遺骨や遺留品などが、68年の歳月の間にほとんど収集され尽くしているからです。残っているのは、普通の人が立ち入れないような森や原野、そして完全に埋まってしまっている洞窟などです。そんな場所だからこそ、手付かずの状態で放置されており、たくさんの遺骨を収集することができるのです。

亜熱帯のジャングルを抜けて収骨現場の壕へ向かう

亜熱帯のジャングルを抜けて収骨現場の壕へ向かう

ただ、麻衣子さんも沖縄に遺骨を掘るためにだけ、訪れるわけではありません。音楽関係の大切な仲間の元にも、収集活動の合間を縫って出かけていきます。昼間は壕の中に籠りっぱなしとなりますが、夜は仲間が繰り広げるステージを見に行きます。自らが歌うわけではないのですが、観客の一人として那覇での夜の時間を楽しまれています。

仲間が出演するステージを見守る、那覇市のアパッチで

仲間が出演するステージを見守る、那覇市のアパッチで

特に、収集活動を取材してくれたテレビ局にいた女性スタッフが、局を辞めてキーボード奏者に転身したため、彼女のステージには欠かさず顔を出します。それは、沖縄で培った人間関係を大切にしているのと同時に、連日の過酷な遺骨収集活動の小さな息抜きとして、癒しを求める場にしているからです。

大好きな曲は一緒に口ずさみながら、全身で応じる

大好きな曲は一緒に口ずさみながら、全身で応じる

それほど、日々の遺骨収集の現場で目にする光景が、「もう活動を止めてしまいたい、と何度も思うほど厳しく辛い現実だから」と葛藤を話してくれます。こうした悩みも、麻衣子さんが沖縄に来るのを楽しみに待っている音楽仲間と語らうことで、また明日から頑張ろう、という気持ちに変わってゆくといいます。だから、昼間の収集活動が辛くても、仲間のステージを見に行く原動力なると話します。

沖縄の大切な友人たちと笑顔で語る麻衣子さん

沖縄の大切な友人たちと笑顔で語る麻衣子さん

68年が過ぎた今も、沖縄本島から戦没者の遺骨が無くなることはないようです。今年も糸満市糸洲の陣地壕で、20柱近い遺骨が出てきました。産業廃棄物の置き場に近い壕に、折り重なるように投げ込んでありました。ほとんどが旧日本軍の兵士の骨だと思われます。が、中には未発達の骨もあり、若い女性か子供のような細くて華奢な下顎骨や、肋骨の骨が出てきたりもしました。

折り重なるようにして積み上げてあった戦没者の遺骨。そのあまりの無残さに、声を上げて号泣してしまった、糸満市で

折り重なるようにして積み上げてあった戦没者の遺骨。そのあまりの無残さに、声を上げて号泣してしまった、糸満市で

戦闘に巻き込まれた民間人の遺骨、しかも、女性や子供のお骨が出てくると、麻衣子さんの涙は止まりません。それでも手を止めずに、「泣いちゃダメ、泣いちゃダメ」と呟きながら、一生懸命に収骨します。どんな小さな破片も逃さず、慈しむように遺骨を扱うのが麻衣子流です。

涙をこらえて収骨。「ちゃんとしなくちゃ、泣いちゃダメ」と、呟きながら

涙をこらえて収骨。「ちゃんとしなくちゃ、泣いちゃダメ」と、呟きながら

そして、尊敬する遺骨収集家の国吉勇さんとの活動が、麻衣子さんにとっては何よりの楽しみであり、学びの場でもあります。国吉さんの遺骨収集に臨む姿勢は、自らだけでなく、他人にもとても厳しいものです。麻衣子さんも最初は、「何度言ったら判る。もっと深く、もとの地盤まで掘らないと出ないさ」とか、「そんなこともできないの。あんたもう帰っていいよ」と、親にも言われないようなきつい言葉を何度も浴びたそうです。それでも60年近く、たった一人でボランティアで活動を続けている尊敬すべき国吉さんの言葉なので、耐えることができたそうです。

遺留品が大量に出てきた。嬉しそうに仕分ける国吉さん(手前)を見守る麻衣子さん

遺留品が大量に出てきた。嬉しそうに仕分ける国吉さん(手前)を見守る麻衣子さん

 最近は、たいていの現場を任せてもらえるようになり、初心者の指導をすることも増えてきました。1年間、一生懸命に歌って貯めたお金で、沖縄への渡航費用などを賄っているため、本来ならば国吉さんとの収集活動を最優先したい気持ちで一杯です。でも、自分も仲間たちに受け入れてもらったように、新しい人の指導も大切だと、最近は受け止められるようになった、といいます。そして優しい笑顔ながらも、国吉さん直伝の厳しい指導をされています(笑)。

NPO団体と一緒に収集した遺骨を仕分ける

NPO団体と一緒に収集した遺骨を仕分ける

写真

真新しい納骨袋へ収める

プロの歌手として、不特定多数の酔っぱらいの前で歌うカラオケは、大抵はお断りされていますが、国吉さんとの飲み会になると、大好きな曲に限って1~2曲歌います。他の人のリクエストには、ほとんど応じませんが、尊敬する国吉さんが喜ぶのならば、と那覇のカラオケがあるスナックでもプロの歌声を披露します。当然ながら、いつも盛大な拍手と感嘆の嵐に包まれます。

泡盛で上機嫌になった国吉さん(左)の前で大好きな曲を披露する、那覇市で

泡盛で上機嫌になった国吉さん(左)の前で大好きな曲を披露する、那覇市で

ステージの前にピアノ奏者と打ち合わせ。笑顔がこぼれているが綿密な話し合いが続く、神戸市で

ステージの前にピアノ奏者と打ち合わせ。笑顔がこぼれているが綿密な話し合いが続く、神戸市で

神戸に帰っても安穏な日々はなく、プロの歌手として毎日、真剣勝負が続く、と語られます。歌を聴きに来てくださるお客さんに満足していただくため、常に新しいことに挑戦されています。本格的なジャズだけでなく、民謡や懐かしの昭和の歌謡曲なども、お客さんの好みに合わせながら、ステージに盛り込まれます。

ステージの前は一人で気を落ち着かせる。少し近寄りがたい雰囲気だった

ステージの前は一人で気を落ち着かせる。少し近寄りがたい雰囲気だった

ステージの合間も客席を飛び回って、お客さんとの楽しい会話を繰り広げられます。私たちが訪ねたときは、結構、年配の方が多かったのですが、皆が大切な自分の娘の歌を聴きに来たかのような、暖かな雰囲気が印象的でした。そして、麻衣子さんの素敵な歌声と活発なステージ・トークがとても楽しかったです。また、訪ねたくなるような素敵なショーでした。

、歌声も笑顔も弾ける麻衣子さんのステージ。また行きたいな、と夫におねだりしている

歌声も笑顔も弾ける麻衣子さんのステージ。また行きたいな、と夫におねだりしている

遺骨収集を初めて以来、ステージでも沖縄をテーマにした曲を積極的に取り入れて歌うようになったそうです。沖縄の心を知るためにも、あの地獄のような戦場で、鉄の防風から逃げ惑いながら、亡くなってしまった人々の気持ちを伝えられるように。深い思いを込めて。

積み重なっていた戦没者の遺骨を前に、座り込んだまま動けなくなった麻衣子さん。あまりの無残な光景に声も出なくなり、その場に竦んでしまったという

積み重なっていた戦没者の遺骨を前に、座り込んだまま動けなくなった麻衣子さん。あまりの無残な光景に声も出なくなり、その場に竦んでしまったという

何よりも大切な仲間であり、良き友人でもある麻衣子さん。体が健康で続けられる限り、国吉さんを盛り立てながら、一緒に頑張ろうね。そして、私たちはいつもあなたを応援しています。

麻衣子さん、来年も会えるのを楽しみにしているよ。また、八竹や泉崎で一緒に飲もうね!

麻衣子さん、来年も会えるのを楽しみにしているよ。また、八竹や泉崎で一緒に飲もうね!

 リンク先:朝日新聞デジタルの記事と動画にジャンプ

望郷の家族の元へ執念の帰郷-歌手・正木麻衣子さんが認識票をご遺族へ返還

リンク先:朝日新聞デジタルの記事と動画にジャンプ

出身県と個人の氏名が刻まれた認識票

出身県と個人の氏名が刻まれた認識票

沖縄県糸満市大里にある壕の中から、旧日本兵が身に付けていた認識票が掘り出されました裏の面に「茨城県・池田豊次」と刻まれており、通常の表部分には部隊名と個人識別番号が記されています。

認識票の表

認識票の表

発見したのは神戸市の歌手・正木麻衣子さん。沖縄県で10年近く遺骨収集活動を続けています。この場所からは、複数の遺骨や遺留品も一緒に出土しました。これまで見つかっている旧日本軍の認識票には、位が高い兵士以外は識別番号しか記されていません。が、これには県名と氏名が刻まれています。直ちに、関係各機関に連絡を取り、この兵士の検索を開始しました

発見した壕で発掘作業をする麻衣子さん、糸満市で

発見した壕で発掘作業をする麻衣子さん、糸満市で

その結果、茨城県大津町(現在は北茨城市)出身の池田豊次さん(1922年1月生まれ)が身に付けていたものと判明。陸軍船舶工兵第26連隊(通称:暁一六七四四部隊)に所属していた豊次さんは、1944年8月に沖縄県の那覇港に上陸し、45年5月3日に沖縄本島西海岸付近で戦没した、と戦死公報に記録されていました。最終階級は伍長でした。直ちに返還に向けた遺族探しを始めました。

池田豊次さんの名が刻まれた平和の礎、糸満市の平和祈念公園で

池田豊次さんの名が刻まれた平和の礎、糸満市の平和祈念公園で

写真

刻印された名前

が、ここで大きな疑問にぶつかりました。認識票が見つかった糸満市大里は沖縄本島南部の内陸部に位置しており、豊次さんが亡くなったとされる西海岸とは直線距離で20キロ前後も離れています。史上稀に見る激戦だったので、記録などに混乱があったのかもしれませんが、あまりに違いがありすぎます。そのため、可能な限りの理由を調べてみることにしました

戦没者の一片の骨も逃さず収集しようと試みる麻衣子さん。この緻密な作業の積み重ねが多くの遺留品を見つけ出す足がかりとなる

戦没者の一片の骨も逃さず収集しようと試みる麻衣子さん。この緻密な作業の積み重ねが多くの遺留品を見つけ出す足がかりとなる

まず、戦史に詳しい方々からは、「主に陸軍の兵士に配られていた認識票は、切り込みなどの特攻に出撃するときは、個人が特定されないように部隊長らが集めていた」、とする証言を得ました。また、「亡くなった戦友の認識票を持って敗走した」、という生き残りの兵士の証言も聞きました。これらのケースでは、戦死場所と認識票の発見場所が違ってもおかしくありません。が、集められたものならば同じ場所からもっと多くの認識票が見つかるはずだし、戦友のものを持って逃げたのならば、その兵士の認識票も同時に見つかる可能性があるはずです。この壕を徹底的に掘り進めましたが、池田さんの認識票しか出てきません

真っ黒に焦げた壕内を掘り進む麻衣子さん

真っ黒に焦げた壕内を掘り進む麻衣子さん

この戦死場所の違いは、今も解決できていません。結局、詳しい戦闘状況を調べるために、更に生き残った兵士の探索と戦争記録を探し続けました。終戦から68年が過ぎた今、簡単には生き残りの方は見つかりません。ただ、同隊に所属し、戦後、自ら体験した沖縄戦を手記にしていた高知県出身・野村正起さんの「沖縄戦敗残兵日記」(太平出版社)が見つかりました。野村さん自身は、すでに他界された後でしたが、この記録が大いに役立ちそうです。と、同時に、茨城県の援護課が献身的にご遺族を探して下さり、茨城県と東京都に姪御さんと甥御さんがいることが判明したのです。直ちにご遺族へ連絡を取り、返還に向けての活動を始めました

茨城県の実家に残っていた池田豊次さんの写真。1944年撮影と裏書きされていた

茨城県の実家に残っていた池田豊次さんの写真。1944年撮影と裏書きされていた

豊次さんと直接、血の繋がりがあるご遺族は、3人兄弟だった豊次さんの兄・善一さんの長男・池田善夫さん(67)でした。豊次さんの甥にあたります。認識票を発見した経緯などを話すと、「ぜひ、現地へ出向き、お線香の一本でも手向けたい」と仰いました。東京都に住まわれ、店を経営されていましたが、仕事が多忙なのと、体を壊されたことも影響して、旅に出ることが難しくなってしまいました。そこで、麻衣子さんが東京に届けることになりました

善夫さん(左)に認識票などを手渡す麻衣子さん、東京都で

善夫さん(左)に認識票などを手渡す麻衣子さん、東京都で

善夫さんと妻の良江さん(66)にとっては、若くして戦死された豊次さんのことは、父・善一さんからの話でしか聞いたことがありません。茨城県の実家に残されていた写真などを東京に持ち帰り、迎えてくださいました。ここで話題になったのは、本来ならば名前を打ち込める階級ではないとされた豊次さんが、なぜ、名前入りの認識票を持っていたのか、ということです。防衛研究所など、戦史に詳しい方々に話を聞いても、詳しいことは判明しません。

認識票と豊次さんの写真にあった裏書き。戦地から送られた手紙に同封されていた写真なので、豊次さんが書いた字と思われる

認識票と豊次さんの写真にあった裏書き。戦地から送られた手紙に同封されていた写真なので、豊次さんが書いた字と思われる

戦没者の遺留品を数多く発掘されている沖縄県の遺骨収集家・国吉勇さんは、「戦死後に伍長である兵士が、名前入りの認識票を所持しているのは、見たことも聞いたこともない。遺留品が何十万点とある私の資料館に同じ暁部隊のものがあるが、どれも名前は刻まれていない。今まで数十枚発掘したが、極めて珍しい例だ」と首をひねります。そして、収集現場からは文字を刻むためのタガネも数多く出土するので、「もしかしたら、自分で打ち込んだのかもしれないね」と話します。

豊次さんの認識票を手に笑顔を見せる善夫さんと良江さん

豊次さんの認識票を手に笑顔を見せる善夫さんと良江さん

そして、善夫さんと良江さんに認識票を見せたら、「打ち込まれた字が写真に裏書してある叔父の字に似ている」と驚かれています。こうなると、豊次さんが自ら打ち込んだ可能性も出てきました。では、なぜ西海岸で戦死したはずの兵士の認識票が南部の糸満市大里で見つかったのか、ということが気になります。そこで、同じ部隊で戦いながら日記を書き綴り、戦後ハワイ抑留をへて帰国し、記録を残した野村正起さんの著書がヒントをくれました

豊次さんの名前が刻まれた平和の礎の刻銘場所を記した用紙

豊次さんの名前が刻まれた平和の礎の刻銘場所を記した用紙

船舶工兵第26連隊は、豊次さんが戦死されたとされる5月3日夜、本島西海岸の宜野湾市付近に陣地や司令部を設営していた米軍への総攻撃を命じられました。沖縄を守備する旧日本軍が、大規模な反転攻勢をかけた日です。それまで一方的に押されていた日本軍が、各地で一斉に反撃に出たようです。豊次さんの部隊も海上から船を使って、陸にいる米軍を急襲する作戦を遂行しようとしました

豊次さんの認識票が見つかった壕の様子などを善夫さん(手前)らに話す話す麻衣子さん

豊次さんの認識票が見つかった壕の様子などを善夫さん(手前)らに話す話す麻衣子さん

そして、同隊の本部があった豊見城村(現在の豊見城市)から数十隻の「サバニ」と呼ばれる手漕ぎの刳舟(沖縄の漁師が使っていた小舟)に4~6人ずつ同乗し、400余名で切り込み攻撃を仕掛けました。が、移動の途中、現在の宜野湾市牧港付近で米軍に発見され、集中攻撃を受けて部隊のほとんどが戦死したと記録されています。豊次さんの戦死公報も、「沖縄本島西海岸で戦死」となっており、この戦いで亡くなったとみられていました

十字の紋章を付けた軍服姿の豊次さん。顔つきは善夫さんに似ている。右下は認識票

十字の紋章を付けた軍服姿の豊次さん。顔つきは善夫さんに似ている。右下は認識票

が、野村さんの日記などからは、この戦闘で生き残った兵士が本隊へ戻ってきたり、敗走する野村さんらと途中で出会ったりした、との記載がありました。そこには残念ながら、豊次さんの名前は出てきません。ただ、北茨城の漁師町で生まれ育った豊次さんは、米軍からの攻撃を海に逃れながら避けて、生き残った可能もあるようです。そして、当時の切り込みは特攻作戦であり、失敗したら生きての帰還は許されない戦いでした。生き延びたとしたら、豊次さんも部隊へ戻ることができず南部へ逃れる大勢の民間人に混じって敗走したのでは、と予測されます。善夫さんも「実家は漁師だったので、泳ぎは得意だったでしょう。気性が激しく度胸があった親父の弟ならば、なにくそ、海で死ねるかと脱出したかもしれません」と当時に思いを巡らせました。

善夫さんご夫妻のもとへ届けた認識票に、「帰って来れて良かったね」と、話しかける麻衣子さん(中央)。右手前で取材するのは朝日新聞の伊藤恵里奈記者

善夫さんご夫妻のもとへ届けた認識票に、「帰って来れて良かったね」と、話しかける麻衣子さん(中央)。右手前で取材するのは朝日新聞の伊藤恵里奈記者

そして、その途中で認識票に自らの名前と出身地を打ち込んだのでは、と国吉さんや元自衛官の遺骨収集ボランティアらはみています。それは、「死を覚悟しながらも、自らが生きた証を最期の場所に残したかったのでは」と憶測されています。麻衣子さんは、豊次さんは亡くなった後、魂だけでなく、遺留品も故郷に帰したかったのでは、と涙ぐみながら話してくれました。

納骨袋に収骨者の氏名を書き込む麻衣子さん、糸満市で

納骨袋に収骨者の氏名を書き込む麻衣子さん、糸満市で

この認識票と一緒に、遺骨や他の遺留品も数多く出土しました。しかし、身元判明につながる遺留品は、他にはありませんでした。そして、遺骨も大きな骨はすべて収められた後で、複数の歯や指の骨などの小さな破片しか見つかりません。これだと、厚生労働省は個人の身元判明につながるDNA鑑定を行ってはくれません。同省に問い合せてみましたが、つれない回答が戻ってきただけでした。結局、この場所で麻衣子さんらが集めた骨は、沖縄県の国立戦没者墓苑に納骨されることになりました。

写真上、納骨袋に入れた遺骨を愛おしむように抱きかかえる麻衣子さん、糸満市の平和祈念公園で

写真上、納骨袋に入れた遺骨を愛おしむように抱きかかえる麻衣子さん、糸満市の平和祈念公園で

麻衣子さんは、豊次さんの遺骨をご遺族に届けられなかったことを悔やまれています。「私たちがもう少し早く遺骨収集に関わり、この壕も丁寧に収骨できていれば、善夫さんの元へ返せたかも知れなかった」と、唇を噛み締めます。冷たい地面の下に埋もれ続けてきた戦没者を一日でも早く掘り出し、故郷のご遺族の元へお返ししてあげたい思いで、麻衣子さんは遺骨収集のボランティア活動に参加されています。

認識票が見つかった壕で、豊次さんに思いを馳せる麻衣子さん、糸満市で

認識票が見つかった壕で、豊次さんに思いを馳せる麻衣子さん、糸満市で

しかし、終戦後から68年の年月が過ぎた今、戦争体験者は次々と亡くなり、出征した家族の帰りを待ち続けているご遺族も高齢化しています。遺骨や遺留品の返還活動も、年を追うごとに難しくなってきているのが実情です。そんな中、豊次さんのような例は奇跡に近い出来事でした。善夫さんご夫妻にも、とても喜んで戴けました。麻衣子さんも胸がいっぱいで、もう言葉が出ないぐらい感無量だ、と話されています。

返還活動の最中、善夫さんご夫妻の前で感極まって涙ぐむ麻衣子さん、東京・足立区で

返還活動の最中、善夫さんご夫妻の前で感極まって涙ぐむ麻衣子さん、東京都で

今回、豊次さんの認識票が見つかった壕は、南下しながら攻めてくる米軍に対し、旧日本軍が最後の防衛ラインとして死守しようとした陣地のひとつでした。畳6畳ほどでの広さで、大人が5人も入れば満員になる岩の割れ目。内部の壁は火炎放射で焼かれており、他の多くの壕と同じように落盤しています。終戦後、地元の方々が、原野に残されていた戦没者の遺骨をこの壕周辺の穴に入れたとする証言もあり、この付近から見つかる遺骨は、戦闘中に壕内で戦死した日本兵とは関係のない人が含まれている可能性もあります。

小さな遺骨も素手で掬って納骨袋に入れる麻衣子さん。作業中も絶えず涙がこぼれ落ちた、糸満市で

小さな遺骨も素手で掬って納骨袋に入れる麻衣子さん。作業中も絶えず涙がこぼれ落ちた、糸満市で

豊次さんの遺骨も身につけた認識票と共に、この壕に投げ込まれたのかもしれません。また、この地で戦死した戦友のポケットに入っていた可能性もあります。結局、判明している事柄を元に想像するだけで、詳しい事実を解明することはできませんでした。こうして、時間の経過と共に体験者は鬼籍に入り、遺骨や遺留品の返還を待つ遺族の希望も消えて行きます。そして、国や研究機関による戦史の調査や研究も進まないまま、戦争の記憶や記録は薄れてゆくのです。

写真下、認識票が出た壕の遺骨を納骨する麻衣子さん。遺骨収集情報センターの職員が手を合わせて迎えた、糸満市の平和祈念公園で

認識票が出た壕の遺骨を納骨する麻衣子さん。遺骨収集情報センターの職員が手を合わせて迎えた、糸満市の平和祈念公園で

ただ、軍の機密上、本来は認識票に記してはいけない氏名を刻み込んでまで、生きた証を残そうとした豊次さんの執念。それが、万感の思いを込めて丁寧に遺骨収集する麻衣子さんを呼び寄せた、と思えるような出来事でした。この返還活動を終えて、麻衣子さんは一時的に体調を壊したそうです。今は回復して、元気にステージで歌い続けていますが、「豊次さんやご遺族への想いが募りすぎたからかな」と、照れ笑いされています。戦争で亡くなった方は、皆、故郷に帰りたかったはずです。豊次さんの証はお届けできたけれど、名前を刻むことができなかった多くの兵士がいたことや、大多数の戦没者の遺骨がご遺族のもとへ帰れていないという事実を、忘れてはならないと改めて思いました、と麻衣子さんは涙ぐまれていました。

ステージで元気に歌う麻衣子さん、神戸市で

ステージで元気に歌う麻衣子さん、神戸市で

麻衣子さん、これからも一緒に頑張りましょうね。

リンク先:朝日新聞デジタルの記事と動画にジャンプ

 

 

帰れない遺留品-島守の塔下にある軍医部壕の発掘調査

私たちの沖縄県での2013年遺骨収集活動も無事終了し、後は遺留品を届けるだけとなりました。今年は遺骨も遺留品も多数掘り出すことができ、とても有意義な活動の年となりました。

平和祈念公園内で昨年、掘り出した遺骨。同公園内の「平和の礎」前で撮影した、糸満市摩文仁で

平和祈念公園内で昨年、掘り出した遺骨。同公園内の「平和の礎」前で撮影した、糸満市摩文仁で

でも、辛い事例もいくつか突きつけられました。それは、国や県にお願いしていた遺留品の返還活動が、うまくいかなかった事です。

軍医部の壕で昨年行った測量と発掘作業、糸満市摩文仁で

軍医部の壕で昨年行った測量と発掘作業、糸満市摩文仁で

昨年、糸満市摩文仁の「島守の塔」下にある「軍医部の壕」から出土した、旧日本陸軍兵士の2枚の認識票の身元調査を厚生労働省にお願いしました。ほぼ6ヶ月後、調査結果が返送されて来ましたが、身元の手がかりにつながるものは何一つ判明しませんでした。球1616A78球1616 O80沖縄で戦った兵士らの認識票は、部隊名や出身地、氏名などを書き込んだ原本となる「留守名簿」が、焼却処分されて存在しないため、まず身元判明に繋がることは難しいとされています。でも、万に一つの希望を持って、調査をお願いしましたが、予測した通りダメでした=写真左右、軍医部の壕から出た2枚の認識票球1616が部隊名でOやAは血液型、78番、80番は個人の識別番号。

身元調査をしたのは認識票だけではありません印鑑に石鹸箱、万年筆など、十数点の身元と遺族探しを試みました。いくつか素晴らしい朗報があったのですが、多くは厳しい結果を受け止めざるを得ませんでした。それらを紹介いたします。

「モリテツ」と刻まれた石鹸箱

「モリテツ」と刻まれた石鹸箱

この石鹸箱は、糸満市大里にある陣地壕から昨年1月に出土しました。モリテツいしじ鹿児島県出身で沖縄戦で戦死された「森哲」さんが該当するのではと、鹿児島県庁に問い合わせました。が、「遺留品の持ち主や遺族探しは、国がやるので、県ではできない。だから、国の担当省庁である厚生労働省に問い合わせろ」の一点張りで、まったく聞く耳を持ってくれません。厚生労働省に調査をお願いすると、早くて半年、遅いと1年以上かかることがあります。終戦から68年、ご遺族はどんどん高齢化し、1日でも早く返さないと、間に合わなくなる恐れもあります。ゆえに、県が独自で動いてくれないかと、何度も電話で掛け合ってみましたが、頑として受け付けてくれません。結局、県から「厚生労働省に最速でやって欲しい」との要望をする形で試みました。その結果ですが、やはり8ヶ月も掛かって、「該当者の特定に至りませんでした」との返答が、一枚の紙切れで送られてきました。

遺留品の返還活動を手伝ってくださる小倉暁さん。昨年も自ら調査して、鳥取県などのご遺族へ遺留品を返還された。元自衛官の頼もしい仲間。

遺留品の返還活動を手伝ってくださる小倉暁さん。昨年も自ら調査して、鳥取県などのご遺族へ遺留品を返還された。元自衛官の頼もしい仲間

名前に「モリテツ」という読み方が含まれる沖縄戦の戦没者は、他にも岡山、大分両県にいらっしゃいました。でも、紙切れ一枚の回答なので、鹿児島県の方であったのか、他県の方であったのか解りません。また、該当者がいたとしても、ご遺族がいたのか、受け取りを拒否しているのか、それらもまったく解りません。個人情報の保護という名目で、ボランティアで返還を試みる私たちには何も知らされませんし、ご遺族にどう伝わったのかも判りません。どこまで熱心に返還活動されるのかは、すべて役所のやる気ひとつで決められているようです。

しっかりと対応して下さる自治体の担当者もいらっしゃいます。おかげで発見から2ヶ月あまりでご遺族へ返還できた例もありました。が、厚生労働省の仕事だからと、門前払いする自治体の態度には、心よりがっかりさせられます。そして、依頼された遺留品がたくさんあるからという理由で、調査に1年近くもかける厚生労働省の対応にも不満です。これが、約70年前に国が招集して戦地へ送り出し、家族や国のために戦って命を落とした戦没者の方々と、その帰還を信じて待っていた家族らにする仕打ちでしょうか。過去も現在も変わらない日本政府の本性を垣間見るようで悲しくなってしまいます。

同じ壕から出た飯ごう

同じ壕から出た飯ごう

この飯盒の蓋も軍医部の壕から出てきました。「石山」と書かれていますが、沖縄戦の戦没者で、石山さんは大勢いらっしゃいます。現在も調査中ですが、苗字しか書かれていない品は、故郷へ帰ることは限りなく難しくなります。

島田知事の痕跡を探るため、軍医部壕内の測量や発掘作業に臨む「島守の会」のメンバーや国吉勇さんら

島田知事の痕跡を探るため、軍医部壕内の測量や発掘作業に臨む「島守の会」のメンバーや国吉勇さんら

軍医部の壕には、当時の島田叡・沖縄県知事がいたとされ、最後に確認された場所とも言われています。そのため、沖縄県庁のOB職員らで作る「島守の会」のメンバーらが、知事の足跡や遺留品などを求めて、調査を進めています。また、兵庫県出身だった島田知事を偲んで、同郷の元自衛官・小倉暁さんも、この壕の測量や発掘に力を注いでおられます。でも、知事の存在や足跡を確認できるものは、まだ見つかってはいません。

軍医部壕から出土したカバンの留め具を眺める島守の会のメンバー。誰のものかは不明

軍医部壕から出土したカバンの留め具を眺める島守の会のメンバー。誰のものかは不明

こうしたことからも、沖縄戦の戦跡から出土する戦没者の遺留品は、亡くなった方々の当時の姿や、その人となりを思い起こさせることにつながります。そして、印鑑や万年筆など、本人の名前が刻まれていれば、ご遺族へ返還できる大きな手がかりになります。ただ、68年という歳月が、大きなネックになり始めています。

洒落た装飾が施された18金のネックレス。手書きで「タカノ比真」と刻まれている、国吉戦争資料館で

洒落た装飾が施された18金のネックレス。手書きで「タカノ比真」と刻まれている、国吉戦争資料館で

このネックレスは04年1月、糸満市の与座陣地壕から出土しました。名前らしきものが刻まれていますが、現在の調査では該当者は見つかっていません。そして、国吉勇さんの戦争資料館に保管中、何者かに盗まれてしまいました。見学に来たとされる不届き者が持って帰ったようです。戦没者の形見かもしれないのに‥。信じられない行為です。

洒落た装飾が施された18金のネックレス。手書きで「タカノ比真」と刻まれている、国吉戦争資料館で

洒落た装飾が施された18金のネックレス

瀧野・判子hp

印鑑はご遺族へお返しできる可能性が高い遺留品です。が、フルネームが判るか、珍しい苗字以外は、返還は困難を極めます。そして、ご遺族が判明したとしても、受け取りを断られる場合もあるのです。

この「瀧野」姓の印鑑=写真左は1998年1月、糸満市の新垣病院壕で見つけました。でも、下のお名前が判りません。沖縄戦の戦没者で瀧野姓は5人いらっしゃいます。氏名がすべて一致しないと、検索できません。この印鑑に見覚えのあるご遺族が名乗り出てくだされば、返還に至ります。手がかりになる特徴といえば、水晶製品としか記せません。判子・長谷川hp

そして、篆書体で掘られた「長谷川」姓の印鑑=写真右も、同姓の戦没者の数が多過ぎるため、検索が難しいです。フルネームが判れば、身元を特定し、ご遺族へお届けできるヒントになるのですが‥。

いずれにせよ、この印鑑たちは、ご遺族側からの情報がない限り、故郷へ戻ることは難しいと思われます。残念なことです。

 

珍しい苗字の印鑑も出土しました=写真左判子・良廣hp「良廣」姓は非常に珍しかったので期待したのですが、該当者はいらっしゃいませんでした。そして、生還された方は沖縄戦の戦没者名簿に出ていないので、お返しするすべがありません。

塩田・判子hp

また、読み方が解らない印鑑も困りものです=写真右。これは、旧字の「塩田」と見られます。が、苦労して解読しても、この姓の戦没者は大勢いらっしゃいます。このページを見て、ご遺族が申し出て下さらない限り、返還は難しい状況です。判子・政松hp

更に=写真上中央は、「政松」さまと読むのでしょうか、珍しい名前なのですが、該当者はいません。何て読むの?そして、極めつけはこれです=写真左。印鑑屋さんも書家の先生も判りませんでした。日本人ではない、との声もありますが、未だ何と読むのか判りません。こうなってくると、戦没者のご遺族を探すというよりも、珍名の検索作業をしているようです。上原・判子①

上原・判子②hp

よくある苗字ですが、形が特徴的なものもあります=写真中央と右。「上原」姓の戦没者は沖縄戦でも50人以上いらっしゃいます。でも、生き物を形どった印鑑と珍しい印相。もし、見覚えがある方がいらしたら、ぜひ申し出てください。01年に発掘されて以来、ずっと資料館に眠っています。可能な限り、お返ししてあげたい遺留品たちです。

万年筆も、当時高価だったせいか、氏名が刻まれていることがあります。先日お伝えした滋賀県の七里さんの例は、滋賀県庁の担当者の献身的な対応と、関係した市町村の努力で、感動的な返還につながりました。ご遺族にも関係者にも大変喜んで戴き、私たちも嬉しさと感動で感無量です。

北生と名前が刻まれた万年筆

北生と名前が刻まれた万年筆

ただ、名前が刻まれていても返還できない例も多々あります。この万年筆には「北生浩」と読める名前が刻まれています。糸満市大度の陣地壕で07年に発見されました。が、戦没者の中に、この氏名の方は見当たりません。生きて生還されていれば良いのですが。

溶けて潰れた万年筆。僅かに文字が見えるが身元の特定には至っていない

溶けて潰れた万年筆。僅かに文字が見える

溶けて潰れた万年筆。僅かに文字が見えるが身元の特定には至っていない

溶けて潰れた万年筆。身元の特定には至っていない

この潰れて溶けたような万年筆にも文字が刻まれていますが、内容は不明です。日岡町と刻まれているように見えますが、細かなものは判読できません。手がかりに繋がるような書き込みも判読不能です。

水筒・西田hp

この水筒にも西田と刻まれています=写真上。08年に那覇市の真嘉比陣地壕で見つかりました。「西田」姓も数多いため、本人特定にはまだ至っていません。

倉増・認識票hp

この「倉増」姓の認識票は3年前、糸満市の糸洲第二外科病院壕で見つかりました=写真上。沖縄県の戦没者データベースによると、沖縄戦で亡くなった倉増姓は、山口県出身の倉増清さん一人だけ。戦死公報などによると、沖縄群島で戦没したと記録にあるそうです。これも返還に至るかと思いきや、ご遺族が見つかりませんでした。

硯・石川hp

「2-2 石川勝太郎」と書き込まれた硯は、浦添市にある茶山の食料壕から00年4月に出てきました=写真上。当時の沖縄県内の小学生が使っていたのかと思って調べてみましたが、該当者はいませんでした。よく似た名前の方はいらっしゃるのですが、年齢と名前の漢字が違っています。

厚生労働省から届いた遺留品返還の返信文書

厚生労働省から届いた遺留品返還の返信文書

軍民合わせて数十万人が亡くなったとされる沖縄戦。その戦没者の遺留品は、68年が過ぎた今も原野や壕内から次々と発掘されます。でも、その身元を特定し、ご遺族に返還できるのは、ごく僅かです。氏名が完全に一致しなかったり、遺族が見つからなかったり、見つかったとしても受け取りを拒否されたり‥。年月が過ぎれば過ぎるほど、戦争の記憶が薄れ、戦没者を知る遺族も鬼籍に入りつつあります。沖縄は日本国民が初めて巻き込まれた地上戦。その歴史的な惨事は、戦争を記憶している方々がいなくなれば、書物や聞き書き以外は消え去ります。でも、過去の戦場から見つかる遺留品は貴重な戦争の記録として残るはずです。そして、遺族には戦没した肉親を思い起こせる貴重な形見となります。その発掘と返還活動は、本来は国が責任を持ってやるべき仕事だと思います。今からでも遅くないので、心血を注いで責務を果たして欲しいものです。

2013年の沖縄での収集活動は本日で終了

写真上、遺骨を納骨するため並べる筆者①、糸満市摩文仁で

遺骨を納骨するため並べる筆者①、糸満市摩文仁で

本日で沖縄県での遺骨収集活動を終了しました。おかげでさまで、大きなケガや病気もなく、予定通り活動ができました。関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。明日は、沖縄の土で汚れたツルハシや熊手などを洗って、梱包するなどの作業が待っています。その後は本州へ渡り、各地のご遺族に遺留品を返還する旅となります。これも収集活動の一環なので、滞りなく続けたいと思っています。

遺骨を収納する納骨袋に作業者の名前を書き込む筆者①

遺骨を収納する納骨袋に作業者の名前を書き込む筆者①

最終日に、浦添市などで収集した遺骨を納骨に行きました。沖縄戦の最激戦地のひとつだった前田高地に近い丘陵で集めたもので、予想以上の量が出てきました。昨日、書き込んだ木の根に巻かれて砕かれた頭蓋骨も納めます。遺骨はこの後、糸満市摩文仁にある平和祈念公園内にある仮安置所に置かれ、毎年3月ごろに納骨式が執り行われます。

愛知県から平和祈念公園を訪れた親子連れが、遺骨に手を合わせてくれた

愛知県から平和祈念公園を訪れた親子連れが、遺骨に手を合わせてくれた

今年は思った以上に成果が上がりました。たくさんの遺骨を収集することができ、幾つかの遺留品もご遺族へ返還できました。一部、プライバシー保護のため、全く書き込んでいない事例も出てきますが、予測以上に返還活動も順調に進んでいます。それでも、名前が書き込まれた遺留品100に対し、個人特定に至り返還できるのは1ぐらいですが‥。

写真上、国吉さんたちが掘り出した赤ちゃんの肋骨(左)。大人のものと比べるとその差がわかる

国吉さんたちが掘り出した赤ちゃんの肋骨(左)。大人のものと比べるとその差がわかる

ただ、今回も心残りがあります。ほとんど発掘されていない壕に全く手をつけられなかった事や、収集活動を完全に終えることが出来なかった壕があるからです。来年以降の課題としたいところですが、来れば来るほど心残りの場所が増えてゆくようで、心苦しい限りです。もっと長い期間にわたって作業したいのですが、青森での仕事や経済的な理由で、なかなか叶いません。

細くて今にも折れそうな赤ちゃんの遺骨

細くて今にも折れそうな赤ちゃんの遺骨

まだ、返還活動が残っていますので不謹慎なのですが、来年はもう少し長い期間滞在して、さらに多くの戦没者の遺骨を掘り出す意気込みで参ります。皆さま、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

木の根に巻かれた頭蓋骨

木の根に巻き付かれ割れてしまった遺骨の頭骨、浦添市で

木の根に巻き付かれ割れてしまった遺骨の頭骨、浦添市で

私たちの2013年の遺骨収集も、いよいよ明日で終わりという日に、驚くべき現場に遭遇しました。沖縄戦終結から68年という年月の経過と、人間も自然の一部であることを思い知らされる場面です。岩の割れ目にあった遺骨の頭部に木の根が巻き付いて、骨を砕いていたのです。

根に貫かれた頭骨は一部が割れ、中にゴミやヒゲ根が一杯に詰っていた

根に貫かれた頭骨は一部が割れ、中にゴミやヒゲ根が一杯に詰っていた

2日に発掘を始めたばかりなので、ここに何人の方が眠っているのか判明しません。が、すでに5~6人分の遺骨が見つかっており、更に数十センチほど土を掘って出てきた頭骨に、直径約3センチの木の根がぐるりと巻き付き、一部に穴を開けて貫いていました。ここ十数年、遺骨収集の現場を見てきましたが、初めて見る光景です。写真を撮影すると共に、地元紙の記者に声をかけました。

情報を聞いて駆けつけた地元紙の記者

情報を聞いて駆けつけた地元紙の記者

今回出てきた遺骨は2日夕現在で5~6柱。この場所の地中には、まだ取りこぼしてしまったお骨がありそうなのと、周辺にも眠っている戦没者がまだまだ残されていそうです。ここは沖縄戦での再激戦地のひとつだった前田高地に近く、小高い丘の上のあちこちに陣地壕や塹壕などが点在しています。

2日に掘り出した遺骨

2日に掘り出した遺骨

最近の遺骨収集は南部に集中しがちですが、中部も大激戦だった場所が数多くあります。前田高地周辺もその一つで、高台にはぐるりと周りを見渡せるように、旧日本軍の陣地が張り巡らされています。年月の経過で、そのほとんどは、上に建築物がたったり、造成工事されたりして、当時の面影を見つけようにも、詳しい資料を紐解かない限り行き着けません。新たな戦没者の遺骨を一つでもリカバリーするために頑張ります。

出土した下顎の骨。最低でも4人分はあった

出土した下顎の骨。最低でも4人分はあった