みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

学生ボランティアのページを作りました

深浦町で実施した森林スタディキャンプで、別れを惜しむ地元の小学生(左)と都会の大学生

長らくご無沙汰してしまって、申し訳ありません。ホームページの内容を見て、嫌がらせをする方が出てきたため、しばらく書き込みを休んでいました。自分たちへの行為だけならいざ知らず、関係者へ迷惑を掛けられることに対策が見い出せなくて、手をこまねいていました。ようやく収まってきたようなので、また、再開いたします。

糸満市の壕の調査をするみらいを紡ぐボランティアのメンバーら

北海道にある沖縄戦戦没者の慰霊碑に、水を手向けるみらボラの学生

さて、書き込みを休んでいた時期に、さまざまな出来事がありました。伊勢親方の急逝。一緒に活動していた学生ボランティア団体との別れ‥、など。辛く、悲しい出来事ばかりが起きました。そして、執筆を担当している私が体調を壊し、難病になってしまいました。交通事故に遭って以来、ずっと不幸なことが続いています。

深浦町役場で活動の説明をする「みらボラ」の学生メンバーたち

深浦町での神事の終わりに草鞋を投げる大学生。一番高い梢に引っかければ良縁が訪れる

でも、お別れした学生団体の中から、私たちを慕って来てくれる子どもたちが何人かおり、その子たちが新しいボランティア組織を立ち上げてくれました。その名は「みらいを紡ぐボランティア」です。自分たちの活動内容や想いを未来へ引き継ぎたい、との発想から生まれたそうです。

みらボラのメンバーが主催した森林スタディ・キャンプで、ペットボトルを再利用したキャンドルナイトを開催した

都会と地元の大学生と地域の方々との交流事業

主に、戦没者の遺骨取集、地域おこし、環境保全などの取り組みを中心に頑張っていきたいと、宣言してくれています。涙が出るほど嬉しい。夫婦二人で続けている遺骨収集や遺留品返還の活動にも飛び込んできて、中心になって支えてくれると張り切っています。あの戦争を次の世代へ引き継ぐ難しさを痛感していた時期なので、この頼もしき学生たちを大いに期待して見守りたいです。

ご遺族へ約70年前のお手紙を返還する活動。学生が朗読する母(左端の遺影)の手紙の内容に涙するご遺族

感極まって涙する学生。でも、報告に澱みはない

よって、このホームページを学生たちにも開放しようと考えています。今までは、夫婦だけで執筆していましたが、今後は若き新しい息吹きが加わります。そして、これを機に、HPを復活させますので、皆さまの新たなご愛顧をお待ちしています。学生メンバーは、都会の大学生が中心ですが、青森県の学生も参加してくれていますので、その声もいずれは届けたいと考えています。

納骨堂でご遺族と一緒に手を合わせる学生たち

お手紙を返したご遺族宅で、戦没者の遺影を手にする甥御さん。涙と笑顔がこぼれる訪問劇

そして、今まで高校生として活動に参加してくれていた子たちが、社会人となって私たちを支えてくれるようになっています。そんなメンバーが新たな取り組みにチャレンジしています。その件も、いずれ公開いたしますので、期待してお待ちください。2018年は完全復活を目指して頑張ります。読者のみなさま、改めてよろしくお願い申し上げます。

戦没者が戦地から送った絵葉書を見る学生たち。切ないけど、かわいい内容に笑顔がこぼれる

交通事故に遭って、「危機一髪」

大きくへしゃげた軽ワゴン車の後部ドア

大きくへしゃげた軽ワゴン車の後部ドア

本日(23日)午後3時ごろ、那覇市内のモノレール「美栄橋」駅下の交差点で、私たちが乗ったレンタカーの軽ワゴン車が、信号無視の普通トラックに、側面から衝突されました。後部座席の右ドアが「く」の字状にへしゃげ、相手のトラックのサイドミラーが、同窓を突き破って飛び込んできました。あと、十数センチ、約1秒衝突が早ければ、それが、運転していた私に直撃。首の骨が折れるか、顔面や頭部に重篤なケガをしたでしょう。相手側のサイドミラーの一部が折れて、私たちの車の後部座席に転がっており、事故の衝撃の強さを物語っていました。まさに、危機一髪で、直撃した事を考えると、背筋が寒くなる思いです。

相手側のトラック

相手側のトラック

事故の状況です。赤信号で渋滞する交差点の先頭にいたトラックが、青信号で交差点に進入した私に気づかず、信号を完全に無視して発車したのが原因。衝突した途端、「あなた信号無視だったよね」と問いかける私に、動揺して「すみません。気づきませんでした」と放心の表情。トラックの左前部に突っ込まれたままなので、「車を離してください」と言っても、「動きません」とオロオロ。写真を撮ろうと思って、車から降りようとしたら、運転席のドアも開きません。仕方なく、そのまま110番。律子が降りて、代わりに現場写真を撮っていると思ったら、ナンバープレートや相手先の会社名を一生懸命に写している始末。うーん、動揺したのか‥。びっくりしたもんなぁ。

折れて大破した相手側のサイドミラー

折れて大破した相手側のサイドミラー

相手側は、青果などを配送する会社の若い運転手さんです。が、時間の経過とともに、「私の方が青でした。あなたが割り込んできたんですよ」と、わが身を守ろうとするあまりの情けない嘘。トラックは、自分側の信号の停止線を大きく超えて停車しており、その位置から頭上の信号を確認するのは至難の業です。それでも、私が信号無視をしたと主張する始末で、恥ずかしくないのでしょうか。自分の胸もさぞかし傷んでいることでしょう。会社の看板を背負っている業務中に起こした事故なので、嘘がばれた時に被る実害の大きさに、雇い主が気の毒になります。たぶん、周辺にはドライブレコーダーを搭載するタクシーもたくさんいたし、監視カメラもありそうです。それを確認したら一目瞭然。状況説明だけでも、十分論破できるとおもいます。

代車がないので、こんな哀れな姿のまま、継続して借りることに‥

代車がないので、こんな哀れな姿のまま、継続して借りることに‥

いずれにせよ、夫婦ともケガがなくて良かったです。もう少し、発車が遅ければ、私は今、ここにいることは出来なかったでしょう。警察の聴取を受けた後も、水掛け論を主張する若者に、「一歩間違えたら、君は死亡事故の容疑者になっていたんだぞ。相手を慮ったり、謝罪したりする言葉はないのか」と一括すると、「それを言うと私が非を認めたことになる」と応えます。この野郎‥。と、思う間もなく、会社の上司が現場に駆けつけ、開口一番、怪我の有無や無事を確認して下さり、謝罪して下さいました。これで、憤激も鎮火。お互い無事であることを確認し合いながら、握手して別れました。

笑顔で活動に臨む学生たち。彼らの存在も、守ってくれたのかもしれない

笑顔で活動に臨む学生たち。彼らの存在も、守ってくれたのかもしれない

今年は、様々な障壁がある年となりました。車の故障やパソコンの故障‥、今回の事故も。でも、大きなトラブルや事故にならなかったのは、戦没者が守って下さっているのかも知れません。感謝の気持ちと共に、明日からの収集活動に力を注ぎたいと思います。

戦没者の遺留品返還の反響がやみません

朝日小学生新聞では、寄稿の記事として掲載してくれた

朝日小学生新聞では、寄稿の記事として掲載してくれた

IVUSA(国際ボランティア学生協会)の大学生たちと一緒に、沖縄戦の戦没者が残した遺留品を、北海道のご遺族へお返しした活動を伝える、新聞記事を紹介します。

毎日新聞が伝えてくれた記事

毎日新聞が伝えてくれた記事

返還活動に密着したテレビ局や新聞社以外にも、朝日小学生新聞、沖縄タイムス、東奥日報、毎日新聞、NHKの沖縄放送局(敬称略)までもが、次々と追いかけて報道して下さっています。

沖縄タイムスで紹介された記事

沖縄タイムスで紹介された記事

ありがたい限りです。ここに何紙か紹介して置きます。特に都会で通学する学生たちは、見られない新聞もあるので、チェックしておいてください。

北海道新聞の記事です

北海道新聞の記事です

青森の県紙・東奥日報に掲載された

青森の県紙・東奥日報に掲載された

お婆ちゃんの戦争体験を聞く

大間越集落のマサ婆ちゃんから、戦争当時の話を聞く
大間越集落のマサ婆ちゃん(手前)から、戦争中の話を聞く

青森県深浦町の伝統的な神事などを手伝いに来てくれている、IVUSA(国際ボランティア学生協会)の学生たちが、また、大間越集落へ来てくれました。今回は、正式な活動ではなくて、白神山地の自然体験と、地域の方との交流のために、プライベートで再訪してくれたのです。

涙を浮かべながら、学生たちに講和してくれるマサさん
涙を浮かべながら、学生たちに講和してくれるマサ婆ちゃん

沖縄県で戦没者の遺骨収集活動を手伝ってくれている子たちなので、大間越集落でアジア・太平洋戦争を体験された阿保マサさんに、当時のお話を伺いました。マサさんは先日、夫を亡くされて、一人暮らし。

マサ婆ちゃんの話を真剣な面持ちで聞く女子学生たち
マサ婆ちゃんの話を真剣な面持ちで聞く女子学生たち

中国北東部の戦線へ出征し、シベリアで抑留されたご主人を待ち続けたマサさん。その戦中、戦後に体験した苦労話を、IVUSA関東の駒澤大2年生・小嶋実世さんと神奈川大2年生・根本里美さんが聞きました。

涙をぬぐいながら語るマサ婆ちゃん
涙をぬぐいながら語るマサ婆ちゃん

夫が、もう帰ってこないのではないか。アメリカが進駐して来たら、自ら命を絶たなければならないのではないか‥、など。涙を拭いながら、訥々と話すマサ婆ちゃんの話に、ついもらい泣きしてしまう場面も。

身振りを交えながら話すマサ婆ちゃん
身振りを交えながら話すマサ婆ちゃん

限界集落で暮らすお年寄りたちが、戦後、どんな体験をされてきたのか。また、この70年をどんな想いで生きてこられたかを知った二人は、それを今後の活動にどう生かせるかを考えつつ、マサ婆ちゃんの心情に寄り添うような交流を目指したいと、気持ちを新たにしていました。

マサ婆ちゃんの戦争中の苦労話を聞く二人
マサ婆ちゃんの戦争中の苦労話を聞く

4人の子供を育て上げ、今は畑仕事を生き甲斐に暮らすマサさん。血がにじむような苦しい体験を笑顔で語るお婆ちゃんが大好きになった二人は、「来年も必ず大間越へ帰って来ます」と再会を約束して、お別れしました。

暖炉の前で涙を浮かべるマサ婆ちゃん
暖炉の前で涙を浮かべるマサ婆ちゃん

正式な活動だけでなく、プライベートでも限界集落の人々を気にかけてくれるIVUSAの若者たち。来年は、地域の伝統行事だけでなく、お年寄りたちを助ける活動にも参加してください。待っているからね。

遺骨収集関係の記事をアップしています

地元メディアと一緒に仕事をしているもので、彼らの紙面に記事が掲載されない限り、アップできない書き込みが数多くあります。ようやく載りつつあるので、書き込みを再開していますが、まだいくつか出てないものもあり、中途半端な気持ちでいます。まぁ、私らのチンケなHPだけでなく、多くの読者を抱える新聞メディアに載る方が大切なので、文句を言う気はありません。

掲載されたら紹介しますので、また読んでやってください。(哲)

訳があって書き込めませんでした

沖縄県での遺骨収集活動は続けていたのですが、事情があってホームページの更新を中断していました。その理由を書くのは、ちょっと憚れますので、後日、お話しできる状態になったら報告いたします。悪い話ではなく、うまく行けばよい結果につながると思います。

溶けたビール瓶hp

で、ようやく遺骨収集活動の続きを報告します。休んでいた期間中も、遺骨や遺留品はたくさん出ました。その一部をご紹介します写真上高熱で溶けたビール瓶。火炎放射器で焼かれたものか、糸満市真栄里で。野戦病院壕での収集活動は今も続けています。でも、他の場所からも次々と遺骨や遺留品が出ているため、あちこち走り回っている状態です=写真下、同じ場所から出てきた硯。これも焼かれてゆがんでいる

硯送信

この壕からは、艦砲射撃による砲弾の巨大な鉄片や米軍手りゅう弾が爆発した後の大きな破片が6、7個出てきており、砲弾を撃ち込まれた後、入口の中にいくつもの手りゅう弾が放り込まれ、最後に火炎放射器で焼かれたようです。残虐な攻め込み方ですが、すぐ近くで米軍司令官だったバックナー中将が戦死しており、その報復で執拗な攻撃をしたのかもしれません=写真下、米兵が使っていたとみられるスプーン。フォークと対で出土した。

スプーンhp

フォークhp

バックナー中将が戦死したのは、糸満市真栄里にある小高い丘の上です。旧日本軍による組織的な戦闘が終了する6月23日よりも5日早い18日に、彼方から飛んできた砲弾の破片が胸にあたって亡くなったとされています。その丘には何度も訪れていますが、見晴らしもよく、逆に目立つ所です。この時に砲弾を発射した旧日本軍の兵士が、戦後も生き残り、その時の事を証言しているので、バックナー中将が砲撃で亡くなったということは史実として間違いないと思います=写真下、旧日本兵の軍靴も出土した

軍靴hp

でも、気になるのは、米軍の徹底的な攻撃で破壊され尽くした地のどこに、150ミリ榴弾砲という巨大な大砲を隠していたのか‥。もし、隠せたとしても、米軍の高級将校が訪れるまで、なぜ大砲を使わなかったのか。この周辺の真栄里高地と国吉台地は、沖縄戦終結間際の最も激しい戦闘があった地域です。この高台を守備するために歩兵32連隊と22連隊が、物量で激しく圧してくる米軍に必死で抵抗している時期でした。そして、17日には真栄里を守備していた22連隊が全滅し、32連隊の戦力も大きくダメージを受けていたそうです。そんな折、虎の子の榴弾砲を残していたとは‥。史実なので、疑問を挟む余地はないのかもしれませんが、この丘の上に立つたびに「ここで大砲でやられる?」という疑問が湧いてきます。バックナー中将が戦死する直前に、この高地は米軍によって制圧されていたからです=写真下、壕の中から出てきた湯呑。日本兵がこんな花柄の茶碗を使っていたとは‥

湯呑hp

証言者のいる史実に逆らうつもりはありませんが、もし、旧日本軍の一介の狙撃兵に撃たれたのであるならば、米軍もメンツを失いますものね。いやいや、あくまでも手前勝手な想像です。戯言だと思ってお聞き流しください。

那覇の夜を楽しんでいます

先日、友人に連れられて那覇のライブハウスへ。大切な遺骨収集仲間の友人がキーボード奏者なので、会いにいくために一緒に訪ねました。私らにとって、激しく場違い感がありましたが、若い女性歌手らがオールディーズを歌ってくれて、中年のオッサンやオバハンには心地よい空間でした。
ステージの歌い手から、踊れ、踊れとはやし立てられますが、不惑夫婦にはちょっと無理。と思っていたら、もっと高齢のドーンとした体型のオジさんたちが、歳の割には鋭いステップと切れない腰の動きで踊り始めました。たまたま仕事で訪ねてきてくれた新聞社時代の後輩も、この姿を見て声を出さずに大笑い。とても楽しい時間でした=写真下、楽しいライブステージ
アパッチ
過酷な労働の中、時折体験できる異文化ギャップを楽しんでいます。

2月7日の遺骨収集「地雷がでました」

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本日も、1月末から続けている壕で発掘。相変わらず武器を中心とした遺留品が数多く出てきます=写真上、銃弾などと一緒に出土した旧日本軍の地雷。信管は付いていなかった、糸満市で。写真の地雷は、米軍の戦車が通る道に敷設するというより、兵士が背負って戦車の下に潜り込んで爆発させる特攻のために使われたようです。

収穫hp

この壕は構築壕らしく、サンゴ石灰岩の岩盤やクチャという粘土層を掘るために使ったスコップなども数多く出てきます。そして病院壕だったせいか、薬瓶やアンプルなども。時には小さな可愛い櫛の髪留めも出てきますので、女子学徒隊の看護婦さんがいたのかもしれません=写真上、7日に出土したスコップやボタン類。米製の迫撃砲弾の破片も出てきた

ビー玉hp

この壕の入口だけで、5個以上の米製手榴弾の破片が出ていますので、動けない重症の患者がいる壕に無慈悲に放り込まれたのでしょう。戦場とは言え、残虐な仕打ちです=写真上、武器類に混じってビー玉などのおもちゃも出てきました。戦時中の物とすれば、子供もいたのかな‥。小さな骨も出ているし、不覚にも涙がこぼれました。