青森県深浦町の小さな集落     
活動②(記録)

2016遺骨収集活動79日目 最激戦の生き残りを訪ねて㊤ 歩兵32連隊・伊東孝一大隊長

伊東大隊長(手前右)と学生たち

伊東大隊長(手前右)と学生たち

今年、遺骨収集活動をした糸満市国吉で、米軍と大激戦を繰り広げた第24師団歩兵32連隊。その中で、敵味方の双方に勇名を轟かせた「歩兵32連隊第一大隊(伊東大隊)」を率いた、伊東孝一様のお宅を学生たちと訪ねました。

身振り手振りを交えて、当時のことを振り返られる

身振り手振りを交えて、当時のことを振り返られる

あの激しい戦闘のなかを生き残り、国へ帰られた後も、お元気で長生きされている姿を見て、驚くのと同時に、お会いできた嬉しさに感動を禁じ得ませんでした。そして、優しい笑顔で、最愛の奥さまと二人、学生を迎えて下さったのです。

庭で学生たちとベンチに座られる伊東隊長と奥さま

庭で学生たちとベンチに座られる伊東隊長と奥さま

今回は、私たちが活動した現場の「当時の状況」を教えて貰い、そこで戦没された方々の情報をいただくのが目的です。そして、学生たちが発見した名前の刻まれた遺留品を、ご遺族へ返還するための手がかりになればと考え、面会をお願いすることにしました。

質問に答えて下さる

質問に答えて下さる

参加したのは、日本青年遺骨収集団(JYMA)と国際ボランティア学生協会(IVUSA)の学生たち10人です。どんな戦場だったのか、勝てる戦いと信じていたのか、戦時中の若者の想いは、郷土の言葉を軍隊で使えたか、など、それぞれが質問しました。

質問するIVUSAとJYMAの学生

質問するIVUSAとJYMAの学生

御年95歳とは見えない、凛とした佇まいの大隊長。背筋を伸ばした姿勢で、学生たちに澱みなく答えてくださいます。目が見えづらくなっている、と言われますが、私たちが提示した遺留品や発掘現場などの写真を手に取って、種類や場所の違いなどを的確に判別なさいます。

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

その言葉は冷静で沈着。大げさな表現や偏った内容のない、すべてが事実に裏打ちされたお話しです。この世代の方がよく話される、懐かしさを込めた戦場の描写でなく、私たちの目の前に71年前の風景が広がるような、リアルな状況説明が続きます。

学生たちを前に語られる

学生たちを前に語られる

圧倒的な戦力差を誇る米軍が上陸してきた時の事、中部の前田高地周辺で功労をあげた時の戦闘の様子、部下を無駄に死なせない戦い方など‥。決して戦争を美化することのない語り口調が、かえって臨場感を高めます。まさに、感嘆する内容の連続です。よく生きて帰ってこられたなぁ、と。

前田高地近くの戦闘で挙げられた武勲への感状

前田高地近くの戦闘で挙げられた武勲への感状

感状に付けられた伊東大隊長の添え書き

感状に付けられた伊東大隊長の添え書き

ここで、驚いたことが。質問が一段落した後、大隊長から、学生へアンケート用紙が配られました。その中身は、「太平洋戦争について」。①止むに止まれぬ戦争、②愚かな戦争、の質問です。記名なしで10秒以内に思いを答えよ、と記されています。

用意されていたアンケートを配られる

用意されていたアンケートを配られる

戸惑いながら、答えを書く学生。後で聞くと、先の大戦の生き残りである大隊長に配慮して、①と答えた学生が多かったと聞きました。が、お別れの直前、配られた文章の中には、意外な所管が書かれていました。

配られたアンケートを見る学生

配られたアンケートを見る学生

それを学生たちの前で読み上げられます。「率直に申し上げて、『愚かな戦争』であった、と思う。その因をなしているのは、真実を看破する明に欠けて開戦に及んだことであり、その反省無しには戦死者の霊は浮かばれない」

学生への答えを含む声明を読み上げられる

学生への答えを含む声明を読み上げられる

まだ、士官学校本科時代の19歳。海外の戦術や戦略関連の書物を読み漁り、来るべく時に備えていたそうです。そして知ったのは、ノモンハン事件などでソ連軍と戦った旧日本軍の本当の実力。さらに、中国との泥沼の戦争が続く中、米英に宣戦を布告し、南方へ戦端を広げ続ける大本営の無謀さ。その只中で、厳しい現実に気付きながらも、声を上げて変革できなかった無力さを、噛み締めての言葉だそうです。

話を聞く学生たち

一生懸命に話を聞く学生たち

そして、「五十年を恥ぢ永らへて畢生の戦記を出だし世に問はむかな」との和歌に想いを込めて出版された、「沖縄陸戦の命運」を見せて下さいました。この本は、生き残ったことを自責しながらも、部下将兵の勲や自らの戦いの軌跡を残した貴重な沖縄戦の記録です。そこには、凄まじい戦闘に立ち向かう決意と覚悟、上官や部下を思いやる心の揺れが、伊東大隊長の人柄を物語るように記されていました。

学生と一緒に当時を振り返る

学生と一緒に当時を振り返る

ここで、私たちが夫婦が知りたかった質問をひとつ投げかけました。「当時、沖縄を守備していた旧日本軍の中には、同胞である島民へ非道な行為をした兵士がいたと聞きました。が、32連隊が駐屯した国吉で、集落のお年寄りに聞き取りをしたところ、この部隊の悪口をいう人は見つかりませんでした。それよりも、自宅への出入りを許し、一緒に食事をされた、という方も。懐かしんで、会いたい、と話されていましたが‥」

毅然とした態度で、質問に答えられる

毅然とした態度で、質問に答えられる

この質問に、「私は部下に、民間人の家に出入りをしてはいけない、と命じていた。兵士が出入りすると、その家人が敵に狙われやすくなるし、あらぬ誤解を生む恐れもある。だから、安易に行き来する部下はいなかったと思う」と、毅然とした言葉と態度で答えられます。

立ち上がって質問する学生

立ち上がって質問する学生

さらに、「隊の兵舎は、民家を接収しないで自分たちで小屋掛けした。生活の物資も、なるべく自前での調達を目指した。これは、民間人へ負担を掛けないように振る舞え、と訓示されていた、雨宮巽師団長の命令を守っただけだよ」と、謙遜のなかに、上官を敬う返答が帰ってきました。

当時のことを思い起こしながら、冷静に答えて下さる

当時のことを思い起こしながら、冷静に答えて下さる

そうした規律ある行動の結果が、今も、国吉の集落に残っており、この隊を悪く言う住民は、私たちの聞き取りでは、いらっしゃいませんでした。逆に、近くで司令官を殺された米軍側に、残虐な目に遭わされた証言が目立つほどです。

自衛隊からの感謝状

自衛隊からの感謝状

そして終戦の後も、良好な関係は続き、隊の炊事を担当して下さった沖縄の女性たちと、ずっと交流をされていたそうです。武装解除を受け、米軍の捕虜になるときも、その女性たちが泣いて別れを惜しんでくれた、と振り返られます。

最後に学生たちと記念撮影。笑顔がこぼれた

最後に学生たちと記念撮影。笑顔がこぼれた

最後に、奥さまと共に、遺骨収集をする学生たちへ感謝と労いの言葉を掛けて下さいました。伊東大隊長のお話は、まだまだ描き足りません。また、お会いしに行く用事が近々できそうです。その時に、続きを書くつもりです。ご期待ください。

2016遺骨収集活動72日目 戦没者を慰霊する「ライアー」

国吉神社の前で祈るNAOさん

国吉神社の前で祈るNAOさん

 私たちが今年、遺骨収集活動をした糸満市国吉地区。サンゴ石灰岩の小高い丘が、鬱蒼とした亜熱帯のジャングルに覆われています。ここは、第24師団歩兵32連隊が、沖縄戦の終結まで、守備し続けた場所です。

遺骨収集の現場で、NAOさんとお話し

遺骨収集の現場で、NAOさんとお話し

同連隊は、もともと秋田県へ設置された部隊でしたが、日露戦争のあと、山形県へ転営。同市霞城町にある「山形城」に兵営したことから、「霞城連隊」とも呼ばれたそうです。

歩兵32連隊の石碑

歩兵32連隊の石碑

シベリアや満州などへ出兵した後、アジア・太平洋戦争の末期に、沖縄へ派遣。日露戦争当時から、勇名を馳せていましたが、沖縄戦でも最後まで玉砕せずに戦い抜いた数少ない連隊のひとつです。

平和祈念公園で戦没者の検索をする

平和祈念公園で戦没者の検索をする

その山形から、ライアー奏者の「NAOさん」が、遺骨収集のお手伝いのために、遥々、沖縄まで来てくださいました。戦没者の収容活動はもちろん、その楽器を奏で、故郷へ帰れないまま山野に眠る方々を慰めるためです。

タオ・ライアーを奏でるNAOさん

タオ・ライアーを奏でるNAOさん

ライアーは、スイスやドイツを中心としたシュタイナー教育にも取り入れられている、ハープに似た弦楽器です。いくつかの機種がある中で、なおさんは、「タオ・ライアー」という癒しの音を奏でる楽器を弾かれます。

平和の礎に刻まれた戦没者の刻銘。先日、ご遺族の元へ遺留品を届けた津村重治さんの名があった

平和の礎に刻まれた戦没者の刻銘。先日、ご遺族の元へ遺留品を届けた津村重治さんの名があった

桜の木を彫って、削って、成型した分厚い板に、弦を張って自作したものです。抱えさせて戴くと、見た目以上にずっしりと重く、これを肩にかけて岩だらけのジャングルを歩くのは難しそうです。

平和の礎を前に

平和の礎を前に

ゆえに、哲二が、危険だと判断。現場の入り口にある神社の広場で、奏でて頂きました。かつての激戦地だった山野と集落に向かって、流れるような所作で弦を爪弾かれます。

山形の塔へ参拝するNAOさんと律子

山形の塔へ参拝するNAOさんと律子

メロディーは特になく、心のままに指で奏でるスタイル。柔らかで深い音色が、岩山のジャングルや青空に吸い込まれて行きました。「木々の間や岩の隙間で、戦没した方々が耳を傾けに来ているみたい‥」。そんな雰囲気が漂います。

神社横に広がるジャングルとNAOさん

戦没者が眠るジャングルの横で語るNAOさん

でも、不思議と怖くありません。それよりも、優しい音色に心が奪われて、ここが数多くの犠牲者を出した激戦地とは思えないほどです。胸に響いてくるような、心の中に流れ込んでくるようなメロディ‥。

鳥居の前でタオ・ライアーを奏でる

鳥居の前でタオ・ライアーを奏でる。後方は国吉集落

自由に奏でる音なのですが、曲と同じような連続性のある、繋がりを感じてしまいます。とても、素敵。まだ、地中深くに眠ったままの皆さまへ、届いたでしょうか。きっと、耳をそばだてて下さっていると信じます。

ライアーを持たせてもらうと、ずっしりと重かった

ライアーを持たせてもらうと、ずっしりと重かった

今回の活動期間中、NAOさんは演奏だけでなく、遺骨や遺留品を掘り出して下さいました。崩れそうな壕の奥深くへ潜り込み、懸命に手を動かされています。舞い上がる砂ぼこりで、息が苦しくなるような空間で。

抉れた弾痕が残る石塀。激戦地の証

抉れた弾痕が残る石塀。激戦地の証

そして、兵士とみられる遺骨を掘り出されました。残念ながら、身元が判るものは見つかりませんでしたが、山形県出身の方の可能性もありそうです。それを見て、そっと手を合わせるNAOさん。その姿が菩薩のように見えます。

タオ・ライアーを奏でた後、手を合わせるNAOさ

タオ・ライアーを奏でた後、手を合わせるNAOさん

実は、一昨年から、沖縄での活動を計画されていたNAOさん。事前の打ち合わせで青森へ訪ねて下さいました。その時、ライアーを知らない私たちのために、白神山地の十二湖で、森のコンサートを開催。

白神・十二湖の森で開いたライアーの演奏会

白神・十二湖の森で開いたライアーの演奏会

中高生をはじめ、学校の先生や地域の方、役場関係者の前で、素敵な演奏をしてくださいました。さらに、私たちも頭や膝に載せて爪弾いて貰うと、身体が楽器に共鳴し、不思議な心地よさを体感できました。

身体の上に乗せたライアーを弾く

身体の上に乗せたライアーを弾く

あれから二年が経ちました。個人的な事情で昨年、沖縄へ来られなかったNAOさん。その想いをこめた調べが、風にのって南部の戦跡を駆け巡りました。また、聴きたいです。

十二湖の森でライアーを弾くNAOさん

十二湖の森でライアーを弾くNAOさん

2016遺骨収集活動68日目 瞼の父の記念メダル~71年ぶりに愛娘の元へ

明石山と刻まれた津村重治さんのメダル

明石山と刻まれた津村重治さんのメダル

名前が刻まれたメダルと遺族の写真

名前が刻まれたメダルと遺族の写真

「えっ!、相撲大会の記念メダル?。ほんまにお父さんの物なん。もう、何も帰って来んと、思っていたのに。どないしよう‥」。沖縄戦で、1945年(昭和20年)6月に父親を亡くした兵庫県稲美町の西川慶子さん(74)が、私たちの電話での問いかけに、絶句しながらも、絞り出すように答えられた言葉です。

★神戸新聞に掲載して戴けました↓

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201603/0008921166.shtml

★3月21日にサンテレビ、23日に日本放送協会(nhk) に放映されました

裏面には「相撲大会出場記念」と刻まれている

裏面には「相撲大会出場記念」と刻まれている

平和祈念公園にある戦没者のデータベース

平和祈念公園にある戦没者のデータベース

そのメダルには、表面に「明石山 津村重治」と、裏面には「相撲大会出場記念 昭和十九年五月二七日」と刻まれています。懸命に説明する哲二。「遺骨収集中の学生が沖縄本島南部の糸満市国吉で見つけました。沖縄戦の戦没者データベースを検索しても、津村重治さんは一人しかいません。兵庫県出身とされていますので、間違いないと思います」

平和の礎にある津村重治さんの氏名

平和の礎の兵庫県の戦没者刻銘にある津村重治さんの氏名

現場へ向かう学生たち

現場へ向かう学生たち

が、哲二のオレオレ詐欺のように、畳みかけるような話しかけ方が悪かったのか、慶子さんからの信用を得られません。残念ながら、この日は、受け取る意思を示すご返事を戴けませんでした。「うーん、難しいなぁ」と、落ち込む哲二。しかし、何としてでも、ご返還したい。やはり相手が女性だから、ここは私の出番のようです。

遺骨収取活動に臨む学生たち

遺骨収取活動に臨む学生たち

津村さんのメダルが見つかった陣地壕の入り口を掘る学生たち

津村さんのメダルが見つかった陣地壕の入り口を掘る学生たち

二度、三度と、たわいない世間話をしながら、慶子さんの心の奥底にある真意を探ります。電話口での会話ながら、とても、心優しい気配りをされる方です。学生や私たちへ、感謝の言葉を述べながらも、何か引っ掛かりがあって、受け取りを躊躇されています。

津村さんのメダルが見つかった横から出てきた認識票。第32野戦兵器廠の兵士の物

津村さんのメダルが見つかった横から出てきた認識票。第32野戦兵器廠の兵士の所有物

裏面にも数字が刻まれている

裏面にも数字が刻まれている

そこで、学生と相談。一度、メダルを故郷の兵庫県へ連れ帰り、家族に触れてもらおう。そして、受け取って戴けないときは、墓前にお供えした後、持ち帰ろう、と決めました。そのお伺いを立てる連絡を慶子さんへすると、「ありがとうございます。ようやく決心が付きました。そのメダルは、私の父の物だと確信しています。喜んで受け取ります」との返答。

学生からメダルを手渡される西川慶子さん(中央)

学生からメダルを手渡される西川慶子さん(中央)

メダルを手にした西川慶子さん

メダルを手にした西川慶子さん

思わず、小躍りしました。お互い涙声が上ずったままの会話。嬉しくて、細かな内容を覚えていません。その時の慶子さんの言葉です。「もの心が付いたときには、戦争が終わっていました。そして、いろんな事がありました。とても、つらい出来事も‥。それゆえ躊躇ってしまいましたが、支えてくれた夫や家族に背中を押されて、心が決まりました。今は、一日でも早く、父に会いたいです」

学生や報道陣に囲まれてお返しが進む

学生や報道陣に囲まれてお返しが進む

父の遺留品の帰還に笑顔を見せる慶子さん

父の遺留品の帰還に笑顔を見せる慶子さん

県や神社関係などの記録によると、旧日本陸軍伍長の津村重治さんは、1941年(昭和16年)に第54師団の輜重兵第54連隊へ召集。3年後、第32軍の第32野戦兵器廠に転属し、沖縄戦へ投入されました。そして、1945年6月13日、糸満市摩文仁で戦没したとされています。

旧日本陸軍の津村重治・伍長

旧日本陸軍の津村重治・伍長

遺族や本人の写真とメダルなどの遺留品

遺族や本人の写真とメダルなどの遺留品

でも、メダルが見つかったのは、摩文仁から約3㎞離れた国吉台地の壕内です。ここは、第24師団歩兵32連隊が、日本軍最後の防衛線の西端として、死守する戦いを繰り広げていた丘です。なぜ、ここに津村さんがいたのか。戦史叢書などの記録本を調べても、第32野戦兵器廠が国吉に進駐した記録はありません。

岩山を覆うジャングルで活動する学生ら

岩山を覆うジャングルで活動する学生ら

学生たちから、現場の話などを聞く

学生たちから、現場の話などを聞く

が、戦後、米軍の捕虜になった同部隊兵士の証言に、小隊レベルで国吉へ派遣された、という内容が残っていました。同時に、野戦兵器廠は、陣地や砲台の構築などを担っていた部隊なので、要塞のような壕が掘り巡らされていた国吉台地で、その仕事に従事したのかもしれません。いずれにしても、国吉に部隊の足跡をみつけたので、このメダルは津村さんの遺留品に間違いないであろう、と結論付けました。

納骨袋にお骨を入れる

納骨袋にお骨を入れる

学生たちからの報告に涙する慶子さん

学生たちからの報告に涙する慶子さん

発見したIVUSA(国際ボランティア学生協会)のメンバー6人と、兵庫県へ向かいます。広々とした田園の風景の中に、慶子さんのお宅がありました。思っていた通り、優しい笑顔でお迎えしてくださりました。受け取りを躊躇したことを、何度も詫びながら。その瞬間から、私の涙腺は緩みっぱなしです。哲二に小声で、「泣くな」と、突かれますが、耐えきれません。

慶子さんへの報告の途中も、涙が止まらない

慶子さんへの報告の途中も、涙が止まらない

母タズ子さんに抱かれた慶子さんと幼少時の写真

母タズ子さんに抱かれた慶子さんと幼少時の写真

学生から渡された遺留品のメダルを手に、「大変やったね。大変やったと思う」と、帰ってきた父へ小声で囁きかけながら、撫でまわす慶子さん。発見現場のことや当時の状況を伝える学生たちへ、何度もお礼を述べながら、涙をぬぐいます。その言葉を受けて、胸がいっぱいになり、泣き出す女子学生も。

同じ場所から出てきた認識票などを見る

同じ場所から出てきた認識票などを見る

涙が止まらない慶子さん

涙が止まらない慶子さん

メダルを掘り出した関西大2年の川原稜平くんは、「発掘場所では、大小の岩や石を数百個も動かしました。そんな過酷な現場で掘り出した遺留品なので、無事にご遺族の元へお届けできて、肩の荷が下りた気分です」と爽やかな笑顔。でも、「あの現場で亡くなった方々を思うと、正直、胸が詰まります。まして、ご遺族の涙を見ていると‥」と、もらい泣き。

津村重治さんの名が刻まれた石碑の前に座る川原凌平くん

津村重治さんの名が刻まれた石碑の前に座る川原凌平くん

集めた遺骨についた土を払う学生たち

集めた遺骨についた土を払う学生たち

戦争で最愛の父を亡くした遺族の悲しみと、71年ぶりにその生きた証と再会できた喜びを垣間見て、学生たちは感無量のようです。今回の派遣リーダーの同志社女子大4年・合原波穂さんは、「私らの活動やお届けする遺留品が、ご遺族の負担になっていないか、とても不安でした。が、結果的に喜んでいただけて、ホッとしています」と満足げに語ります。

納骨袋を手にした合原リーダーと学生たち

納骨袋を手にした合原リーダーと学生たち

津村重治さんの墓標の前で

津村重治さんの墓標の前で

津村さんの実家は、現在の神戸市西区にあるそうです。お墓代わりにされている慰霊の墓標も、その近くにあると聞きました。慶子さんに案内をお願いし、学生たちと一緒に訪ねてみることに。ため池や田畑が点在する平野に、先の尖った兵士の墓標が、何本か立っています。その彼方には、未来都市のような西神ニュータウンが広がります。

津村さんの墓標に祈りをささげる。後方は西神ニュータウン

津村さんの墓標に祈りをささげる。後方は西神ニュータウン

刻まれた名前を手でなぞる学生

刻まれた名前を手でなぞる学生

慶子さんは、この近くで、津村重治さんと妻・タズ子さんの一人娘として、1941年(昭和16年)9月に生まれました。が、父は、長女の誕生後、35日目で出征。一度だけ、姫路市内で再会したそうですが、慶子さんの記憶には残っていません。その後、沖縄で戦死したことが伝えられ、届いた白木の箱の中に何が入っていたのか、今も判らない、と話されます。

津村さんの名が刻まれた平和の礎の刻銘

津村さんの名が刻まれた平和の礎の刻銘

学生たちに頭を下げられる慶子さん(右)

学生たちに頭を下げられる慶子さん(左)

父の死後、母タズ子さんは、津村家を離れ、新しい家庭を持たれました。そして、慶子さんは両親の祖父母に育てられ、結婚後、現在の稲美町で暮らし始めたそうです。とても思いやりのある夫・良一さん(78)と、子や孫に囲まれて、幸せな日々を送っている、と語られます。

献花する学生を見守る慶子さんと良一さん(右端)

献花する学生を見守る慶子さんと良一さん(左端)

お母様に抱かれる慶子さん。二人一緒の写真はこの1枚だけ

お母様に抱かれる慶子さん。二人一緒の写真はこの1枚だけ

慶子さんへ説明する学生たち

慶子さんへ説明する学生たち

しかし、「戦争が私から、大切な家族を奪ったんです。目をつぶるたび、辛かった幼少期を思い出します。父が生きていたら、どんなに良かったか。子と別れる母の辛さが、同じ立場となって、身に沁みるように理解できるんです」と涙ぐみます。

田園地帯にあるお墓へ向かう一行

田園地帯にあるお墓へ向かう一行

父親の墓標に手を合わせながら語りかける慶子さん

父親の墓標に手を合わせながら語りかける慶子さん

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

お花を供えに来た学生たちと一緒に、父の名が刻まれた石碑に手を合わる慶子さん。「お父さんの生きた証を学生さんたちが見つけてくれたんよ」と報告。そして、静かな口調で、「やっと、帰ってきてくれたねぇ。これからは、ずっと一緒に暮らせるんやから。安心してな」と語りかけました。

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

重治さんの墓標を見る一行

重治さんの墓標を見る一行

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

別れ際に慶子さんが学生に掛けた言葉です。「ほんまにありがとう。もう、言葉では感謝しきれへんくらい、嬉しかったわ。でもね、これだけは聞いてほしい。私のような体験を繰り返さないためにも、戦争は絶対にあかん。二度としたらあかんのよ」。一人ひとりの手を握りながら、強く訴えられました。

学生たちにお礼をする慶子さん(後方中央)

学生たちにお礼をする慶子さん(後方中央)

涙ながらに学生に話しかける慶子さん
涙ながらに学生に訴えかける慶子さん

2016遺骨収集活動59日目 大学生たちとの活動㊦

米軍製の手榴弾を回収して下さる自衛隊員

米軍製の手榴弾を回収して下さる自衛隊員

報告が遅れましたが、私たち夫婦は、すでに沖縄を離れて本州へ帰ってきています。青森へは、帰り着いていませんが、南の島での活動は、一区切りをつけています。一部の方に、誤解を生んでしまったようです。お知らせが遅れましたことをお詫びします。

収集作業を終えて、号泣する女子学生たち

収集作業を終えて、号泣する女子学生たち

作業に入る前、遺骨のことを学ぶ

作業に入る前、遺骨のことを学ぶ

ただ、活動はまだ、終わっていません。今年も、ご遺族への遺留品返還と、沖縄戦の生き残りの方のもとへ、学生と一緒にお訪ねする仕事が残っているのです。ゆえに、青森への帰還は、もう少し先になりそうです。

国吉さんの最後の活動を見送る学生たち

国吉さん(右)の最後の活動を見送る学生たち

今年、集めた遺骨を見る

今年、集めた遺骨を見る

ここで、㊤から続きます。

昨日、今回、掘り出した戦没者の遺留品を、ご遺族の元へお返しに行きました。内容を報告したいのですが、取材して下さった新聞、テレビ各社が報道する前に、ネタを明かす訳にはいきません。もう少しお待ちください。

IVUSAが集めた遺骨が入った袋を抱え上げるリーダーの合原波穂さん

IVUSAが集めた遺骨が入った袋を抱え上げるリーダーの合原波穂さん

IVUSAのポーズで

IVUSAのポーズで

学生たちは、今年も大活躍でした。氏名入りの遺留品を複数発見し、量は多くなかったのですが、数多くの部位の遺骨を掘り出しました。中には、特徴的な大きさや形のものがあり、新たな展開に期待が持てそうです。

学生たちに体験談をして下さる国吉集落の神谷区長さん

学生たちに体験談をして下さる国吉集落の神谷区長さん

真剣なまなざしでお話を聞く

真剣なまなざしでお話を聞く

今年、活動した国吉丘陵は、旧日本軍の歩兵32連隊と米海兵隊が、沖縄戦最後の死闘を繰り広げた場所です。その影響か、元の地形が判らない程、砲撃などで山肌や壕が破壊されています。

土の下から出てきた英語表記のラベル。いつの時代の物であろうか

土の下から出てきた英語表記のラベル。いつの時代の物であろうか

活動の最中、集められた遺骨の説明を受ける

活動の最中、集められた遺骨の説明を受ける

ゆえに、遺骨を掘り出す作業も、危険と隣り合わせです。潜り込みたい壕や岩の隙間が複数あるのですが、崩落が恐ろしくて、叶いません。特に、学生たちにそのリスクを背負わす訳にもいかず、来年に向けて、何らかの対策を立てなければ、と考えています。

全員で、遺骨の部位を仕分け、こびり付いた土を払う

全員で、遺骨の部位を仕分け、こびり付いた土を払う

うっすらと文字盤が見える腕時計

うっすらと文字盤が見える腕時計

表面上に見えている遺骨は、ほぼ収骨し終えていると思われます。が、壕内の奥深くや岩の下、地中に埋もれている方が、いまだ放置されたままです。その証に、正木麻衣子さんらのベテラン勢が臨むと、次々と掘り出されます。まだまだ始まったばかりの場所だと、と言えそうです。

納骨の前、最後の別れに手を合わせる学生たち

納骨の前、最後の別れに手を合わせる学生たち

遺骨に手を合わせて祈る学生たち

遺骨に手を合わせて祈る学生たち

学生による沖縄県の収骨は、今年も無事に終わりました。初参加の子たちは、終戦から71年目に陽の目を見たご遺骨と、向き合って、何を感じとったのでしょうか。涙する子もいれば、遺骨の土を丁寧に払う子も。皆、真剣な眼差しでした。

一つひとつの骨についた土を手で払う

一つひとつの骨についた土を手で払う

袋へ遺骨をおさめながらリーダーが号泣

袋へ遺骨をおさめながら涙ぐむリーダーの合原さん

今ある平和を導いて下さった先達の皆さまへ、どんな想いを持ったのでしょう。子どもたちが、書き送ってくれたメッセージをいくつか紹介します。活動中、毎晩、遅くまで議論し合い、考えつくしたものです。

納骨袋に団体名などを書き込む

納骨袋に団体名などを書き込む

今回、収骨した遺骨を前に

今回、収骨した遺骨を前に

私たち夫婦へのメッセージ的な内容ですが、胸を打つ言葉が散りばめられています。

納骨袋を手に黙とうするIVUSAのメンバーたち

納骨袋を手に黙とうするIVUSAのメンバーたち

感極まって泣き出す女子学生

感極まって泣き出す女子学生

「71年前、たくさんの命が亡くなったこと。その人の大切な人が泣いていたこと。それを放置できません」(同志社大・大野さん)

ひとつずつ、丁寧に土を払う

ひとつずつ、丁寧に土を払う

それぞれの想いを込めて祈る学生たち

それぞれの想いを込めて祈る学生たち

「今回、学んだことを家族や仲間たちに自分の言葉で訴えかけます。そして、戦争への無関心さに、一石を投じたい」(拓殖大・笹渕さん)

手を合わせるリーダーの合原さんら

手を合わせるリーダーの合原さんら

遺骨を手に号泣する女子学生

遺骨を手に号泣する女子学生

「骨の重さ、骨の脆さ、骨が染まった色に衝撃を受けました。最初は怖かったのに、途中から、一つでも多くのご遺骨に陽の光を浴びて戴きたい、と思いが変わっていました」(東京家政大・澁谷さん)

全員で手を合わせる

全員で手を合わせる

神妙な面持ちで遺骨を見送る

神妙な面持ちで遺骨を見送る

「過酷な作業なので、遺骨をお迎えした時、不届きながら嬉しく感じてしまいました。でも、岩の下や土の中にずっと埋もれたままの方が、自らの家族や愛する人だったら、どれほど辛いことか‥」(松井くん)

哲二を先頭に現場へ

哲二を先頭に現場へ

手書きのメッセージを貰って、大喜び

手書きのメッセージを貰って、大喜び

たくさんの感想を書き込んでくれました。素晴らしい感性と感情が溢れた言葉が紡がれています。強いていえば、短文のメッセージでなく、しっかりと書き込んだものを読みたかったです。

遺留品の説明を聞く時も、皆が真剣な面持ちで

遺留品の説明を聞く時も、皆が真剣な面持ちで

納得がゆくまで、全員で徹底的に議論する

納得がゆくまで、全員で徹底的に議論する

私たちもそうですが、戦争を知らない世代として、今の時代をどう生きてゆくのか。そうしたことが、この活動から導き出せるかもしれません。埋もれた遺骨は、まだまだありそうです。そして、故郷へ帰ることが出来ない遺留品も。

手を合わせて

手を合わせて

大勢の前で、自らの考えを述べる。素晴らしい感性を感じる発言も

大勢の前で、自らの考えを述べる。素晴らしい感性を感じる発言も

一生懸命の汗と、美しい涙を流しながら、頑張って下さる学生さんたちへ。自らの命と引き換えに、平和を築いて下さった方々への感謝の気持ちを忘れずに、この活動を引き継いでいって下さい。

岩の割れ目にある自然壕で

岩の割れ目にある自然壕で

手作りのカレーをごちそうしてくれた

手作りのカレーをごちそうしてくれた

そして、平和な世が、いつまでも続きますよう、一緒に歩んで行きましょうね。私たち夫婦は喜んで、そのお手伝いをさせて頂きます。ご馳走して戴いたカレーライス。とても美味しかった。

手作りの美味しいカレーを頬張る

手作りの美味しいカレーを頬張る

みんなで楽しく自炊も

みんなで楽しく自炊も

それぞれの班の手作りの味を、全部試せなくてごめんなさい。齢を重ねると、たくさん食べられないのよ。その割には太っているけど(笑)。それでは、また来年、沖縄でお会いしましょう。君たちのことが大好きですよ。

お道化ながら記念撮影

お道化ながら記念撮影

2016遺骨収集活動57日目 大学生たちとの活動㊤

 

ジャングルの中を進む遺骨収集の学生たち

ジャングルの中を進む遺骨収集の学生たち

走ると危ないよ!。でも、元気いっぱい活動に臨む

走ると危ないよ!。でも、元気いっぱい活動に臨む

尊敬するマタギの伊勢親方の急逝や、交通事故などが重なって、なかなか更新が出来ませんでした。事故の後遺症が長引いているため、まだ、病院通いが続いています。そのため、遺骨収集活動も、ほとんどできません。

活動の前に地元の森を守る神社へ拝礼

活動の前に現場の神社へ拝礼

後方支援の留守隊に手を振りながら出発する

後方支援の留守隊に手を振りながら出発する

本来ならば、学生の活動風景などを、もっと紹介すべきだったのですが、治療中の立場でありながら、壕へ通い詰めるわけにもいきません。仕方なく、後方で指導したり、見学するだけになってしまいました。

埋もれてしまった散兵壕を掘る

埋もれてしまった散兵壕を掘る

国吉さん(右端)から、指南を受けながら

国吉さん(右端)から、指南を受けながら

HPも、とても長い間、放置してしまいました。読者の皆さま、お許しください。ようやく、書き込める余裕が出てきましたので、学生たちが2月半ばに、平良宗潤先生から戦争講話を伺った、続きの活動を紹介いたします。

平良先生と本島南部のサトウキビ畑を歩く

平良先生と本島南部のサトウキビ畑を歩く

散兵壕に大勢が入って掘り進む

散兵壕に大勢が入って掘り進む

今年、沖縄で遺骨収集に従事してくれた学生たちの総勢は、なんと200人近くに膨れ上がりました。例年通り、JYMA(日本青年遺骨収集団)とIVUSA(国際ボランティア学生協会)が、駆けつけてくれています。

丘陵の頂上付近は開けていた。この脇は「城(グスク)」になている

丘陵の頂上付近は開けていた。この脇は「城(グスク)」になっている

岩が落ち込んで、完全に埋まってしまった壕口を掘り進むと遺骨が出てきた

岩が落ち込んで、完全に埋まってしまった壕口を掘り進むと遺骨が出てきた

でも、200名が働けるフィールドは、そうありません。小さな壕では、すし詰め状態になって、酸欠が心配されます。ゆえに、活動場所として、旧日本軍が最後の防衛線として守備していた国吉丘陵を選んだのです。

屏風のような岩が切り立った天然の要塞のような現場

屏風のように岩が切り立った天然の要塞のような現場

狭い壕内で慎重に掘る

狭い壕内で慎重に掘る

この場所は、第24師団歩兵32連隊が、沖縄戦のさなかも、組織的な戦闘が終結した後も、頑強に抵抗を続けていた要塞のような台地です。ジャングルに覆われたサンゴ石灰岩の高台に、迷路のように壕が掘られており、トーチカやタコツボが、あちこちに点在しています。

バケツなどを抱えて現場へ向かう

バケツなどを抱えて現場へ向かう

果敢に岩の隙間を掘り進む女子学生たち

果敢に岩の隙間を掘り進む女子学生たち

が、余程、激しい戦闘があったのでしょう。あちこちに巨岩が崩れ落ち、壕口を塞ぎ、散兵壕も埋め尽くされています。そんな岩の隙間から、地面に突き立った遺骨が見えていたり、遺留品が散乱したりしています。

掘り出した遺骨を確認する

掘り出した遺骨を確認する

岩の下や隙間も見逃さずに掘り続ける

岩の下やわずかな隙間も見逃さずに掘り続ける

地元の方に聞くと、戦後、何度か遺骨収集はされています。が、壕内を掘り進んだり、岩を動かしたりしてまでは、やっていないとのこと。学生たちには、ぴったりの仕事です。

岩の下から出てきた旧日本陸軍の認識票。歩兵22連隊の兵士の物

岩の下から出てきた旧日本陸軍の認識票。歩兵22連隊の兵士の物

陸軍が使っていた軍用の湯呑み

陸軍が使っていた軍用の湯呑み

約10日間、兵庫県から来た社会人のグループも混ざって下さって、活動しました。でも、あちこちの現場で、不用意に岩を動かすと、それに支えられた巨岩が落ちて来そうで、危険極まりない状態。

険しい道を隊列を組んで進む

険しい道を隊列を組んで進む

総勢160人以上が参加したIVUSAの学生たち

総勢160人以上が参加したIVUSAの学生たち

前途ある若者たちを、生き埋めにするわけにいきません。まだまだ遺骨が埋もれていそうですが、その多くをあきらめざるを得ない地形です。実際、哲二が飛び乗った畳一畳ほどの平たい岩が、瞬間、大きくずれ動き、肝を冷やしました。

現場の確認に来られた糸満署の警察官

現場の確認に来られた糸満署の警察官

3人で狭い壕内を掘り進む

3人で狭い壕内を掘り進む

でも、そんな場所なので、手つかずの壕やトーチカが数多く残っているようです。可能性のありそうな岩棚の下を、隙間に潜り込んで、学生たちは一生懸命に掘り進みます。IVUSAは女子が多い隊なのですが、男子に負けじと、熊手を動かし、小型のツルハシを振り続けます。

出土した遺骨を確かめあう

出土した遺骨を確かめあう女子学生

不発弾処理に来られた自衛隊員

不発弾処理に来られた自衛隊員

そして男子は、大小さまざまな岩を、抱え、押し、転がしながら、動かします。岩の下敷きになっている戦没者を探すのと、土の地面を出して女子が掘れるよう、汗と泥にまみれて、働き続けます。誰一人、愚痴を言うものはいません。

岩に沿って掘られた散兵壕を人海で掘り進む

岩に沿って掘られた散兵壕を人海で掘り進む

力を合わせて岩を動かす男子学生たち

力を合わせて岩を動かす男子学生たち

今年の現場は、元の地形の想像がつかないほど岩が崩れており、どこまで掘れば、元地盤へ到達できるか、わかりません。総勢200名でも、戦時中の地形に戻すまでに、数日間、掛かる場所も。

ジャングルに張り巡らされた散兵壕を掘り進む

ジャングルに張り巡らされた散兵壕を掘り進む

小さな骨片や遺留品も逃さずに掘る

小さな骨片や遺留品も逃さずに掘る

そして、戦没者の遺骨だけでなく、遺留品の発掘でも、大きな成果を得られそうです。名前が入った遺品が、数多く出てくるのです。中には、はっきりと刻まれた氏と名があり、ご遺族の元へ戻せそうな物もあり、とても期待が持てそうです。少し長くなりましたので、㊦に続きます。

名前の描かれた万年筆

名前の描かれた万年筆

2016遺骨収集活動37日目 遺骨収集家の国吉勇さんが引退を表明?

遺跡の発掘現場で語る国吉さん

遺跡の発掘現場で語る国吉さん

遺骨収集家の国吉勇さんが、第一線から退かれることを表明されています。昨年末、奥さまを亡くされて以来、少し元気がありませんでしたが、最近は体力の限界も、呟かれています。

発育が足りていない小型の頭蓋骨を手に

発育が足りていない小型の頭蓋骨を手に

国吉さんのお兄さんの故真一さん。鉄血勤皇隊として、沖縄戦で戦った

国吉さんのお兄さん、故真一さん。鉄血勤皇隊として、沖縄戦で戦った

鉄血勤皇隊として旧日本軍に従軍して、部隊のたった一人の生き残りとなったお兄様に連れられて、初めて足を運んだ沖縄本島南部の壕内。そこには、お兄様の戦友の遺体が、まだ生々しく残っており、恐怖のあまり泣き叫んだそうです。

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす

遺骨が並ぶ八重瀬の野戦病院壕で、井上さんご夫妻と語る国吉さん(中央)

遺骨が並ぶ八重瀬の野戦病院壕で、井上さんご夫妻と語る国吉さん(中央)

それが、小学3、4年生の頃だったと振り返られます。それ以来、約70年。本格的に遺骨収集活動を始められて約60年間。足繁く南部戦線跡に通い、戦没者と、その帰りを待つ遺族と向き合ってこられました。

学生にあいさつする遺骨収集家の国吉勇さん

今年の収集活動で、学生にあいさつする遺骨収集家の国吉勇さん

学生たちに説明する国吉親方

学生たちに説明する国吉親方

心より、お疲れ様でした、とお声がけするのと同時に、人生のすべてを掛けて続けてこられた「慰霊の仕事」に最大の敬意を表したいです。また、近々、国吉さんのお気持ちをお伝えすべく、インタビューします。

軍医部壕で掘り出した印鑑を手に

軍医部壕で掘り出した印鑑を手に

今年の現場で、岩の割れ目を覗かれながら、活動場所を探る国吉さん

今年の現場で、岩の割れ目を覗かれながら、活動場所を探る国吉さん

お母さまと兄弟、祖母らを沖縄戦で亡くされた、戦争の犠牲者でありながら、ウチナンチュもヤマトンチュの戦没者にも分け隔てなく接してこられた国吉さん。その偉大な仕事は、他の追随を許さない功績として、今後も語り継がれていくでしょう。

JYMAの学生たちと掘り出した遺骨を鑑定

JYMAの学生たちと掘り出した遺骨を鑑定

壕の入り口で、遺骨を探す。後方は筆者の律子

今年の現場の壕口で、遺骨を探す。後方は筆者の律子

及ばずながら、後継する仕事をさせて頂く私らも、ずっと国吉さんの事を忘れません。でも、また、気が向いたら、いつでも現場に来てください。厳しい場所は、哲二におんぶさせても歩かせます。余生は、自ら築かれた戦争資料館で、これまでのお仕事の内容を語り、聞かせてください。ありがとうございました。でも、ほんとに引退するの?。まだ、信じられないけど‥

2016遺骨収集活動28日目 「全員死亡の家」で平和学習

IVUSAの学生が造った活動の実施要項

IVUSAの学生が造った活動の実施要項

リーダーの合原波穂さん(中央)とIVUSAの学生たち

リーダーの合原波穂さん(中央)とIVUSAの学生たち

学生たちによる、沖縄県での遺骨収集活動を始める前に、糸満市内に点在する「沖縄戦で家族全員が死亡した家」を訪ねました。

※琉球朝日放送で放映されました。

http://www.qab.co.jp/news/2016021777592.html

平良宗潤先生

平良宗潤先生

リーダーに引率され、現場へ赴く学生たち

リーダーに引率され、現場へ赴く学生たち

糸満市史編集委員会委員長の平良宗潤先生から、一家が全滅してしまった当時の状況の説明を受けながら、「ありったけの地獄を集めた」といわれる沖縄戦を学習するのが目的です。

学生にあいさつする遺骨収集家の国吉勇さん

学生にあいさつする遺骨収集家の国吉勇さん

JYMAの学生たち

JYMAの学生たち

JYMA(日本青年遺骨収集団)とIVUSA(国際ボランティア学生協会)の大学生ら約200人が、終戦後から、集落内にそのまま残されてある屋敷跡に座り込み、先生の話を聞きます。

「全員死亡の家」の屋敷跡に座り込む学生たち

「全員死亡の家」の屋敷跡に座り込む学生たち

「4歳の時に沖縄戦で父を亡くし、戦後は過酷な日々だった」「隠れた壕内では、声をあげて泣く赤ちゃんが殺されることも‥」。その臨場感あふれるお話が、我が身に迫ってくるように感じたのか、涙を拭う学生もいます。

先生の話を聞く学生

先生の話を聞く学生

学生にお話しして下さる平良先生

学生にお話しして下さる平良先生

一家全員が死亡しているのに、手入れが行き届いた屋敷の跡。「いったい誰が管理しているのですか」と学生からの質問に、先生が「死者を悼むため、門中や地域の方々がお世話しているのだよ」と教えてくださいます。

学生が平和学習を受ける横を歩く地区のお年寄り

学生が平和学習を受ける横を歩く地区のお年寄り

石垣と拝所だけが残る敷地で

石垣と拝所だけが残る敷地で

通りかかった地区のお年寄りに、「遺骨収集に来た学生が平和学習をしている」と伝えると、「え?、私たちがやり切れないことを‥。ご苦労さま。うん、うん‥。でも、沖縄の人たちが被った悲しい歴史も忘れないでね」と労いの言葉を掛けていただきました。

収穫が進むサトウキビ畑の横を歩く学生たち

収穫が進むサトウキビ畑の横を歩く学生たち

平良先生とサトウキビ畑を貫く道を歩く学生たち

平良先生とサトウキビ畑を貫く道を歩く学生たち

この後、先生の案内で、沖縄戦における米軍最高司令官・バックナー中将が戦死した丘へ向かいました。近くの山の上に設置された「ガメラレーダー(自衛隊の防空用・固定式警戒管制レーダー装置)」を背に、サトウキビ畑を貫く道を歩きます。

丘の上にあるガメラレーダーを背に歩く

丘の上にあるガメラレーダーを背に歩く

日米両軍が激しく戦った地が、今は双方の基地がひしめく、重要な防衛要所となっているのを目の当りにした学生たち。終戦から71年が過ぎても、軍隊や基地の存在から逃れられない沖縄県民に、それぞれの思いを馳せます。

海が見える丘へ登る学生たち

海が見える丘へ登る学生たち

バックナー中将が戦死した丘で

バックナー中将が戦死した丘で

「これ以上、基地を増やしてほしくない、という沖縄の方々の気持ちが理解できた」、「安保法制の施行が基地の集中する沖縄にどんな影響を与えるのか心配‥」などと、日本と沖縄を取り巻く現状を憂う声もあがりました。

先生と一緒にお昼ご飯

先生と一緒にお昼ご飯

JYMAも一緒に昼食

JYMAの学生たちも一緒に昼食

「未だ戦禍の傷は癒えず、影を引きずっている。この有り様では、犠牲になった方々が浮かばれないね」と平良先生。高台にあるバックナー中将の慰霊碑前で、「だから、二度と戦争を引き起こしたり、巻き込まれたりしてはいけないよ」と、学生たちを諭します。

バックナー中将の戦没碑の横で講義される平良先生

バックナー中将の戦没碑の横で講義される平良先生

日米合わせて20万人以上が戦没した沖縄戦。その最激戦地だった南部の丘で、収穫期を迎えたサトウキビ畑を見渡しながら、学生たちは平和への誓いを新たにしていました。

先生の話を聞く学生

真剣なまなざしで先生の話を聞く学生

バックナー中将の慰霊碑で

バックナー中将の慰霊碑で

2016遺骨収集活動26日目 今年も学生たちが参戦

ジャングルの中で、活動前の注意事項を聞く学生たち

ジャングルの中で、活動前の注意事項を聞く学生たち

ホームページ作成用のパソコンが完全に壊れ、更新作業が滞っています。写真を処理するソフトがないため、撮った画像のアップもなかなかできません。ホトホト困った事態に。旅先なので、リカバリー・ソフトも持参してなく、もう、諦めるしかないのかなぁ。誰か助けてください。

壕内の下見を終えて、外へ出てくるIVUSAの学生たち

壕内の下見を終えて、外へ出てくるIVUSAの学生たち

本題に入ります。学生グループが沖縄に到着し、活動を始めました。まず、JYMA(日本青年遺骨収集団)のメンバーが、社会人の応援者を含めた約30人で作業に着手。そして、IVUSA(国際ボランティア学生協会)の10人の先遣隊が活動の調整のために、動き始めています。

現場の入り口にある神社で拝礼するJYMAの学生たち

現場の入り口にある神社で拝礼するJYMAの学生たち

今年は、MAXで総勢が200人を超える大所帯となりそうです。それは、IVUSAのメンバーが膨れ上がったゆえで、この活動への関心の高さに驚かされます。最初に出会ったときは、5、60人でしたが、年々数が増え、昨年の140人を超えて、今年は161人になったそうです。

糸満市内の集落を背に、収集現場に向かう学生たち

糸満市内の集落を背に、収集現場に向かう学生たち

戦争を知らない世代が、今も残る激戦の跡地で、戦没者の遺骨収集に取り組むのは、素晴らしい試みです。周辺国との関係を含め、中東や欧州で多発するテロ、喧嘩番長のアメリカとのお付き合いなど‥、日本を取り巻く情勢もキナ臭くなっています。

活動を前に、準備体操をするJYMAの学生たち

活動を前に、準備体操をするJYMAの学生たち

特に、安全保障関連法案(安保法案)の可決や憲法改正の動きなど、国内政治も目が離せない状況です。こんなご時世に、71年前の戦場で戦没者に向き合おうとする学生たちに、頼もしさと共に強く期待してしまいます。

壕の中から出てくるIVUSAの学生たち

壕の中から出てくるIVUSAの学生たち

もう二度と、日本を戦争に導かないように、と。沖縄戦では、20万人以上の方が戦没されています。その多くが、戦闘に巻き込まれた民間人でした。それゆえ、沖縄の人たちの平和への想いは、本州などの内地の方よりも強いように感じます。

岩の間にあった遺骨を見つけ、隙間に潜り込む学生たち

崩れた散兵壕の中にあった遺骨を見つけ、岩の隙間に潜り込む学生たち

そのためか、遺骨収集に臨む学生たちを暖かく受け入れて下さり、様々な形での協力と応援を戴いています。今回も、期間中に公民館を開放し、トイレも自由に使っていい、とのこと。グランドゴルフ中の地元のお年寄りから、おやつの差し入れもありました。

木陰でお昼休み。みんなでお弁当を頬張る

木陰でお昼休み。みんなでお弁当を頬張る

ありがたい限りです。その分、頑張って、ひとりでも多くの戦没者を見つけようね。将兵はもちろん、民間人の遺骨も目を皿のようにして探します。今回は、あまり収集されていない場所が数多く残っており、大きな成果を挙げられるかもしれません。

崩れそうなジャングルの岩場を恐る恐る通り抜けてゆく

崩れそうなジャングルの岩場を恐る恐る通り抜けてゆく

学生たちも、気合十分で働いており、すでに数柱分の遺骨を収容できています。でも、ジャングルの岩場は危険がいっぱいなので、十二分に注意して働こうね。ケガをしたり、事故を起こしたりしたら、送り出してくれたご両親や、応援して下さる皆さまに、たいへんな迷惑を掛けてしまうから。さぁ、頑張ろう。期待していますよ。

2016遺骨収集活動19日目 国吉勇さんが現場に復活

約2か月ぶりに、遺骨収集の現場へ復帰された国吉さん

約2か月ぶりに、遺骨収集の現場へ復帰された国吉さん

最愛の奥さまを昨年末、亡くされた遺骨収集家の国吉勇さん(76)が、現場へ復帰されました。四十九日まで喪に服し、お別れの時間を大切にされていたそうです。

早速、壕の中で作業を開始

早速、壕の中で作業を開始(このシリーズの写真は、防塵、防水、耐衝撃に強い「RICOH G800」で撮影)

国吉さんをいつも支えて来られた、優しい奥さまで、私たちも大変お世話になりました。早すぎる逝去に心が痛みます。体調の不良を訴えられて救急搬送された数日後、息を引き取られました。肺炎だったそうです。

掘り出された遺留品。木製箪笥の取手の金具

掘り出された遺留品。木製箪笥の取手の金具

資生堂のロゴがついたクリームのビン

資生堂のロゴがついたクリームのビン

「あっという間だったよ。こんな形で別れが来るなんて‥」と、国吉さんも寂しそうです。心労のためか、少し痩せられたようで、元気で若々しい親方の姿が、いつもより小さく見えてしまいました。

少し痩せられたかも。心なしか小さく見えてる

少し痩せられたかも。心なしか小さく見える

ご家族と相談し、事故や病気などに十分注意する、という条件で、遺骨収集活動を再開されたそうです。約2カ月ぶりの現場だったので、蔓に足を引っかけたり、岩につまづいたりして、少し心配な足取り。

激しい砲撃と銃撃で、穴だらけになった岩肌

激しい砲撃と銃撃で、穴だらけになった岩肌

でも、南部のジャングルの中を歩きながら、「もう、あまり無理は出来ないけど、若い人たちが来てくれるのならば、まだまだ頑張らなくては」と、明るい笑顔を見せておられました。

ジャングルの中を歩く国吉さん

ジャングルの中を歩く国吉さん

今回の場所は、国吉さんもあまり活動したことがない地区。あちこちの壕口や岩の割れ目に顔を突っ込みながら、「ここは手付かずだね」、「遺骨が見えている。たぶん、大勢が亡くなられているはずだ」と、次第にいつもの口調で解説。

壕の中では、いつもの国吉さん

壕の中では、いつもの国吉さん

砲撃で崩れ落ちた巨岩が重なり合い、あちこちに浮石がある危険な岩場を、飛ぶように歩きます。私など、とてもついて行けません。「ちょっと、掘ってみようかね」と、「カッチャギ(熊手)」を掴んで壕に潜り込むと、いきなり遺留品を手に出て来られました。

あちこちの岩の割れ目を覗かれながら、活動場所を探る

あちこちの岩の割れ目を覗かれながら、活動場所を探る

国吉さん。奥さまの事、お悔やみ申し上げます。言葉には出さなくても、お互いを大切に思い、愛し合ってられたのを私たちは知っています。とても素敵なご夫婦でした。

壕の入り口で、遺骨を探す。後方は筆者の律子

壕の入り口で、遺骨を探す。後方は筆者の律子

長年にわたり、国吉さんが遺骨収集活動で成果を挙げることが出来たのも、奥さまの深いご理解があっての事だと思います。これからは、どうかお体を大事にされて、お二人の分を元気で長生きされてください。

インクが入っていたビン。これも遺留品

インクが入っていたビン。これも遺留品

明日から、学生との活動が本格化します。今年は約200人がお世話になります。いつも自らが率先して行動し、まさに背中で語りながら、後進を導かれる姿を私たちは尊敬しています。今年も、がんばりましょうね!

内部を探査した後、壕から出て来る

復帰の初日。作業を終了後、壕から出て来る国吉さん