みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

2019年遺骨収集78日目 戦没者の遺留品をご遺族へ返還しました

    みらボラの梅原リーダー(左)から、ご遺族へ手渡される戦没者の遺留品

今から3年前の2016年春に沖縄本島南部の壕内で発見した遺留品を先月上旬、関東地方のご遺族へお返ししてきました。戦没者の水筒、腕時計、カミソリ、石鹸箱、ボタン類です。実は一緒に遺骨も発掘したのですが、今回は残念ながら故郷へお帰り戴けませんでした。

    糸満市国吉の壕から発掘した遺留品

身元を特定させるDNA鑑定ができる可能性もあったのですが、処々の事情で最終の照合にまで至らなかったのです。残念な結果となりましたが、大切な遺留品はお届けできたので、ひと安心。ここに発見から返還までの経緯を報告いたします。ご遺族の意向で、ホームページなどへの掲載は、「匿名でお願いしたい」との申し出がありましたので、それに則ります。

遺骨と遺留品を発掘した壕の入り口

この遺留品と遺骨は、糸満市国吉台地にある奥行き約5㍍ほどの小さな壕から掘り出しました。奥に畳2畳分ぐらいの小部屋があり、その地面の下に埋もれていたのです。壕の入り口は崩れ、直径50センチぐらいの穴しか開いていませんでした。でも当時は、人が中腰で入れるぐらいのスペースはあったとみられます。

    落盤のため、壕の中は這ってしか動けなかった

当初、入り口の岩に小さな骨が引っ掛かっているのを見つけたのが始まりでした。埋もれていた壕口を約1週間かけて広げて、作業を開始。そこでまず、名字が書かれた水筒が出土、しばらく間をおいて遺骨やその他の遺留品がまとまって出てきたのです。遺骨には下半身がなく、上半身の一部でした。ただ、DNA鑑定の際に重要な歯と顎の骨も一緒に出てきたので、返還に向けて胸が膨らみました。

   壕の入り口近くに引っ掛かっていた遺骨

しかし、残念なことに、ここから迷走が始まります。遺骨を納骨すべき窓口機関と関係が悪化し、信頼して遺骨を託すことが躊躇われる出来事があったのです。そのため、厚労省へ直接持ち込むべく交渉を始めましたが、「沖縄で見つけた遺骨は沖縄へ納骨してほしい」とされ、受け取って戴けません。

    土の下から発掘した上半身の遺骨

遺骨は本土へ持ち帰っており、何とか融通を利かせてもらうべく交渉を続けましたが、まったく取り合ってくれません。この時点で、水筒に刻まれた名前から、戦没者を割り出していました。平和の礎にも名があったので、ご遺族とも連絡が取れたのです。が、ここでも問題が・・

    壕内で遺骨を探す

この戦没者の出身地であった北関東の県庁とのやり取りの最中、戦没者の身元を調べてくれていた学生団体から、「もう一人該当する方がいるようです」との指摘がありました。再度、国や県に調査を申し入れたところ、戦没者名簿に誤植があり、同姓の方が二人存在するとの報告があったのです。詳しく調べると、平和の礎の名も間違って刻まれていました。

    名前が刻まれていた水筒

これで、ご遺族の候補が2家族となりました。両家の意思を確認すると、息子さんたちが「受け取りたいし、DNA鑑定も希望する」との返答。その時、新たに判明したご遺族には、戦没者の奥さまがご存命であることが判りました。寝たきりになられていますが、意思の疎通はできたそうです。時間との闘いが始まりました。

    髭剃りに使っていたとみられるカミソリ

    石鹸箱。珍しく、中身が残されており、ほのかに香料の香りがした

何とか、遺骨を厚労省で受け取ってもらえるよう、再度、交渉しましたが、木で鼻をくくったような返答が繰り返されます。何度も執拗に食い下がりました。が、結局、沖縄でしか受け取れない、との結論は変わりませんでした。仕方なく、再度、沖縄を訪ね、窓口の機関へ納骨しました。発見から、10か月が過ぎていました。

    陸軍兵士の上着のボタンなど

この時点で、厚労省の窓口へご遺族の事情も説明し、鑑定に向けた手続きを急いでもらうよう、お願いしました。遺骨や遺留品の発見を知ったためか、ご存命の奥さまが食事を取らなくなってしまったとの報告を受けていたからです。心配が募ります。当初は、毎月のように鑑定の着手を申し入れました。でも、のらりくらりとした返答しか返って来ません。

    埋もれた状態の遺骨。約1㍍近く土を除去した

「順番通りにやっている」「南方の遺骨はDNAが壊れている可能性が高いので、抽出しやすいシベリアなどの戦没者を優先している」など。待ち続けているご遺族ともに、イライラする時間が過ぎて行きます。あまりに頻繁に催促するのがよくないのか、とも思い、少し期間をおいて連絡しましたが、今度は忘れているかのような、気持ちの籠っていない口調になったのです。

    掘り出したときの腕時計の文字盤

そして2017年の秋、奥さまは死去されました。さらに翌年、もうひと家族の戦没者の息子さんも死去されたのです。立て続けに関係者が亡くなったことを伝えるのと同時に、怒りを込めて急ぐようにお願いしました。でも、まったく対応は変わりません。もう限界。知り合いの政府関係者らを通して、厚労省へ問い合わせてもらいました。

    戦没者の写真と腕時計を照合する学生

すると、手のひらを返したような対応に。窓口だった職員は担当を外れ、その上司が懇切丁寧に取り組むことを伝えてきたのです。そこからは、一気に進みました。遺骨からのDNA採取に着手。歯や顎の骨からの抽出は出来ませんでしたが、腕の骨から細胞内のミトコンドリアに存在するDNAを採取できたのです。

    壕口にあった歪んだコイン

この時点で厚労省から、両家のご遺族へ鑑定への再確認を進めてもらいました。が、このDNAは母親由来でしか受け継がれないので、父と子の鑑定では使えません。ゆえに、戦没者に血の繋がりがある母方の遺族の存在が必要なのです。これが、大きな障害となって立ちふさがりました。

    戦没者が授与された勲章

戦没者の息子さんが急逝されたご遺族は、DNA鑑定に至る前に諦めるとの意思表示があり、奥さまが亡くなったご遺族は、母方の生き残りを探すのが難しい、との結論に達したのです。これで事実上、遺骨は遺族の元へ帰れなくなってしまいました。もう少し保存状態が良ければ、発見時期が早ければ、核DNAが破壊されていなかった可能性もあり、70数年の歳月の経過が恨めしいです。

    戦没者が授与された賞状

残念極まりないですが、ご遺族の意思なので仕方がありません。私たちが手続きにもたついたことで鑑定まで漕ぎつけられなかった可能性もあり、猛省しています。同時に、再三にわたって申し入れたにもかかわらず、着手してくれなかった国の対応にも、はらわたが煮えくり返る思いです。

    時計の裏面を見て表示がないか調べる

結局、遺骨の返還は出来ませんでしたが、遺留品は受け取って戴けることになりました。この時点で、刻まれた名前と階級、発見場所と戦死場所、戦死の日時などから、奥さまがご存命だったご遺族のものである確率が高まりました。特に、出土した腕時計を戦没者が身につけている写真が残っていたのです。

    白い文字盤の腕時計を着けた戦没者

この方は、千葉県で編成された野戦高射砲第79大隊 (球2172部隊)に所属されていました。戦死の日付は1945年6月23日で、戦没場所は糸満市摩文仁となっています。最終階級は軍曹でした。沖縄には44年の夏に上陸、本島中部の読谷村にあった陸軍沖縄北飛行場や知念半島などの守備についていました。上空から攻撃してくる爆撃機などを迎撃する部隊で、「88式7糎(センチ)半高射砲」を使っていたそうです。

    野戦高射砲部隊の写真

ただ、旧日本軍の戦闘のようすを今に伝える「戦史叢書(せんしそうしょ)」などの記録にも、この部隊の戦闘の状況はほとんど残っていません。また、生き残りの方も極めて少ないため、報告できるような資料がほとんど現存していないのです。他部隊の生き残りの将兵やわずかに点在する情報を元に、亡くなった経緯を探ってみました。

    沖縄戦で米軍に接収された野戦高射砲

その前に、野戦高射砲が沖縄戦でどう使われたのかをわかる範囲で説明します。本来、高射砲は航空機などを迎え撃つ兵器として作られました。米軍が本島へ上陸する前の44年10月、那覇市内を中心に大規模な空爆がありました。有名な「十・十空襲」です。その時には、この部隊も奮闘したとみられます。ただ沖縄の地上戦での高射砲は、上陸してきた米軍の対戦車戦にも使用されました。

    野戦高射砲を操作する旧日本兵

今もご存命である、歩兵第32連隊第一大隊の伊東孝一・元大隊長によると、日本軍の持つ歩兵砲は威力が弱く、米軍のM4戦車の正面鉄板を貫けなかったそうです。待ち伏せなどをして側面を狙う攻撃で、ようやく破壊できた、と話されています。それが、7糎半高射砲を水平に撃てば、戦車にも十分威力を発揮したそうで、本島中部のシュガーローフ・ヒルや前田高地など戦闘で、実際に使用されたこともありました。

    伊東孝一さん

ただ、砲を一度設置すると、移動させるのは容易ではなかったようです。敵戦車が来て一発放てば、もう移動が不可能なので、物量に勝る米軍からあっという間に集中砲火を浴びて、完膚なきまでに叩かれたそうです。ゆえに、北飛行場や小禄飛行場、首里の日本軍司令部を守る戦いなどで、ほとんどの高射砲は使用不能となり、部隊の兵士たちも砲を捨てて、後方へ下がらざるを得なかった、とされています。

    様々な砲弾の薬きょう

それでもこの部隊は、他の歩兵部隊と混成したり、敵戦車へ特攻したりしながら南部へ敗走し、最終的には糸満市米須地区で玉砕されたそうです。生き残りの方は、現在、ほとんどいらっしゃいません。ただ、遺留品の持ち主の軍曹は、この場所で亡くなったとは思えません。その理由は、米須から北西へ1キロほど離れた国吉台地の中腹にある小さな壕内で、遺留品とご遺骨を発見したからです。

    壕の横で不発弾を処理する自衛隊員

この台地では6月18日頃まで、前述した伊東大隊長が率いる歩兵32連隊が、南下してくる米軍と激しい戦闘を繰り広げていました。日本軍の最後の防衛線を守る戦いであり、ここを突破されたら摩文仁の司令部へ敵の手が届いてしまいます。そのため、32連隊の負傷兵も軍医らも、すべての将兵が死に物狂いで戦い、米軍へ多大な損害を与えました。

    伊東孝一元大隊長の戦争中の写真

もしかしたら遺留品の持ち主も、この戦闘に参加されていたかもしれません。32連隊が米軍を迎え撃った壁面の裏側の壕にいらっしゃいましたが、この台地のすべての地点で、米軍は激しい抵抗を受けており、最後の力を振り絞って、敵に一矢報いようとした可能性があるのです。壕の通路に米軍の手りゅう弾の破片や部品を複数見つけました。狭い空間なので、ここに爆弾を投げ込まれたら、ひとたまりもなかったでしょう。奥の小部屋に堆積した土の下から、水筒が出土し、数十センチ下から遺骨とかみそり、石鹸箱、腕時計が相次いで出てきました。

    沖縄で戦没した兵士の写真

沖縄戦の戦没者の遺骨

米軍が大規模な空襲を実施した44年から約1年間、亜熱帯の島で戦い続けた軍曹の戦争は、ここで終わったとみられます。そして、2016年の春、学生ボランティアらの手によって発見され、ようやく故郷へ帰れることになりました。受け取って下さった息子さん夫妻や孫夫妻、曾孫さんたちも、喜んでくださいました。

    戦没した軍曹と2年前に亡くなられた奥さまの名が刻まれた位牌

感極まって涙ぐむ学生たち

ご遺骨をお届けできなかったことは悔やまれますが、その生きた証をお渡しできてよかったと胸をなでおろしています。今後は、関係機関との連携を密にし、できるだけ早く、的確に手続きを進めたいと考えています。今、新たに掘り出した遺骨の身元捜しを開始しました。今度こそ、ご遺骨に故郷へ帰って戴くためにがんばりたいと思っています。

    遺骨収集を終えて壕から出てくる

2019年遺骨収集80日目 遺留品返還をした学生の所感

    ご遺族へ遺留品をお渡しする梅原(手前)

●中央大学3年 梅原紅音

足掛け3年も掛かりましたが、今春、ようやく遺留品を返還できました。ご長男を始めとするご遺族の皆さまにとても喜んでいただき、あたたかい気持ちでいっぱいになりました。本当によかったです。北海道で昨夏、佐々木高喜さんのご遺族へ万年筆をお届けしたときも、親戚中が集まって受け取ってくださいました。私たちの取り組みが、戦没者のことを想い続けたり、子孫へ語り継いだりする機会になることが何よりもの喜びです。ご遺族の心の中に、戦没者が生き続けてくれることを心よりお祈りしています。

野戦高射砲

「野戦高射砲第79大隊」。初めて聞く部隊の名です。そして、今まで知らなかった武器を写真で見た時、心底驚きました。攻撃力は高いが、一度設置したら簡単に動かすことができない作りとは・・。冷静に考えて、物資や武器、兵士の数など、すべてにおいて米軍に勝てない状況で、互角に戦うことができると思っていた当時の風潮に、戸惑いを隠せません。

千人針に縫い込まれていた五銭硬貨。死線(四銭)を越えるというゲンを担いだ

頼りにしていた兵器を置いて、敗走せざるを得なかった戦没者の無念を考えると、気の毒でならないのです。「残念ながら父の記憶はない」と俯かれるご長男が、押し入れの奥に残していた写真やはがき、勲章など見せて下さいました。奥さまが産気づいた数日後、沖縄から帰宅し、生まれたばかりの息子の顔を見に来たそうです。それを感慨深げに語るご遺族をみて、ここにも戦争の悲劇を精算しきれていない日本人の姿を感じました。

戦没者の遺影を眺める

そして、今回の最重要な課題、と考えていたDNA鑑定。母親由来にしか受け継がれないミトコンドリアDNAしか抽出できなかったので、ご長男はそれ以上の進展を望まれませんでした。それがとても心残りです。親戚中に頼み込んででも鑑定して下されば、戦没者が74年ぶりに家族の元へ帰れる、という奇跡を、多くの方に知ってもらえる可能性もありました。戦争で家族を亡くした方々の希望に繋がる事例でもあったので、重ねがさね残念です。

返還に参加して下さった村田先生(左から三人目)。奥さまの遺影が見守って下さった

たくさんの方に、この遺留品の返還に携わって戴けました。ご遺族へ導いて下さったのが浜名先生。そのきっかけを村田先生が紐解いたそうです。お返しできた後、先生たちとの反省会で、「すごい取り組みに関われて本当によかった。ここへたどり着くために、ひとつの事柄が欠けても成就できなかったね。ご遺族に喜んで戴けたことが、素晴らしい成果だよ」と労って下さいました。私たちの力だけでは、ご遺族にたどり着くことすらできなかったと思います。奇跡と呼べる場に、また立ち会えることができたのも、協力してくださった皆さまのおかげです。

ご遺族の手を握って別れを惜しむ高木

●中央大学4年 高木乃梨子

ずっとお返ししたかった戦没者の水筒。3年の時を経て、ようやくご遺族の元へお届けすることが出来ました。名前を2か所に彫り、表面の金属に汗の痕跡が染み付いている事から、几帳面な方が肌身離さず付けていたのだろうね、とメンバーで話していました。すると、お会いできたご長男も、その息子さんも、とても几帳面な方だと聞いて、何気に嬉しかったです。

戦没者と奥さまの仏前で祈る高木

居間に飾られている奥様の遺影を前に、戦没者の話に花が咲きました。水筒や石鹸箱、かみそりなどを机に並べたら、それぞれを手に取って感慨深げに見つめられています。職業軍人として忙しくて家業は手伝わなかったけど、息子の顔を見るため戦地からとんぼ返りしてきた姿に、家族思いの父親の優しさを感じました。時の経過でご遺骨が劣化してしまい、返還が叶わなかった事、奥様が亡くなられる前にお届けできなかった事が、何よりも残念で心残りです。

    おもわず涙がこぼれてしまった中野

●東京家政大学3年 中野美樹

戦没者の遺留品をご遺族へお返したときのことです。その場で感じた様々な感情が溢れてしまい、私の想いをご遺族へ伝えながら、涙がこぼれてしまいました。遺留品一つひとつに、当時の情景や様々な想いが内包しているのを目の当たりにしたからです。それが鮮やかによみがえったとき、新たな時が刻まれる瞬間に立ち会えたように感じました。私にとって、一生忘れられない1日です。

自宅に残されていた手紙を読み解く

水筒に刻まれた文字をご遺族が見つめられている時のこと。浜田さんが「陸軍の兵士全員に同じ水筒が支給されたそうです。でも、名前を刻む方は稀なようでした」と伝えると、ご遺族が「じゃあ、父はまめな方だったのね。それが、家族にも遺伝しているのかしら」と会話が続きました。とても楽し気に、活きいきと話されるのです。それは、74年前の遺留品がご遺族へ語り掛けた瞬間でした。言葉に表せない温かな気持ちで、胸がいっぱいに満たされるようです。

戦没者の所持品とみられる腕時計

最新式の時計や戦没者の賞状から、位の高い方だったと推察しました。土の中から掘り出した遺留品を照らし合わせると、それぞれ違った背景や風景が想い起こされる感覚が、頭から離れません。ご遺族とお会いしている時間と場が、現代ではないような、タイムスリップしているような気分です。自分自身が向き合っている、どの瞬間を切り取っても、窓の外と空気が違うように感じていました。

戦没者の写真を見つめる

今回、初めて遺留品返還に参加しましたが、私たち学生が過去に起きた戦争と真摯に向き合い続けることで、若者だからこそ伝えられる事実や想いがあることを知りました。そして、数多くのご遺族を訪ねることが、その地域や人々へお伝えできる想いや言葉に繋がるのでは、と感じられたのです。ご遺族と関わることで、戦争を歴史として捉えるだけでなく、どのような人がどんな想いを胸に抱いて戦地へと向かわれたのか、その傍で、家族や友人、先輩などが、どんな想いで送り出したのか、を学ぶこともできました。

戦没者と奥さまの遺影(右)

この取り組みで得られる情報の重さと内容の濃さに驚いています。それゆえ、過酷な時代を生き抜いた方々の繋がりを埋もれさせずに、現代と未来へと紡いでゆく起点として、この活動を今後も続けていくことが大切だと、実感できました。私ができることは何か、今だからこそできることを知りたい、と願いつつ、これからも、ずっと考えて、行動し続けていきます。

2019年遺骨収集52日目 白梅学徒隊の同窓会の皆さまと交流しました

    掘り出した遺骨を前にした梅原。胸中に様々な想いが巡っている

すっかりご無沙汰してしまいました。

この4月から「みらボラ」のリーダーを任された、中央大法学部3年の梅原あかねです。

    白梅の塔横の壕内で手を合わせるみらボラのメンバー

    白梅同窓会から戴いたご寄付

今回は私が報告いたします。

クラウドファンディングに「しあわせ募金」としてご寄付を戴いた、元女子学徒隊・白梅同窓会(旧沖縄県立第二高等女学校)の皆さまと交流会を開きました。那覇市内のホテルに4人の役員が集まって下さり、戦争中の話や戦後の平和活動などについて、時には熱く、時には静かに涙ぐみながら語って下さいます。

    学徒の生き残りと同窓会の役員から話を聞く

会長の中山きくさまと副会長の武村豊さまは、御年90歳。学徒兵として従軍し、沖縄守備隊の第24師団第一野戦病院で、看護助手として働かれたました。そこで、ケガをした兵士の手術のお手伝いをしたり、切り取られた手足を運んだり、女子学生が担うにはあまりに過酷な体験をされたそうです。

    戦時中の話をされる中山さん(手前の右端)と武村さん(その左)

さらに6月の上旬、米軍の侵攻により、八重瀬町にあった野戦病院壕が移動を余儀なくされ、突然の解散指令と同時に、砲弾が降り注ぐ戦場に放り出されたのです。数名ずつにわかれ、避難する民間人に混じりながら南部へ逃避行するも、46名いた同窓生のうち22名が戦死されました。

    今年、掘り出した遺骨を納骨する梅原

きくさんたちが勤務した八重瀬の野戦病院壕や、糸満市の国吉地区にある白梅の塔横にある壕を見学しましたが、壁面などが火炎放射で真っ黒に焼かれていました。以前、ここで遺骨収集をした先輩たちによると、真っ黒に焼け焦げた遺骨や医療器具などが地面の下に埋もれており、過酷な戦闘の名残りが70余年過ぎた今も、色濃く残っていたそうです。

    元学徒隊の話に身を乗り出して聞き入る学生

武村さんは、戦いのさなかに生き別れた母と姉の所在が今も判っていない、と呟かれます。こぼれ落ちそうな涙を手で押さえながら、「私が従軍したおかげで、母と姉は県外へ疎開できなかった。そのために・・。今も、責任を感じて、胸が苦しくなるときがあるの。せめて遺骨を見つけて、きちんと供養してあげたい」と語って下さいました。

    掘り出した遺骨の前で泣き崩れる梅原

そして、「皆さんの活動は、私たち遺族にとって心の支えになる。ありがとう。今後もがんばってね」と励まして下さいます。優しい語り口調で聞かされる、凄惨な現場の様子。一緒に逃げ惑った友の死の瞬間や、悲しい別れの情景に、思わず身がすくみ、涙がこぼれました。

    みんなで記念撮影

    ずいせん学徒隊の碑にも慰霊のために立ち寄った

私がその場に立たされたら、どうしていいか判らなくなっていたでしょう。このみらボラの仲間たちが戦火にさらされ、一緒に逃げ惑う姿を思い浮かべると、身の毛がよだつようです。戦争は絶対に嫌。どんなことがあっても、起こしてはならないし、巻き込まれないようにしなければ、との決意がより強く固まりました。

    抱き合って別れを惜しむ、白梅学徒の同窓生とみらボラのメンバー

私は中学、高校と沖縄県内の学校に通いました。そのため、他のメンバーよりは、沖縄戦の事を理解していたつもりでしたが、まだまだ不勉強であることを痛感させられました。そして今回の出会いが、さらに平和への願いを強くしてくれたように感じます。

    白梅同窓会の中山会長と再会を誓い合う

ご寄付下さった白梅同窓生の皆さまへ、ささやかではありますが、破棄される予定だった琉球ガラスをリサイクルした「リボーンアクセサリー」のブローチをお贈りいたしました。喜んで頂けたようで、手渡した瞬間に胸へつけて下さる方も。そのおしゃれでお茶目な姿に胸がキュンとして、とても嬉しかったです。

    進呈したアクセサリーを早速、身につけて下さる竹村さん

アクセサリーは、青森県で活動を支えてくれている斉藤ももちゃんが、たった一人で手作りしてくれました。そして、1個ずつに私たちの手書きのメッセージカードを添えました。過酷な戦争を生き抜いて、平和な時代を築いて下さった先人たちへの想いが届いてほしいと、願って。

    みんなで心を込めて書いたメッセージカード

    このブローチを同窓生の皆さまへ進呈した。ささやかなお礼の気持ちを込めて

来年は、学徒たちが働いた壕などで集めたガマ・ガラスを加工したアクセサリーをお渡しする予定です。ガラス集め中に手りゅう弾や遺留品が出てきたのには驚きましたが、まだ、遺骨収集も十分に行われていないのでしょう。これから私たちが、がんばります。長生きされて応援して下さい。

    白梅の塔の上の壕で壕ガラス集めと遺骨収集

    掘り出したガラスと手りゅう弾など

2019年遺骨収集22日目 74年の歳月を経て

岩の下敷きになった頭蓋骨

ここ最近、取り組んでいた壕内の積もりに積もったゴミの下から、ついに遺骨が出土しました。大きな岩の下に頭蓋骨が下敷きになっています。慎重に掘り進め、ようやく埋もれている全貌が見え始めました。頭骨、下腕、骨盤の一部、大腿骨の骨頭などが見え始めています。

頭骨以外にも、骨盤の一部、上腕、下腕、大腿骨の骨頭などが露出し始めた

頑張り続けた甲斐がありました。学生や社会人の皆さまと数年にわたって追い続けた成果です。狭い隙間に頭を突っ込んで掘り続けていた哲二が、「おい、見えたぞ!」と叫び、その一部が小さなトンネル越しに確認できたとき、不覚にも涙がこぼれてしまいました。

 ゴミの壁の手前で土砂を除去する筆者

ただ、この場所は、不法投棄が激しく、人目につかない穴という穴にゴミが投げ込まれています。そして、壕内にはホームレスが生活していた痕跡が残っており、それを片付けるだけでも一年近くかかってしまいました。

壕内に散乱したビール瓶などのゴミ

遺骨の上に積もったゴミや土は約3㍍。生活ごみや農業関連の産廃などが、山積みになっています。遺骨が見つかって喜ばしい限りですが、それらの除去や処理を考えると、まだまだ前途は多難です。

沖縄戦で戦没した兵士たちの写真

これから遺留品の捜索と共に、ご遺族の元へ届ける手続きに向けての準備と完全な発掘作業に臨みます。作業で気を付けるのは、データの抽出のかく乱を避けるために、素手では触らない、マスク着用で臨む、他の場所から出た遺骨と混ぜない、など、行政機関の関係者から指導された手順をきちんと順守しています。

骨盤に張り付いたように食い込む鉄の破片。銃弾なのか、それとも榴弾によるものなのか‥

すべてを掘り出せて、手続きが終わったら、また報告いたします。学生が卒論の提出や試験などのために、まだ来沖していませんが、幸先の良いスタートを切れたようです。二月の半ばには、元気な顔を次々と見せてくれるでしょう。そして、遺骨の発見に尽力して下さった社会人メンバーも再訪されます。準備は整いました。

2019年遺骨収集16日目 今年も沖縄に返って来ました

    構築壕で遺骨収集中の筆者たち(今回の撮影は律子がスマホで担当。すべて去年の写真です)

沖縄の壕の中で、戦没者の遺骨を掘っているとき、手を休めて壁にもたれ、ヘッドライトに浮かぶ天井をぼんやり見つめてしまうことがある。その場所には、お尻と背中がすっぽりと嵌まり込むような窪みがあり、心地よさで時間の経過を忘れ、疲れも重なり、目を閉じてしまいそうに‥。

   出土した薬瓶。中身は不明

ふと、74年前の兵士たちは、どんな想いで壁にもたれていたのか、と思索。父母を案じ、妻を慕い、成長した子の姿を想っていたのだろうか。故郷の美味しい水や米で腹をいっぱいに満たしたい、と飢餓に苛まれたのだろうか。時間が止まったような空間から、何の音も聞こえてこない。

マラリア予防薬の容器

劈くような轟音で南国の空を切り裂いて行く米軍機の喧騒も、この季節に飛来する猛禽が縄張りを主張する声も耳に届いてこない。が、音のない反面、夢か現身なのか、すぐ隣に誰かがいるような感じがする。濃密な人熱れに壕内が満たされたような錯覚。煙草の匂いや汗臭い体臭を感じてしまうのは幻なのだろうか。ふと壕の奥から誰かが歩いてくるような気配も。

日本軍の手りゅう弾

もう20年近くやっているので、何かが怖いわけではないけど、つい気になってヘッドライトを気配に向ける。そこには、ひんやりとした空間とデコボコの壁面が浮かび上がるだけ。ちょっと呆けてきたのかなぁと、立ち上がって耳を澄ますと、相棒が鶴嘴で地面を叩く音が、時折、ズンズンと響いてくる。

土の中に埋もれていた自作の対戦車火炎瓶

齢を重ねるにつれ、これまで見えなかった人の心や姿が朧気に浮かぶようになり、見えていたつもりの人間関係が判らなくなりつつある。スピリチュアルな現象には、ほとんど出会ったことがなく、まったく信じていない。が、今回、伊東孝一さんから預かった手紙を元に活動を続けていると、不思議な縁や出会いに驚かされることが多い。詳しくは語らないが、一瞬の閃きや行動を怠っていたら、出会うことも手紙を返すこともできなかった関係もあった。

    青森県鰺ヶ沢町のわさおの勇姿

これから、どんどん弱ってゆく自分に何が出きるのか。今のままで、夫婦ともに暮らして行けるのか。暗中模索のまま、明日もクワズイモとトゲだらけのブッシュを歩きに行く。これから来るメンバーのために、遺骨や遺留品が出そうな壕を見つけなければ、先遣隊として来てる意味はない。74年前、命を守ることが出来る空間を探し求めた兵士や民間人も、同じようにジャングルを徘徊したのか‥。

北海道のご遺族を再訪。戦没者の遺影を手にした後藤まりあ

家族や国を守るために命を賭して戦った若者たちと、平和な日常が戦禍によって破壊され尽くされた地元の方々が、無念を抱いたまま地中に眠り続けている島。その記憶を時が消し去ってしまう前に、何とか手を差し伸べたい。そんな想いで日々、取り組んでいる。ふるさとで待ち続けている、ご遺族の心を癒す意味も込めて、明日も頑張らなければ。

2019年1月、神奈川県座間市の中学校で「みらボラ」初の講演会を開きました

    沖縄戦の遺留品を見るために前へ押しかけて来た生徒たち

遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。学生メンバーの高木乃梨子です。みらいを紡ぐボランティアのリーダーを担っています。

伊東大隊長へ遺族からのメッセージを届ける高木

    座間西中学校の生徒たちの前で

今年最初の活動は、私たちの取り組みに興味を持って下さった、神奈川県の座間市立西中学校(鈴木直人校長)1、2年生の生徒372人を対象に、講演会を実施しました。アジア・太平洋戦争の最激戦地のひとつとなった「沖縄戦」の概要を知って戴くのと同時に、個々の兵士や留守を守っていた家族がどんな思いで生きたのかを、スライドショーで写真を紹介しながら講話したのです。

    生徒たちへ講話するみらボラの大学生たち

    372人の生徒たちを前に

今の中学生たちにどれだけ当時の状況が伝わるのか。退屈しないかな、怖くならないかな、と、こちらが及び腰になりながら臨みます。私たち大学生にとっても、今回が初めての取り組みですから。

    素晴らしいスピーチで迎えてくれた

    生徒たちと対面。学生としては初めての講演なので、とても緊張した

首都圏郊外の座間市西部に位置する同中学校は、大山連峰が連なる相模川流域の水田地帯にあります。全校生徒は570人で、3年前の2016年に創立50周年を迎えた伝統のある学び舎です。

    屈託のない明るさで

講演を始める会場は体育館。生徒たちが入場してくると、もう涙腺が緩んでしまって、目の前の光景が霞んでしまいます。それは、講演の内容に、齢が14~5歳の沖縄学徒兵の話があるからです。その内容と目の前の生徒たちの容姿がダブって、涙を堪えきれません。

    講演の準備中も、先生の目を盗んでお道化た仕草が可愛い 

沖縄戦では、こんな幼い少年たちが銃を握り、少女は看護助手として戦地に立たされたのです。講演の前に笑顔で友達に話しかける生徒を見て、戦争がなければ当時の学徒たちも、こんな表情で笑いあったのかな、と想いを馳せました。

    ご遺族の手紙の話も真剣に聞いてくれていた

    ご遺族からの手紙を閲覧

挨拶もそこそこに写真のスライドショーが始まり、朗読を開始しました。咳払いひとつなく、静まり返って聞き入る生徒たち。みらボラの3人の学生が、交代で朗読を進めますが、身じろぎする音もほとんど聞こえてきません。「一生懸命に聞いてくれているのかな」、「おもしろくなくて居眠りしていないかな・・」。写真を見せる関係上、会場が真っ暗なので、表情が見えないのです。

    遺留品を見る生徒たち

    前へ詰めかけてくる熱心な生徒たちに、学生が押し出されてしまった

ハラハラしながら、朗読を終え、遺留品を見せながらの質疑応答に入ります。少し難しい話だったから、どうかな?と思っていたら、「どんなお骨でも収集するのですか。小さな破片でも?」と女子からの質問。また、「遺留品はどこに所蔵されるのですか」、「どのくらいの数をご遺族へお返しできるのですか」と、次々と手を挙げて、活動の重要な部分を熱心に聞いてくれます。

    素敵な笑顔で手を挙げてくれた男子生徒

    真剣な内容の質問と眼差しに驚いた

そして、「不発弾はどのくらいありますか。危なくないの?」と、私たちを心配してくれる声も。興味を持ってくれていたんだ。そのうえ気遣ってくれて・・。今度は嬉しさで胸がいっぱいになりました。事務局の浜田夫妻が、生徒の間を歩き回って、質問に応えます。いつも厳しい二人が、とても嬉しそうな笑顔で。

    生徒の質問に答える律子さん。後方は大磯先生

    はにかみながらの質問が可愛い

講演が終わった後、鈴木校長先生や担当して下さった大磯祐志先生とお茶を飲みながら感想を述べあいます。そこでは、いま一つ生徒たちの反応を掴みかねていましたが、その後、綴ってくれた感想を見て、驚きました。その内容をここに紹介いたします。

    生徒の感想① 内容をよく聞いて理解してくれたのが分かる

   生徒の感想② 一生懸命に伝えようとする言葉がいじらしい文章

私たちが伝えたかったことを完璧に理解してくれた内容が、①と③の感想です。20万人以上が犠牲になった、と学校の授業では習ったのですが、その一人ひとりに人生があり、家族があったことに想いを馳せてくれる素晴らしい感想です。②は、同年代の学徒兵が犠牲になったことも理解してくれています。

    生徒の感想③ 中学2年生の文章とは思えないしっかりとした内容

    生徒の感想④ これも2年生の文章。素晴らしい

そして、ボランティア活動の大切さを指摘してくているのが④の感想。女子生徒ですが、繊細な優しさが伝わってきます。私が特筆したいのは⑤の訴えです。簡単に「死ね」とか「死にたい」などと口走ることが、どれだけ命をないがしろにする言葉か。

    生徒の感想⑤ 女子学生が伝えたかったことが、女子生徒に伝わったようだ

    生徒の感想⑥ たった一言だけど、重い言葉。ストレートに伝わってきた

あの74年前の大戦では、大切な家族が紙切れ一枚で召集され、戦地から還ってきませんでした。人の命が虫けらのように扱われた時代。⑥のシンプルな感想をみると、爆弾を背負って戦車に突撃させられた学徒兵の胸中を想い、その辛さと切なさに胸が張り裂けそうになります。

    生徒の感想⑦ 戦争の悲惨さと人命の大切さを感じてくれたようだ

    生徒の感想⑧ 平和の大切さに想いを馳せてくれたことが嬉しい

戦争の悲惨さと恐怖を自らの家族に投影してくれた⑦の感想も秀逸です。「作り話のようだった」と書いてくれた⑧の君。私たちの話を聞いて、戦争への想像を膨らませてくれたようですね。さらに現実=事実を受け止め、世界の平和を願ってくれている感想は100点満点。足を運んだ甲斐がありました。

    遺留品を見たい熱心な生徒に取り囲まれる律子さん

講演を聞いて下さった座間西中学校の生徒さんたちと教職員の皆さまに、心よりの御礼と感謝の言葉を申し上げます。生徒たちに沖縄戦を知って戴こうと企画した私たちが、逆に学ばされる結果になってしまいました。恥ずかしい事ですが、とてもありがたくて、嬉しいです。さらに興味が湧いたら、私たちの活動に参加して下さい。命と平和の大切さを語り継いで行きましょう。

伊東孝一大隊長への356通の手紙 48通目の返還(38番目の家族)

    お手紙を受け取られて号泣する三女・頌子さん〈左から二人目〉と孫・佐江子さんら

岩手日報に紹介されました ↓ 下記のURLをクリック願います。

https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/10/13/25687

岩手県で初めて、お手紙を返還してまいりました。北上市出身の戦没者・舘脇義範さんの娘さんとお孫さんたちへです。父親の安太郎さんが伊東孝一大隊長へ出された手紙で、義範さんの妻・スミさんも文末に名を添えられています。73年ぶりに帰って来た父や祖父の面影に、ご遺族一同は感涙に咽ばれていました。

   安太郎さんが伊東孝一さんへ出された手紙を読むご遺族

手紙の内容です。現代風に口語訳しました。

謹啓

ご親切ながらお手紙下され、誠にありがたく、謹んで御礼(おんれい)申し上げます。子息、義範生存中は、一方(ひとかた)ならぬお世話下され、有難く御礼(おんれい)申し上げます。

承(うけたまわれ)ば、五月五日戦死のよし、軍人として本望のいたりにございます。沖縄の土砂(つちすな)、まさに受納いたしましたので、ご安心下されたく存じます。何分にも今後とも、宜しくお世話下さる様、ひとえにお願い申し上げます。

粗末なる写真、ご送付いたしましたので、お受け取り下されたく存じます。

敬具

父・舘脇安太郎、嫁 舘脇スミ

六月十二日 伊東孝一殿

    左からスミさん、ひとり挟んで、義範さん、安太郎さんらの遺影

享年37歳で戦没された義範さんは、最愛の妻・スミさんや5人の子供たちと暮らされていました。太平洋戦争が開戦した昭和16年(1941年)に出征。満州でソ連との国境の警備に就かれます。

   沖縄での遺骨収集活動の写真を見るご遺族ら

そして、戦況が著しく悪化した昭和19年、第24師団歩兵第32連隊第一大隊の本部付軍曹として沖縄へ。本土決戦を遅らせるための守備隊としての配属です。1000人近い大隊の戦友と共に、極寒の大平原から、亜熱帯の島々へ配置替えになりました。

    手紙には満州で撮影された義範さんの写真が同封されていた

同年10月、沖縄は米軍の大空襲を受けます。そして翌年4月から、空母や戦艦、航空機などの支援を得た18万人を超える米上陸部隊が、大量の武器弾薬を携えて日本軍の陣地に迫ってきました。本島南部の糸満市の海岸線で、敵を迎え撃つための陣地壕を掘っていた義範さんたちへ、同月末、首里の日本軍司令部に近い西原町小波津地区への転進が命じられます。

    仏壇に手を合わせるボランティアの高木乃梨子

それが緒戦でした。近くにある中城湾に集結した軍艦や巡洋艦からの艦砲射撃の支援を受けて、戦車を伴った歩兵が義範さんたちが配置された丘陵地帯に迫ってきます。その侵攻を擲弾筒や肉弾特攻などで防ぎながら、何とか持ちこたえます。ここでも大勢の戦友が亡くなりましたが、米軍を退ける戦果をあげられます。

    義範さんが授与された金鵄勲章の賞状

義範さんが戦没したのは昭和20年5月5日。西原町棚原での戦闘でした。

今回、ご遺族の皆さまへご報告した当時の戦況を記します。

第32連隊の大隊本部に所属されていた義範さんは、5月4日未明から攻勢をかけた棚原高地奪還の戦闘に参加されていました。本部付けの兵士たちは、大隊長や副官らを警護したり、各隊への指令を伝達したりする仕事を主に担っていたそうです。

棚原の戦闘は熾烈を極めました。米軍に四方を包囲された状況で、高地を守備する伊東大隊に、迫撃砲弾が降り注ぎます。さらに、肉薄してくる敵の歩兵と接近戦を挑まざるを得ない状況となり、お互いの投げる手榴弾を互いに投げ返すような戦いだったと、生き残りの方が証言されています。

このとき大隊長や副官は、洞窟内の陣地ではなく、最前線のタコつぼの中から指揮執っていました。明るくなると米軍が戦車を導入。高地の頂上周辺を守備する大隊と所属各隊を取り囲むように攻撃を加えてきます。そんな激戦の最中、義範さんは大隊長らを懸命に守りながら、倒れられました。この戦闘で、600人以上いた配下の将兵が、半数以下に減ってしまったそうです。

   授与された感状

この戦いで、第一大隊は「感状」を授与されています。当時の全国紙にも掲載され、敗走が続く戦線で、部隊の将兵らが大活躍をしたと話題を呼びました。

    感状の当時の報道

ただ、伊東大隊長には、心残りがあります。それは、棚原での戦闘で負傷した兵士を、高地に残したまま撤退したからです。置いて行かれた部下たちが自決したのか、米兵に殺されたのかは、今も不明です。戦後、棚原で捕虜になった兵士の数とその動向を米側へ問い合わせたら、5名ほどが捕虜になったとされていました。でも、誰が生き残ったのか、帰国できたのか、まったく判明していません。今も、現場に残した部下たちのことを忘れられないと振り返られます。ほんとうに可哀想だった。同時に、ご遺族には申し訳ない気持ちで一杯だ、と話されていました。

    帰り際に手を振って別れを惜しんで下さった

伊東孝一大隊長が、終戦直後、ご遺族へ宛てられた手紙です。ガリ版刷りで500人前後のご遺族へ送付されました。中には、個々の部下がどう戦って、亡くなったのかを記した手書きの書簡が同封され、沖縄から持ち帰ったサンゴの破片を砕いた砂も添えられています。

    伊東孝一大隊長が、終戦直後、ご遺族へ宛てられた手紙

現代風の口語訳です。

皇国敗れたりといえども、同君の英霊は、必ずや、更に偉大なる大日本帝国発足の礎となるものと信じております。

さて小官は、八月二十九日まで、部下九十を率いておりましたが、終戦の大命を拝し、戦闘を中止いたしました。

多くの部下を失って、なお小官の生存していることは、何のお詫びの申し上げようもありません。只々(ただただ)小官、未だ若輩にして、国家再建のため、少々志すところがありますので、あえて生をむさぼる次第にございます。願わくは、小官の生命を小官におまかせくだされたく存じます。

恥ずかしき次第ですが、遺品とてございませんゆえ、沖縄の土砂、僅少、同封つかまつりましたので、ご受納くださらば幸甚の至りと存じます。

恩典に関しては、万全の努力をつかまつる覚悟でございますが、不備な点なしとせざるを以て(もって)、ご連絡事項がありましたら、是非ご通知相成りたく思います。

猶(なお)甚だ(はなはだ)勝手ながら、小官に同君の写真一葉を賜らば、無上の光栄と存じます。

又、小官の大隊に属し、小官の連絡漏れの方ありし節は、ご面倒ながら、小官の住所をお知らせ相成りたく、この段、お願い申し上げます。

最後に、重ねてご家族様のご心中、ご同情申し上げますと共に、英霊のご冥福をお祈り申し上げます。

流涕万斛(りゅうていばんこく)でございますが、筆は文を尽さず、文は心を尽くさず。 頓首再拝

昭和二十一年六月一日

伊東孝一

ご家族ご一同様

    報告を聞く義範さんのご遺族

そして、伊東さんが、現在のご遺族へ宛てられたメッセージです。

ご遺族の皆さまには、私自身が直接、出向きましてご報告できないことを、お詫び申し上げます。

もう齢も98歳を越え、目が見えなくなりつつあり、足元も覚束なくなっています。何卒、お許し願います。

沖縄で戦没した私の部下たちは、あの過酷で厳しい戦局の中を、どの日本軍兵士よりも奮闘し、立派に戦い抜きました。戦後、恥を忍んで私が生き残ったのは、そうした部下たちの働きを記録し、世に伝えるためであります。そして、二度と、無謀な戦争を引き起こさない国家を再興するために、及ばずながら尽力させて頂いたつもりです。

どうぞご理解ください。

そして、私の代わりに皆さまの元を訪ねる、遺骨収集のグループをお受入れ戴きたく存じます。この者たちの伝えるメッセージや資料は、私の言葉や気持ちを代弁するものだと、受け止めて下さると幸いです。

    沖縄での遺骨収集活動の委任状に署名して下さる頌子さん

義範さんのご遺族は、この度の手紙返還をとても喜ばれました。まず伊東孝一大隊長へ、「父母や祖父の想いが籠った内容に胸がいっぱいになりました。大切な手紙を保存して下さってありがとうございます」と感謝の言葉。さらに、今回ご支援頂いている皆さまや私たちボランティアグループにも、「よくぞ届けてくださいました。孫のような年代の学生さんが健気に報告されるのを見て涙がこぼれました。ご支援下さっている皆さまへも御礼を申し上げます」とのメッセージを頂きました。

   義範さんのご家族と記念撮影

伊東孝一大隊長への356通の手紙 49通目の返還(39番目の家族)

   手紙に同封されていた歩兵32連隊第一大隊の中村石太郎さんの写真

東奥日報に掲載されました↓(記事末尾に紙面イメージあり)

https://www.toonippo.co.jp/articles/-/98462

お預かりした356通の中で、どうしても返還したかったのが、青森県の中村いよさんのお手紙でした。リンゴで有名な板柳町出身の戦没者・中村石太郎さんの奥さま。私たちが暮らす津軽地方のご遺族の手紙は、なんとこれ一通だけです。昭和21年(1946年)に返信されていました。

    石太郎さんの妻・いよさんの手紙を朗読する学生たち

大好きになって移住した青森県の方への返還。すべて平等に扱っているつもりですが、なぜか力が入りすぎます(笑)。板柳町役場などの協力を得ながら、時にはご遺族宅の前にはり込んで、一年がかりで探しあてた石太郎さんの血縁者は首都圏にお住まいでした。

    興次さん(左端)と興三郎さんに(左から二人目)に手紙を渡す高木乃梨子

青森で、との目論見が外れ、返還は東京都内での実施となりました。受け取って下さったのは、石太郎さんの二男・興次さん(81)と三男・興三郎さん(79)。お孫さんや親族の皆さんも駆けつけて下さいました。

   いよさんの手紙を読むご遺族

とても明るく、快活に受け答えして下さるご兄弟ですが、母の手紙を開き、その内容を見るなり、表情が一変しました。一つひとつの文字を指で追いながら、何度もうなずいています。時には、見つめあい、囁くことも。「代筆と書いてあるけど、これは母さんの言葉だよ」と目に涙が。

    石太郎さんが戦没した場所を説明する学生ら

「父の記憶は声しかありません」と興次さん。手紙に目を落としたまま、言葉を詰まらせます。「兄と喧嘩していたら、やめなさい、と叱る声。それだけです」。たった一つの父の思い出を語ると、突っ伏して号泣、後は言葉を紡げません。

号泣する興次さん。思わず手を握ってしまった

隣でうなずく興三郎さんも、涙を拭おうともしないで、兄に代わって語り続けます。「兄貴は苦労したんだ。だから余計に堪えるんだよ・・」。手紙をお届けした学生たちも、祖父と同年代の方々が、人目もはばからず泣き伏す姿に息をのみます。

    流れる涙を拭おうとせず話し続ける興三郎さん

小作農家だった戦前の中村家では、石太郎さんを筆頭に3人の男子が家計を支えていました。が、中国大陸での戦火が太平洋の島々へ広がるなか、全員を兵役に取られます。大切な働き手の農耕馬2頭も軍馬として供出、いよさんは3人の幼子と年老いた親を支えながら、一家の大黒柱の帰還を待ち望んでいました。

    石太郎さんの3人の息子たちといよさんが写った写真

そこへ、伊東大隊長から、石太郎さん戦死の知らせが。悲しみと落胆に打ちひしがれますが、女性の一文とは思えない力強い言葉で返信されます。その文面からは、夫の死を受け入れ、その無念さを押し殺そうとする強さも感じられました。

    ご遺族の話を聞く学生たち

しかし、行間には、虜囚(捕虜)となってでも生きていて欲しかった儚い願いと、それを断ち切られ、敗戦の厳しい現実を受け入れざるを得ない、悲しい女心が揺れ動きます。代筆の文章ながら、大切な夫を亡くした妻の悲哀と終戦後の暮らしへの不安が滲み出ていました。

    沖縄で掘り出してきた遺留品を見せる

そんな折、石太郎さんの末弟・幸一郎さんが復員しました。いよさんは家を継ぐため、一回り年下の弟と再婚されます。が、終戦間もなき時代、生活は困窮。石太郎さんの長男・準一さんが、風邪をこじらせて死亡したのも、貧しさゆえ医者にかかれなかったからです。

    母の手紙を読んで涙ぐむ興次さん

そして、思春期を迎えた次男・興次さんは、家族を支えるため、中学校を卒業後、地主の所へ5年間、奉公入りしました。そこでは、給金は一銭も貰えず、地面を這いずり回るように働いたそうです。ようやく年季が明けた時、「良く辛抱したな」と土地を少し譲って戴けた、と振り返られます。

    石太郎さんやいよさんが入るお墓に線香を手向ける学生ら

ただ、長男・準一さんが夭逝した後、「母は何かあるたびに、私にあたり散らしました。思い返せば、石太郎の一番年上の息子となった私にしか、気持ちをぶつけられなかったのかもしれません」と遠い目で語ります。

    父母に手向けの曲を吹く前に尺八を掲げる興次さん

「でも、それが、辛くてつらくて・・」。その時、目に留まったのが、「東京・世田谷の農場で牧夫募集」の新聞広告。親兄弟には何も告げずに、長靴履きのまま作業着を包んだ風呂敷を抱え、片道切符を手に家を飛び出します。

    青森の自宅の前で撮影された母の写真を見入る

「とにかく貧しい田舎の暮らしから、抜け出たい一心だった」そうです。そして、「元々は叔父だった新しい父は、私と10才前後しか年が離れていません。そのわだかまりや母への反発心にも、強く背中を押されたのです」と俯きます。19歳の春のことでした。

    母の手紙を読んで、泣きながら思い出を語るご遺族たち

故郷を捨てた興次さんですが、いよさんや弟たちを忘れたわけではありません。必死で働き、牧場主にも認められ、妻をめとり家族ができました。その間、実家へ仕送りを続け、自分が丁稚奉公して手に入れた土地へ、母や新しい兄弟たちが暮らせる家を建てることができたそうです。

   号泣する興次さん。この後、机に突っ伏してしまった

私たちがお届けした、いよさんの手紙を握りしめて、「夫を愛する妻の想いと、戦時下の思想統制がぶつかり合って苦悩する、母の内心が伝わってきます。鬼のような厳しさで私たちに接したのは、実父を失った兄弟に『強く生きろ』と伝えたかったのでしょう。戦争で家族の絆が壊れそうになりましたが、父のことを語り続けてくれた母の愛が、私たちを繋ぎとめてくれたようです。この手紙を読んで、ようやく理解できました」と感極まっておられました。

    母の手紙と父の写真を並べて

興三郎さんは、「今まで大切に保管して下さった伊東大隊長に感謝の気持ちで御礼を申し上げたい。そして、学生さんたち。よくぞ探し当てて、届けてくれましたね。ほんとうにありがとう。もう感動で胸が一杯です」とのお言葉を戴きました。

    学生たちと手を握り合って別れを惜しむご遺族

    みんなで記念撮影

板柳町に何度も足を運んだ結果が報われた瞬間でした。最後に、興次さんが、石太郎さんといよさんに手向ける、慰霊の尺八を演奏。参加した学生や報道関係者の方々も、戦没者と残された家族の戦後史に思いを馳せて、静かに聞き入っていました。

    亡くなった父母へ手向けの曲を吹く興次さん

学生たちの前で尺八を吹く興次さん

現在、故郷で留守を守っているのは、興次さんらと父親の違う五男・司さん(68)です。案内してもらい、学生らとお墓参りしてきました。リンゴの産地、板柳町らしく、たわわな赤い実を結んだ樹々に囲まれた青森県らしい風景の墓地です。

    青森でお墓を守る司さん

興次さんらは、「齢を重ねたせいで、最近は永らく足を運んでいません。が、来年は兄弟揃って、両親の墓参りをします。そして、ありがとうと伝えます」と前を向かれました。ぜひ、青森で再会できますよう、願っています。

    ご遺族が見えなくなるまで手を振ふる学生たち

    東奥日報の紙面

2018遺骨収集活動 最激戦の生き残りを訪ねて㊦ 歩兵32連隊・伊東孝一大隊長

クラウドファンディングを始めています。下記URLをクリックして内容をご確認ください。

https://a-port.asahi.com/projects/1962-1103/

この記事とも関連しますが、学生たちの活動資金が不足しております。本職である学業にも影響が出そうなので、恥ずかしながら寄付を募っています。ご協力願えますと幸いです。最高額を寄付して下さった方には、伊東大隊長が執筆された「沖縄陸戦の命運」のコピー製本版を進呈いたします。非売品で、国立国会図書館や各県の公立図書館にしか置いてません。数に限りがありますので、お早い目にお申し出ください。

   糸満市の壕で岩に割れ目に入って活動中

すっかりご無沙汰してしまいました。少し考えることがあって、戦争関連のブログの更新を休んでいました。活動は継続していますが、思わぬところから横槍が入ったり、嫌がらせをされたりして、ホームページで報告をするたびに度が過ぎることもあり、自重していたのです。

   第24師団の本部壕近くで活動する筆者

でも、少しずつ復活してゆこうと考えを改めました。特に、第24師団歩兵第32連隊の伊東孝一大隊長のお話を、中途半端に放置してはいけないからです。「日本軍で最も優秀な大隊長」と称され、あの沖縄の激戦で、部下と共に物量に勝る米軍を退け続けた勇姿は、終戦から73年が過ぎた今も、敵味方を問わず評価されてきました。

   伊東さんの若き頃の写真。少尉と中尉時代らしい

そんな大隊長を訪ねて2年余りが過ぎました。最初は、糸満市国吉の激戦地で見つけた戦没者の遺留品の身元探しのためです。10人を超える学生を受け入れて下さり、無知で経験不足の私たちに真摯な対応で応えてくださいました。厳しいアンケートも取られて。

   学生たちと打ち合わせをされる伊東孝一大隊長

その時、大隊長が戦後50年の時に出版されていた「沖縄陸戦の命運」を戴き、そこに記載されていた、戦没した部下の遺族へ手紙を出した、という件について、質問してみたのです。「その手紙には、きっと返信が来たはずです。それを今もお持ちですか」と。

伊東さんが出版された沖縄陸戦の命運。クラウドファンディングに最高額寄付して下さればコピー版を進呈します

驚愕されるのと同時に、複雑な面持ちで、「なぜ、そのことが判ったのだ。陸戦の命運を出版して以来、その質問をした者は一人もいない。ここに数十回訪ねてきた自衛官や著述家、ジャーナリストの誰もが問わなかった。その存在に気づいた理由を教えてほしい」と鋭い視線を向けられます。

 奥さま(左から二人目)と資料を見て、協議される伊東さん

遺骨収集活動を続けていると、戦没者の遺留品をご遺族宅へお届けすることがあります。その時、どれだけ月日が過ぎていても、「父や兄、夫の遺品はどこにあった。それはどんな場所だった。遺骨はどうなっていた」と、矢継ぎばやに聞かれることが多いのです。

伊東さんの元へ届いた遺族からの手紙。GHQによって開封された印が刻まれてある

その経験を踏まえた上での質問であったことを返答するのと共に、「終戦直後だと、ご遺族の戦没者への想いは、もっと差し迫ったものがあったのでは。ゆえに、手紙の量や内容も、切羽詰まった留守家族の心情が溢れているのではないですか」と重ねて聞きました。

   瞑想しているかのうような雰囲気で言葉を選んで語られる伊東さん

「うーん」と腕組みして目を瞑られます。そして、「そう。たくさん来たんだ。箱一杯あって、今も大事に保管してある」と言葉を選ぶように話して下さります。さらに、「だが、手紙の存在は、妻にも子にも、戦友にも話していない。海軍の軍人だった父にも知らせていないんだ」と、腹の底から絞り出すかのような口調。

   平和の礎の前で納骨前に骨をきれいにする

学生も同席していたし、新聞記者もいましたので、これ以上聞いてはいけないと感じ、その時はお暇しました。ただ、私たち夫婦もジャーナリストの端くれです。戦地から家族へ送られた戦没者の遺書は、何度か読ませて戴いたことがあったのですが、留守を守る家族の想いは、ほとんど目にしたことはありません。それも箱一杯もの数は‥。

   戦没者の名が刻まれた礎に水を手向ける

青森へ帰ってから約1か月後、大隊長へ手紙を書きました。遺族からの手紙を私たち夫婦に見せて戴けませんか、と。すると、時期を置かず達筆な返信があり、「この遺族からの言葉は私の心に大きな傷を残している。それを公開するのは辛い。実は自分が死んだ後、棺桶に入れて一緒に焼いてもらうつもりだった」と綴られていました。そして、少し時間が欲しい、と。

   当時を語られる伊東さん

春にお会いして、その夏、大学生との地域おこしの活動中に、とても分厚い封書が大隊長から送られてきました。きっと、お断りされる理由が長々と書かれているのだろう、と開封すると、なんと手紙を私たちに託して下さるとのこと。

   掘り出した遺骨の前で手を合わせる学生たち

さらに、「この手紙を世に出してほしい。戦争をゲームのように捉える世代が社会を支え始めている昨今、愚かな大戦の犠牲となった方々の心の痛みをより多くの日本人に感じ取ってほしい」とのメッセージが添えられて。喜びと責任の重大さに、足が震えて背筋がゾクゾクしました。

   糸満市の原野で掘り出した戦没者の遺骨

感謝の連絡をすると、「それでは頼んだぞ。が、安易に扱ってもらっては困る。良いも悪いもすべてを公開しないとダメだ。戦争を賛美する声や非難する声だけを取り上げるのならば託さない」との条件も提示されて。まさに、望むところ。ジャーナリストとして、すべてを伝えることが責務だと、いつも自らに言い聞かせて仕事をしてきましたから。

   伊東大隊長宛てに出された遺族からの手紙を開封する

この時から、伊東大隊長の部下の遺族から寄せられた356通の手紙を返還する活動と取材が始まりました。72年前に手紙を書かれたご遺族を1軒1軒訪ね、希望されたら手渡しでお返しするのです。同時に二度と帰って来ない戦没者への想い、遺族たちの70数年間の人生、伊東大隊長へのお言葉などを聞き取ります。

   ご遺族への返還活動

そして、この活動を、志を同じくする学生たちが手伝ってくれることになりました。アルバイトして稼いだお金を旅費や滞在費にして、健気に頑張ってくれています。彼らと一緒に訪ねたご遺族の戦後の人生を、この後も報告してゆきたいと、考えています。今回は、これで「続く」とさせていただきます。

   糸満市内の壕内で活動する学生たち

2016遺骨収集活動79日目 最激戦の生き残りを訪ねて㊤ 歩兵32連隊・伊東孝一大隊長

伊東大隊長(手前右)と学生たち

伊東大隊長(手前右)と学生たち

今年、遺骨収集活動をした糸満市国吉で、米軍と大激戦を繰り広げた第24師団歩兵32連隊。その中で、敵味方の双方に勇名を轟かせた「歩兵32連隊第一大隊(伊東大隊)」を率いた、伊東孝一様のお宅を学生たちと訪ねました。

身振り手振りを交えて、当時のことを振り返られる

身振り手振りを交えて、当時のことを振り返られる

あの激しい戦闘のなかを生き残り、国へ帰られた後も、お元気で長生きされている姿を見て、驚くのと同時に、お会いできた嬉しさに感動を禁じ得ませんでした。そして、優しい笑顔で、最愛の奥さまと二人、学生を迎えて下さったのです。

庭で学生たちとベンチに座られる伊東隊長と奥さま

庭で学生たちとベンチに座られる伊東隊長と奥さま

今回は、私たちが活動した現場の「当時の状況」を教えて貰い、そこで戦没された方々の情報をいただくのが目的です。そして、学生たちが発見した名前の刻まれた遺留品を、ご遺族へ返還するための手がかりになればと考え、面会をお願いすることにしました。

質問に答えて下さる

質問に答えて下さる

参加したのは、日本青年遺骨収集団(JYMA)と国際ボランティア学生協会(IVUSA)の学生たち10人です。どんな戦場だったのか、勝てる戦いと信じていたのか、戦時中の若者の想いは、郷土の言葉を軍隊で使えたか、など、それぞれが質問しました。

質問するIVUSAとJYMAの学生

質問するIVUSAとJYMAの学生

御年95歳とは見えない、凛とした佇まいの大隊長。背筋を伸ばした姿勢で、学生たちに澱みなく答えてくださいます。目が見えづらくなっている、と言われますが、私たちが提示した遺留品や発掘現場などの写真を手に取って、種類や場所の違いなどを的確に判別なさいます。

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

優しそうな笑みを浮かべられているが、時折、鋭い視線も

その言葉は冷静で沈着。大げさな表現や偏った内容のない、すべてが事実に裏打ちされたお話しです。この世代の方がよく話される、懐かしさを込めた戦場の描写でなく、私たちの目の前に71年前の風景が広がるような、リアルな状況説明が続きます。

学生たちを前に語られる

学生たちを前に語られる

圧倒的な戦力差を誇る米軍が上陸してきた時の事、中部の前田高地周辺で功労をあげた時の戦闘の様子、部下を無駄に死なせない戦い方など‥。決して戦争を美化することのない語り口調が、かえって臨場感を高めます。まさに、感嘆する内容の連続です。よく生きて帰ってこられたなぁ、と。

前田高地近くの戦闘で挙げられた武勲への感状

前田高地近くの戦闘で挙げられた武勲への感状

感状に付けられた伊東大隊長の添え書き

感状に付けられた伊東大隊長の添え書き

ここで、驚いたことが。質問が一段落した後、大隊長から、学生へアンケート用紙が配られました。その中身は、「太平洋戦争について」。①止むに止まれぬ戦争、②愚かな戦争、の質問です。記名なしで10秒以内に思いを答えよ、と記されています。

用意されていたアンケートを配られる

用意されていたアンケートを配られる

戸惑いながら、答えを書く学生。後で聞くと、先の大戦の生き残りである大隊長に配慮して、①と答えた学生が多かったと聞きました。が、お別れの直前、配られた文章の中には、意外な所管が書かれていました。

配られたアンケートを見る学生

配られたアンケートを見る学生

それを学生たちの前で読み上げられます。「率直に申し上げて、『愚かな戦争』であった、と思う。その因をなしているのは、真実を看破する明に欠けて開戦に及んだことであり、その反省無しには戦死者の霊は浮かばれない」

学生への答えを含む声明を読み上げられる

学生への答えを含む声明を読み上げられる

まだ、士官学校本科時代の19歳。海外の戦術や戦略関連の書物を読み漁り、来るべく時に備えていたそうです。そして知ったのは、ノモンハン事件などでソ連軍と戦った旧日本軍の本当の実力。さらに、中国との泥沼の戦争が続く中、米英に宣戦を布告し、南方へ戦端を広げ続ける大本営の無謀さ。その只中で、厳しい現実に気付きながらも、声を上げて変革できなかった無力さを、噛み締めての言葉だそうです。

話を聞く学生たち

一生懸命に話を聞く学生たち

そして、「五十年を恥ぢ永らへて畢生の戦記を出だし世に問はむかな」との和歌に想いを込めて出版された、「沖縄陸戦の命運」を見せて下さいました。この本は、生き残ったことを自責しながらも、部下将兵の勲や自らの戦いの軌跡を残した貴重な沖縄戦の記録です。そこには、凄まじい戦闘に立ち向かう決意と覚悟、上官や部下を思いやる心の揺れが、伊東大隊長の人柄を物語るように記されていました。

学生と一緒に当時を振り返る

学生と一緒に当時を振り返る

ここで、私たちが夫婦が知りたかった質問をひとつ投げかけました。「当時、沖縄を守備していた旧日本軍の中には、同胞である島民へ非道な行為をした兵士がいたと聞きました。が、32連隊が駐屯した国吉で、集落のお年寄りに聞き取りをしたところ、この部隊の悪口をいう人は見つかりませんでした。それよりも、自宅への出入りを許し、一緒に食事をされた、という方も。懐かしんで、会いたい、と話されていましたが‥」

毅然とした態度で、質問に答えられる

毅然とした態度で、質問に答えられる

この質問に、「私は部下に、民間人の家に出入りをしてはいけない、と命じていた。兵士が出入りすると、その家人が敵に狙われやすくなるし、あらぬ誤解を生む恐れもある。だから、安易に行き来する部下はいなかったと思う」と、毅然とした言葉と態度で答えられます。

立ち上がって質問する学生

立ち上がって質問する学生

さらに、「隊の兵舎は、民家を接収しないで自分たちで小屋掛けした。生活の物資も、なるべく自前での調達を目指した。これは、民間人へ負担を掛けないように振る舞え、と訓示されていた、雨宮巽師団長の命令を守っただけだよ」と、謙遜のなかに、上官を敬う返答が帰ってきました。

当時のことを思い起こしながら、冷静に答えて下さる

当時のことを思い起こしながら、冷静に答えて下さる

そうした規律ある行動の結果が、今も、国吉の集落に残っており、この隊を悪く言う住民は、私たちの聞き取りでは、いらっしゃいませんでした。逆に、近くで司令官を殺された米軍側に、残虐な目に遭わされた証言が目立つほどです。

自衛隊からの感謝状

自衛隊からの感謝状

そして終戦の後も、良好な関係は続き、隊の炊事を担当して下さった沖縄の女性たちと、ずっと交流をされていたそうです。武装解除を受け、米軍の捕虜になるときも、その女性たちが泣いて別れを惜しんでくれた、と振り返られます。

最後に学生たちと記念撮影。笑顔がこぼれた

最後に学生たちと記念撮影。笑顔がこぼれた

最後に、奥さまと共に、遺骨収集をする学生たちへ感謝と労いの言葉を掛けて下さいました。伊東大隊長のお話は、まだまだ描き足りません。また、お会いしに行く用事が近々できそうです。その時に、続きを書くつもりです。ご期待ください。