みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

伊東孝一大隊長への356通の手紙 49通目の返還(39番目の家族)

   手紙に同封されていた歩兵32連隊第一大隊の中村石太郎さんの写真

東奥日報に掲載されました↓(記事末尾に紙面イメージあり)

https://www.toonippo.co.jp/articles/-/98462

お預かりした356通の中で、どうしても返還したかったのが、青森県の中村いよさんのお手紙でした。リンゴで有名な板柳町出身の戦没者・中村石太郎さんの奥さま。私たちが暮らす津軽地方のご遺族の手紙は、なんとこれ一通だけです。昭和21年(1946年)に返信されていました。

    石太郎さんの妻・いよさんの手紙を朗読する学生たち

大好きになって移住した青森県の方への返還。すべて平等に扱っているつもりですが、なぜか力が入りすぎます(笑)。板柳町役場などの協力を得ながら、時にはご遺族宅の前にはり込んで、一年がかりで探しあてた石太郎さんの血縁者は首都圏にお住まいでした。

    興次さん(左端)と興三郎さんに(左から二人目)に手紙を渡す高木乃梨子

青森で、との目論見が外れ、返還は東京都内での実施となりました。受け取って下さったのは、石太郎さんの二男・興次さん(81)と三男・興三郎さん(79)。お孫さんや親族の皆さんも駆けつけて下さいました。

   いよさんの手紙を読むご遺族

とても明るく、快活に受け答えして下さるご兄弟ですが、母の手紙を開き、その内容を見るなり、表情が一変しました。一つひとつの文字を指で追いながら、何度もうなずいています。時には、見つめあい、囁くことも。「代筆と書いてあるけど、これは母さんの言葉だよ」と目に涙が。

    石太郎さんが戦没した場所を説明する学生ら

「父の記憶は声しかありません」と興次さん。手紙に目を落としたまま、言葉を詰まらせます。「兄と喧嘩していたら、やめなさい、と叱る声。それだけです」。たった一つの父の思い出を語ると、突っ伏して号泣、後は言葉を紡げません。

号泣する興次さん。思わず手を握ってしまった

隣でうなずく興三郎さんも、涙を拭おうともしないで、兄に代わって語り続けます。「兄貴は苦労したんだ。だから余計に堪えるんだよ・・」。手紙をお届けした学生たちも、祖父と同年代の方々が、人目もはばからず泣き伏す姿に息をのみます。

    流れる涙を拭おうとせず話し続ける興三郎さん

小作農家だった戦前の中村家では、石太郎さんを筆頭に3人の男子が家計を支えていました。が、中国大陸での戦火が太平洋の島々へ広がるなか、全員を兵役に取られます。大切な働き手の農耕馬2頭も軍馬として供出、いよさんは3人の幼子と年老いた親を支えながら、一家の大黒柱の帰還を待ち望んでいました。

    石太郎さんの3人の息子たちといよさんが写った写真

そこへ、伊東大隊長から、石太郎さん戦死の知らせが。悲しみと落胆に打ちひしがれますが、女性の一文とは思えない力強い言葉で返信されます。その文面からは、夫の死を受け入れ、その無念さを押し殺そうとする強さも感じられました。

    ご遺族の話を聞く学生たち

しかし、行間には、虜囚(捕虜)となってでも生きていて欲しかった儚い願いと、それを断ち切られ、敗戦の厳しい現実を受け入れざるを得ない、悲しい女心が揺れ動きます。代筆の文章ながら、大切な夫を亡くした妻の悲哀と終戦後の暮らしへの不安が滲み出ていました。

    沖縄で掘り出してきた遺留品を見せる

そんな折、石太郎さんの末弟・幸一郎さんが復員しました。いよさんは家を継ぐため、一回り年下の弟と再婚されます。が、終戦間もなき時代、生活は困窮。石太郎さんの長男・準一さんが、風邪をこじらせて死亡したのも、貧しさゆえ医者にかかれなかったからです。

    母の手紙を読んで涙ぐむ興次さん

そして、思春期を迎えた次男・興次さんは、家族を支えるため、中学校を卒業後、地主の所へ5年間、奉公入りしました。そこでは、給金は一銭も貰えず、地面を這いずり回るように働いたそうです。ようやく年季が明けた時、「良く辛抱したな」と土地を少し譲って戴けた、と振り返られます。

    石太郎さんやいよさんが入るお墓に線香を手向ける学生ら

ただ、長男・準一さんが夭逝した後、「母は何かあるたびに、私にあたり散らしました。思い返せば、石太郎の一番年上の息子となった私にしか、気持ちをぶつけられなかったのかもしれません」と遠い目で語ります。

    父母に手向けの曲を吹く前に尺八を掲げる興次さん

「でも、それが、辛くてつらくて・・」。その時、目に留まったのが、「東京・世田谷の農場で牧夫募集」の新聞広告。親兄弟には何も告げずに、長靴履きのまま作業着を包んだ風呂敷を抱え、片道切符を手に家を飛び出します。

    青森の自宅の前で撮影された母の写真を見入る

「とにかく貧しい田舎の暮らしから、抜け出たい一心だった」そうです。そして、「元々は叔父だった新しい父は、私と10才前後しか年が離れていません。そのわだかまりや母への反発心にも、強く背中を押されたのです」と俯きます。19歳の春のことでした。

    母の手紙を読んで、泣きながら思い出を語るご遺族たち

故郷を捨てた興次さんですが、いよさんや弟たちを忘れたわけではありません。必死で働き、牧場主にも認められ、妻をめとり家族ができました。その間、実家へ仕送りを続け、自分が丁稚奉公して手に入れた土地へ、母や新しい兄弟たちが暮らせる家を建てることができたそうです。

   号泣する興次さん。この後、机に突っ伏してしまった

私たちがお届けした、いよさんの手紙を握りしめて、「夫を愛する妻の想いと、戦時下の思想統制がぶつかり合って苦悩する、母の内心が伝わってきます。鬼のような厳しさで私たちに接したのは、実父を失った兄弟に『強く生きろ』と伝えたかったのでしょう。戦争で家族の絆が壊れそうになりましたが、父のことを語り続けてくれた母の愛が、私たちを繋ぎとめてくれたようです。この手紙を読んで、ようやく理解できました」と感極まっておられました。

    母の手紙と父の写真を並べて

興三郎さんは、「今まで大切に保管して下さった伊東大隊長に感謝の気持ちで御礼を申し上げたい。そして、学生さんたち。よくぞ探し当てて、届けてくれましたね。ほんとうにありがとう。もう感動で胸が一杯です」とのお言葉を戴きました。

    学生たちと手を握り合って別れを惜しむご遺族

    みんなで記念撮影

板柳町に何度も足を運んだ結果が報われた瞬間でした。最後に、興次さんが、石太郎さんといよさんに手向ける、慰霊の尺八を演奏。参加した学生や報道関係者の方々も、戦没者と残された家族の戦後史に思いを馳せて、静かに聞き入っていました。

    亡くなった父母へ手向けの曲を吹く興次さん

学生たちの前で尺八を吹く興次さん

現在、故郷で留守を守っているのは、興次さんらと父親の違う五男・司さん(68)です。案内してもらい、学生らとお墓参りしてきました。リンゴの産地、板柳町らしく、たわわな赤い実を結んだ樹々に囲まれた青森県らしい風景の墓地です。

    青森でお墓を守る司さん

興次さんらは、「齢を重ねたせいで、最近は永らく足を運んでいません。が、来年は兄弟揃って、両親の墓参りをします。そして、ありがとうと伝えます」と前を向かれました。ぜひ、青森で再会できますよう、願っています。

    ご遺族が見えなくなるまで手を振ふる学生たち

    東奥日報の紙面

2015年遺骨収70日目 学生たちが戦没者の遺留品を返還

学生から、遺留品の印鑑などを受け取った灰原信之さん(中央)

学生から、遺留品の印鑑などを受け取った灰原信之さん(中央)

戦没者の灰原利雄さん。遺留品のメガネ、印鑑、ボタン

戦没者の灰原利雄さん。遺留品のメガネ、印鑑、ボタン

平和の礎に刻まれた灰原利雄さんの名前

平和の礎に刻まれた灰原利雄さんの名前

私たちが沖縄で活動のお手伝いをする遺骨収集の学生ボランティアたちが、素晴らしい成果を成し遂げました。終戦から70年が過ぎた今、ただでさえ難しい戦没者の遺族への遺留品返還を自分たちの手で成し遂げたのです。

★朝日新聞に掲載されました。

http://www.asahi.com/sp/articles/ASH585R4RH58TIPE01X.html?iref=comtop_list_nat_n05

喜屋武のジャングルで遺骨収集に臨むIVUSAとJYMAの学生たち

喜屋武のジャングルで遺骨収集に臨むIVUSAとJYMAの学生たち

灰原利雄さんの印鑑

灰原利雄さんの印鑑

灰原利雄さんの印影

灰原利雄さんの印影

それは今年2月、糸満市喜屋武で発掘作業をしていた「IVUSA(NPO法人国際ボランティア学生協会、本部・東京)」の市場涼さん(19)=立命館大=が、「灰原」と刻まれた印鑑を発見したことから始まりました。

印鑑が見つかった壕口。右端が発見者の市場くん

平和祈念公園の戦没者検索システムで調べるJYMAの学生たち

平和祈念公園の戦没者検索システムで調べるJYMAの学生たち

返還された印鑑を見つめる信之さん

返還された印鑑を見つめる信之さん

同団体の派遣期間の終了が迫っていたため、代わりに「JYMA(日本青年遺骨収集団、本部・東京)」の黒田一樹隊長(20)=東洋大=らが、平和祈念公園内のシステムで戦没者の氏名などを検索。

平和の礎に刻まれた灰原さんの名に触れる今泉ゆりかさん

平和の礎に刻まれた灰原さんの名に触れる今泉ゆりかさん

該当者は岡山県に一人だった

該当者は岡山県に一人だった

戦没者が判明して思わず号泣

戦没者が判明して思わず号泣

第32野戦兵器廠に所属した岡山県出身の灰原利雄さん(当時27歳)と特定。その様子を放映したNHKテレビを見た遺族関係者らが、「私たちの身内ではないでしょうか」と、JYMAの本部などへ申し出て来られました。

遺族の甥・信之さんと母の泰子さん

遺族の甥・信之さんと母の泰子さん

遺留品の印鑑とボタン

遺留品の印鑑とボタン

利雄さんの遺留品と遺族たち

利雄さんの遺留品と遺族たち

そして、IVUSAとJYMAの学生たちの代表者が3月末、戦没者の甥にあたる岡山県久米南町に住む灰原信之さん(68)の元へ、印鑑などをお届けしました。その瞬間に立ち会いましたが、感動で涙が止まりませんでした。

信之さんにボタンを手渡すIVUSAの新井裕香さん

信之さんにボタンを手渡すIVUSAの新井裕香さん

利雄さんのありし姿を知る中力政子を手助けする

利雄さんのありし姿を知る中力政子を手助けする

写真などが印刷された資料をめくる

写真などが印刷された資料をめくる

よく頑張ったね、学生さんたち。素晴らしい働きぶりでしたよ。君たちと出会えて、ほんとうに良かった。

学生たちに頭を下げる信之さんに、涙ぐむIVUSAの新井裕香さん

学生たちに頭を下げる信之さんに、涙ぐむ新井裕香さん

涙ぐむ信之さん

顔を覆う信之さん

発言しながら、言葉に詰まるJYMAの松本昌之くん

発言中に声を詰まらせるJYMAの松本昌之くん

遺留品を受け取った信之さんも、「こんな形で帰ってくるとは‥。もう、奇跡としか思えません」と、感無量の様子。父親の弟になる利雄さんが戦死した2年後に生まれ、叔父の話は、沖縄で戦死したとしか聞かされていませんでした。

学生から説明を受ける

学生から説明を受ける

学生たちに囲まれる信之さん

学生たちに囲まれる信之さん

印影の横に、ゆりかさんへのお礼を書く信之さん

印影の横に、ゆりかさんへのお礼を書く信之さん

印鑑を届けにきた学生たちから、発見場所のジャングルの様子や、利雄さんが戦没した当時の戦いの記録などを聞いて、「喜屋武で戦死とあったので、てっきり岬に近い海辺で亡くなったと思っていました。それが‥」と、驚かれています。

信之さんらが暮らす街の高台にお墓がある

信之さんらが暮らす街の高台にお墓がある

学生たちと一緒に利雄さんのお墓へ

学生たちと一緒に利雄さんのお墓へ

学生たちと一緒にお墓を清める

学生たちと一緒にお墓を清める

そして、「学生さんたちがたいへんな労苦を重ね、叔父の生きた証を見つけてくれたことが、何よりも嬉しい。弟の身を案じながら亡くなった父も、きっと喜んでいるでしょう。これで灰原家の戦争が終わりそうです」と、目じりを拭われました。

全員でお墓に手を合わせる

全員でお墓に手を合わせる

先祖のお墓にも礼節を忘れずに

灰原家の先祖のお墓にも礼節を忘れずに

なんか去りがたい。利雄さんのお墓に語り掛ける

なんか去りがたい。利雄さんのお墓に語り掛ける

今回は、印鑑と同じ場所で見つかった黒縁の丸いメガネや軍服のボタンも学生が持参。生前の利雄さんの写真を見て、同じメガネであることを確認したうえで、これらも返還されました。

メガネと利雄さんの写真

メガネと利雄さんの写真

利雄さんのメガネを掛けてみる信之さん

利雄さんのメガネを掛けてみる信之さん

利雄さんの写真に見入る市場くん

利雄さんの写真に見入る市場くん

戦没者の遺骨収集活動をボランティアで約60年間も続ける那覇市の国吉勇さん(76)も、「印鑑だけでなく、身に着けていたメガネが遺族の元へ帰ったのは初めてだね。まさに奇跡が重なったような例だ」と、喜ばれています。

学生たちの勧めでメガネを掛けてみる信之さん

学生たちの勧めでメガネを掛けてみる信之さん

写真を見る泰子さんと中力さん

写真を見る泰子さんと中力さん

利雄さんへの想いを込めたメッセージ

利雄さんへの想いを込めたメッセージ

印鑑を発見した市場さんは、「遺留品の返還に携わったことで、戦没者の為人が判り、亡くなった方をより身近に感じることができました。そして、ご遺族が喜ぶ姿を目のあたりにできて、ほんとうに嬉しかったです」と、満面の笑顔。

発見した市場くんと検索した今泉さん。信之さんと何度も握手

発見した市場くんと検索した今泉さん。信之さんと何度も握手

自分たちの活動報告を手渡すIVUSAの新井さん

自分たちの活動報告を手渡すIVUSAの新井さん

お墓詣りの前に、集落を見下ろせる高台で

お墓詣りの前に、集落を見下ろせる高台で

夜行バスで東京から駆けつけたJYMAの今泉ゆりかさん(22)=国学院大=は、溢れだす涙をこらえながら印鑑を受け取る、信之さんと母の泰子さん(92)の手を握り締めて号泣。

堪えきれずに涙が

堪えきれずに涙が

お母さんにお礼

お母さんにお礼

焼香の順番を待つ

焼香の順番を待つ

「今回の活動に携わったことで、埋もれたままの戦没者や肉親の帰りを待ち続ける遺族の戦争は終わっていない、と痛感しました。そんな方々の心情に寄り添える活動を、今後も続けて行きます」と、決意を述べました。

返還には報道陣も駆け付けた

返還には報道陣も駆け付けた

お墓参りも一人ずつ。テレビカメラが密着

お墓参りも一人ずつ。テレビカメラが密着

返還を機に、遺族も学生も、みんなが仲良しに

返還を機に、遺族も学生も、みんなが仲良しに

終戦から70年。戦争の記憶や記録の継承が難しくなる中、遺骨収集を通して、戦没者や遺族に寄り添おうとする若者たちの活動が注目を集めています。今回の返還事業は、NHKをはじめ、読売新聞や朝日新聞などの全国紙、地元の山陽新聞などにも掲載されました。

みんなで記念撮影

みんなで記念撮影

お母さんと一緒に

お母さんと一緒に

そしてお別れ。再会を誓い合っていた

そしてお別れ。再会を誓い合っていた

2015年遺骨収集61日目 「お帰り、あんちゃん」。瞼の兄の万年筆

国吉勇さんと梶原さんの万年筆

国吉勇さんと梶原さんの万年筆

戦争資料館で朝日新聞の木村記者の取材を受ける国吉さん

戦争資料館で朝日新聞記者から取材を受ける国吉さん

沖縄県浦添市沢岻(うらそえし・たくし)の壕で昨年11月、那覇市の遺骨収集家・国吉勇さん(76)が発見した、旧日本海軍所属の梶原隼人さん(戦没当時23)の万年筆が、故郷の福岡県に住むご遺族の元へ返還されました。

★沖縄タイムスに掲載されました

www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=108105

★NHKで放映されました

www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022621000.html

帰ってきた万年筆を見る梶原敦さん(手前右)、妻の(手前左)、長男のさん(後方右)

帰ってきた万年筆を見る梶原篤さん(手前右)、妻のみち子さん(手前左)、長男の秀康さん(後方右)

NHKの取材を受ける梶原篤さん

NHKの取材を受ける梶原篤さん

受け取られたのは、同県篠栗町高田に住む隼人さんの弟・梶原篤さん(86)です。終戦から70年。戦没者の遺留品が、二親等以内の家族へ帰る例は極めて珍しいです。

故梶原隼人さん

故梶原隼人さん

厚生労働省などの記録によると、隼人さんは1944年(昭和19年)6月、千葉県にあった海軍砲術学校の第149防空隊へ入隊。その年の9月、海軍沖縄方面根拠地隊の司令部へ配属されました。

兄隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

兄隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

そして、翌45年(昭和20年)5月3日、南西諸島で米軍などとの戦闘中に戦死、と公報されています。弟さんの話によると、砲撃を担当されていたそうです。

隼人さんの名が刻まれた平和の礎

隼人さんの名が刻まれた平和の礎

隼人さんの名が刻まれた礎と平和祈念公園

隼人さんの名が刻まれた礎と平和祈念公園

沖縄戦の記録などによると、旧日本海軍は、那覇市や豊見城市で、上陸してきた米軍を洞窟戦などで迎え撃ち、ほとんどの兵士がそこで戦没した、とされています。なぜ、浦添市で隼人さんら海軍兵が亡くなっていたのかは、謎のままです。

梶原隼人さんの万年筆

発見された現場で、梶原隼人さんの万年筆を撮影

梶原さんの遺留品などが見つかった壕

梶原さんの遺留品などが見つかった壕

隼人さんの万年筆は、「浦添御殿の墓」がある沢岻公園内のお墓の横に繋がる壕内で、3~4柱の遺骨と一緒にみつかりました。他にも海軍の装備品や武器などが複数出土しています。

浦添御殿の墓

浦添御殿の墓

浦添御殿の墓を説明する立て看板

浦添御殿の墓を説明する立て看板

収容した国吉勇さんは、「畳三畳ほどの狭い壕で、複数の遺骨が岩の下敷きになっていた。隠れていたところを攻撃されたのだろう」と現場の状況を説明されます。他の兵士の万年筆も、4本出てきたそうです。

発見場所の前でNHKの取材チームに説明する国吉勇さん

発見場所の前でNHKの取材チームに説明する国吉勇さん

万年筆の発見現場の高台から、米軍の上陸方面を望む

万年筆の発見現場の高台から、米軍の上陸方面を望む

「お帰り、あんちゃん」。帰って来た万年筆を手に、71年前に別れた瞼の兄を偲ぶ篤さん。ご自身は、隼人さんよりも二カ月早く、愛媛県の松山海軍航空隊・飛行予科訓練生(予科練)に入隊されました。

帰ってきた万年筆を眺める梶原篤さん

帰ってきた万年筆を眺める梶原篤さん

篤さんが出征する時、旧国鉄・飯塚駅(現在のJR飯塚駅)まで見送りに来てくれた優しい兄の姿を忘れられない、と話されます。息子が戦地へ出向く姿を見ることが出来なかったご両親に代わって、送り出してくれたのだ、と当時を振り返られます。

梶原家の集合写真。後方右端が隼人さん。手前右から4人目が篤さん

梶原家の集合写真。後方右端が隼人さん。手前右から4人目が篤さん

当時の自らの写真を手に笑顔で語る篤さん

軍服姿のご自身の写真を手に笑顔で語る篤さん

松山市や宇和島市などで、厳しい訓練を受けていた篤さんのもとへ、隼人さんの達筆な字で、「元気にしているか」などと、励ます手紙が何通も届いたそうです。

隼人さんに贈られた勲八等の表彰状

戦後、隼人さんに贈られた勲八等の表彰状

「それが、この万年筆で書かれたのでしょうか」と、折れた本体に刻まれた氏名を、何度も指でなぞられます。そして、「この万年筆は、あんちゃんのために私が、お店から買って来たものだと思います」と懐かしみます。

帰ってきた万年筆を何度も指でなぞる篤さん

帰ってきた万年筆を、何度も指でなぞる篤さん

あの時代、万年筆は貴重品でもあり、文字を書く上では必需品でした。ゆえに、「万年筆の病院」があったそうで、そこで篤さんが兄のために購入した商品に間違いない、と話されます。

万年筆を仏壇に供え、手を合わせる篤さん

万年筆を仏壇に供え、手を合わせる篤さん

終戦後、「隼人さん」として届いた白木の箱に、手を合わせ続けてきた篤さん。一族の祖霊と共に、供養を怠らなかったそうです。が、どうしても箱の中身は確認できなかったと、うなだれます。

隼人さんの写真を手荷物篤さん

隼人さんの写真を手に持つ篤さん

「兄は沖縄で戦死したと伝え聞いていました。あの地獄のような戦場です。遺骨や遺留品が、故郷へ帰って来られるはずがない。それを知るのが、辛くて、怖くて‥」

万年筆を愛おしげに何度も触る篤さん

手慣れた様子で万年筆を使う篤さん

自らも予科練に志願して、戦地へ赴いた篤さん。71年ぶりの兄の帰宅に、最初は気丈に振る舞われていました。でも、耐えきれないように、「これで、やっと本当のあんちゃんを供養できます」と、溢れ出る涙を拭いながら呟かれました。

隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

息子の秀康さん(後方)や妻のみち子さん(手前左)と万年筆について語る篤さん

息子の秀康さん(後方)や妻のみち子さん(手前左)と万年筆について語る篤さん

隼人さんの万年筆は、篤さんと他の兄弟、家族たちと過ごした後、福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館で、戦後70年企画として開かれている「物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦」で、他の遺留品と共に展示されています。

大刀洗平和記念館の山本館長(中央)と語る篤さん(左端)

大刀洗平和記念館の山本館長(中央)からの展示依頼を快諾する篤さん(左端)

この企画展は、沖縄戦が終結した時期に合わせた6月末まで開催されています。問い合わせは、同館(0946-23-1227)まで。興味がある方は、ぜひ、お訪ねして、ご覧になってください。

物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦の展示場

物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦の展示場