みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

伊東孝一大隊長への356通の手紙 48通目の返還(38番目の家族)

    お手紙を受け取られて号泣する三女・頌子さん〈左から二人目〉と孫・佐江子さんら

岩手日報に紹介されました ↓ 下記のURLをクリック願います。

https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/10/13/25687

岩手県で初めて、お手紙を返還してまいりました。北上市出身の戦没者・舘脇義範さんの娘さんとお孫さんたちへです。父親の安太郎さんが伊東孝一大隊長へ出された手紙で、義範さんの妻・スミさんも文末に名を添えられています。73年ぶりに帰って来た父や祖父の面影に、ご遺族一同は感涙に咽ばれていました。

   安太郎さんが伊東孝一さんへ出された手紙を読むご遺族

手紙の内容です。現代風に口語訳しました。

謹啓

ご親切ながらお手紙下され、誠にありがたく、謹んで御礼(おんれい)申し上げます。子息、義範生存中は、一方(ひとかた)ならぬお世話下され、有難く御礼(おんれい)申し上げます。

承(うけたまわれ)ば、五月五日戦死のよし、軍人として本望のいたりにございます。沖縄の土砂(つちすな)、まさに受納いたしましたので、ご安心下されたく存じます。何分にも今後とも、宜しくお世話下さる様、ひとえにお願い申し上げます。

粗末なる写真、ご送付いたしましたので、お受け取り下されたく存じます。

敬具

父・舘脇安太郎、嫁 舘脇スミ

六月十二日 伊東孝一殿

    左からスミさん、ひとり挟んで、義範さん、安太郎さんらの遺影

享年37歳で戦没された義範さんは、最愛の妻・スミさんや5人の子供たちと暮らされていました。太平洋戦争が開戦した昭和16年(1941年)に出征。満州でソ連との国境の警備に就かれます。

   沖縄での遺骨収集活動の写真を見るご遺族ら

そして、戦況が著しく悪化した昭和19年、第24師団歩兵第32連隊第一大隊の本部付軍曹として沖縄へ。本土決戦を遅らせるための守備隊としての配属です。1000人近い大隊の戦友と共に、極寒の大平原から、亜熱帯の島々へ配置替えになりました。

    手紙には満州で撮影された義範さんの写真が同封されていた

同年10月、沖縄は米軍の大空襲を受けます。そして翌年4月から、空母や戦艦、航空機などの支援を得た18万人を超える米上陸部隊が、大量の武器弾薬を携えて日本軍の陣地に迫ってきました。本島南部の糸満市の海岸線で、敵を迎え撃つための陣地壕を掘っていた義範さんたちへ、同月末、首里の日本軍司令部に近い西原町小波津地区への転進が命じられます。

    仏壇に手を合わせるボランティアの高木乃梨子

それが緒戦でした。近くにある中城湾に集結した軍艦や巡洋艦からの艦砲射撃の支援を受けて、戦車を伴った歩兵が義範さんたちが配置された丘陵地帯に迫ってきます。その侵攻を擲弾筒や肉弾特攻などで防ぎながら、何とか持ちこたえます。ここでも大勢の戦友が亡くなりましたが、米軍を退ける戦果をあげられます。

    義範さんが授与された金鵄勲章の賞状

義範さんが戦没したのは昭和20年5月5日。西原町棚原での戦闘でした。

今回、ご遺族の皆さまへご報告した当時の戦況を記します。

第32連隊の大隊本部に所属されていた義範さんは、5月4日未明から攻勢をかけた棚原高地奪還の戦闘に参加されていました。本部付けの兵士たちは、大隊長や副官らを警護したり、各隊への指令を伝達したりする仕事を主に担っていたそうです。

棚原の戦闘は熾烈を極めました。米軍に四方を包囲された状況で、高地を守備する伊東大隊に、迫撃砲弾が降り注ぎます。さらに、肉薄してくる敵の歩兵と接近戦を挑まざるを得ない状況となり、お互いの投げる手榴弾を互いに投げ返すような戦いだったと、生き残りの方が証言されています。

このとき大隊長や副官は、洞窟内の陣地ではなく、最前線のタコつぼの中から指揮執っていました。明るくなると米軍が戦車を導入。高地の頂上周辺を守備する大隊と所属各隊を取り囲むように攻撃を加えてきます。そんな激戦の最中、義範さんは大隊長らを懸命に守りながら、倒れられました。この戦闘で、600人以上いた配下の将兵が、半数以下に減ってしまったそうです。

   授与された感状

この戦いで、第一大隊は「感状」を授与されています。当時の全国紙にも掲載され、敗走が続く戦線で、部隊の将兵らが大活躍をしたと話題を呼びました。

    感状の当時の報道

ただ、伊東大隊長には、心残りがあります。それは、棚原での戦闘で負傷した兵士を、高地に残したまま撤退したからです。置いて行かれた部下たちが自決したのか、米兵に殺されたのかは、今も不明です。戦後、棚原で捕虜になった兵士の数とその動向を米側へ問い合わせたら、5名ほどが捕虜になったとされていました。でも、誰が生き残ったのか、帰国できたのか、まったく判明していません。今も、現場に残した部下たちのことを忘れられないと振り返られます。ほんとうに可哀想だった。同時に、ご遺族には申し訳ない気持ちで一杯だ、と話されていました。

    帰り際に手を振って別れを惜しんで下さった

伊東孝一大隊長が、終戦直後、ご遺族へ宛てられた手紙です。ガリ版刷りで500人前後のご遺族へ送付されました。中には、個々の部下がどう戦って、亡くなったのかを記した手書きの書簡が同封され、沖縄から持ち帰ったサンゴの破片を砕いた砂も添えられています。

    伊東孝一大隊長が、終戦直後、ご遺族へ宛てられた手紙

現代風の口語訳です。

皇国敗れたりといえども、同君の英霊は、必ずや、更に偉大なる大日本帝国発足の礎となるものと信じております。

さて小官は、八月二十九日まで、部下九十を率いておりましたが、終戦の大命を拝し、戦闘を中止いたしました。

多くの部下を失って、なお小官の生存していることは、何のお詫びの申し上げようもありません。只々(ただただ)小官、未だ若輩にして、国家再建のため、少々志すところがありますので、あえて生をむさぼる次第にございます。願わくは、小官の生命を小官におまかせくだされたく存じます。

恥ずかしき次第ですが、遺品とてございませんゆえ、沖縄の土砂、僅少、同封つかまつりましたので、ご受納くださらば幸甚の至りと存じます。

恩典に関しては、万全の努力をつかまつる覚悟でございますが、不備な点なしとせざるを以て(もって)、ご連絡事項がありましたら、是非ご通知相成りたく思います。

猶(なお)甚だ(はなはだ)勝手ながら、小官に同君の写真一葉を賜らば、無上の光栄と存じます。

又、小官の大隊に属し、小官の連絡漏れの方ありし節は、ご面倒ながら、小官の住所をお知らせ相成りたく、この段、お願い申し上げます。

最後に、重ねてご家族様のご心中、ご同情申し上げますと共に、英霊のご冥福をお祈り申し上げます。

流涕万斛(りゅうていばんこく)でございますが、筆は文を尽さず、文は心を尽くさず。 頓首再拝

昭和二十一年六月一日

伊東孝一

ご家族ご一同様

    報告を聞く義範さんのご遺族

そして、伊東さんが、現在のご遺族へ宛てられたメッセージです。

ご遺族の皆さまには、私自身が直接、出向きましてご報告できないことを、お詫び申し上げます。

もう齢も98歳を越え、目が見えなくなりつつあり、足元も覚束なくなっています。何卒、お許し願います。

沖縄で戦没した私の部下たちは、あの過酷で厳しい戦局の中を、どの日本軍兵士よりも奮闘し、立派に戦い抜きました。戦後、恥を忍んで私が生き残ったのは、そうした部下たちの働きを記録し、世に伝えるためであります。そして、二度と、無謀な戦争を引き起こさない国家を再興するために、及ばずながら尽力させて頂いたつもりです。

どうぞご理解ください。

そして、私の代わりに皆さまの元を訪ねる、遺骨収集のグループをお受入れ戴きたく存じます。この者たちの伝えるメッセージや資料は、私の言葉や気持ちを代弁するものだと、受け止めて下さると幸いです。

    沖縄での遺骨収集活動の委任状に署名して下さる頌子さん

義範さんのご遺族は、この度の手紙返還をとても喜ばれました。まず伊東孝一大隊長へ、「父母や祖父の想いが籠った内容に胸がいっぱいになりました。大切な手紙を保存して下さってありがとうございます」と感謝の言葉。さらに、今回ご支援頂いている皆さまや私たちボランティアグループにも、「よくぞ届けてくださいました。孫のような年代の学生さんが健気に報告されるのを見て涙がこぼれました。ご支援下さっている皆さまへも御礼を申し上げます」とのメッセージを頂きました。

   義範さんのご家族と記念撮影

伊東孝一大隊長への356通の手紙 49通目の返還(39番目の家族)

   手紙に同封されていた歩兵32連隊第一大隊の中村石太郎さんの写真

東奥日報に掲載されました↓(記事末尾に紙面イメージあり)

https://www.toonippo.co.jp/articles/-/98462

お預かりした356通の中で、どうしても返還したかったのが、青森県の中村いよさんのお手紙でした。リンゴで有名な板柳町出身の戦没者・中村石太郎さんの奥さま。私たちが暮らす津軽地方のご遺族の手紙は、なんとこれ一通だけです。昭和21年(1946年)に返信されていました。

    石太郎さんの妻・いよさんの手紙を朗読する学生たち

大好きになって移住した青森県の方への返還。すべて平等に扱っているつもりですが、なぜか力が入りすぎます(笑)。板柳町役場などの協力を得ながら、時にはご遺族宅の前にはり込んで、一年がかりで探しあてた石太郎さんの血縁者は首都圏にお住まいでした。

    興次さん(左端)と興三郎さんに(左から二人目)に手紙を渡す高木乃梨子

青森で、との目論見が外れ、返還は東京都内での実施となりました。受け取って下さったのは、石太郎さんの二男・興次さん(81)と三男・興三郎さん(79)。お孫さんや親族の皆さんも駆けつけて下さいました。

   いよさんの手紙を読むご遺族

とても明るく、快活に受け答えして下さるご兄弟ですが、母の手紙を開き、その内容を見るなり、表情が一変しました。一つひとつの文字を指で追いながら、何度もうなずいています。時には、見つめあい、囁くことも。「代筆と書いてあるけど、これは母さんの言葉だよ」と目に涙が。

    石太郎さんが戦没した場所を説明する学生ら

「父の記憶は声しかありません」と興次さん。手紙に目を落としたまま、言葉を詰まらせます。「兄と喧嘩していたら、やめなさい、と叱る声。それだけです」。たった一つの父の思い出を語ると、突っ伏して号泣、後は言葉を紡げません。

号泣する興次さん。思わず手を握ってしまった

隣でうなずく興三郎さんも、涙を拭おうともしないで、兄に代わって語り続けます。「兄貴は苦労したんだ。だから余計に堪えるんだよ・・」。手紙をお届けした学生たちも、祖父と同年代の方々が、人目もはばからず泣き伏す姿に息をのみます。

    流れる涙を拭おうとせず話し続ける興三郎さん

小作農家だった戦前の中村家では、石太郎さんを筆頭に3人の男子が家計を支えていました。が、中国大陸での戦火が太平洋の島々へ広がるなか、全員を兵役に取られます。大切な働き手の農耕馬2頭も軍馬として供出、いよさんは3人の幼子と年老いた親を支えながら、一家の大黒柱の帰還を待ち望んでいました。

    石太郎さんの3人の息子たちといよさんが写った写真

そこへ、伊東大隊長から、石太郎さん戦死の知らせが。悲しみと落胆に打ちひしがれますが、女性の一文とは思えない力強い言葉で返信されます。その文面からは、夫の死を受け入れ、その無念さを押し殺そうとする強さも感じられました。

    ご遺族の話を聞く学生たち

しかし、行間には、虜囚(捕虜)となってでも生きていて欲しかった儚い願いと、それを断ち切られ、敗戦の厳しい現実を受け入れざるを得ない、悲しい女心が揺れ動きます。代筆の文章ながら、大切な夫を亡くした妻の悲哀と終戦後の暮らしへの不安が滲み出ていました。

    沖縄で掘り出してきた遺留品を見せる

そんな折、石太郎さんの末弟・幸一郎さんが復員しました。いよさんは家を継ぐため、一回り年下の弟と再婚されます。が、終戦間もなき時代、生活は困窮。石太郎さんの長男・準一さんが、風邪をこじらせて死亡したのも、貧しさゆえ医者にかかれなかったからです。

    母の手紙を読んで涙ぐむ興次さん

そして、思春期を迎えた次男・興次さんは、家族を支えるため、中学校を卒業後、地主の所へ5年間、奉公入りしました。そこでは、給金は一銭も貰えず、地面を這いずり回るように働いたそうです。ようやく年季が明けた時、「良く辛抱したな」と土地を少し譲って戴けた、と振り返られます。

    石太郎さんやいよさんが入るお墓に線香を手向ける学生ら

ただ、長男・準一さんが夭逝した後、「母は何かあるたびに、私にあたり散らしました。思い返せば、石太郎の一番年上の息子となった私にしか、気持ちをぶつけられなかったのかもしれません」と遠い目で語ります。

    父母に手向けの曲を吹く前に尺八を掲げる興次さん

「でも、それが、辛くてつらくて・・」。その時、目に留まったのが、「東京・世田谷の農場で牧夫募集」の新聞広告。親兄弟には何も告げずに、長靴履きのまま作業着を包んだ風呂敷を抱え、片道切符を手に家を飛び出します。

    青森の自宅の前で撮影された母の写真を見入る

「とにかく貧しい田舎の暮らしから、抜け出たい一心だった」そうです。そして、「元々は叔父だった新しい父は、私と10才前後しか年が離れていません。そのわだかまりや母への反発心にも、強く背中を押されたのです」と俯きます。19歳の春のことでした。

    母の手紙を読んで、泣きながら思い出を語るご遺族たち

故郷を捨てた興次さんですが、いよさんや弟たちを忘れたわけではありません。必死で働き、牧場主にも認められ、妻をめとり家族ができました。その間、実家へ仕送りを続け、自分が丁稚奉公して手に入れた土地へ、母や新しい兄弟たちが暮らせる家を建てることができたそうです。

   号泣する興次さん。この後、机に突っ伏してしまった

私たちがお届けした、いよさんの手紙を握りしめて、「夫を愛する妻の想いと、戦時下の思想統制がぶつかり合って苦悩する、母の内心が伝わってきます。鬼のような厳しさで私たちに接したのは、実父を失った兄弟に『強く生きろ』と伝えたかったのでしょう。戦争で家族の絆が壊れそうになりましたが、父のことを語り続けてくれた母の愛が、私たちを繋ぎとめてくれたようです。この手紙を読んで、ようやく理解できました」と感極まっておられました。

    母の手紙と父の写真を並べて

興三郎さんは、「今まで大切に保管して下さった伊東大隊長に感謝の気持ちで御礼を申し上げたい。そして、学生さんたち。よくぞ探し当てて、届けてくれましたね。ほんとうにありがとう。もう感動で胸が一杯です」とのお言葉を戴きました。

    学生たちと手を握り合って別れを惜しむご遺族

    みんなで記念撮影

板柳町に何度も足を運んだ結果が報われた瞬間でした。最後に、興次さんが、石太郎さんといよさんに手向ける、慰霊の尺八を演奏。参加した学生や報道関係者の方々も、戦没者と残された家族の戦後史に思いを馳せて、静かに聞き入っていました。

    亡くなった父母へ手向けの曲を吹く興次さん

学生たちの前で尺八を吹く興次さん

現在、故郷で留守を守っているのは、興次さんらと父親の違う五男・司さん(68)です。案内してもらい、学生らとお墓参りしてきました。リンゴの産地、板柳町らしく、たわわな赤い実を結んだ樹々に囲まれた青森県らしい風景の墓地です。

    青森でお墓を守る司さん

興次さんらは、「齢を重ねたせいで、最近は永らく足を運んでいません。が、来年は兄弟揃って、両親の墓参りをします。そして、ありがとうと伝えます」と前を向かれました。ぜひ、青森で再会できますよう、願っています。

    ご遺族が見えなくなるまで手を振ふる学生たち

    東奥日報の紙面

2018遺骨収集活動 最激戦の生き残りを訪ねて㊦ 歩兵32連隊・伊東孝一大隊長

クラウドファンディングを始めています。下記URLをクリックして内容をご確認ください。

https://a-port.asahi.com/projects/1962-1103/

この記事とも関連しますが、学生たちの活動資金が不足しております。本職である学業にも影響が出そうなので、恥ずかしながら寄付を募っています。ご協力願えますと幸いです。最高額を寄付して下さった方には、伊東大隊長が執筆された「沖縄陸戦の命運」のコピー製本版を進呈いたします。非売品で、国立国会図書館や各県の公立図書館にしか置いてません。数に限りがありますので、お早い目にお申し出ください。

   糸満市の壕で岩に割れ目に入って活動中

すっかりご無沙汰してしまいました。少し考えることがあって、戦争関連のブログの更新を休んでいました。活動は継続していますが、思わぬところから横槍が入ったり、嫌がらせをされたりして、ホームページで報告をするたびに度が過ぎることもあり、自重していたのです。

   第24師団の本部壕近くで活動する筆者

でも、少しずつ復活してゆこうと考えを改めました。特に、第24師団歩兵第32連隊の伊東孝一大隊長のお話を、中途半端に放置してはいけないからです。「日本軍で最も優秀な大隊長」と称され、あの沖縄の激戦で、部下と共に物量に勝る米軍を退け続けた勇姿は、終戦から73年が過ぎた今も、敵味方を問わず評価されてきました。

   伊東さんの若き頃の写真。少尉と中尉時代らしい

そんな大隊長を訪ねて2年余りが過ぎました。最初は、糸満市国吉の激戦地で見つけた戦没者の遺留品の身元探しのためです。10人を超える学生を受け入れて下さり、無知で経験不足の私たちに真摯な対応で応えてくださいました。厳しいアンケートも取られて。

   学生たちと打ち合わせをされる伊東孝一大隊長

その時、大隊長が戦後50年の時に出版されていた「沖縄陸戦の命運」を戴き、そこに記載されていた、戦没した部下の遺族へ手紙を出した、という件について、質問してみたのです。「その手紙には、きっと返信が来たはずです。それを今もお持ちですか」と。

伊東さんが出版された沖縄陸戦の命運。クラウドファンディングに最高額寄付して下さればコピー版を進呈します

驚愕されるのと同時に、複雑な面持ちで、「なぜ、そのことが判ったのだ。陸戦の命運を出版して以来、その質問をした者は一人もいない。ここに数十回訪ねてきた自衛官や著述家、ジャーナリストの誰もが問わなかった。その存在に気づいた理由を教えてほしい」と鋭い視線を向けられます。

 奥さま(左から二人目)と資料を見て、協議される伊東さん

遺骨収集活動を続けていると、戦没者の遺留品をご遺族宅へお届けすることがあります。その時、どれだけ月日が過ぎていても、「父や兄、夫の遺品はどこにあった。それはどんな場所だった。遺骨はどうなっていた」と、矢継ぎばやに聞かれることが多いのです。

伊東さんの元へ届いた遺族からの手紙。GHQによって開封された印が刻まれてある

その経験を踏まえた上での質問であったことを返答するのと共に、「終戦直後だと、ご遺族の戦没者への想いは、もっと差し迫ったものがあったのでは。ゆえに、手紙の量や内容も、切羽詰まった留守家族の心情が溢れているのではないですか」と重ねて聞きました。

   瞑想しているかのうような雰囲気で言葉を選んで語られる伊東さん

「うーん」と腕組みして目を瞑られます。そして、「そう。たくさん来たんだ。箱一杯あって、今も大事に保管してある」と言葉を選ぶように話して下さります。さらに、「だが、手紙の存在は、妻にも子にも、戦友にも話していない。海軍の軍人だった父にも知らせていないんだ」と、腹の底から絞り出すかのような口調。

   平和の礎の前で納骨前に骨をきれいにする

学生も同席していたし、新聞記者もいましたので、これ以上聞いてはいけないと感じ、その時はお暇しました。ただ、私たち夫婦もジャーナリストの端くれです。戦地から家族へ送られた戦没者の遺書は、何度か読ませて戴いたことがあったのですが、留守を守る家族の想いは、ほとんど目にしたことはありません。それも箱一杯もの数は‥。

   戦没者の名が刻まれた礎に水を手向ける

青森へ帰ってから約1か月後、大隊長へ手紙を書きました。遺族からの手紙を私たち夫婦に見せて戴けませんか、と。すると、時期を置かず達筆な返信があり、「この遺族からの言葉は私の心に大きな傷を残している。それを公開するのは辛い。実は自分が死んだ後、棺桶に入れて一緒に焼いてもらうつもりだった」と綴られていました。そして、少し時間が欲しい、と。

   当時を語られる伊東さん

春にお会いして、その夏、大学生との地域おこしの活動中に、とても分厚い封書が大隊長から送られてきました。きっと、お断りされる理由が長々と書かれているのだろう、と開封すると、なんと手紙を私たちに託して下さるとのこと。

   掘り出した遺骨の前で手を合わせる学生たち

さらに、「この手紙を世に出してほしい。戦争をゲームのように捉える世代が社会を支え始めている昨今、愚かな大戦の犠牲となった方々の心の痛みをより多くの日本人に感じ取ってほしい」とのメッセージが添えられて。喜びと責任の重大さに、足が震えて背筋がゾクゾクしました。

   糸満市の原野で掘り出した戦没者の遺骨

感謝の連絡をすると、「それでは頼んだぞ。が、安易に扱ってもらっては困る。良いも悪いもすべてを公開しないとダメだ。戦争を賛美する声や非難する声だけを取り上げるのならば託さない」との条件も提示されて。まさに、望むところ。ジャーナリストとして、すべてを伝えることが責務だと、いつも自らに言い聞かせて仕事をしてきましたから。

   伊東大隊長宛てに出された遺族からの手紙を開封する

この時から、伊東大隊長の部下の遺族から寄せられた356通の手紙を返還する活動と取材が始まりました。72年前に手紙を書かれたご遺族を1軒1軒訪ね、希望されたら手渡しでお返しするのです。同時に二度と帰って来ない戦没者への想い、遺族たちの70数年間の人生、伊東大隊長へのお言葉などを聞き取ります。

   ご遺族への返還活動

そして、この活動を、志を同じくする学生たちが手伝ってくれることになりました。アルバイトして稼いだお金を旅費や滞在費にして、健気に頑張ってくれています。彼らと一緒に訪ねたご遺族の戦後の人生を、この後も報告してゆきたいと、考えています。今回は、これで「続く」とさせていただきます。

   糸満市内の壕内で活動する学生たち

2016遺骨収集活動79日目 最激戦の生き残りを訪ねて㊤ 歩兵32連隊・伊東孝一大隊長

伊東大隊長(手前右)と学生たち

伊東大隊長(手前右)と学生たち

今年、遺骨収集活動をした糸満市国吉で、米軍と大激戦を繰り広げた第24師団歩兵32連隊。その中で、敵味方の双方に勇名を轟かせた「歩兵32連隊第一大隊(伊東大隊)」を率いた、伊東孝一様のお宅を学生たちと訪ねました。

身振り手振りを交えて、当時のことを振り返られる

身振り手振りを交えて、当時のことを振り返られる

あの激しい戦闘のなかを生き残り、国へ帰られた後も、お元気で長生きされている姿を見て、驚くのと同時に、お会いできた嬉しさに感動を禁じ得ませんでした。そして、優しい笑顔で、最愛の奥さまと二人、学生を迎えて下さったのです。

庭で学生たちとベンチに座られる伊東隊長と奥さま

庭で学生たちとベンチに座られる伊東隊長と奥さま

今回は、私たちが活動した現場の「当時の状況」を教えて貰い、そこで戦没された方々の情報をいただくのが目的です。そして、学生たちが発見した名前の刻まれた遺留品を、ご遺族へ返還するための手がかりになればと考え、面会をお願いすることにしました。

質問に答えて下さる

質問に答えて下さる

参加したのは、日本青年遺骨収集団(JYMA)と国際ボランティア学生協会(IVUSA)の学生たち10人です。どんな戦場だったのか、勝てる戦いと信じていたのか、戦時中の若者の想いは、郷土の言葉を軍隊で使えたか、など、それぞれが質問しました。

質問するIVUSAとJYMAの学生

質問するIVUSAとJYMAの学生

御年95歳とは見えない、凛とした佇まいの大隊長。背筋を伸ばした姿勢で、学生たちに澱みなく答えてくださいます。目が見えづらくなっている、と言われますが、私たちが提示した遺留品や発掘現場などの写真を手に取って、種類や場所の違いなどを的確に判別なさいます。

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

その言葉は冷静で沈着。大げさな表現や偏った内容のない、すべてが事実に裏打ちされたお話しです。この世代の方がよく話される、懐かしさを込めた戦場の描写でなく、私たちの目の前に71年前の風景が広がるような、リアルな状況説明が続きます。

学生たちを前に語られる

学生たちを前に語られる

圧倒的な戦力差を誇る米軍が上陸してきた時の事、中部の前田高地周辺で功労をあげた時の戦闘の様子、部下を無駄に死なせない戦い方など‥。決して戦争を美化することのない語り口調が、かえって臨場感を高めます。まさに、感嘆する内容の連続です。よく生きて帰ってこられたなぁ、と。

前田高地近くの戦闘で挙げられた武勲への感状

前田高地近くの戦闘で挙げられた武勲への感状

感状に付けられた伊東大隊長の添え書き

感状に付けられた伊東大隊長の添え書き

ここで、驚いたことが。質問が一段落した後、大隊長から、学生へアンケート用紙が配られました。その中身は、「太平洋戦争について」。①止むに止まれぬ戦争、②愚かな戦争、の質問です。記名なしで10秒以内に思いを答えよ、と記されています。

用意されていたアンケートを配られる

用意されていたアンケートを配られる

戸惑いながら、答えを書く学生。後で聞くと、先の大戦の生き残りである大隊長に配慮して、①と答えた学生が多かったと聞きました。が、お別れの直前、配られた文章の中には、意外な所管が書かれていました。

配られたアンケートを見る学生

配られたアンケートを見る学生

それを学生たちの前で読み上げられます。「率直に申し上げて、『愚かな戦争』であった、と思う。その因をなしているのは、真実を看破する明に欠けて開戦に及んだことであり、その反省無しには戦死者の霊は浮かばれない」

学生への答えを含む声明を読み上げられる

学生への答えを含む声明を読み上げられる

まだ、士官学校本科時代の19歳。海外の戦術や戦略関連の書物を読み漁り、来るべく時に備えていたそうです。そして知ったのは、ノモンハン事件などでソ連軍と戦った旧日本軍の本当の実力。さらに、中国との泥沼の戦争が続く中、米英に宣戦を布告し、南方へ戦端を広げ続ける大本営の無謀さ。その只中で、厳しい現実に気付きながらも、声を上げて変革できなかった無力さを、噛み締めての言葉だそうです。

話を聞く学生たち

一生懸命に話を聞く学生たち

そして、「五十年を恥ぢ永らへて畢生の戦記を出だし世に問はむかな」との和歌に想いを込めて出版された、「沖縄陸戦の命運」を見せて下さいました。この本は、生き残ったことを自責しながらも、部下将兵の勲や自らの戦いの軌跡を残した貴重な沖縄戦の記録です。そこには、凄まじい戦闘に立ち向かう決意と覚悟、上官や部下を思いやる心の揺れが、伊東大隊長の人柄を物語るように記されていました。

学生と一緒に当時を振り返る

学生と一緒に当時を振り返る

ここで、私たちが夫婦が知りたかった質問をひとつ投げかけました。「当時、沖縄を守備していた旧日本軍の中には、同胞である島民へ非道な行為をした兵士がいたと聞きました。が、32連隊が駐屯した国吉で、集落のお年寄りに聞き取りをしたところ、この部隊の悪口をいう人は見つかりませんでした。それよりも、自宅への出入りを許し、一緒に食事をされた、という方も。懐かしんで、会いたい、と話されていましたが‥」

毅然とした態度で、質問に答えられる

毅然とした態度で、質問に答えられる

この質問に、「私は部下に、民間人の家に出入りをしてはいけない、と命じていた。兵士が出入りすると、その家人が敵に狙われやすくなるし、あらぬ誤解を生む恐れもある。だから、安易に行き来する部下はいなかったと思う」と、毅然とした言葉と態度で答えられます。

立ち上がって質問する学生

立ち上がって質問する学生

さらに、「隊の兵舎は、民家を接収しないで自分たちで小屋掛けした。生活の物資も、なるべく自前での調達を目指した。これは、民間人へ負担を掛けないように振る舞え、と訓示されていた、雨宮巽師団長の命令を守っただけだよ」と、謙遜のなかに、上官を敬う返答が帰ってきました。

当時のことを思い起こしながら、冷静に答えて下さる

当時のことを思い起こしながら、冷静に答えて下さる

そうした規律ある行動の結果が、今も、国吉の集落に残っており、この隊を悪く言う住民は、私たちの聞き取りでは、いらっしゃいませんでした。逆に、近くで司令官を殺された米軍側に、残虐な目に遭わされた証言が目立つほどです。

自衛隊からの感謝状

自衛隊からの感謝状

そして終戦の後も、良好な関係は続き、隊の炊事を担当して下さった沖縄の女性たちと、ずっと交流をされていたそうです。武装解除を受け、米軍の捕虜になるときも、その女性たちが泣いて別れを惜しんでくれた、と振り返られます。

最後に学生たちと記念撮影。笑顔がこぼれた

最後に学生たちと記念撮影。笑顔がこぼれた

最後に、奥さまと共に、遺骨収集をする学生たちへ感謝と労いの言葉を掛けて下さいました。伊東大隊長のお話は、まだまだ描き足りません。また、お会いしに行く用事が近々できそうです。その時に、続きを書くつもりです。ご期待ください。

2016遺骨収集活動72日目 戦没者を慰霊する「ライアー」

国吉神社の前で祈るNAOさん

国吉神社の前で祈るNAOさん

 私たちが今年、遺骨収集活動をした糸満市国吉地区。サンゴ石灰岩の小高い丘が、鬱蒼とした亜熱帯のジャングルに覆われています。ここは、第24師団歩兵32連隊が、沖縄戦の終結まで、守備し続けた場所です。

遺骨収集の現場で、NAOさんとお話し

遺骨収集の現場で、NAOさんとお話し

同連隊は、もともと秋田県へ設置された部隊でしたが、日露戦争のあと、山形県へ転営。同市霞城町にある「山形城」に兵営したことから、「霞城連隊」とも呼ばれたそうです。

歩兵32連隊の石碑

歩兵32連隊の石碑

シベリアや満州などへ出兵した後、アジア・太平洋戦争の末期に、沖縄へ派遣。日露戦争当時から、勇名を馳せていましたが、沖縄戦でも最後まで玉砕せずに戦い抜いた数少ない連隊のひとつです。

平和祈念公園で戦没者の検索をする

平和祈念公園で戦没者の検索をする

その山形から、ライアー奏者の「NAOさん」が、遺骨収集のお手伝いのために、遥々、沖縄まで来てくださいました。戦没者の収容活動はもちろん、その楽器を奏で、故郷へ帰れないまま山野に眠る方々を慰めるためです。

タオ・ライアーを奏でるNAOさん

タオ・ライアーを奏でるNAOさん

ライアーは、スイスやドイツを中心としたシュタイナー教育にも取り入れられている、ハープに似た弦楽器です。いくつかの機種がある中で、なおさんは、「タオ・ライアー」という癒しの音を奏でる楽器を弾かれます。

平和の礎に刻まれた戦没者の刻銘。先日、ご遺族の元へ遺留品を届けた津村重治さんの名があった

平和の礎に刻まれた戦没者の刻銘。先日、ご遺族の元へ遺留品を届けた津村重治さんの名があった

桜の木を彫って、削って、成型した分厚い板に、弦を張って自作したものです。抱えさせて戴くと、見た目以上にずっしりと重く、これを肩にかけて岩だらけのジャングルを歩くのは難しそうです。

平和の礎を前に

平和の礎を前に

ゆえに、哲二が、危険だと判断。現場の入り口にある神社の広場で、奏でて頂きました。かつての激戦地だった山野と集落に向かって、流れるような所作で弦を爪弾かれます。

山形の塔へ参拝するNAOさんと律子

山形の塔へ参拝するNAOさんと律子

メロディーは特になく、心のままに指で奏でるスタイル。柔らかで深い音色が、岩山のジャングルや青空に吸い込まれて行きました。「木々の間や岩の隙間で、戦没した方々が耳を傾けに来ているみたい‥」。そんな雰囲気が漂います。

神社横に広がるジャングルとNAOさん

戦没者が眠るジャングルの横で語るNAOさん

でも、不思議と怖くありません。それよりも、優しい音色に心が奪われて、ここが数多くの犠牲者を出した激戦地とは思えないほどです。胸に響いてくるような、心の中に流れ込んでくるようなメロディ‥。

鳥居の前でタオ・ライアーを奏でる

鳥居の前でタオ・ライアーを奏でる。後方は国吉集落

自由に奏でる音なのですが、曲と同じような連続性のある、繋がりを感じてしまいます。とても、素敵。まだ、地中深くに眠ったままの皆さまへ、届いたでしょうか。きっと、耳をそばだてて下さっていると信じます。

ライアーを持たせてもらうと、ずっしりと重かった

ライアーを持たせてもらうと、ずっしりと重かった

今回の活動期間中、NAOさんは演奏だけでなく、遺骨や遺留品を掘り出して下さいました。崩れそうな壕の奥深くへ潜り込み、懸命に手を動かされています。舞い上がる砂ぼこりで、息が苦しくなるような空間で。

抉れた弾痕が残る石塀。激戦地の証

抉れた弾痕が残る石塀。激戦地の証

そして、兵士とみられる遺骨を掘り出されました。残念ながら、身元が判るものは見つかりませんでしたが、山形県出身の方の可能性もありそうです。それを見て、そっと手を合わせるNAOさん。その姿が菩薩のように見えます。

タオ・ライアーを奏でた後、手を合わせるNAOさ

タオ・ライアーを奏でた後、手を合わせるNAOさん

実は、一昨年から、沖縄での活動を計画されていたNAOさん。事前の打ち合わせで青森へ訪ねて下さいました。その時、ライアーを知らない私たちのために、白神山地の十二湖で、森のコンサートを開催。

白神・十二湖の森で開いたライアーの演奏会

白神・十二湖の森で開いたライアーの演奏会

中高生をはじめ、学校の先生や地域の方、役場関係者の前で、素敵な演奏をしてくださいました。さらに、私たちも頭や膝に載せて爪弾いて貰うと、身体が楽器に共鳴し、不思議な心地よさを体感できました。

身体の上に乗せたライアーを弾く

身体の上に乗せたライアーを弾く

あれから二年が経ちました。個人的な事情で昨年、沖縄へ来られなかったNAOさん。その想いをこめた調べが、風にのって南部の戦跡を駆け巡りました。また、聴きたいです。

十二湖の森でライアーを弾くNAOさん

十二湖の森でライアーを弾くNAOさん

2016遺骨収集活動68日目 瞼の父の記念メダル~71年ぶりに愛娘の元へ

明石山と刻まれた津村重治さんのメダル

明石山と刻まれた津村重治さんのメダル

名前が刻まれたメダルと遺族の写真

名前が刻まれたメダルと遺族の写真

「えっ!、相撲大会の記念メダル?。ほんまにお父さんの物なん。もう、何も帰って来んと、思っていたのに。どないしよう‥」。沖縄戦で、1945年(昭和20年)6月に父親を亡くした兵庫県稲美町の西川慶子さん(74)が、私たちの電話での問いかけに、絶句しながらも、絞り出すように答えられた言葉です。

★神戸新聞に掲載して戴けました↓

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201603/0008921166.shtml

★3月21日にサンテレビ、23日に日本放送協会(nhk) に放映されました

裏面には「相撲大会出場記念」と刻まれている

裏面には「相撲大会出場記念」と刻まれている

平和祈念公園にある戦没者のデータベース

平和祈念公園にある戦没者のデータベース

そのメダルには、表面に「明石山 津村重治」と、裏面には「相撲大会出場記念 昭和十九年五月二七日」と刻まれています。懸命に説明する哲二。「遺骨収集中の学生が沖縄本島南部の糸満市国吉で見つけました。沖縄戦の戦没者データベースを検索しても、津村重治さんは一人しかいません。兵庫県出身とされていますので、間違いないと思います」

平和の礎にある津村重治さんの氏名

平和の礎の兵庫県の戦没者刻銘にある津村重治さんの氏名

現場へ向かう学生たち

現場へ向かう学生たち

が、哲二のオレオレ詐欺のように、畳みかけるような話しかけ方が悪かったのか、慶子さんからの信用を得られません。残念ながら、この日は、受け取る意思を示すご返事を戴けませんでした。「うーん、難しいなぁ」と、落ち込む哲二。しかし、何としてでも、ご返還したい。やはり相手が女性だから、ここは私の出番のようです。

遺骨収取活動に臨む学生たち

遺骨収取活動に臨む学生たち

津村さんのメダルが見つかった陣地壕の入り口を掘る学生たち

津村さんのメダルが見つかった陣地壕の入り口を掘る学生たち

二度、三度と、たわいない世間話をしながら、慶子さんの心の奥底にある真意を探ります。電話口での会話ながら、とても、心優しい気配りをされる方です。学生や私たちへ、感謝の言葉を述べながらも、何か引っ掛かりがあって、受け取りを躊躇されています。

津村さんのメダルが見つかった横から出てきた認識票。第32野戦兵器廠の兵士の物

津村さんのメダルが見つかった横から出てきた認識票。第32野戦兵器廠の兵士の所有物

裏面にも数字が刻まれている

裏面にも数字が刻まれている

そこで、学生と相談。一度、メダルを故郷の兵庫県へ連れ帰り、家族に触れてもらおう。そして、受け取って戴けないときは、墓前にお供えした後、持ち帰ろう、と決めました。そのお伺いを立てる連絡を慶子さんへすると、「ありがとうございます。ようやく決心が付きました。そのメダルは、私の父の物だと確信しています。喜んで受け取ります」との返答。

学生からメダルを手渡される西川慶子さん(中央)

学生からメダルを手渡される西川慶子さん(中央)

メダルを手にした西川慶子さん

メダルを手にした西川慶子さん

思わず、小躍りしました。お互い涙声が上ずったままの会話。嬉しくて、細かな内容を覚えていません。その時の慶子さんの言葉です。「もの心が付いたときには、戦争が終わっていました。そして、いろんな事がありました。とても、つらい出来事も‥。それゆえ躊躇ってしまいましたが、支えてくれた夫や家族に背中を押されて、心が決まりました。今は、一日でも早く、父に会いたいです」

学生や報道陣に囲まれてお返しが進む

学生や報道陣に囲まれてお返しが進む

父の遺留品の帰還に笑顔を見せる慶子さん

父の遺留品の帰還に笑顔を見せる慶子さん

県や神社関係などの記録によると、旧日本陸軍伍長の津村重治さんは、1941年(昭和16年)に第54師団の輜重兵第54連隊へ召集。3年後、第32軍の第32野戦兵器廠に転属し、沖縄戦へ投入されました。そして、1945年6月13日、糸満市摩文仁で戦没したとされています。

旧日本陸軍の津村重治・伍長

旧日本陸軍の津村重治・伍長

遺族や本人の写真とメダルなどの遺留品

遺族や本人の写真とメダルなどの遺留品

でも、メダルが見つかったのは、摩文仁から約3㎞離れた国吉台地の壕内です。ここは、第24師団歩兵32連隊が、日本軍最後の防衛線の西端として、死守する戦いを繰り広げていた丘です。なぜ、ここに津村さんがいたのか。戦史叢書などの記録本を調べても、第32野戦兵器廠が国吉に進駐した記録はありません。

岩山を覆うジャングルで活動する学生ら

岩山を覆うジャングルで活動する学生ら

学生たちから、現場の話などを聞く

学生たちから、現場の話などを聞く

が、戦後、米軍の捕虜になった同部隊兵士の証言に、小隊レベルで国吉へ派遣された、という内容が残っていました。同時に、野戦兵器廠は、陣地や砲台の構築などを担っていた部隊なので、要塞のような壕が掘り巡らされていた国吉台地で、その仕事に従事したのかもしれません。いずれにしても、国吉に部隊の足跡をみつけたので、このメダルは津村さんの遺留品に間違いないであろう、と結論付けました。

納骨袋にお骨を入れる

納骨袋にお骨を入れる

学生たちからの報告に涙する慶子さん

学生たちからの報告に涙する慶子さん

発見したIVUSA(国際ボランティア学生協会)のメンバー6人と、兵庫県へ向かいます。広々とした田園の風景の中に、慶子さんのお宅がありました。思っていた通り、優しい笑顔でお迎えしてくださりました。受け取りを躊躇したことを、何度も詫びながら。その瞬間から、私の涙腺は緩みっぱなしです。哲二に小声で、「泣くな」と、突かれますが、耐えきれません。

慶子さんへの報告の途中も、涙が止まらない

慶子さんへの報告の途中も、涙が止まらない

母タズ子さんに抱かれた慶子さんと幼少時の写真

母タズ子さんに抱かれた慶子さんと幼少時の写真

学生から渡された遺留品のメダルを手に、「大変やったね。大変やったと思う」と、帰ってきた父へ小声で囁きかけながら、撫でまわす慶子さん。発見現場のことや当時の状況を伝える学生たちへ、何度もお礼を述べながら、涙をぬぐいます。その言葉を受けて、胸がいっぱいになり、泣き出す女子学生も。

同じ場所から出てきた認識票などを見る

同じ場所から出てきた認識票などを見る

涙が止まらない慶子さん

涙が止まらない慶子さん

メダルを掘り出した関西大2年の川原稜平くんは、「発掘場所では、大小の岩や石を数百個も動かしました。そんな過酷な現場で掘り出した遺留品なので、無事にご遺族の元へお届けできて、肩の荷が下りた気分です」と爽やかな笑顔。でも、「あの現場で亡くなった方々を思うと、正直、胸が詰まります。まして、ご遺族の涙を見ていると‥」と、もらい泣き。

津村重治さんの名が刻まれた石碑の前に座る川原凌平くん

津村重治さんの名が刻まれた石碑の前に座る川原凌平くん

集めた遺骨についた土を払う学生たち

集めた遺骨についた土を払う学生たち

戦争で最愛の父を亡くした遺族の悲しみと、71年ぶりにその生きた証と再会できた喜びを垣間見て、学生たちは感無量のようです。今回の派遣リーダーの同志社女子大4年・合原波穂さんは、「私らの活動やお届けする遺留品が、ご遺族の負担になっていないか、とても不安でした。が、結果的に喜んでいただけて、ホッとしています」と満足げに語ります。

納骨袋を手にした合原リーダーと学生たち

納骨袋を手にした合原リーダーと学生たち

津村重治さんの墓標の前で

津村重治さんの墓標の前で

津村さんの実家は、現在の神戸市西区にあるそうです。お墓代わりにされている慰霊の墓標も、その近くにあると聞きました。慶子さんに案内をお願いし、学生たちと一緒に訪ねてみることに。ため池や田畑が点在する平野に、先の尖った兵士の墓標が、何本か立っています。その彼方には、未来都市のような西神ニュータウンが広がります。

津村さんの墓標に祈りをささげる。後方は西神ニュータウン

津村さんの墓標に祈りをささげる。後方は西神ニュータウン

刻まれた名前を手でなぞる学生

刻まれた名前を手でなぞる学生

慶子さんは、この近くで、津村重治さんと妻・タズ子さんの一人娘として、1941年(昭和16年)9月に生まれました。が、父は、長女の誕生後、35日目で出征。一度だけ、姫路市内で再会したそうですが、慶子さんの記憶には残っていません。その後、沖縄で戦死したことが伝えられ、届いた白木の箱の中に何が入っていたのか、今も判らない、と話されます。

津村さんの名が刻まれた平和の礎の刻銘

津村さんの名が刻まれた平和の礎の刻銘

学生たちに頭を下げられる慶子さん(右)

学生たちに頭を下げられる慶子さん(左)

父の死後、母タズ子さんは、津村家を離れ、新しい家庭を持たれました。そして、慶子さんは両親の祖父母に育てられ、結婚後、現在の稲美町で暮らし始めたそうです。とても思いやりのある夫・良一さん(78)と、子や孫に囲まれて、幸せな日々を送っている、と語られます。

献花する学生を見守る慶子さんと良一さん(右端)

献花する学生を見守る慶子さんと良一さん(左端)

お母様に抱かれる慶子さん。二人一緒の写真はこの1枚だけ

お母様に抱かれる慶子さん。二人一緒の写真はこの1枚だけ

慶子さんへ説明する学生たち

慶子さんへ説明する学生たち

しかし、「戦争が私から、大切な家族を奪ったんです。目をつぶるたび、辛かった幼少期を思い出します。父が生きていたら、どんなに良かったか。子と別れる母の辛さが、同じ立場となって、身に沁みるように理解できるんです」と涙ぐみます。

田園地帯にあるお墓へ向かう一行

田園地帯にあるお墓へ向かう一行

父親の墓標に手を合わせながら語りかける慶子さん

父親の墓標に手を合わせながら語りかける慶子さん

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

お花を供えに来た学生たちと一緒に、父の名が刻まれた石碑に手を合わる慶子さん。「お父さんの生きた証を学生さんたちが見つけてくれたんよ」と報告。そして、静かな口調で、「やっと、帰ってきてくれたねぇ。これからは、ずっと一緒に暮らせるんやから。安心してな」と語りかけました。

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

重治さんの墓標を見る一行

重治さんの墓標を見る一行

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

別れ際に慶子さんが学生に掛けた言葉です。「ほんまにありがとう。もう、言葉では感謝しきれへんくらい、嬉しかったわ。でもね、これだけは聞いてほしい。私のような体験を繰り返さないためにも、戦争は絶対にあかん。二度としたらあかんのよ」。一人ひとりの手を握りながら、強く訴えられました。

学生たちにお礼をする慶子さん(後方中央)

学生たちにお礼をする慶子さん(後方中央)

涙ながらに学生に話しかける慶子さん
涙ながらに学生に訴えかける慶子さん

2016遺骨収集活動59日目 大学生たちとの活動㊦

米軍製の手榴弾を回収して下さる自衛隊員

米軍製の手榴弾を回収して下さる自衛隊員

報告が遅れましたが、私たち夫婦は、すでに沖縄を離れて本州へ帰ってきています。青森へは、帰り着いていませんが、南の島での活動は、一区切りをつけています。一部の方に、誤解を生んでしまったようです。お知らせが遅れましたことをお詫びします。

収集作業を終えて、号泣する女子学生たち

収集作業を終えて、号泣する女子学生たち

作業に入る前、遺骨のことを学ぶ

作業に入る前、遺骨のことを学ぶ

ただ、活動はまだ、終わっていません。今年も、ご遺族への遺留品返還と、沖縄戦の生き残りの方のもとへ、学生と一緒にお訪ねする仕事が残っているのです。ゆえに、青森への帰還は、もう少し先になりそうです。

国吉さんの最後の活動を見送る学生たち

国吉さん(右)の最後の活動を見送る学生たち

今年、集めた遺骨を見る

今年、集めた遺骨を見る

ここで、㊤から続きます。

昨日、今回、掘り出した戦没者の遺留品を、ご遺族の元へお返しに行きました。内容を報告したいのですが、取材して下さった新聞、テレビ各社が報道する前に、ネタを明かす訳にはいきません。もう少しお待ちください。

IVUSAが集めた遺骨が入った袋を抱え上げるリーダーの合原波穂さん

IVUSAが集めた遺骨が入った袋を抱え上げるリーダーの合原波穂さん

IVUSAのポーズで

IVUSAのポーズで

学生たちは、今年も大活躍でした。氏名入りの遺留品を複数発見し、量は多くなかったのですが、数多くの部位の遺骨を掘り出しました。中には、特徴的な大きさや形のものがあり、新たな展開に期待が持てそうです。

学生たちに体験談をして下さる国吉集落の神谷区長さん

学生たちに体験談をして下さる国吉集落の神谷区長さん

真剣なまなざしでお話を聞く

真剣なまなざしでお話を聞く

今年、活動した国吉丘陵は、旧日本軍の歩兵32連隊と米海兵隊が、沖縄戦最後の死闘を繰り広げた場所です。その影響か、元の地形が判らない程、砲撃などで山肌や壕が破壊されています。

土の下から出てきた英語表記のラベル。いつの時代の物であろうか

土の下から出てきた英語表記のラベル。いつの時代の物であろうか

活動の最中、集められた遺骨の説明を受ける

活動の最中、集められた遺骨の説明を受ける

ゆえに、遺骨を掘り出す作業も、危険と隣り合わせです。潜り込みたい壕や岩の隙間が複数あるのですが、崩落が恐ろしくて、叶いません。特に、学生たちにそのリスクを背負わす訳にもいかず、来年に向けて、何らかの対策を立てなければ、と考えています。

全員で、遺骨の部位を仕分け、こびり付いた土を払う

全員で、遺骨の部位を仕分け、こびり付いた土を払う

うっすらと文字盤が見える腕時計

うっすらと文字盤が見える腕時計

表面上に見えている遺骨は、ほぼ収骨し終えていると思われます。が、壕内の奥深くや岩の下、地中に埋もれている方が、いまだ放置されたままです。その証に、正木麻衣子さんらのベテラン勢が臨むと、次々と掘り出されます。まだまだ始まったばかりの場所だと、と言えそうです。

納骨の前、最後の別れに手を合わせる学生たち

納骨の前、最後の別れに手を合わせる学生たち

遺骨に手を合わせて祈る学生たち

遺骨に手を合わせて祈る学生たち

学生による沖縄県の収骨は、今年も無事に終わりました。初参加の子たちは、終戦から71年目に陽の目を見たご遺骨と、向き合って、何を感じとったのでしょうか。涙する子もいれば、遺骨の土を丁寧に払う子も。皆、真剣な眼差しでした。

一つひとつの骨についた土を手で払う

一つひとつの骨についた土を手で払う

袋へ遺骨をおさめながらリーダーが号泣

袋へ遺骨をおさめながら涙ぐむリーダーの合原さん

今ある平和を導いて下さった先達の皆さまへ、どんな想いを持ったのでしょう。子どもたちが、書き送ってくれたメッセージをいくつか紹介します。活動中、毎晩、遅くまで議論し合い、考えつくしたものです。

納骨袋に団体名などを書き込む

納骨袋に団体名などを書き込む

今回、収骨した遺骨を前に

今回、収骨した遺骨を前に

私たち夫婦へのメッセージ的な内容ですが、胸を打つ言葉が散りばめられています。

納骨袋を手に黙とうするIVUSAのメンバーたち

納骨袋を手に黙とうするIVUSAのメンバーたち

感極まって泣き出す女子学生

感極まって泣き出す女子学生

「71年前、たくさんの命が亡くなったこと。その人の大切な人が泣いていたこと。それを放置できません」(同志社大・大野さん)

ひとつずつ、丁寧に土を払う

ひとつずつ、丁寧に土を払う

それぞれの想いを込めて祈る学生たち

それぞれの想いを込めて祈る学生たち

「今回、学んだことを家族や仲間たちに自分の言葉で訴えかけます。そして、戦争への無関心さに、一石を投じたい」(拓殖大・笹渕さん)

手を合わせるリーダーの合原さんら

手を合わせるリーダーの合原さんら

遺骨を手に号泣する女子学生

遺骨を手に号泣する女子学生

「骨の重さ、骨の脆さ、骨が染まった色に衝撃を受けました。最初は怖かったのに、途中から、一つでも多くのご遺骨に陽の光を浴びて戴きたい、と思いが変わっていました」(東京家政大・澁谷さん)

全員で手を合わせる

全員で手を合わせる

神妙な面持ちで遺骨を見送る

神妙な面持ちで遺骨を見送る

「過酷な作業なので、遺骨をお迎えした時、不届きながら嬉しく感じてしまいました。でも、岩の下や土の中にずっと埋もれたままの方が、自らの家族や愛する人だったら、どれほど辛いことか‥」(松井くん)

哲二を先頭に現場へ

哲二を先頭に現場へ

手書きのメッセージを貰って、大喜び

手書きのメッセージを貰って、大喜び

たくさんの感想を書き込んでくれました。素晴らしい感性と感情が溢れた言葉が紡がれています。強いていえば、短文のメッセージでなく、しっかりと書き込んだものを読みたかったです。

遺留品の説明を聞く時も、皆が真剣な面持ちで

遺留品の説明を聞く時も、皆が真剣な面持ちで

納得がゆくまで、全員で徹底的に議論する

納得がゆくまで、全員で徹底的に議論する

私たちもそうですが、戦争を知らない世代として、今の時代をどう生きてゆくのか。そうしたことが、この活動から導き出せるかもしれません。埋もれた遺骨は、まだまだありそうです。そして、故郷へ帰ることが出来ない遺留品も。

手を合わせて

手を合わせて

大勢の前で、自らの考えを述べる。素晴らしい感性を感じる発言も

大勢の前で、自らの考えを述べる。素晴らしい感性を感じる発言も

一生懸命の汗と、美しい涙を流しながら、頑張って下さる学生さんたちへ。自らの命と引き換えに、平和を築いて下さった方々への感謝の気持ちを忘れずに、この活動を引き継いでいって下さい。

岩の割れ目にある自然壕で

岩の割れ目にある自然壕で

手作りのカレーをごちそうしてくれた

手作りのカレーをごちそうしてくれた

そして、平和な世が、いつまでも続きますよう、一緒に歩んで行きましょうね。私たち夫婦は喜んで、そのお手伝いをさせて頂きます。ご馳走して戴いたカレーライス。とても美味しかった。

手作りの美味しいカレーを頬張る

手作りの美味しいカレーを頬張る

みんなで楽しく自炊も

みんなで楽しく自炊も

それぞれの班の手作りの味を、全部試せなくてごめんなさい。齢を重ねると、たくさん食べられないのよ。その割には太っているけど(笑)。それでは、また来年、沖縄でお会いしましょう。君たちのことが大好きですよ。

お道化ながら記念撮影

お道化ながら記念撮影

2016遺骨収集活動57日目 大学生たちとの活動㊤

 

ジャングルの中を進む遺骨収集の学生たち

ジャングルの中を進む遺骨収集の学生たち

走ると危ないよ!。でも、元気いっぱい活動に臨む

走ると危ないよ!。でも、元気いっぱい活動に臨む

尊敬するマタギの伊勢親方の急逝や、交通事故などが重なって、なかなか更新が出来ませんでした。事故の後遺症が長引いているため、まだ、病院通いが続いています。そのため、遺骨収集活動も、ほとんどできません。

活動の前に地元の森を守る神社へ拝礼

活動の前に現場の神社へ拝礼

後方支援の留守隊に手を振りながら出発する

後方支援の留守隊に手を振りながら出発する

本来ならば、学生の活動風景などを、もっと紹介すべきだったのですが、治療中の立場でありながら、壕へ通い詰めるわけにもいきません。仕方なく、後方で指導したり、見学するだけになってしまいました。

埋もれてしまった散兵壕を掘る

埋もれてしまった散兵壕を掘る

国吉さん(右端)から、指南を受けながら

国吉さん(右端)から、指南を受けながら

HPも、とても長い間、放置してしまいました。読者の皆さま、お許しください。ようやく、書き込める余裕が出てきましたので、学生たちが2月半ばに、平良宗潤先生から戦争講話を伺った、続きの活動を紹介いたします。

平良先生と本島南部のサトウキビ畑を歩く

平良先生と本島南部のサトウキビ畑を歩く

散兵壕に大勢が入って掘り進む

散兵壕に大勢が入って掘り進む

今年、沖縄で遺骨収集に従事してくれた学生たちの総勢は、なんと200人近くに膨れ上がりました。例年通り、JYMA(日本青年遺骨収集団)とIVUSA(国際ボランティア学生協会)が、駆けつけてくれています。

丘陵の頂上付近は開けていた。この脇は「城(グスク)」になている

丘陵の頂上付近は開けていた。この脇は「城(グスク)」になっている

岩が落ち込んで、完全に埋まってしまった壕口を掘り進むと遺骨が出てきた

岩が落ち込んで、完全に埋まってしまった壕口を掘り進むと遺骨が出てきた

でも、200名が働けるフィールドは、そうありません。小さな壕では、すし詰め状態になって、酸欠が心配されます。ゆえに、活動場所として、旧日本軍が最後の防衛線として守備していた国吉丘陵を選んだのです。

屏風のような岩が切り立った天然の要塞のような現場

屏風のように岩が切り立った天然の要塞のような現場

狭い壕内で慎重に掘る

狭い壕内で慎重に掘る

この場所は、第24師団歩兵32連隊が、沖縄戦のさなかも、組織的な戦闘が終結した後も、頑強に抵抗を続けていた要塞のような台地です。ジャングルに覆われたサンゴ石灰岩の高台に、迷路のように壕が掘られており、トーチカやタコツボが、あちこちに点在しています。

バケツなどを抱えて現場へ向かう

バケツなどを抱えて現場へ向かう

果敢に岩の隙間を掘り進む女子学生たち

果敢に岩の隙間を掘り進む女子学生たち

が、余程、激しい戦闘があったのでしょう。あちこちに巨岩が崩れ落ち、壕口を塞ぎ、散兵壕も埋め尽くされています。そんな岩の隙間から、地面に突き立った遺骨が見えていたり、遺留品が散乱したりしています。

掘り出した遺骨を確認する

掘り出した遺骨を確認する

岩の下や隙間も見逃さずに掘り続ける

岩の下やわずかな隙間も見逃さずに掘り続ける

地元の方に聞くと、戦後、何度か遺骨収集はされています。が、壕内を掘り進んだり、岩を動かしたりしてまでは、やっていないとのこと。学生たちには、ぴったりの仕事です。

岩の下から出てきた旧日本陸軍の認識票。歩兵22連隊の兵士の物

岩の下から出てきた旧日本陸軍の認識票。歩兵22連隊の兵士の物

陸軍が使っていた軍用の湯呑み

陸軍が使っていた軍用の湯呑み

約10日間、兵庫県から来た社会人のグループも混ざって下さって、活動しました。でも、あちこちの現場で、不用意に岩を動かすと、それに支えられた巨岩が落ちて来そうで、危険極まりない状態。

険しい道を隊列を組んで進む

険しい道を隊列を組んで進む

総勢160人以上が参加したIVUSAの学生たち

総勢160人以上が参加したIVUSAの学生たち

前途ある若者たちを、生き埋めにするわけにいきません。まだまだ遺骨が埋もれていそうですが、その多くをあきらめざるを得ない地形です。実際、哲二が飛び乗った畳一畳ほどの平たい岩が、瞬間、大きくずれ動き、肝を冷やしました。

現場の確認に来られた糸満署の警察官

現場の確認に来られた糸満署の警察官

3人で狭い壕内を掘り進む

3人で狭い壕内を掘り進む

でも、そんな場所なので、手つかずの壕やトーチカが数多く残っているようです。可能性のありそうな岩棚の下を、隙間に潜り込んで、学生たちは一生懸命に掘り進みます。IVUSAは女子が多い隊なのですが、男子に負けじと、熊手を動かし、小型のツルハシを振り続けます。

出土した遺骨を確かめあう

出土した遺骨を確かめあう女子学生

不発弾処理に来られた自衛隊員

不発弾処理に来られた自衛隊員

そして男子は、大小さまざまな岩を、抱え、押し、転がしながら、動かします。岩の下敷きになっている戦没者を探すのと、土の地面を出して女子が掘れるよう、汗と泥にまみれて、働き続けます。誰一人、愚痴を言うものはいません。

岩に沿って掘られた散兵壕を人海で掘り進む

岩に沿って掘られた散兵壕を人海で掘り進む

力を合わせて岩を動かす男子学生たち

力を合わせて岩を動かす男子学生たち

今年の現場は、元の地形の想像がつかないほど岩が崩れており、どこまで掘れば、元地盤へ到達できるか、わかりません。総勢200名でも、戦時中の地形に戻すまでに、数日間、掛かる場所も。

ジャングルに張り巡らされた散兵壕を掘り進む

ジャングルに張り巡らされた散兵壕を掘り進む

小さな骨片や遺留品も逃さずに掘る

小さな骨片や遺留品も逃さずに掘る

そして、戦没者の遺骨だけでなく、遺留品の発掘でも、大きな成果を得られそうです。名前が入った遺品が、数多く出てくるのです。中には、はっきりと刻まれた氏と名があり、ご遺族の元へ戻せそうな物もあり、とても期待が持てそうです。少し長くなりましたので、㊦に続きます。

名前の描かれた万年筆

名前の描かれた万年筆

2016遺骨収集活動44日目 これは何のバッチ?

桜花に「青」と描かれたバッチ

桜花に「青」と描かれたバッチ

沖縄本島南部の糸満市で、学生たちが軍の利用していた壕内から掘り出したバッチが、何の記章か判りません。どなたか、ご存知の方はお教えください。よろしくお願い致します。

2016遺骨収集活動37日目 遺骨収集家の国吉勇さんが引退を表明?

遺跡の発掘現場で語る国吉さん

遺跡の発掘現場で語る国吉さん

遺骨収集家の国吉勇さんが、第一線から退かれることを表明されています。昨年末、奥さまを亡くされて以来、少し元気がありませんでしたが、最近は体力の限界も、呟かれています。

発育が足りていない小型の頭蓋骨を手に

発育が足りていない小型の頭蓋骨を手に

国吉さんのお兄さんの故真一さん。鉄血勤皇隊として、沖縄戦で戦った

国吉さんのお兄さん、故真一さん。鉄血勤皇隊として、沖縄戦で戦った

鉄血勤皇隊として旧日本軍に従軍して、部隊のたった一人の生き残りとなったお兄様に連れられて、初めて足を運んだ沖縄本島南部の壕内。そこには、お兄様の戦友の遺体が、まだ生々しく残っており、恐怖のあまり泣き叫んだそうです。

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす

遺骨が並ぶ八重瀬の野戦病院壕で、井上さんご夫妻と語る国吉さん(中央)

遺骨が並ぶ八重瀬の野戦病院壕で、井上さんご夫妻と語る国吉さん(中央)

それが、小学3、4年生の頃だったと振り返られます。それ以来、約70年。本格的に遺骨収集活動を始められて約60年間。足繁く南部戦線跡に通い、戦没者と、その帰りを待つ遺族と向き合ってこられました。

学生にあいさつする遺骨収集家の国吉勇さん

今年の収集活動で、学生にあいさつする遺骨収集家の国吉勇さん

学生たちに説明する国吉親方

学生たちに説明する国吉親方

心より、お疲れ様でした、とお声がけするのと同時に、人生のすべてを掛けて続けてこられた「慰霊の仕事」に最大の敬意を表したいです。また、近々、国吉さんのお気持ちをお伝えすべく、インタビューします。

軍医部壕で掘り出した印鑑を手に

軍医部壕で掘り出した印鑑を手に

今年の現場で、岩の割れ目を覗かれながら、活動場所を探る国吉さん

今年の現場で、岩の割れ目を覗かれながら、活動場所を探る国吉さん

お母さまと兄弟、祖母らを沖縄戦で亡くされた、戦争の犠牲者でありながら、ウチナンチュもヤマトンチュの戦没者にも分け隔てなく接してこられた国吉さん。その偉大な仕事は、他の追随を許さない功績として、今後も語り継がれていくでしょう。

JYMAの学生たちと掘り出した遺骨を鑑定

JYMAの学生たちと掘り出した遺骨を鑑定

壕の入り口で、遺骨を探す。後方は筆者の律子

今年の現場の壕口で、遺骨を探す。後方は筆者の律子

及ばずながら、後継する仕事をさせて頂く私らも、ずっと国吉さんの事を忘れません。でも、また、気が向いたら、いつでも現場に来てください。厳しい場所は、哲二におんぶさせても歩かせます。余生は、自ら築かれた戦争資料館で、これまでのお仕事の内容を語り、聞かせてください。ありがとうございました。でも、ほんとに引退するの?。まだ、信じられないけど‥