みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

2020遺骨収集活動 歩兵第32連隊の伊東孝一・元大隊長が逝去されました

 歩兵第32連隊第一大隊の伊東孝一・元大隊長

とても悲しい知らせです。

沖縄守備隊だった第24師団歩兵第32連隊の伊東孝一・元大隊長が今年2月19日、ご自宅にて逝去されました。享年99歳。ご家族の話では老衰だったそうで、同月28日に身内だけで密葬した、と知らされました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。なお、供花並びに香料などは一切辞退されています。そして、新型コロナウィルスの猛威もあり、ご自宅への訪問も固辞されています。

大隊長の遺影に手を合わせる学生リーダーの高木乃梨子

最後にお会いしたのが昨年6月、その前年から取材を申し込まれていた大阪の読売テレビの記者さんたちに同行した時でした。所用で出かけた都内で転倒されて以降、めまいが続くのと足元が安定しないので、寝たり起きたりだ、とうな垂れます。百歳近くになられても、矍鑠と行動されていた姿から想像ができないほど弱られていました。

生前にお会いした時の最後の姿。不自由な体を押して玄関先まで見送って下さった

それでも、マスコミとの約束を果たすために無理を押して場を設けて下さったのです。事前に電話で同席することを知らせると、「ん、浜田夫婦も来るのか。こんな姿を晒したくないのになぁ。でも仕方ない、か・・」と受け入れて下さいました。当方も、大隊長ご夫妻へ負担を掛けてはいけないと、面会の回数も最小限にしていましたので、約半年ぶりにお目に掛かれるのが嬉しかったのです。

    学生と笑顔で談笑するひととき

閑静な住宅街にあるご自宅は、高齢のご夫婦の暮らしとは思えないほど片付けと清掃が行き届いています。いつ伺っても、和風に設えた庭の手入れも完璧です。その縁側に面した客間のすぐ脇にベットを置き、そこで寝起きされながらの日々。同じく九十歳を越えられた奥様との二人暮らしなので、何かあってはと心配になりました。が、「娘が近くに住んでいるので緊急時には駆けつけてくれるんだ」と、普段より深くソファーに腰かけて呟かれます。心なしか声にも張りがありません。

読売テレビのインタビューを受けられる伊東大隊長

しかし、記者のインタビューが始まると、いつものように熱く語り始めます。身ぶり手ぶりを交えながらの口調は、70数年前の往時が思い起こされるようです。何度聞いても、話の内容に齟齬はなく、日時や場所、部下の名前も正確に答えて下さいます。百歳近くになっても、その頭脳に衰えを感じません。質問者を射貫くように見据える眼光の鋭さは、ベテランの記者たちをも怯ませているように感じます。

ありし日の伊東孝一さん

大隊長とのインタビューで、アジア・太平洋戦争に関してこちらの不勉強が露呈すると、厳しい問い返しがくることもありました。いい加減な返答や質問は許されない雰囲気。お会いするたび緊張し、背筋を伸ばさざるを得ないのです。それほどの迫力でした。最初に取材を申し入れた時、私が朝日新聞社に勤めていたこともあって、「自衛隊の憲法上の扱いと存在の是非」「渡嘉敷島での集団自決の件」などの質問がありました。

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

自衛隊とは、カンボジア、ザイールなどへの派遣に同行したこともあり、現場で感じた感想を交えながらのシドロモドロな答えに理解を示して下さったようです。集団自決の件は、そこで家族に手を掛けた生き残りの方を取材していましたので、これも納得して戴けました。でも正直申すと、心の内をえぐられるような内容に冷や汗もの。知り合った当初も、笑う姿をほとんど拝見できませんでした。集合写真で無理な笑顔を作って下さることがあっても。

5年前の写真。学生たちとの記念撮影で笑顔がこぼれた

対面から半年後、沖縄で戦没した部下のご遺族から届いた356通のお手紙をお預かりして、世に出してほしいとの依頼を受けました。そのきっかけは、大隊長が認めた戦記「沖縄陸戦の命運」に綴られていた、「戦没した部下の遺族600人へ手紙を書いた」との記述。これが気になって、所用で廊下へ出られた時に追いかけて、立ち話のように、「返信が来ませんでしたか」とあててみたのです。

新たに製本した「沖縄陸戦の命運」に自筆のサインを下さった

この問いかけに、「何で知っているんだ。誰にも話していないのに・・」と驚いた表情。「実は来ているんだ。それも箱一杯分・・」。立ち尽くしたまま、遠い目で呟かれます。「この手紙は私の心の傷。一生背負い続けなければならない重責なんだ。ゆえに、元軍人だった父、妻や子にも話していない。ましてや生き残った部下たちにも伝える事は出来なかった。同じ苦しみを味わわせたくないからなぁ」

大隊長がご遺族へ出した手紙など

これ以上、詰問するかのごとき会話は続けられません。居間には学生や記者もいましたので、後日、お手紙を差し上げて、返信を拝見させて戴けないか、とお願いしました。約3か月後の夏、終戦の日が近くなった頃に返事が届き、便箋代わりの原稿用紙10枚に大隊長の想いと、手紙を託して下さる意思が綴られていました。「戦争をゲームのように捉えられている昨今、人の殺し合いがどれだけ悲惨で残酷なものかという真実を伝えてほしい」との言葉と共に。

並べられたお手紙

そして、「この手紙には当時の国や軍、そして私の事が様々な想いと視点で書き連ねられてある。礼賛するものもあれば、強く批判したものも。そうした内容の良いも悪いもすべて伝えてほしい。手紙に綴られた戦争犠牲者の真実を伝えてほしいのだ。一方的な内容だけを選ぶのならば、君たちには託したくない」との願望も込められて。手紙を持つ手が震える程、胸が熱くなりました。同時に、この重責を担えるか、との不安も脳裏をよぎったのです。

今村さんの母が出された手紙

そのため、手紙を出されたご遺族を探し出し、内容を世に伝えてよいものか、問いかけてみることにしました。これが至難の仕事になったのです。歩兵第32連隊は山形県で編成された部隊で、その多くは東北地方出身者が名を連ねられていました。が、太平洋戦争の開戦の前に徴募地を北海道に切り替えたので、差出人の8割が空知地方や夕張など、戦前から炭鉱で栄えた地域から出征した兵士のご遺族だったのです。

北海道の炭鉱跡でご遺族宅を探す学生ら

戦後のエネルギー政策の転換で、北海道や九州地方にあった炭鉱が次々と閉山。近郊の町や村は人口が激減して、多くが消えてしまいました。そのため封書の裏書の住所を辿っても、70数年の歳月が大きな壁となって立ち塞がったのです。廃村になっていたり、引っ越されたりで、見つかりません。さらに個人情報保護が徹底されたので、行政にお願いしても簡単には教えてくれず、探しても貰えないのです。途方にくれました。

戦没者の子供たちが兄弟で、兄の事が綴られた父の手紙を受け取って下さった

そこで、各地方の遺族会へお願いするのと同時に、古い電話帳を手に入れて、差出人と似たような名前の方々へ片っ端から電話を掛けました。まず最初に連絡が付いたのが、遺骨収集仲間でもあった北海道斜里町の井上徳男さん、富美子さんご夫妻へ託した二組のご遺族。そのうちの一人が、斜里町遺族会の副会長・今村信春さん(78)だったのです。父を西原町棚原近郊の戦闘で亡くされていました。

母の手紙を読んで涙ぐむ今村さん

早速、電話してみると、「え、母が大隊長へ書いた手紙があるって・・。それはどんな内容ですか。いったい何が書かれているのですか。んー、読んでみたい、いや、可能ならばコピーでいいので戴けませんか。私の手元には父に関する資料がほとんどないのです。当然、遺骨も遺留品も帰って来てはいない。何とか、なんとかお願いします・・」と縋りついてくるかのような勢い。電話口の声は泣いていらっしゃるようでした。

父を亡くした元教員の兄妹。母の手紙を読みながら、「とうちゃん‥」と呟いていた

手紙を預かりましたが、その写しを渡していいものか、私たちでは判断が付きません。すぐに大隊長へ打ち返すと、「遺族と連絡が付いたのか。それは良かった。コピー?、いやそれは原本を差し上げなさい。手紙の封書、便箋、切手、書体、筆圧など、その当時のご遺族が書かれた物をそのままお届けしたほうがいい。私の方こそ写しで十分だ」との返答でした。

若き兄の写真を見て号泣する90歳の妹

今村さんにお伝えすると、「ありがとうございます。父が生きた証が刻まれているものに触れることが出来るのは、何よりもの願いでした。亡くなった父母にまた会えるような気持ちです。早く内容を読んでみたい」と号泣されました。それから4年かけて、56軒のご遺族へ70通のお手紙をお返しできました。志を同じくする学生たちが同行して。

母が大隊長へ送った手紙の朗読を聞き入る兄妹

大隊長へ辛いお願いをしたこともありました。あるご遺族から、「ぜひ、大隊長にお目にかかり、父の最期の瞬間を直接お聞きしたい」との訴えがあり、二組のご遺族との面会を打診しました。「分かった。会おう。今の私でどこまでご要望にお応えできるか不安だが、責任は果たしたい。そして、こちらから伝えたいこともある」。覚悟を決めるように了承して下さいました。お互いの身体に負担がかからない初秋、北海道出身のご遺族と長野県出身のお二方を案内しました。

    ご遺族に謝罪する大隊長

その場で、「私があなた方の大切なお父さまを戦死させた張本人の一人です。真に申し訳ございませんでした。心よりのお詫びと故人のご冥福をお祈り申し上げます」と深々と頭を下げられました。さらに、「こうして生き恥を晒しているのは、私の部下だった兵士たちの働きを後世に伝えたいとの想いでからです。それほど、皆さまのご家族は一生懸命に戦った。私自身はそれを誇りに感じています。そして、子孫である皆さまにも先祖の生き様に誇りを持ち続けて戴きたい」と涙ながらに語られました。

伊東大隊長が率いる部隊が感状を授与されたことを報じる当時の新聞

授与された感状

耐えがたき苦しみを再現させてしまった、と後悔しました。でも、すべてを語られた大隊長は、肩の荷を下ろされたような表情で、ご遺族との思い出話に花を咲かせています。普段、ほとんど見せない笑顔で。その様相にホッとするのと同時に、残されているお手紙をご遺族へ届ける役割の重要さに、身が引き締まりました。この時点で、まだ1割しか返還できてませんでしたから。

    山形にある歩兵第32連隊の碑に手を合わせた

帰り際、ご遺族の一人が、「正直言って、大隊長に会うのには蟠りがありました。私の父のような下級の兵士は戦死して、偉い人が生き残られるのがあの戦争だった、との想いがあったから。でも、母が出した手紙を大切に保管して戴き、父の死を私たちに謝罪して下さいました。お会いして良かった。長年抱いていた胸の痞えがとれたようです。あの場では言えなかったのですが、できれば父に代わって長生きされて下さい、とお伝え願えますか」と涙目で手を握って来られました。

手紙に同封されていた部下の写真

大隊長がご遺族へ出された手紙には、戦死した部下の写真の同封を所望されました。それは、あの戦いを共にした戦友たちとずっと一緒に居続けたい、との想いからです。終戦から75年間、その部下とご遺族の事を背負い続けて生きてこられた大隊長。心の中で、「遅れることになるが、必ず諸君のもとへ駆けつけるから。それまで生き恥を晒し続ける自分を見守ってくれ」と呟き続けたそうです。

    歩兵第32連隊の名簿の調査をする学生たち

百歳に手が届く晩年になって、辛い記憶を思い起こさせてしまい申し訳なく思っています。でも、戦死した部下や遺族の想いを誰にも知らさず、一人で胸に抱き続けるのは酷過ぎます。大隊長は自らの死後、この手紙を棺に入れて、自分の亡骸と一緒に燃やしてくれ、と遺言を残されていました。でも、返還を始めてからは、「一人でも多くのご遺族へ届けてほしい」と願っておられました。

大隊長の遺影とご遺骨の手を合わせる

私たちが大隊長の死を知ったのが、すでにご遺体が荼毘にふされた後でした。残念ながら、手紙を棺に入れることはできていません。でも、まだ遺族のもとへお届けできていない280通あまりが手元に残っています。今後、出来る限りご遺族をお探しして、残りの手紙をお届けするつもりです。そして、返還できなかった手紙は、大隊長が最後まで戦った沖縄本島南部で、遺体と同じく荼毘にふしたいと考えています。32連隊の慰霊碑の前か、最後まで大激戦を繰り広げられた国吉の丘で。

大隊長の部下だった笹島繁勝さん。数少ない生き残りだった

部下だった笹島繁勝さん(99)も今年1月、旅立たれました。失礼ながら、大隊長の露を払うがごとくに。5年前に見つけた「山3475(歩兵第32連隊の暗号名)」と刻まれた10数枚の認識票。その持ち主をたどる旅の途上に出会った同隊第一大隊の生き残りの兵士たちが、戦争の残酷さと悲惨さを今の時代に伝えてくれる物語を紡いでくださいました。20万人以上が亡くなった沖縄戦を追い掛ける私たちの旅はまだまだ続きそうです。

大隊長の奥さまとお別れの握手をする学生リーダーの高木乃梨子

【追記】

私たちが伊東大隊長の死を知らされたのは3月に入ってからでした。ご遺族へあてた遺言に、「葬儀は出してくれるな、生死を共にした部下は未だ沖縄に散らばっている、死者は生者を煩わすことなかれ」と認められていたので、親しき知人や友人にお知らせする時期を遅らせる、との判断をされたからです。奥さまと娘さまには3月末にお会いした時、しかるべく時間をおいて公表したい旨をお願いし、了承いただいています。あれから3か月、十分な猶予を得られたと判断して、ここでお知らせいたします。

満面の笑顔を見せる大隊長

手元に残っているお手紙を棺に入れることが出来なかったので、ご遺族の同意を得て同じように荼毘にふしたいと考えています。大隊長とは最後にお会いした2019年6月、「これから5年間猶予をやる。それまで俺も長生きするから、一通でも多くご遺族へ届けてやってほしい。頼んだぞ」と約束いたしました。可能な限り、その時期まで頑張った後、前記のような形でお送りしたいと考えています。ご理解くださいませ。

 伊東大隊長宛てに出された遺族からの手紙

2020年遺骨収集57日目 不発弾の恐怖

出土した旧日本軍の迫撃砲弾

沖縄で遺骨収集をする上で気をつけなければいけないのが、落盤と不発弾です。75年前の大激戦以来、壕内の壁や天井は風化や雨水の浸食で脆くなっており、いつ崩れてくるか予測がつきません。さらに、積み重なった土砂やガレキの下には、今でも爆発の危険性がある不発弾が無数に埋もれているのです。今回、遺骨収集をした現場にも数多くの危険が孕んでいました(文・高木乃梨子、写真・浜田哲二、律子)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/547463

米軍の手榴弾の破片を見る筆者

「これ、何でしょう」。ずしりと重い金属の塊を拾い上げ、浜田さんに聞きました。「お、旧日本軍の手榴弾だ。爆発するかもしれないので、岩の上の安全な場所に置きなさい」。普段の穏やかな口調が心なしか強張っています。

一か所から出て来た旧日本軍の手榴弾と謎の不発弾(右手前)

ぞわぞわっと恐怖が背中を走り抜けました。熊手や鶴嘴の先で叩かないよう慎重に掘り進めると、2個、3個、4個と錆びついた鉄塊が転がり出てきます。ひとつずつ手に取って岩の上に並べると、なんと13個も。その近くからは、迫撃砲弾や正体不明の不発弾も見つかりました。

埋もれていた謎の不発弾。旧日本軍の擲弾筒の弾と思っていたが‥

なんて危険な場所なのでしょう。地面を掘り下げるのも怖いし、普通に歩くのも憚れます。ただ恐ろしい武器ですが、遺留品が出ることは戦没者の手がかりに繋がるかもしれません。怖々ながら掘り進めると、手榴弾の真下から軍刀と鉈が折り重なるように出てきました。

筆者らが掘り出した軍刀

これだけの不発弾と武器の出土。周囲からは大量の砲弾の破片が見つかっており、この場所で激しい戦闘があったことは間違いなさそうです。さらに、銃弾や鉄の破片が突き刺さったままの岩盤が当時のまま残されており、75年前の惨劇が蘇ってくるようです。

岩に食い込んだ銃弾

同じ場所から粉々になった骨片も出土しました。人間が小石と同じぐらいの大きさになってしまうなんて。父、兄、夫、息子‥。これまでお会いしたご遺族の愛する人かもしれないと思うと、胸が締め付けられる思いです。

掘り出した遺骨を並べる

と、岩の陰でひとり涙ぐんでいるのを尻目に、浜田さんは淡々と警察へ通報。出土した遺骨の届け出と同時に、自衛隊へ不発弾処理を要請しました。慌てて涙を拭いながら待機していると、けたたましいサイレンの音が近付いてきます。

不発弾の処理のために来て下さった自衛官

間もなく、濃緑色の軍服を着た3名の自衛官が繁みをかき分けるように現れました。浅黒く焼けた肌が、沖縄の強い日差しの下での任務を連想させます。早速、出土した不発弾を見てもらいました。

3人一組で任務を遂行する自衛官

「これは旧日本軍の手榴弾ですね。そして迫撃砲弾。ん、こっちは何だ」。どうやら、判別がつかない不発弾があったようです。「うーん、危険ですから離れて下さい」と命令口調の勧告。とっさに背後の岩壁の隙間へ身を隠しました。ただならぬ雰囲気です。

危険ですから離れて下さい、と厳しい口調で窘められる

と言いつつ、怖いけど、好奇心が・・。ひょいと首だけ伸ばして、離れた場所から様子をうかがいます。一人がタブレット端末で爆発物のデータベースと現物を対比させ、一人は爆弾を見たり触ったりしています。そして、監督するように上官らしき方が指示を出します。

 離れた場所から撮影。何をしているのかよく見えない

外見の特徴を明確にするため、小さなトンカチでカン、カンと不発弾を叩きながら、付着した石を落としています。そんなに強く打って大丈夫なのだろうか、と不安に思った瞬間、「プシュッ」と不吉な破裂音が。「うわ、モヤッときた!」。トンカチを手にした自衛官が声を荒げます。

 背後霊のように離れた場所から見学

「えー、死にたくない」。慄然として、首を引っ込め、目を瞑ります。でも、しばらくしても何も起きません。すると、「これ、アメちゃんのPですね」と言うと、自衛官の一人が爆弾に黄色いテープを巻き始めました。真剣な目つきながらも手慣れた様子が、逆に安心感を醸し出します。

一か所から出て来た大量の手榴弾と黄燐弾

「もう、見に来ても大丈夫ですよ」。恐る恐るですが、近付きました。今後のためにと説明を請うと、最初は厳しい表情をされていた上官らしき方も、笑顔を交えながら、丁寧に教えて下さいます。日焼けした3人の自衛官が頼もしく見えます。

    黄色いテープが巻かれた米軍の黄燐弾

嫌な音を立てた爆弾は何でした?、と聞くと、正体は黄燐弾でした。なるほど、アメちゃんはアメリカ軍のことで、Pはリンの元素記号だったかな。英語では「Phosphorus」と表記されます。うーん、いったいどんな爆弾だったの。

映像を送って指示を仰ぐ自衛官

白燐弾とも呼ばれる黄燐弾は、燃焼型の爆弾で人体に付着すると簡単には取れず、その箇所を高熱で焼き尽くします。沖縄戦において野戦陣地や洞窟壕などに潜む日本兵に対して、熱と煙で燻り出すという目的で使用されたようです。

真っ黒に焼かれたおにぎり。兵士の食料とみられる

この場所で戦った、歩兵第32連隊の伊東孝一・元大隊長の戦記にも、黄燐弾で散々に苦しめられたという記録がありました。そして、この不発弾と共に黄燐手榴弾のピンとみられる破片も複数、出土しています。

ジャングル内でのお昼ご飯。当時の兵士たちにも束の間のひと時はあったのだろうか‥

私らが掘り出した軍刀の持ち主は、この黄燐弾の攻撃を受けていたのかな。出土した大量の手榴弾で迎え撃とうとしたのかもしれません。謎の不発弾の正体は解りましたが、ここで戦った兵士らの恐怖と苦痛を想像すると、また涙がこぼれました。

 遺骨と一緒に出て来た銃弾や薬莢

そして、優しくて、頼もしい自衛官の皆さまに、ここぞとばかりに質問を浴びせます。不発弾が出たらどう扱えばいいのですか。銃弾一発でも通報していいの。私らが直接に手で触れても大丈夫?、と。

遺骨の出土を知った地元の女性が孫を連れて現場を訪れた。父と兄を沖縄戦で亡くされている

すると、懇切丁寧に教えて下さったうえ、安全が第一なので素人判断しないで必ず自衛隊に連絡するように、との指示を受けました。そして、「大切な活動、ご苦労さまであります。またいつでも遠慮なく呼んで下さい」とジャングルの獣道へ踵を返されました。

    手際よく、不発弾を処理してゆく自衛官

合計16発の不発弾をあっという間に処理されたうえ、颯爽と引き上げて行く姿。最初は怖かったけど、日本の自衛隊の優秀さを始めて実感しました。この後、陸上自衛隊の不発弾処理部隊は、現在まで一件の事故も起こしていない、と浜田さんから知らされました。

  戦没者とみられる全身骨が出土したことを知った地元の方は驚愕の表情を浮かべた

今回、ご教授いただいた爆弾の種類と危険度については、戦没者がどのように亡くなったのかを考える一助となります。ご遺族をお訪ねした際、よく聞かれるのが戦死状況です。大切な人がどのように戦ってどこで戦没したのか、そうした情報を切望されます。この日の自衛官とのやりとりも、ご遺族にお伝えするつもりです。

  旅客機の窓から見えた沖縄本島。彼方に見えるのは米海兵隊の普天間飛行場

令和2年の活動も無事に終えることが出来ました。緑豊かな亜熱帯の森の梢越しに空を見上げると、猛禽のサシバが飛び交い、色鮮やかなイソヒヨドリの鳴き声が心地良く響いています。こんな平和な丘陵が戦場だったなんて・・

  摩文仁の平和祈念公園で令和の時代の海を眺める

当時は空に、米軍の戦闘機が飛び回り、草木が吹き飛ばされた丘には凄まじい砲撃音が響き渡っていた、と伊東大隊長が教えて下さいました。そんな場所に、今も埋もれたままのご遺骨を見つけ出すだけでなく、沖縄の方々が安心して暮らせるよう、一つでも多くの不発弾を除去したいと、気持ちを新たにしています。

土が付着した遺骨を清めていたら、地元の方々が手を合わせに来てくれた

2020年遺骨収集55日目 止まらない遺留品の出土

壕口に投げ込まれた米軍の手榴弾の破片を見る筆者

令和2年(2020年)の沖縄での遺骨収集活動も終盤を迎えました。「みらボラ」リーダーの乃梨子です。今年は学生として参加できる最後の活動になるため約一か月間、沖縄に滞在しました(文・高木乃梨子、写真・浜田哲二、律子)

本島南部の亜熱帯のジャングルを歩く筆者(中央)

本島南部の糸満市を拠点に毎日、午前9時から着手。掘り返せば湧き上がってくる、南の島の独特な土の匂いに包まれながら、小さな骨片も見逃さないように土砂をほぐします。

ジャングル内で埋もれてしまった散兵壕(通行壕)で活動する

壕内の探査を終えて

思い返せばこの4年間、生き残りの兵士やご遺族の皆さまに託された願いや想いを背に、及ばず乍らも精いっぱい取り組ませて戴きました。一人でも多くの方に陽の目を浴びてもらいたい、との意気込みでしたが、終戦から75年が過ぎた今、完全な形で掘り出せるご遺骨の数は、そう多くありません。

今年、掘り出した一人分のご遺骨に手を合わせる

ただ、戦没者が使っていた武器や衣類、日用品などの遺留品は、まだまだ出てきます。水筒や時計、服のボタンに靴の金具‥。錆びていたり、雨水に溶かされたサンゴ石灰岩がこびり付いたりしていますが、往時を思い起こさせる姿で掘り出せることも。今回は、そんな遺留品の数々をご報告します。

掘り出した飯盒にはお名前が

堅牢な野戦陣地で作業をしている最中、何やら土や石とは違う感触が。首を傾げながら熊手で掻くと、ポロポロと黒い粒が零れ落ちました。「うーん、これなんだろう?」。手に取って、社会人メンバーの元へにじり寄ります。

 ライトに浮かび上がった焦げた豆類

 焦げた豆類に埋もれていた茶碗とビール瓶

「形からして大豆じゃない」と律子さん。活動歴20年のベテランです。ライトをかざしながら、「真っ黒に焦げているね。たぶん、火炎放射などで焼かれたのでしょう」と眉を顰めます。時間が経つと腐敗して分解される食品類も、炭化すると原型のまま出てくることがあるようです。

 焦げた大豆

 焦げた玄米

最初は一つひとつがバラバラでしたが、途中から大きな塊が次々と出土。容器にしていたのか、金属片が一緒に出てきます。掘り進めると、少し大きさの異なる小豆や玄米も混ざるようになりました。すべて真っ黒に焦げており、米軍の攻撃の凄まじさを物語っているようです。

焦げた小豆の塊

一緒に復員できなかった戦友の写真を見つめる笹島さん

沖縄守備隊の歩兵第32連隊に所属していた故・笹島繁勝さんの話では、戦争末期、一日の食事が三粒の玄米だけだったそうです。連合軍の武装解除を受けた時、70kgを超えていた体重が30kg代になってしまった、と振り返られていました。

出土した南京錠

そして、複数の南京錠と鍵が出てきました。推測ですが、食料を管理するために使用していたものと考えられます。それほど、大切にしていたのに焼かれてしまうなんて‥。この陣地で戦っていた方々は、さぞや無念だったでしょう。小豆の塊を掌に載せたまま沈み込んでいたメンバーの後藤麻莉亜が、「食べてほしかったなぁ」と涙声で呟きました。

完品に近い急須。蓋の模様が違うので、別の品を代用したようだ

猫が描かれた可愛い絵柄の茶碗

その近くから、お茶碗や急須も出てきました。小ぶりなので女性や子供用なのでしょうか。表面に描かれた魚を捌く女性と猫が、なんとも可愛い絵柄です。急須は口が少し欠けていますが、ほぼ完全な状態。陣地の中でもお茶を飲んだのかな。長寿の象徴である鶴の絵が戦いの場には相応しくなく、もの悲しさを誘います。

陸軍の統制茶碗

岐1044の統制番号が刻印されてある

民間人が所有していたとみられる食器と共に、陸軍の統制茶碗も出てきました。生き残りの兵士からの聞き取りや資料などによると、この壕には軍務のお手伝いをしていた軍属の「賄い婦」さんがいたそうです。「女性が最前線で働いていたのか…」。「これを使って彼女らはご飯を食べていたのかな」。過酷な作業の合間に思わず、この壕にいた方々に思いを馳せていました。

出土した茶碗

出土した軍刀

今回、掘り出せた遺骨の近くで、初めて見る遺留品が。埋もれていた旧日本軍製の手榴弾の下から、軍刀が出てきたのです。全長約80cm。鞘もなく、柄も鍔も見あたりません。それでも、ずっしりと重く、両手で持つのがやっとでした。

 岩の隙間から軍刀を掘り出す

出土した軍刀

戦国時代より、刀は「武士の魂」とされ、持ち主も大切にしていたはず。13発の手榴弾と鉈が同じ場所から掘り出されており、どんな意図で使おうとしていたのか。戦場で帯刀を許される兵士は限られており、身元特定に至る重要な手がかりになるかもしれません。

壕口から掘り出した不発弾や軍刀など

 出土した空薬莢

ただ、刀はもとより人を殺す武器。不発弾や銃器類を発見した時と同じで、まず恐怖が身体を走り抜けました。先端の切っ先は尖っており、一歩間違うと危険な道具になり兼ねません。でも、遺族へお渡しできる遺留品となる可能性もあり、心中は複雑です。無事にお返し出来ますように。

約1メートル掘り下げて、石鹸箱が出土

石鹸箱と一緒に出て来た謎の陶磁

そして驚嘆の出来事。伊東大隊長へ届いた遺族の手紙を返還する活動で調査した、北海道の戦没者の装身具らしき遺留品をみつけたのです。これまで調べたデータをもとに発掘をしていた場所ゆえ、奇跡のような発見では、と受け止めています。付着した泥を洗い流すと、当時の写真と見比べても違いが分らないほど似ています。

    岩の下敷きになった遺留品が顔をのぞかせる

本島南部の糸満市周辺をJTA機から空撮

ご遺族の元へ返せる可能性があるかもしれません。その他にも飯盒や印鑑などが見つかっており、今年も感動の場面に出会える予感がしています。また、持ち主を探す長い旅が始まりそうです。さらなる続報をお待ち下さい。

名前が刻まれた遺留品

2020年遺骨収集47日目 巨岩の下に埋もれていた魂

出土したご遺骨と遺留品の確認をするメンバー

亜熱帯のジャングルの奥にある巨岩が折り重なる通行壕(散兵壕)。この場所には足掛け5年間、通い続けてきました。私らがお付き合いを続けている沖縄守備隊の歩兵第32連隊が、75年前に戦った陣地壕の入り口です。

監視哨跡で活動する社会人メンバー

そこで昨年、油断した拍子に転倒。手をつく余裕もなく、顔から岩場へ突っ込みました。とっさに顎を引いたので、ヘルメットをかぶっていた頭部が岩に挟み込まれるような状態で止まり、まったくの無傷で立ち上がれました。オデコにつけていたライトも壊れていません。

火炎放射で焼かれた壕内にて

「きゃー、大丈夫!」と叫ぶ、妻・律子や学生たちの悲鳴が安堵の声に変り、思わず苦笑いしてしまいましたが、なぜか気になる転び方。もしかしたら・・。普段は、信用しないスピリチュアルな現象も、ご遺骨を見つけてあげたい想いについ結びつけてしまいます。

探査した壕から出てくるメンバー

よし、今年はここを掘ってみよう、と提案。律子も、「去年、派手に転んだものね。でも、気になっていた場所なの。賛成よ」と快諾。巨岩の隙間にある土を掘り、小さな岩をどけると、大腿骨の一部が見えてきました。そして、顎の部分も。

ジャングル内を歩いて壕探し

「やっぱり、いらしゃったんだ」と呟くと、「去年から、呼ばれていたのね」と律子。途中から参加して下さった社会人メンバーの手を借りて、巨岩を倒し、岩の隙間を掘り進めて、一部の欠損部分を除いて、掘り上げました。

土質がクチャの壕で作業する女子学生ら

残念ながら、片足と両腕の先などが見つかりません。が、バラバラながらも頭蓋骨や背骨、上腕骨、片足の大腿骨などは揃っていました。何度も、埋もれていた場所を踏みつけて歩いた自責の念に駆られながらも、「ありがとうございます。導いて下さって」と手を合わせました。

ご遺骨に付着した土を刷毛で清める

全身骨を掘り出せた場合、遺留品の捜索に気合が入ります。名前が描かれたものが見つかれば、ご遺骨を故郷の家族の元へお返しできるからです。折り重なった岩を動かし、一度は倒した巨岩を元に戻して、細部まで掘り進めます。この作業には、女子学生や社会人OGも参加。全員が目の色を変えて取り組みます。

軍刀を掘り出した女子学生

すると、軍服のボタンや石鹸箱と一緒に驚きの遺留品が出てきました。旧日本軍の手榴弾がまとめて8発も埋もれていた下に、将校が所持していたとみられる軍刀が出てきたのです。鞘や柄の部分を除いて、ほぼ完璧な形状で。そして、折り重なるように鉈も出てきました。

錆びついているが、ほぼ完品。当時、刀は武士の魂、とされた

米軍との戦闘で、洞窟の入り口を守備していた兵士が準備していたものか。小隊もしくは中隊を預かる士官が最後の突撃に使おうとしたのか。今は判りません。が、この部隊の生き残りである、伊東孝一大隊長へお聞きしようと考えています。

火炎放射された壕口から

そして、軍刀などと一緒に名前の刻まれた金属製品や印鑑も出土しました。早速、平和の礎で戦没者名簿を検索、該当者がいらっしゃるようです。小躍りして喜ぶメンバーたち。長年の苦労が報われる可能性に涙する女子学生も。ご遺族探しの旅が、また始まりそうです。

築城時の掘削痕が残る壕の壁

追記として:軍刀に詳しい方はいらしゃいませんか。サンゴ石灰岩が多量に付着し、刀身も錆びついていますので、詳しい銘などが判りません。全長は約80cmで、鞘、柄、鍔はありません。コメント欄でお知らせ願えれば幸いです。よろしくお願い申し上げます。

過酷な作業の合間、地面に突っ伏して休むメンバー

もう一点。発掘現場の詳しい地名を書くと、このページを見たトレジャーハンターに荒らされるので、詳細の言及は避けます。戦没者の遺留品を趣味や商売などのために発掘に来る方々には、絶対に教えたくないからです。あしからずご了承願います。

ご遺骨の部位を確認する

2020年遺骨収集45日目 今年も白梅学徒隊・同窓会の皆さまと交流しました

    白梅同窓生の皆さまと再会

ご無沙汰しております。続々と学生たちが沖縄入りし、遺骨収集活動も佳境を迎えています。今回は「みらボラ」のリーダーを務める高木乃梨子が報告します(文・高木乃梨子、写真・浜田哲二、律子)。

沖縄タイムスに掲載されました↴

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/536799

https://news.goo.ne.jp/article/okinawa/region/okinawa-20200221050000.html

    同窓生の宮平義子さんとの再会。思わず涙が‥

 同窓会の皆さまへ説明する高木乃梨子

先日、元女子学徒隊・白梅同窓会(旧沖縄県立第二高等女学校)の皆さまとお会いしてきました。昨年クラウドファンディングで戴いた「しあわせ募金」を使った活動のご報告と、白梅にゆかりのある壕で集めたガラスで作成したストラップをお渡しするためです。

    桃子が手作りした壕ガラスのストラップ

参加して下さったのは役員の三人。会長の中山きくさんは御年91歳。年齢を重ねた凛とした姿は私の憧れです。キャリーカートを引っ張りながら「これが私の自家用車なのよ」とお茶目な笑顔。昨年、自らの戦争体験を話して下さった武村豊さん、宮平義子さんも出席して下さいました。

    メンバーの説明を聞かれる、左から、中山きくさん、武村豊さん、宮平義子さん

前回、豊さんから聞いた、同級生の死の瞬間。一緒に逃げ惑っている最中に攻撃され、目の前で亡くなったそうです。戦争がなければ共に勉強したり、恋愛の話をしたりして青春時代を楽しんでいたんだろうな・・。せめて級友を身近に感じられる物をお贈りしようとメンバーで話し合い、昨年から準備してきました。

    戦時中のお話をして下さる豊さん

学徒たちが働いていた場所で、薬瓶や一升瓶の欠片を収集。この瓶は、当時、薬や水、燃料などが入れられ、きくさんや同級生が使っていた可能性のある物です。

    白梅学徒隊が所属した部隊が滞在した壕内から掘り出したガラス片。中央は手榴弾

    左が溶かす前の壕ガラス、右が溶かした後

ストラップ作りの大半を担ってくれたのが、青森県に住む社会人メンバーの斉藤桃子。普段は仕事のため現場に来ることができませんが、自宅で一つひとつ戦没者や遺族に思いを馳せながらアクセサリーを作っています。今回、念願叶って初の来沖。ずっと会いたかったきくさんたちとの面会をとても楽しみにしていました。

    斉藤桃子が同窓生の皆さんへアクセサリーの説明

溶かした壕ガラス

ストラップの数は合計70個。丸く溶かしたガラス玉もたくさん用意してきました。喜んでもらえるか少し不安でしたが、「とても綺麗、おはじきみたいね」と無邪気な表情を浮かべる宮平さんを見てホッと一息。

    ガラスを熱心に選ぶ同窓生の皆さま

豊さんは昨年、クラウドファンディングで返礼したブローチも付けて来られました。前回に引き続き、「これが可愛い。ん、これも良いわぁ」と嬉々として探す姿が、女子学生に戻られたようで微笑ましかったです。

    同窓生の皆さまへガラスを説明

「たとえボロボロになった靴の底でも遺族は大切に抱えるもの。他の同窓生もこのストラップを渡したらすごく喜びます」ときく会長。大事そうにガラスを撫でるみなさまを見て、胸が熱くなりました。喜んでもらえてよかったね、桃ちゃん。

青森・深浦でストラップを作成する桃子

遺骨収集や手紙返還活動についてもご報告。遺骨の写真や悲痛な思いが綴られた遺族の手紙を、自分に置き換えて見られているようです。そんな皆さまの目には涙が。

    後藤麻莉亜が読み上げるご遺族の手紙に涙される同窓生

戦没者とその姉の写真を見せて、活動を報告

軍国少女だった豊さんは、疎開を勧める母と姉に反発しました。自らの故郷を守りたい、と主張されたのです。二人は避難を止めて、南部をさまよった挙句、戦没。「私が言うことを聞いていれば死なずにすんだ」と今でも悔やまれています。

きくさんと語られる武村豊さん

「私たちが出来ないことをしてくれてありがとう。私も母と姉の遺骨を探したかった」。普段は明るく笑顔の絶えない豊さんですが、家族の話になると涙が止まりません。ひとつでも多くの方の遺骨を掘り出せるように励もう、と決意を新たにしました。

今年、発掘中の遺骨の写真を見られる同窓生

豊さんの手の温もりを忘れないために・・

私が初めてきくさんと会った時は、修学旅行生のように話を聞くだけでした。質問するときも、緊張して自分の思いを言葉に出来なかったことが情けなかったです。それが今回は、涙しながら報告を聞いて下さいました。僭越ながら、お互いに戦争や平和について語りあえたような気がします

みらボラのメンバーが手紙を朗読

別れ際、宮平義子さんと熱く抱擁

「行動することが大事よ。私たちがいなくなったら、貴方たちに任せるわよ」と見つめてくるきくさん。力強い握手と抱擁を交わして下さいました。これからもみなさまが築いて下さった平和を守り続ける誓いを胸に、取り組みを続けてまいります。

きくさんと固く握手して、再会を誓い合う

    また会いましょうね、ときくさん。いつまでもお元気で!

2020年遺骨収集26日目 新たな遺骨を前に眦を決して

終戦から75年ぶりに陽の目を浴びた顎の骨。岩の下敷きになっていた

アジア・太平洋戦争の最激戦地のひとつだった沖縄本島。終戦から75年が過ぎた今年、新たなご遺骨が出て参りました。激しい戦闘に巻き込まれたのでしょう、大きな岩の下敷きになって、全身が押しつぶされています。

岩の隙間を掘り進むと埋もれていた遺骨が姿を現した

その周辺には、日米両軍の小銃や拳銃の薬莢、破裂した手榴弾の破片、軍服の上着のボタンなどが散乱。少し小柄な体型と所持品などから、旧日本兵と推察されます。

遺骨の周辺から出土した軍服のボタン

遺骨が眠られていた場所は、ジャングル内の自然洞窟を利用して作られた洞窟陣地の入り口。凄まじい攻撃を受けた痕跡が、激しく崩落した岩盤の重なり具合で判ります。

岩に食い込んだ銃弾

屈強な男性メンバーが3人がかりで押してもビクともしない巨岩が、戦没者の下半身に圧し掛かっていました。小さな石を掘り起こし、土砂を移動させ、最後に巨岩を動かして、バラバラになった遺骨を掘り出します。

岩の隙間にあった監視哨の出入り口を掘る筆者

岩の下敷きになっただけでなく、その全身を激しい衝撃が襲ったのか、骨が砕けてしまっている部位もありました。この陣地壕がある丘一帯を見ても、海や陸からの集中砲火を浴びたようです。

地面に突き出すように大腿骨と上腕骨が露出していた

海に面した垂直な崖の下には、軽自動車ほどの巨岩や大型冷蔵庫ぐらいの石が、折り重なるように崩れ落ちています。艦砲射撃を受けたのでしょう。畳二帖ほどの、平らな岩盤に飛び乗ったら、グラリと動いて肝を冷やしました。

監視哨の内部の岩に食い込んだ爆弾の破片

どれだけの砲撃を受けたら、ここまで破壊されるのでしょうか。まるで想像がつきません。そして、この攻撃を間近で受けたら・・。私たちの祖父や父の世代の方々が、常軌を逸する鉄の暴風を浴び、巨岩が降り注ぐ丘で戦っていたのです。

落ちた巨岩が道を塞ぐ通行(散兵)壕で作業する社会人メンバー

お骨を拾い集めながら、恐怖で身がすくむのと同時に、あまりの悲惨さに涙が止まりません。「恐かったでしょう、痛かったでしょう、そして、たいへんでしたね」

初日に掘り出せた大腿骨や脊椎の一部など

終戦当時に20歳だった方が、もう95歳のご高齢になってしまった令和の時代。戦争体験者が次々と鬼籍に入られています。その記憶と記録が消えてしまわないよう、今年も亜熱帯の島で活動を継続させています。

亜熱帯のジャングルで壕や野戦陣地を探すメンバー

間もなく、学生たちが駆けつけてくる予定です。今年も女子学生ばかりですが、戦没者の帰りを待ち続けるご遺族の切なる願いを受けて、張り切っています。「あきらめないでください。私たちが必ずバトンを引き継ぎますから」と、眦を決しながら。

爆発の衝撃で破壊された飯盒を見る

2020年遺骨収集15日目 歩兵第32連隊の生き残り笹島繁勝さんが逝去

    在りし日の笹島正勝さん

沖縄県で遺骨収集作業中に残念な知らせが届きました。伊東孝一大隊長の部下で、第24師団歩兵第32連隊第一機関銃中隊に所属された笹島繁勝さん(元兵長)が今月26日、逝去されました。99歳の白寿を迎えられた直後にです。謹んでお悔やみを申し上げます。

入院した笹島さんを見舞う学生たち

私たちがお付き合いさせて戴いている同部隊の数少ない生き残りでした笹島さん。伊東大隊長によれば重機関銃の名手で、沖縄戦では部隊に迫る危機を何度も救ったそうです。そして、激戦を潜り抜けて復員されてからは、食品関係の仕事をしていた、と語られました。

    戦友の遺影の前で銃を構えるそぶり

北海道のご遺族へ遺留品やお手紙を返還する前に、当時のお話を聞かせて戴くために浦河町のご自宅を何度か訪ねました。明るくて、ユーモア溢れる会話と年齢を感じさせないエネルギッシュな姿に、初対面の学生たちもびっくり。

    語りだすと止まらないのが笹島節。とてもエネルギッシュに

毎回、会話のペースも内容も、終始圧倒されたままで時間切れ。ぶっ続けで4~5時間以上も、戦場での経験を語られます。そして、聞きたかったことの半分も質問できなくて、消化不良が残る面会なのに、その凄まじい内容になぜか満足させられました。

    第24師団の第一野戦病院壕前での遺骨収集

兵役検査に甲種合格だったことに胸を張られるのですが、下半身を丸出しでお尻を見られた話を熱く語られるので、恥ずかしくて顔を覆う女子学生も。でも、合格しなかったら、近くの波止場から海へ飛び込んで死んでお詫びしようと決めていた、との覚悟に思わず息をのんでしまいました。

    同じ部隊の戦友たちの写真を手繰り寄せた

沖縄戦が始まった1945年4月、本島中部の小波津地区での戦闘が笹島さんの初戦でした。自分たちで一生懸命に構築した壕ではなく、小さなお墓しか隠れる場所がない丘は、中城湾から艦砲射撃してくる米軍の格好の的になったそうです。

小波津の野戦陣地から掘り出した重機関銃の保弾板付き弾倉。部隊は同じものを使っていた

大切な戦友をその戦いで亡くしながらも、部隊は敵の進撃を退け、重要拠点を明け渡すことなく転戦。その後、146高地、棚原高地などの激戦を潜り、140高地、150高地の戦闘では、笹島さんの機関銃が進撃してくる数多くの米兵をなぎ倒したそうです。

    昨夏、入院中の笹島さんを訪ねた。風邪をこじらせたのが原因

沖縄の組織的な戦闘が終結する直前まで、糸満市国吉周辺の丘に掘られた洞窟壕に籠って機関銃が破壊されるまで撃ち続け、その後は壕内へ攻め込んでくる米兵と手りゅう弾を投げ合うような戦闘を続けたそうです。

歩兵第32連隊の認識票。遺骨収集中に大量に出土した。これは第二大隊の兵のもの

日本が無条件降伏を受け入れた8月15日以降も、本島南部の壕に籠って戦い続け、米軍の勧めで武装解除した時には70㎏以上あった体重が30㎏台に。壕の外へ出た途端、明るい太陽に耐えきれずにそのまま気を失って、気づいたら米軍の野戦病院のベッドに寝かされていたそうです。

    学生が並べる戦友たちの写真に見入った

捕虜収容所にいる時、同郷の戦友の遺骨を探し歩いて収容し、故郷で待つご遺族へ届けることも。「お互い生き残った方がやろうな」との約束で、葬儀では沖縄での戦友の勇姿を参列者らにお伝えしたそうです。

  笹島さんが捕虜収容所から付けていた陣中日誌。色の褪せ具合が年月を物語る

復員した時に母親が足元を凝視して、「幽霊じゃないのね」と号泣したことを忘れられない、と声を詰まらせます。戦後は、生きて帰ったことが恥ずかしくて、申し訳なくて、戦争の話は出来なかった、と振り返られます。

  第24師団の司令部壕近くでの遺骨収集。北海道出身者の兵士が書いた短冊が吊り下げてあった

でも昨今、戦争をゲームや映画などの中で娯楽のように扱われていることに我慢ならず、沖縄で何があったかをきちんと伝えたい、との想いで語り部もされていました。その背筋が凍るような体験談は、平和な時代に生きる私たちに絶対に忘れてはならない「負の教訓」を伝えて下さいます。

   伊東大隊長

半年しか齢が違わない部下でもある戦友の笹島さんの事を、伊東大隊長は「機関銃の名手だったんだ」と遠い目で語られます。昨年お会いした時には、お互いに100歳に手が届く年齢を迎えられ、「あいつが先か俺が先か、だなぁ。いつまで頑張れるか」と寂しげに笑っていらっしゃいました。

    伊東大隊長の自宅で面会。あれから70数年、部隊の生き残りはもういないんだ、と語られた

とてもお元気そうだったので、急逝されたことをまだ信じられません。でも、あなたの事を私たちは忘れません。お聞かせ下さった戦場の体験を必ず語り継いで参ります。終戦から75年目に天国で待つ戦友の所へ、旅立たれるのですね。安らかにお眠りください。

    笹島さんが終戦時まで籠っていた必殺陣地。昨春、学生たちが遺骨を掘り出した

以下は、笹島さんを想うみらボラの学生や社会人メンバーの所感です。

    笹島さんを訪ねた野村日南子

野村日南子(社会人):「あんなに元気だったのに‥、信じられません。兵士として戦争を経験され、当時をお話される姿がとても印象に残っています。目の前で亡くなった戦友や大隊長のこと、不満やうれしかった心境など‥、本当に鮮明に覚えていらして、何度も話してくださいました。そして、戦争は絶対にいけないことだと、語って下さった笹島さん。私と同年代の二十歳前後の兵士が、青春時代に刻み込まれた戦禍の記憶を消しされなくなっているのが悲しくて、とても複雑な気持ちになりました。戦争経験者が少なくなり、その話を引き継ごうとする人も減っていることに、今とても危機感を覚えます。事実を伝えるということは簡単ではないですが、私たちが責任をもって未来のために伝言すべきだと改めて感じました。どうか戦友のみなさんたちと見守って下さい」

    明るく、ユーモアたっぷりに女子学生を迎える笹島さん

斉藤桃子(社会人):お会いしたことはありませんが、とても残念です…。戦争を知る人がどんどんいなくなっていく、いずれ国や人々から忘れ去られるかも、と考えると怖いです。そうならないために、私たちがきちんと伝え、次の世代へ、みらいへ繋げていかなければと改めて思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

    笹島さんを訪ねた学生たちを出迎える

大塚千里(大学生):お会いして、直接お話を聞いてみたかったので、非常に残念です。他の生き残りの方々やご遺族もご高齢になり、いよいよ残された時間は僅かであると実感しました。ご冥福をお祈り申し上げます。

    学生たちにアルバムを披露する笹島さん。右端が根本

根本里美(社会人):ユーモア溢れる方で、当時のことや仲間のことを臨場感あふれる内容で話して下さいました。どうか、天国の戦友の皆さまの元へ行けますように。笹島さんが願った平和な世の中が実現させられるよう、遠くから見守っていて下さい。

    入院した笹島さんを見舞う学生たち。後方がSAKURA

SAKURA(中学生):笹島さん‥。実際に体験した戦争のことを私たちに教えてくだり、ありがとうございます。「あの時の俺は強かった」と繰り返されたのが印象に残っています。ご高齢の方の半年は、私たちの若者の時間に比べ、とても速いのかなと感じました。心よりご冥福をお祈りします。

    笹島さんから話を聞く高木

高木乃梨子(学生):昨夏、お会いしたのに信じられない気持ちです。戦友たちの写真をじっと見つめ、一人ひとり丁寧に自分の手元へ手繰り寄せる姿が目に焼き付いています。そして、何度も戦友の話を繰り返され、ずっと忘れる事のできない記憶なんだなぁ、と感じました。あの戦争を知る方が、また一人この世を去ることを実感すると、笹島さんの想いを願いを若い私たちが繋いでいかなければ、と強く思います。別れ際にハイタッチをしながら、「ありがとう」と叫ばれました。それは、「会いに来てくれて」ではなく、戦没者に寄り添ってくれて、平和を願う行動を起こしてくれて、「ありがとう、託したぞ」という意味に私は受け取りました。みんな、これからも一緒に頑張ろうね。

    別れ際にハイタッチ。思いを受け止めました

後藤麻莉亜(社会人):笹島さんが亡くなられたこと、いまだに信じられません。二年前にお会いしたときは、年齢を感じさせない熱い語り口に驚きましたが、沖縄で遺骨収集を積み重ねた今、亡くなられた戦友の事、ご遺族の消息など、お訊ねしたいことが山積みです。時間の経過と共に戦争体験者が少なくなるのは理解しているつもりですが、いざ大切な方が亡くなられると、本当に時間がないのだと焦ります。そして、悲しいです。お話を聞ける貴重な今を後悔することがないよう、これからも活動に励みます。どうぞ安らかにお眠りください。

    笹島さんと別れの挨拶をする後藤

御手洗志帆さん(社会人)「本当に残念です。しかし、去年お会いできたのが奇跡だったと思うほど、長生きして下さいましたね。沖縄で亡くなった戦友たちの分までも。笹島さん、大隊将兵の皆さんと天国で再会できていますか。戦友たちの記録や写真を残し、その想いを伝え続けて来られた姿は本当に立派でした。あの大戦で亡くなられた将兵、民間人の皆さま、そして笹島さん、同郷の太田宅次郎さん。今回取材させて戴いた戦争体験者の方々が、今後も私の記憶の中で生き続けてくださるのだとの決意を込めて」

    耳が遠くなった笹島さんに顔を近づけて取材する御手洗さん

2020年遺骨収集14日目 壕を荒らされました

何者かに広げられた壕口。作業中、外を歩く人と目が合うほど大きくなっていた

アジア・太平洋戦争が終結して75年、その節目の沖縄を今年も訪ねてきました。もちろん遺骨収集のためです。活動させて戴く地区の区長さんや地主さんらにご挨拶して準備を整え、学生や社会人メンバーの到着を待ちます。

去年の状況。金ダライぐらいの穴しか開いていなかった

その間、昨春に戦没者の方と思われる全身骨を掘り出した糸満市の壕を見に行きました。まさに1年ぶりです。が、なんと何者かに荒らされているではないですか。穴を広げられ、そこから人が出入りした痕跡が・・。さらに、手を付けてほしくない場所を掘削され、土砂が無秩序に通路へ放り投げられています。

この場所に埋もれていたご遺骨

この場所は市の文化財に登録されているため、無許可での発掘作業はできません。さらに個人の土地なので、地主さんの許しなく手を付けることもご法度です。私たち以外が、文化財発掘の申請を出したとは聞かないし、地主さんも何も知らないようです。

ほぼ一人分の遺骨が揃っていた

最近、遺骨収集する場所の調査をしないで、乱暴に掘り返す方が増えているように感じます。文化財もしくは国定公園に指定されている場所でも、まったく関係ないようです。ゲリラ的に活動し、パトロールする機関もないため、やりたいほうだい。私たちも何度か目撃し、市の文化財担当へお知らせしたこともありました。

お迎えしたご遺族を前に涙する学生ら

というのも、きちんとした手順を踏んで実施する個人や団体が少ないため、許可を取った団体が破壊している、と見なされてしまうのです。私たちも、散々疑われました。この場所も昨年、文化財の発掘許可を得て活動しているので、また、冷たい視線を浴びそうです。

広げられた穴を修復する哲二

許可申請は時間が掛かるので、確かに面倒な仕事です。地主さんによっては掘削を断られるときもあります。でも、他人の土地を掘らせて戴くので、ルールを守るのは当然の事。毎年、約10日間かけて走り回り、手続きしています。

    石と土砂を積み上げて、外からも見えにくいように修復

誰がやったのか、何となく察しはつきますが、それは証拠なき事なので、多くは語りません。本日、夫婦で広げられた穴周辺に石を積み上げるなどして補修し、投げられた土砂を片付ける作業をやりました。これが何回目だろうか。ルールを順守するのがバカバカしくなってしまいます。

伊東孝一大隊長への356通の手紙 70通目の返還(52番目の家族)

   沖縄で戦没した阿子島基さん(右)と姉のヨシさん

今回の北海道での取り組みで、どうしてもご遺族へ届けたかった一通の手紙です(文・高木乃梨子、写真・浜田哲二)

https://www.youtube.com/watch?v=jUBJf8toUxs

北海道テレビ(HTB)さんが放映して下さいました。

   阿子島さんの手紙

どれも平等に扱っているつもりですが、ほぼ3年かけてご遺族を探し続けたこともあり、一層力が入ってしまいます。手紙は、沖縄戦で亡くなった第24師団歩兵第32連隊第一大隊の阿子島基(あこしま・もとい)さんの母・マサノさんの心情や近況を基さんの姉・ヨシさんが代筆されていました。

   安平町で調査する学生たち

浜田夫婦と一緒に、電話をかけたり、行政機関へ問い合わせたり‥。あの手この手で捜索し、様々な人の協力を得ましたが、ご遺族の消息は霧の中でした。もう、諦めざるを得ないか・・、との浜田さんの呟きに、おもわず「出身地を訪ねて、歩きながら探したい」と強く申し出ていました。

   安平町で調査する学生たち

そして終戦から74回目となる夏、阿子島さんのご遺族が住んでいたとされる北海道安平町を訪ねました。去年、発生した「平成30年北海道胆振東部地震」の爪痕が今も残る街並みで、メンバーの大塚千里(東京家政大・4年)と一緒に聞き込みを開始します。

   地元の方に聞き込みをする学生ら

まず、手紙に記されている住所、「安平町追分地区」。そこを歩き回り、道行く方々に、「阿子島さんという方をご存じないですか?」と尋ねました。すると、あちこちで有力な情報が。

   地元の方々に聞き込みをする学生ら

「地区の公民館の近所に住んでいたかな」

「クリスチャンの家族だね」

「15~6年前に引っ越したようだよ」

   安平町を歩いて調査する学生

情報のあった公民館の近隣の方々にも、同じような質問をぶつけてみました。「阿子島さんがどこへ行かれたかご存じないですか。そして、どんなご家族でした?」。育てた野菜を軒先で仕分ける姉妹や仕事帰りのご婦人など、対応して下さるのは高齢の方ばかり。

   地元の方々に聞き込みをする学生ら

「ご主人を亡くした奥さんが娘さんと二人で暮らしていたけど・・」

「物静かで、上品そうな母娘だった。近所づきあいはあまり盛んではなかったね」

「たしか札幌方面に娘さんがいると聞いたけど」

   阿子島さんが住んでいたお宅を発見。すでに引っ越されていた

昭和、平成を経て令和の時代、74年の歳月が人の出入りが激しかった開拓民の記憶を薄れさせているようです。が、阿子島さんが住んでいたお宅の隣人に辿り着き、「隣町のパーマ屋さんが親しかったなぁ。たぶん親せきだったはず」との情報を得ました。

  阿子島さんと関係が深いパーマ屋さんに到達

早速、訪ねてみました。が、お盆休みで店を閉めておられ、誰もいらっしゃいません。少しずつ遺族が見えてきているのに一歩届かない、もどかしい気持ちが続きます。北海道を発つ日が迫ってきました。明後日がタイムリミットだな、と話し合ったいた矢先、一本の電話が。

   関係者と電話で連絡を取り合う

「基は私の伯父です。祖母の手紙があるのならば読んでみたい・・」。なんと戦没者の姪・原田美鈴さん(65)からでした。聞き込みに協力して下さった近所の方々が引っ越し先を探して、連絡するように伝えて下さったようです。美鈴さんは、阿子島基さんの弟・弘さん(享年62歳)の長女で、母・靜江さん(91)もお元気だそうです。

   阿子島さんのご遺族と対面

飛びあがって喜ぶメンバーたち。探し求めた人に会える嬉しさと、ようやく手紙を返せる安心感で胸がいっぱいになりました。もう、涙が止まりません。予約していた帰りの船便をキャンセルして、石狩市に住む美鈴さん宅へ駆けつけます。そこには、靜江さんと美鈴さんの夫・政則さん(65)も同席して下さいました。

   阿子島さんの遺族と学生

封筒の宛名を見た途端、「これは伯母のヨシさん(1950年頃に逝去、享年28歳)が、祖母のマサノさんの代わりに書いたものよ」と高揚を抑えきれない母子。一つひとつの文字を追う目に涙が浮かびます。手紙には、マサノさんとヨシさんの万感の想いと、家族の厳しい暮らしぶりが綴られていました。

   阿子島基さんの遺影を見る学生ら

★★★

昭和21年6月14日の手紙

北海道の野にも山にも、さわやかな初夏の薫風が吹いております。小鳥はなき、花々は咲き、白い蝶はその喜びに躍っております。

隊長様、ご復員おめでとうございます。我が弟になる基、色々お世話様に相成り、幾重にも御礼(おんれい)申し上げます。母の手一つで育てられし弟、きっと皆さまにご迷惑をおかけいたした事と存じます。母共々おわびいたします。

昨年の十一月には長男の戦死を、又この度は次男の基の戦死を、三男が復員いたし、四男は千島にて生死不明です。昭和九年に父死亡後、十五才を頭に、七人の兄弟を、母の手一つで育てられました。父死亡と共に破産いたし、無一文での生活の、母の苦労をお察しくださいませ。母は、子供が大きくなったら、と、それのみを楽しみにして、辛酸ものともせず、労働いたしておりました。

だがこの度の戦争で、男兄弟四人全部が現役服役。度重なる労苦にすっかりやつれし母。長女の私は勤めておりましたが、胸の病に倒れ、ブラブラいたしておりましたが、生活の窮迫にまたまた勤務いたしたのです。その為、益々の病の進行に、ついに退職。今また静臥(せいが)の身となり、退屈の毎日を送っております。母をなぐさめる立場の私までが、母の悲しみを増すのです。母の相談相手として、まだしばらく生きたいのですが・・・・・。

母は、ただただ、グチを言っております。これからの世は、生きていても、さほど幸福でもありますまい、とて、言い聞かせるのですが。復員された方が、チョイチョイいらしては母をなぐさめて下さいますが、何としても心の淋しさは致し方ありません。

隊長様、どうぞ弟の分も、いやいや部下の分も、再建日本の為にお励み下さいませ。沖縄の弟が、草葉の陰で、きっとあの大きな双眸に、万斛(ばんこく)の哀愁を含んで、その成功を祈っている事でしょう。

誰かの言に「人は困難と逆境にある事を決して怨むべきでない。むしろ、人類の真剣なる努力を即発する、神の偉大なる賜(たまもの)として天に感謝すべきなり」 と。何かしらぴんと来る言葉ではありませんか。

私は寝てはおりますが、若い方々にいつもお願いいたすのですよ。「あなた方が最重要なる国家再建者ですから」と。体は思うように使えませんが、口だけは達者です。健康であったらと、それのみ残念で、残念でなりません。

何だかくだらぬ事ばかりを書きならべまして、すみません。隊長様のご成功とご健康をお祈りいたして、ペンをおきます。

昭和二十一年六月十四日 (母)阿子島マサノ 伊東隊長様

二伸 基の写真、その内、焼増しをいたしてご送付いたします。

★★★

   阿子島マサノさん

マサノさんは1934年(昭和9年)に夫・安一さんを亡くした後、破産。借金を抱えながら、七人の兄弟を育て上げます。早朝3時から農家へ働きに出て、女手一つで家族の暮らしを支え続けました。戦後は、鉄道関係の宿舎で働きながら、出征した四人の息子の帰りを待ち続けたそうです。

   沖縄戦の遺留品を見るご遺族

が、長男に続き、次男・基さんの戦死の報が届きます。三男・弘さんは復員しますが、四男は千島列島で行方不明になり、戦後、シベリアに抑留され続けました。マサノさんは、「なんで我が家だけ男の兄弟全員を兵隊にとられたんだ、と嘆いていたみたい。それを近所の人から、『非国民だ』と貶されたのよ」と義娘・静江さん。

   戦没した基さんやその兄弟を想い手を合わせる靜江さん

手紙の文面にも、その想いが溢れています。「子供が大きくなったら、と、それのみを楽しみにして、辛酸ものともせず、労働いたしておりました」。苦労を重ねながら育てた子どもたちを戦争に奪われた母の悲痛な心情を訴える、代筆した長女・ヨシさんの気遣いが胸をうちます。

   マサノさんの手紙を読む学生

そして、心痛のあまり、伊東大隊長へ返信できなかった母に代わって手紙を書いたヨシさんの事も、靜江さんは語って下さいます。「生活に困窮する人を見ると、自宅へ連れ帰ってでも世話を施す慈愛に満ちた義姉でした。肺を患って早逝する直前まで、キリスト教を信仰し、休むことなく教会で祈り続けていました」

   阿子島ヨシさんの写真と靜江さん

病に侵されながらも、男兄弟がいない家族を支えるために働きに出たヨシさん。症状が悪化して寝たきりに近い状態なっても、母や弟妹たちを気遣い続けたそうです。しかし、大切な息子を失った母を慰めようにも自らの病の進行に抗えない葛藤が、手紙を通して訴えかけられているようで、涙がこぼれました。

   早逝した阿子島ヨシさん

この手紙を読んだ学生たちが、最も知りたかったのは基さんの容姿です。「沖縄の弟が、草葉の陰で、きっとあの大きな双眸に、万斛(ばんこく)の哀愁を含んで、その成功を祈っている事でしょう」と認められた文章。写真が同封されていなかったので、戦没者がどんな人だったのか、大きな双眸とされており目が大きい人だったのかな、と想像を膨らませていました。

   戦没者の阿子島基さん

返還の時に、美鈴さんが持って来て下さったアルバムには、ぱっちりとした目の青年のすまし顔が。まだ、幼さが残る風貌と立派な制帽。基さんが鉄道員として働いていたと聞き、学生たちが訪ね歩いた「鉄道の町・追分」の原風景を思い浮かべました。

   靜江さんの手を握る高木乃梨子

戦没当時の年齢は22歳。今の私と同い年です。もっとやりたい事がたくさんあったろうな、好きな人はいたのかな、復員したら鉄道の仕事を続けていたのかな・・。手紙から紐解く戦没者や遺族に想いを馳せると、もう他人とは思えません。マサノさんとヨシさん、基さんの写真を前に涙が止まらなくなってしまいました。

   阿子島マサノさん、ヨシさん、基さんの写真を見せて下さる靜江さん

今回は、現地での調査が功を奏して、手紙の返還まで辿り着きました。藁にも縋る思いで僅かな情報を追い、現地で多くの人の協力を得られたことが生んだ奇跡と言えそうです。美鈴さんからは、「お盆だからなの?。戦没した義兄のことが綴られた手紙が74年もの歳月を経て返ってくるなんて・・。探して下さってありがとう。義母も義姉も父も、きっと喜んでいるでしょう。何かの導きを感じるようです。それが嬉しい」とお言葉を戴きました。

   阿子島さんの遺族に説明する学生ら

手紙を返したい一心で、ご遺族を探し続けた努力が報われた瞬間でした。そして、糸満市で今年、掘り出した戦没者とみられる遺骨と、基さんの遺族とのDNA鑑定を進めてもらえるよう、国へ申し入れる準備を始めています。さらなる続報をお待ちください。

   DNA鑑定の手続き書類を書き込む遺族

2019年遺骨収集78日目 戦没者の遺留品をご遺族へ返還しました

    みらボラの梅原リーダー(左)から、ご遺族へ手渡される戦没者の遺留品

今から3年前の2016年春に沖縄本島南部の壕内で発見した遺留品を先月上旬、関東地方のご遺族へお返ししてきました。戦没者の水筒、腕時計、カミソリ、石鹸箱、ボタン類です。実は一緒に遺骨も発掘したのですが、今回は残念ながら故郷へお帰り戴けませんでした。

    糸満市国吉の壕から発掘した遺留品

身元を特定させるDNA鑑定ができる可能性もあったのですが、処々の事情で最終の照合にまで至らなかったのです。残念な結果となりましたが、大切な遺留品はお届けできたので、ひと安心。ここに発見から返還までの経緯を報告いたします。ご遺族の意向で、ホームページなどへの掲載は、「匿名でお願いしたい」との申し出がありましたので、それに則ります。

遺骨と遺留品を発掘した壕の入り口

この遺留品と遺骨は、糸満市国吉台地にある奥行き約5㍍ほどの小さな壕から掘り出しました。奥に畳2畳分ぐらいの小部屋があり、その地面の下に埋もれていたのです。壕の入り口は崩れ、直径50センチぐらいの穴しか開いていませんでした。でも当時は、人が中腰で入れるぐらいのスペースはあったとみられます。

    落盤のため、壕の中は這ってしか動けなかった

当初、入り口の岩に小さな骨が引っ掛かっているのを見つけたのが始まりでした。埋もれていた壕口を約1週間かけて広げて、作業を開始。そこでまず、名字が書かれた水筒が出土、しばらく間をおいて遺骨やその他の遺留品がまとまって出てきたのです。遺骨には下半身がなく、上半身の一部でした。ただ、DNA鑑定の際に重要な歯と顎の骨も一緒に出てきたので、返還に向けて胸が膨らみました。

   壕の入り口近くに引っ掛かっていた遺骨

しかし、残念なことに、ここから迷走が始まります。遺骨を納骨すべき窓口機関と関係が悪化し、信頼して遺骨を託すことが躊躇われる出来事があったのです。そのため、厚労省へ直接持ち込むべく交渉を始めましたが、「沖縄で見つけた遺骨は沖縄へ納骨してほしい」とされ、受け取って戴けません。

    土の下から発掘した上半身の遺骨

遺骨は本土へ持ち帰っており、何とか融通を利かせてもらうべく交渉を続けましたが、まったく取り合ってくれません。この時点で、水筒に刻まれた名前から、戦没者を割り出していました。平和の礎にも名があったので、ご遺族とも連絡が取れたのです。が、ここでも問題が・・

    壕内で遺骨を探す

この戦没者の出身地であった北関東の県庁とのやり取りの最中、戦没者の身元を調べてくれていた学生団体から、「もう一人該当する方がいるようです」との指摘がありました。再度、国や県に調査を申し入れたところ、戦没者名簿に誤植があり、同姓の方が二人存在するとの報告があったのです。詳しく調べると、平和の礎の名も間違って刻まれていました。

    名前が刻まれていた水筒

これで、ご遺族の候補が2家族となりました。両家の意思を確認すると、息子さんたちが「受け取りたいし、DNA鑑定も希望する」との返答。その時、新たに判明したご遺族には、戦没者の奥さまがご存命であることが判りました。寝たきりになられていますが、意思の疎通はできたそうです。時間との闘いが始まりました。

    髭剃りに使っていたとみられるカミソリ

    石鹸箱。珍しく、中身が残されており、ほのかに香料の香りがした

何とか、遺骨を厚労省で受け取ってもらえるよう、再度、交渉しましたが、木で鼻をくくったような返答が繰り返されます。何度も執拗に食い下がりました。が、結局、沖縄でしか受け取れない、との結論は変わりませんでした。仕方なく、再度、沖縄を訪ね、窓口の機関へ納骨しました。発見から、10か月が過ぎていました。

    陸軍兵士の上着のボタンなど

この時点で、厚労省の窓口へご遺族の事情も説明し、鑑定に向けた手続きを急いでもらうよう、お願いしました。遺骨や遺留品の発見を知ったためか、ご存命の奥さまが食事を取らなくなってしまったとの報告を受けていたからです。心配が募ります。当初は、毎月のように鑑定の着手を申し入れました。でも、のらりくらりとした返答しか返って来ません。

    埋もれた状態の遺骨。約1㍍近く土を除去した

「順番通りにやっている」「南方の遺骨はDNAが壊れている可能性が高いので、抽出しやすいシベリアなどの戦没者を優先している」など。待ち続けているご遺族ともに、イライラする時間が過ぎて行きます。あまりに頻繁に催促するのがよくないのか、とも思い、少し期間をおいて連絡しましたが、今度は忘れているかのような、気持ちの籠っていない口調になったのです。

    掘り出したときの腕時計の文字盤

そして2017年の秋、奥さまは死去されました。さらに翌年、もうひと家族の戦没者の息子さんも死去されたのです。立て続けに関係者が亡くなったことを伝えるのと同時に、怒りを込めて急ぐようにお願いしました。でも、まったく対応は変わりません。もう限界。知り合いの政府関係者らを通して、厚労省へ問い合わせてもらいました。

    戦没者の写真と腕時計を照合する学生

すると、手のひらを返したような対応に。窓口だった職員は担当を外れ、その上司が懇切丁寧に取り組むことを伝えてきたのです。そこからは、一気に進みました。遺骨からのDNA採取に着手。歯や顎の骨からの抽出は出来ませんでしたが、腕の骨から細胞内のミトコンドリアに存在するDNAを採取できたのです。

    壕口にあった歪んだコイン

この時点で厚労省から、両家のご遺族へ鑑定への再確認を進めてもらいました。が、このDNAは母親由来でしか受け継がれないので、父と子の鑑定では使えません。ゆえに、戦没者に血の繋がりがある母方の遺族の存在が必要なのです。これが、大きな障害となって立ちふさがりました。

    戦没者が授与された勲章

戦没者の息子さんが急逝されたご遺族は、DNA鑑定に至る前に諦めるとの意思表示があり、奥さまが亡くなったご遺族は、母方の生き残りを探すのが難しい、との結論に達したのです。これで事実上、遺骨は遺族の元へ帰れなくなってしまいました。もう少し保存状態が良ければ、発見時期が早ければ、核DNAが破壊されていなかった可能性もあり、70数年の歳月の経過が恨めしいです。

    戦没者が授与された賞状

残念極まりないですが、ご遺族の意思なので仕方がありません。私たちが手続きにもたついたことで鑑定まで漕ぎつけられなかった可能性もあり、猛省しています。同時に、再三にわたって申し入れたにもかかわらず、着手してくれなかった国の対応にも、はらわたが煮えくり返る思いです。

    時計の裏面を見て表示がないか調べる

結局、遺骨の返還は出来ませんでしたが、遺留品は受け取って戴けることになりました。この時点で、刻まれた名前と階級、発見場所と戦死場所、戦死の日時などから、奥さまがご存命だったご遺族のものである確率が高まりました。特に、出土した腕時計を戦没者が身につけている写真が残っていたのです。

    白い文字盤の腕時計を着けた戦没者

この方は、千葉県で編成された野戦高射砲第79大隊 (球2172部隊)に所属されていました。戦死の日付は1945年6月23日で、戦没場所は糸満市摩文仁となっています。最終階級は軍曹でした。沖縄には44年の夏に上陸、本島中部の読谷村にあった陸軍沖縄北飛行場や知念半島などの守備についていました。上空から攻撃してくる爆撃機などを迎撃する部隊で、「88式7糎(センチ)半高射砲」を使っていたそうです。

    野戦高射砲部隊の写真

ただ、旧日本軍の戦闘のようすを今に伝える「戦史叢書(せんしそうしょ)」などの記録にも、この部隊の戦闘の状況はほとんど残っていません。また、生き残りの方も極めて少ないため、報告できるような資料がほとんど現存していないのです。他部隊の生き残りの将兵やわずかに点在する情報を元に、亡くなった経緯を探ってみました。

    沖縄戦で米軍に接収された野戦高射砲

その前に、野戦高射砲が沖縄戦でどう使われたのかをわかる範囲で説明します。本来、高射砲は航空機などを迎え撃つ兵器として作られました。米軍が本島へ上陸する前の44年10月、那覇市内を中心に大規模な空爆がありました。有名な「十・十空襲」です。その時には、この部隊も奮闘したとみられます。ただ沖縄の地上戦での高射砲は、上陸してきた米軍の対戦車戦にも使用されました。

    野戦高射砲を操作する旧日本兵

今もご存命である、歩兵第32連隊第一大隊の伊東孝一・元大隊長によると、日本軍の持つ歩兵砲は威力が弱く、米軍のM4戦車の正面鉄板を貫けなかったそうです。待ち伏せなどをして側面を狙う攻撃で、ようやく破壊できた、と話されています。それが、7糎半高射砲を水平に撃てば、戦車にも十分威力を発揮したそうで、本島中部のシュガーローフ・ヒルや前田高地など戦闘で、実際に使用されたこともありました。

    伊東孝一さん

ただ、砲を一度設置すると、移動させるのは容易ではなかったようです。敵戦車が来て一発放てば、もう移動が不可能なので、物量に勝る米軍からあっという間に集中砲火を浴びて、完膚なきまでに叩かれたそうです。ゆえに、北飛行場や小禄飛行場、首里の日本軍司令部を守る戦いなどで、ほとんどの高射砲は使用不能となり、部隊の兵士たちも砲を捨てて、後方へ下がらざるを得なかった、とされています。

    様々な砲弾の薬きょう

それでもこの部隊は、他の歩兵部隊と混成したり、敵戦車へ特攻したりしながら南部へ敗走し、最終的には糸満市米須地区で玉砕されたそうです。生き残りの方は、現在、ほとんどいらっしゃいません。ただ、遺留品の持ち主の軍曹は、この場所で亡くなったとは思えません。その理由は、米須から北西へ1キロほど離れた国吉台地の中腹にある小さな壕内で、遺留品とご遺骨を発見したからです。

    壕の横で不発弾を処理する自衛隊員

この台地では6月18日頃まで、前述した伊東大隊長が率いる歩兵32連隊が、南下してくる米軍と激しい戦闘を繰り広げていました。日本軍の最後の防衛線を守る戦いであり、ここを突破されたら摩文仁の司令部へ敵の手が届いてしまいます。そのため、32連隊の負傷兵も軍医らも、すべての将兵が死に物狂いで戦い、米軍へ多大な損害を与えました。

    伊東孝一元大隊長の戦争中の写真

もしかしたら遺留品の持ち主も、この戦闘に参加されていたかもしれません。32連隊が米軍を迎え撃った壁面の裏側の壕にいらっしゃいましたが、この台地のすべての地点で、米軍は激しい抵抗を受けており、最後の力を振り絞って、敵に一矢報いようとした可能性があるのです。壕の通路に米軍の手りゅう弾の破片や部品を複数見つけました。狭い空間なので、ここに爆弾を投げ込まれたら、ひとたまりもなかったでしょう。奥の小部屋に堆積した土の下から、水筒が出土し、数十センチ下から遺骨とかみそり、石鹸箱、腕時計が相次いで出てきました。

    沖縄で戦没した兵士の写真

沖縄戦の戦没者の遺骨

米軍が大規模な空襲を実施した44年から約1年間、亜熱帯の島で戦い続けた軍曹の戦争は、ここで終わったとみられます。そして、2016年の春、学生ボランティアらの手によって発見され、ようやく故郷へ帰れることになりました。受け取って下さった息子さん夫妻や孫夫妻、曾孫さんたちも、喜んでくださいました。

    戦没した軍曹と2年前に亡くなられた奥さまの名が刻まれた位牌

感極まって涙ぐむ学生たち

ご遺骨をお届けできなかったことは悔やまれますが、その生きた証をお渡しできてよかったと胸をなでおろしています。今後は、関係機関との連携を密にし、できるだけ早く、的確に手続きを進めたいと考えています。今、新たに掘り出した遺骨の身元捜しを開始しました。今度こそ、ご遺骨に故郷へ帰って戴くためにがんばりたいと思っています。

    遺骨収集を終えて壕から出てくる