みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「学生」ーみらいを紡ぐボランティア
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手紙返還での学生の想い⑦ SAKURA

戦没者の息子さんから、当時の話を聞くSAKURA 

今年の夏休みに約二週間、北海道を訪ね、沖縄で戦没された方々のご遺族にお会いしてきました。74年前に亡くなられた兵士たちが所属していた部隊の大隊長とそのご遺族が、終戦直後にやりとりされた手紙をお届けするためです。この活動に携わり、私は大切な家族を戦争で奪われた皆さまにできる限りのことを尽くしたい、と強く感じました。

吉田さんのご遺族へ自らが口語訳した手紙を朗読するSAKURA(右から二人目)

沖縄で戦没した兵士の遺骨や遺留品が、ほとんどのご遺族の元へ帰っていないことを実感したのは、旧河西郡大正村(現在の中札内村付近)から出征された吉田義勝さんの母・ふくよさんのお手紙をご遺族へお届けした時でした。戦没した義勝さんの弟・宣貞さん(86)と菅野之孝さん(83)らが涙ぐみながら受け取って下さる姿に感動しました。そして、ありがたく思えたのです。

ご遺族へ沖縄戦の犠牲者の説明をする

実は、手紙をお届けするために、ご遺族とみられる方に電話をかけると、詐欺ではないか、と疑われ、警察へ通報されたり、受け取りを断られたりすることがある、と大学生の先輩から聞いていました。実際に、オレオレ詐欺で大金を騙し取られたお年寄りが大勢いることを、新聞やテレビなどのニュースが伝えています。手紙をお届けしたご遺族からも、「君たちとは違うが、これまでにも変な電話が何度も掛かってきているんだ。残念だけど、疑わざるを得なかったよ」と苦笑いされました。

沖縄守備隊だった歩兵第32連隊第一大隊の戦没兵士の写真を並べた

さらに、「昔の辛い出来事を今になって掘り起こすなんて‥」というご遺族もいらっしゃいました。大切な肉親を戦禍で亡くされた残酷で悲しい体験を思い出したくない、と涙されます。また、「面識のない叔父のことを74年も過ぎた今になって知らされても、どうしていいのか判らない」と戸惑う、甥御さんや姪御さんにお会いしてきました。縁のない戦没者のことを問いかけられ、対応したくない気持ちが優先されてしまうのは寂しいですが、詐欺が横行するこの時代、やむなきことだと理解できます。

戦没した兵士のお墓参りをする学生たち

  しかし、一生懸命に取り組む学生たちの誠意を感じ取って、お手紙を受け取ってくださるご遺族と対面できたとき、嬉しさで胸がいっぱいになりました。そして、苦心して口語訳した手紙の朗読や戦没状況をお伝えした後、満面の笑顔で「ありがとう。兄が帰って来たようだった。今日の事は忘れないよ」と手を握られて、涙がこぼれました。私たちへの労いだけでなく、戦没した家族へ思いを寄せているご遺族がいることが、何よりもありがたかったです。 

笑顔が似合うSAKURA。ご遺族の手を握って、苦労の年輪と温もりを感じ取る

知床半島の付け根にある斜里町のご遺族は、私たちを自宅に泊めて下さり、朝昼晩の食事もご馳走になりました。社会人や先輩の大学生は面識があったようですが、私は初対面です。そんな見ず知らずの中学生に、お兄さんやお父さんを沖縄戦で亡くした体験を語り、「戦没者とその遺族のために働いてくれてありがとう」との感謝の言葉を戴きました。私たちを信頼して下さるだけでなく、今後の取り組みを託されているとの思いに身が引き締まります。この活動を続けていきたいと強く感じました。

笑顔で学生に握手を求める戦没者の弟さん

手紙をお届けしたご遺族は高齢の方が多かったです。それゆえ戦没者を記憶され、思いを寄せられている方に遺骨や遺留品、手紙などをお返しできる時間は限られている、と気づかされました。今後は、戦没者の遺骨を返還するために鑑定するDNAの採取も、より近い肉親からの提供が受けられなくなるのでは、と社会人メンバーらが顔を曇らせます。今でも難しい状態なのに、時の流れが恨めしいです。

手紙を受け取り帰路につかれる戦没者の兄弟
ご遺族の話を聞いてこみ上げてくるものが‥

そして今、若い世代による戦争への意識の低下が招く、危険な風潮も気になります。国のため家族のために命を落とした戦没者に思いを寄せ、愚かで悲惨な戦いを二度と起こしてはいけない、という意識を世間の人たちに強く持ってもらいたいです。私はまだ、沖縄で遺骨収集をしたことはありません。が、近いうちに参加しようと考えています。絶望的な戦いで亡くなった戦没者の想いとそのご遺族の悲しみを伝えることで、現在の平和を継続させたいからです。

笑顔で手を振るみらいを紡ぐボランティアのメンバー

●吉田ふくよさんから伊東大隊長へのお手紙

拝啓 夏気(かき)はなはだしき折柄(おりがら)、ご貴殿にはご壮健のよし、何よりと存じております。先日は、実に愚息・義勝戦死につき、ご親切なるお言葉、並びにお悔やみを下され、これまた家族の者ども、心中より御礼(おんれい)申し上げます。

義勝さんの二人の弟。左端が萱野之孝さん、その隣が吉田宣貞さん

一億国民、皆、必ず勝つものと思い、一生懸命に努力いたしたる思いにございますが、その実(じつ)、まだ至らざる所多きか、ついに敗戦の結果を見、実に残念に思います。

世の人は、種々(しゅじゅ)に申されますが、すべてが与えられたる運命と、思い諦めて、一日も早く、第二の帝国を再建いたさずは、多くの英霊に対して、申し訳なき事と思っております。愚息も、死して満足いたしておると思う事です。

生き残りの元兵士に写真をお見せした。手元が吉田義勝さん

多くの部下を失って、ご奮闘なされたる貴官らは、実に只今の時世では、残念に思われる事と思います。故に、国家再建のため、ご尽力を下さらば、再建を早め、また立つ時があると思います。

お言葉に対して、愚息の写真一葉、送付いたしておきました。お受け取り下さらば幸甚(こうじん)と思います。

ご遺族が持参した義勝さんの写真。右が手紙に同封されていた

なお、またその内、遺骨も参る事と思います。この上は、遺骨を待っている次第であります。

何とぞ今後、いろいろとお世話になる事と思います。何分、宜しくお願いいたします。まったく取りとめなき事を書き、失礼いたしました。悪しからずお許し下さい。まずは貴殿のご多幸をお祈りしております。

二伸 勝手ながら、ご受納あらば、ご一報下されます様、お願い申し上げます。

昭和21年8月10日 吉田ふくよ 伊東孝一様

ふくよさんの手紙を読むご遺族

吉田義勝さん 歩兵第32連隊第一大隊第三中隊に所属

4月28日、西原町小波津の戦闘で戦没されました。ご遺族にお伝えした、戦死した当時の状況です。生き残りの兵士や日米両軍の資料などを参考に、憶測を交えて報告しました。

学生の説明を聞くご遺族たち

25日から始まった小波津地区での戦闘は、壕などの陣地もなく、急造で掘ったタコつぼに入りながらの厳しい状況で始まりました。まず米軍は、小波津の東方二㌔に広がる中城湾に集結した艦隊から、前線へ絶え間なく艦砲弾を撃ち込んできます。その後、複数の戦車と随行する歩兵が連携する態勢で、日本軍陣地に攻め込んできました。吉田義勝さんが所属した第三中隊は、最前線で戦う第二中隊を支援する形で配備につきます。

縄の慰霊碑に刻まれた義勝さんの名に水を手向ける

まともに戦えば、旧日本軍の貧弱な装備では、物量に勝る米軍に敵う訳がありません。戦車の装甲を簡単に貫けるような武器も少なく、唯一通用するとされた連隊砲や速射砲の部隊も、弾薬が乏しいため、米軍のように何千発も打ち込めるような戦い方は出来ないのです。ゆえに、持ち運びが簡単な小隊用の軽迫撃砲(擲弾筒です)を巧みに使い、兵士一人ひとりが戦車の下に爆雷を放り込むか、背負ったまま飛び込む肉弾特攻が、重要な戦法になりました。義勝さんは、そんな戦闘で命を落としたとみられています。

義勝さんとふくよさん

ただ32連隊が小波津を守備している間は、一度も要衝を落とされることはありませんでした。伊東大隊長は、部下にバンザイ突撃などで命を粗末することを固く禁じていました。そのため、ほとんどの兵士が、命を落とす時まで勇敢に戦ったそうです。その戦果を讃えられ、師団長から大隊と所属部隊へ賞詞(しょう・し)が与えられました。でも、この戦いで、大隊の200名前後の将兵が帰らぬ人となったのです。「勝ち戦」でしたが、その犠牲は計り知れないものでした。 

手紙を返還後、手を握って労って下さるご遺族

このとき伊東大隊長は、師団本部への電文で、「飛行機も艦砲も戦車も我が兵は恐れず、極めて勇敢なり。しかれども陣地設備の不備なるため、第二線の兵すら毎日十名余り砲弾に死傷するを如何ともなす能(あた)わず」と報告されており、それを受けた司令部は胸をえぐられるような思いだった、とされています。

お別れの時、名残惜しくて見送る学生に笑顔で応えて下さるご遺族

現在の小波津地区は、平野部から続く丘の斜面に沖縄地方の古いお墓が並ぶ閑静な森になっています。そのすぐ脇にゴルフ場が隣接しており、高台からは中城湾を一望できます。戦争中は、この湾内が米軍の艦船で埋め尽くされたそうです。

返還後、みんなで記念撮影

手紙返還での大学生の想い⑥ 大塚千里

札幌の護国神社にある沖縄戦の戦没者慰霊碑を訪ねた大塚

大学4年の大塚千里です。
今夏、北海道で実施したお手紙返還とDNA鑑定の希望者を募る活動に参加させて戴きました。まったく顔も分からないし、どういう人かもよく分からないけれど、自分の親族だからとDNA 鑑定を受けて下さったご遺族。また、一縷の望みをかけて喜んでDNA鑑定を受けて下さったご遺族。同じように沖縄戦で家族の誰かを亡くしたにも関わらず、その反応は様々でした。

ご遺族へお手紙を返還する大塚(左から2人目)

何軒かのご遺族をお訪ねするうちに色々な家族の形があって、どんな形であれ、家族のことを想う気持ちは共通で、その温かさにわたし自身が優しい気持ちになりました。 そもそも、ご遺族が私たちを受け入れて下さった、ということに心が温かくなり、その優しさで胸がいっぱいです。

沖縄戦で亡くなった武藤勇さんの仏壇に手を合わせる大塚

今回、北海道でお会いしたご遺族の方、また様々な方に感謝申し上げます。ありがとうございました。私が担当したのは、歩兵第32連隊第一大隊第三中隊に所属された武藤勇さんの甥・武藤幸男さまです。勇さんの母・フヨノさんが、伊東孝一大隊長へ書かれたお手紙についてご報告いたします。

安平町で戦没者のご遺族宅を探す大塚(右端)
武藤フヨノさんの手紙を朗読する大塚(左から2人目)

●武藤フヨノさんから伊東大隊長へのお手紙

拝啓 お手紙ありがとうございました。勇の戦死は、以前より覚悟いたしておりました。二月に戦友より、戦死の便りを受け取っておりましたが、未だに役所からは、何の事も便りがありませんので、なんだかおかしな気持ちで暮らしておりました。が、この度、隊長様よりのお便りを拝見いたし、残念にも思い、また、心が落ち着き、ただ、勇のめい福を祈るのみでした。

沖縄で戦没した武藤勇さんの写真を見る甥・武藤幸男さん(右)と長女・浅沼恵子さん

勇も、きっと立派な戦死をした事と存じます。勇は入営する時、「俺は天皇に上げた体だ。きっと立派に働くぞ」と言って、元気に出発して行きました。昨日は色々と、勇の出発の時や、以前の事などを思い出しておりました。

勇が一人前になるまでは、さぞ隊長様のご厄介になった事でしょう。私らとしては、立派な兵隊になったと思い、喜んでおります。またお便りの中に、遠き勇を思う、沖縄の土をお送り下され、誠にありがとうございました。写真と共に仏壇に供えてあります。

先月五月二十九日が勇の命日と聞きましたので、一年忌をいたしました。お手紙に同封いたしましたが、勇の新兵時代の写真が一枚ありましたので、お送りいたします。これは、満州で写した写真です。どうぞお受け取り下さい。

お手紙を受け取って下さった武藤幸男さん。孫の碧翔くんも同席した

勇の父・幾三郎は、昭和十九年八月十五日に、心臓病で死にました。勇も戦死して、父に面会いたしております事でしょう。私ら一同は、ただただ勇のめい福を祈るのみです。

では隊長様、何とぞ御身(おんみ)大切に、元気でお働き下さい。またお暇がありましたら、何時(いつ)でもよろしいですから、勇の戦死の様子を知らせていただけないでしょうか。心遠く待っております。勇の様子を思い出しながら、この手紙を書きました。サヨウナラ 母・フヨノより 隊長様

                          昭和21年6月7日

武藤フサノさんの手紙を読む父親を見つめる浅沼恵子さん

武藤 勇さん 歩兵第32連隊第一大隊第三中隊に所属

5月29日、首里石嶺町で戦没されました。 ご遺族にお伝えした、戦死した当時の状況です。生き残りの兵士や日米両軍の資料などを参考に、憶測を交えて報告しました。

第32連隊第一大隊の伊東大隊を離れて、首里北方の石嶺高地にある戦車陣地を守備することになった工藤隊。戦車兵と共に、首里の司令部を目指してくる米軍を迎え撃ちました。首里街道に面した斜面の壕に中隊本部を置きますが、晴れているときは敵のM3戦車と歩兵が、雨が降ると陸海からの砲撃と飛行機が襲い掛かってきます。

戦没者の遺留品を見る武藤さんら

小さな陣地壕を転々としながら戦いますが、昼間に壕を出て銃を構えていると砲弾が降り注ぎ、夜は切り込み隊として宿営する敵兵にゲリラ戦を挑みます。中隊将兵の数は日を追うごとに減り続け、小隊、分隊が籠っている壕の上からも馬乗り攻撃を受けることに。それは、中隊の本部壕も例外ではなく、出入り口から手りゅう弾や爆雷を投げ込まれ、火炎放射を吹き込まれます。こうした戦闘で、武藤勇さんは戦死されたようです。

武藤勇さん

結局、石嶺高地は守り切れず、南部への転進を決めた32軍司令部を追いかけるように中隊は南へ撤退します。その時も最後尾で、追い縋って来る米軍との小競り合いを続けながらでした。第32連隊第一大隊は、小波津、146高地、棚原、140、150高地、石嶺高地などの最激戦地で、数多くの戦果をあげてきました。なかでも第三中隊は、何度も配置換えをさせられ、その都度、激戦地に送り込まれた部隊でした。

最後は、糸満市の国吉と照屋の丘陵で、背水の陣を引いての戦闘に臨みます。ここでも米軍の攻撃に屈することなく、沖縄守備隊の組織的な戦闘が終結した6月23日以降も、100人近い将兵が生き残って抵抗を続けていました。こうした姿から、第32連隊第一大隊と配属各隊は、「日本軍の最高の指揮官が率いる最強の部隊」として米軍からも恐れられていたのです。勇さんが戦死した時のことを語れる方は、現在、いらっしゃいません。あと1か月生き延びていたら復員できた可能性もありました。伊東大隊長は、「最後までその一員として誇りある行動と態度を取られていたのだろう」と話されています。

手紙の朗読を聞く武藤幸男さんと家族

手紙返還での大学生の想い⑤ 田崎汐莉

太田宅次郎さんのご遺族へ報告する田崎(中央)

大学2年の田崎汐莉と申します。
2019年7月下旬から8月上旬にかけて実施した、北海道でのお手紙返還活動に参加させて戴きました。
多くのご遺族宅にお邪魔しましたが、今回は、沖縄で戦没された太田宅次郎さんの息子や娘さんを訪ねたときの所感を綴ります。

ご遺族へ伊東大隊長の想いを伝える学生たち

お返しできたお手紙は、太田宅次郎さんの奥様である太田梅野さんが、伊藤大隊長へ宛てたもの。
受け取って下さったのは、太田宅次郎さんの長男・孝次さん(81)、長女・初枝さん(82)、次女・千恵子さん(76)とそのご家族です。

母・梅野さんの手紙に目を通す千恵子さん

まず、お手紙を返還し、梅野さんの想いを込めながら私が朗読しました。色褪せた便せんに目を落としながら、静かに聴き入る3人の子どもたち。読み終えた後、宅次郎さんの戦死状況などを説明すると、ご遺族の表情が徐々に変化して行くのが印象的でした。

父親の面影を思い出そうにも、幼すぎた千恵子さん

私たちの報告を、年齢が最も若い千恵子さんが朗らかに受け答えして下さいます。が、最高齢の長女・初枝さんは、体調がすぐれなかったのか、伏し目がちに私たちの言葉を聞いていました。


遺留品の写真を見せる学生た

そこで、「宅次郎さんは、どのような方でしたか」と聞いてみました。すると、終戦当時3歳で父の記憶がない千恵子さんに代わって、初枝さんが堰を切ったようにたくさんの思い出話をして下さるのです。

太田宅次郎さんの遺影が、両親、妻と一緒に飾られていた

家の床が水浸しになったときに、積み上げた畳の上に子供たちを乗せてくれたことだったり、宅次郎さんが大切にしていた鉄道の本を初枝さんが間違った場所にしまったときに酷く怒られたことだったり。少女のようなキラキラした目で語られます。

父親の写真を眺める初枝さんら

また、長男である孝次さんは、宅次郎さんと一緒にスキーをした話を披露されました。明るく、快活で、仲間が大勢訪ねてくる社交的な父が大好きだった、と振り返られます。

別れ際の長男・孝次さん。見えなくなるまで手を振って下さった

この活動に参加して、ご遺族とお会いし、亡くなった家族のことを聞くと、「今までこんなに話したことはなかった」「戦没者の事はあまり教えられていないので、わからない」という言葉をよく耳にしました。
父親や兄弟、親類が戦争で亡くなったのに、その話題を戦後、取り上げることはほとんどなかった、というご遺族が多かったのです。

爆弾で破壊された水筒を見つめる

それは、私にとって衝撃でした。
自分の身内を戦争で亡くしたなれば、他人事でなく自分の事として捉えているのではないか。ゆえにご遺族たちは、戦争という言葉に対して意識が高い方ばかりだろうと、勝手に思い込んでいたからです。

一緒に報告を聞くために、父親の遺影を持って来てくださった。

ただ考えてみれば、その状況は当然のことかもしれないと感じるようになりました。 戦没者の奥様やご兄弟など、故人を深く知る人であるほど、思い出話などが出来なくなってしまう。思い出すことが、大切な人を亡くした悲しみや苦しい体験を想起させることになってしまうからです。

父親の遺影を見ながら涙ぐむ千恵子さん

また、戦没者をあまり覚えていないご遺族にとって、祖父母や母親、親類らに当時のことを聞き出すことが難しかったのでは、と考えられます。その理由は、戦争で亡くなった親族を知りたいという好奇心、人間が殺しあったという重いトピックを体験者に切り出す勇気、辛い経験を思い出させて相手を傷つけてしまう恐れを振り切る覚悟、を持って臨むことが簡単ではないからです。

別れ際、初枝さんが手を握って下さった

そして、誰にも辛い体験をした家族を思いやる気持ちがあるはずです。そんな家庭の状況や自分の好奇心などを天秤にかけて、「まぁ、今すぐに聞かなくてもいいかな」と後回しにされた方も多かったのではないでしょうか。あくまで憶測ですが…

仏壇に手を合わせる田崎

だからこそ、宅次郎さんの話題で盛り上がるなか、初枝さんが次第に喜々とした表情に変わっていったことが印象に残ったのです。孝次さんや千恵子さんと共に父親の思い出を懐かしむ様子をみて、お手紙をお届けできてほんとうに良かったと感じました。そして、戦没者を思い出し、語り合える場を設けることが、この活動の意義のひとつでもあると気づかされたのです。。

お手紙を返還したみらボラのメンバー

●太田梅野さんから伊東大隊長へのお手紙

拝啓 御書面、有難く拝見申し上げます。開戦以来、出征将兵の方々には、異郷の地にて、食うに食なく、水と草とに貴い生命を授け(さずけ)、銃を枕の数々ならぬご苦労を、私達は映画に新聞にと何度か見聞いたし、ただただ感謝感激のほかはありません。

愚夫(おっと)応召以来、老母と幼い子供を抱え、何としたらと案じられましたが、隣人のお情けにより、今日(こんにち)まで大過なく、家庭を守り、ひたすら愚夫(おっと)の武運長久を祈り申し上げておりました。すると、昨年三月末日、沖縄より電報為替により送金があり、不思議だと思っておりましたところ、数日にて、沖縄作戦の発表がありました。

夫の働きが走馬燈の如く目前に浮かび、勲功を家人と語り合っていましたが、数日後、沖縄作戦に利あらず、の報に何かと案じておりました。

宅次郎さんが所属した中隊が使っていたとみられる重機関銃の保弾板。兄妹が手に取って眺めた

八月十五日、終戦の報に接し、出征将兵の方々の奮闘も、私達の苦労も水泡に終わり、一同悔し涙を絞りました。

沖縄へ送った夫も、討死(うちじに)したのではないか、と案じられましたが、多数の復員軍人を見るにつけても、もしや、と胸を轟(とどろ)かせた事が何度かありました。これも女の未練とお笑いください。

沖縄より復員の方々をお尋ねいたしましたが、確たる報がなく、案じられ、一同心痛いたしておりましたので、貴官よりの報に接し、安堵つかまつりました。夫の生命は、もとより国家に捧げたものと覚悟いたしておりましたが、今となっては、まったく残念に思われてなりません。

さぞかし夫は、何かと貴官はじめ戦友の方々の厄介に相成りました事と思いますが、一死報国の心に免じ、ご容赦下されたく存じます。

水漬く屍(かばね)草むす屍の例のごとく、出征の折、残されましたる頭髪のみにて、心細く思っておりましたが、沖縄の土砂(つちすな)、ご送付くだされたので、永久の形見として保存し、記念といたします。

ご貴官お望みの写真一葉、同封つかまつりましたので、ご受納くだされたく思います。なお、今後も公私ともに、宜しくお願い申し上げます。乱筆ながら、とりあえずお返事まで。 草々 

              昭和21年5月26日 太田梅野 伊東孝一殿

初枝さんと別れを惜しむ高木乃梨子

太田宅次郎さん 歩兵第32連隊第一機関銃中隊に所属

5月3日~4日、西原町幸地と首里石嶺町の境にある146高地で戦没されました。ご遺族にお伝えした、戦死した当時の状況です。生き残りの兵士や日米両軍の資料などを参考に、憶測を交えて報告しました。

伊東大隊は、米軍に占領された146高地を奪還する戦いに4月30日から臨みます。夜襲を掛けて一度は奪い返しますが、敵の攻撃も激しく、歩兵を伴った戦車が、高地を守備する大隊に襲い掛かります。

この時、隣の120高地を同24師団の89連隊が奪還する予定だったのですが、攻撃に失敗して、後退。その戦況を連隊長が師団司令部へ曖昧な報告をしたために、同高地に残った米軍の存在を知らされなかった伊東大隊が不意打ちのような攻撃を受けて、苦戦を強いられた、と記録されています。

大隊は日本軍の反転攻勢のために、この後、棚原高地へ転戦させられます。太田宅次郎さんが所属した第一機関銃中隊は、前進する歩兵中隊を援護する形で120高地と146高地の間にある低地で敵中突破を計ります。が、予期せぬ形で高地に残存していた米軍とぶつかる形になり、激しい銃撃戦の末、そこで宅次郎さんは戦死されたようです。

仏壇に手を合わせる高木

その時の様子を同機関銃中隊の生き残りである、浦河町の笹島繁勝さんが話してくださいました。米軍の攻撃で、足のふくらはぎや足首を負傷した宅次郎さんが、這いながら散兵壕へ逃げ込んで来られました。ひと目見て助かりそうにない傷。「笹島、殺してくれ、ひとおもいに殺してくれっ」と叫びます。躊躇していると、腰にぶら下げた手りゅう弾にまで手を伸ばしてくる始末。

最前線の兵士は医薬品を所持しておらず、野戦病院へ連れて行くにも、壕から身を乗りだした途端に集中砲火を浴びます。「こんなに苦しんでいるのならば、殺してやろうか‥」と、笹島さんは手りゅう弾を握り締めたそうです。が、満州から行動を共にしてきた同郷の戦友は兄弟以上の存在。涙を呑んでその場を後にされます。「辛くて、辛くて、一生忘れられない瞬間だった」と目頭を押さえられました。

終戦後、捕虜になった笹島さんは、戦友の遺骨を探すため米兵に頼み込んで、146高地周辺を歩かれました。そこで、二人分の遺骨を見つけ、持ち帰られます。復員後、ご遺族の元へ届けられましたが、宅次郎さんの遺骨は見つけられなかったそうです。大勢の日本兵がその近辺で亡くなっていたため、見覚えのある装備をつけていたり、場所が特徴的であったりしないと、誰の遺骸かわからなくなっていた、と話されます。

笹島さんは、戦場で宅次郎さんを助けられなかったことを今も後悔されています。そして、お骨を見つけられなかったのも。ご遺族へは、謝罪の言葉とくれぐれもよろしくお伝えください、と承っています。激戦地だった146高地付近は、丘の一部が削られて、現在、老人福祉施設や病院が立ち並んでいます。外観からは、激しい戦闘があった面影は見られませんが、付近に点在する洞窟や岩の割れ目には、今も遺骨や不発弾が残っており、戦争の傷跡は癒えていません。

手を握って労って下さった

Facebookを閉鎖しました

個人的な名前で開設していたフェイスブック(FB)のページを止めました。当初の目的であった、若者たちとの連絡手段としての使用が不必要になったからです。

また、夫婦ともにアナログ人間のため、維持、管理するのが辛くて‥。ホームページ、ライン、メールなど、パソコンを開いてから確認するページが多すぎて、嫌になってきたのも本音です。

今後は、個人メールかホームページで連絡を取り合って下さるとありがたいです。自己都合で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。

クラウドファンディングにご支援願います

アジア・太平洋戦争の最激戦のひとつだった沖縄戦。

そこで生き残った大隊長(98)へ寄せられた、戦死した部下の家族からの手紙を現代の遺族へ返還する取り組みで、クラウドファンドを実施しています。

大学生たちが日本全国を訪ね歩き、大切な父、兄弟、夫を戦禍に奪われた遺族の苦難の人生を聞き取り、記録する活動への支援をお願いしています。

悲劇を二度と繰り返したくないと願う、若者の取り組みを応援して下さい。

詳しくは、下記のURLから「クラウドファンド」のページをご覧ください。

https://a-port.asahi.com/projects/1962-1103/