遺骨の収集場所が定まらない中、地域の方々が、「収骨してあげてほしい」と話される、本島南部のジャングルで活動中です。壕口と思われる岩の隙間をこじ開け、約4メートル下の空間に降りた所に、上腕骨や頭蓋骨の破片などが散らばっていました。
残された遺留品などから、旧日本軍兵士の遺骨だと思われます。たぶん、岩山にあった洞窟を改造して構築した陣地が、米軍の砲撃などで完全に破壊され、中に閉じ込められていたようです。明日からも、継続して発掘する予定です。
太平洋戦争が終結して70年。今年も戦没者の遺骨収集のために、沖縄を訪れています。まず、生活インフラの整備をしてから、フィールドに出るのですが、処々の事情で活動が滞っています。その第一の理由が、遺骨収集を取り仕切る沖縄県が、今年から規則を強化し、収集現場の地権者が承諾書にサインしないと、地面を掘ったり、お骨を拾ったりすることもできなくなったのです。
他人の土地を掘らせて頂くので、当然のルールなのですが、この承諾を取り付けるのが難しい。まず、そこの地番を特定するために、行政の窓口で手数料を払い地籍図を閲覧します。次に、地番から持ち主を探し、許可を得なければなりません。遺骨がある場所は、岩山にある壕やジャングルの中です。そうした場所は、長らく放置されているため、持ち主を特定して探し出すのが、超困難なのです。何代も前のおじいちゃんだったり、どこに住んでいるのか判らなかったり‥
そのために、予定が大幅に遅れ、本日、ようやく収集活動を始めることができました。南部の糸満市内のジャングルですが、土地を管理する方が、「ずっと続けてきた活動でしょう。問題ない。やってください。こちらもありがたいですよ」と、快く応じて下さいました。
まさに、多難な前途が予測される「戦後70年の遺骨収集」。ケガの無いよう、頑張るつもりです。関係者の皆さま、今年もよろしくお願い致します。
遺骨収集というと、戦没者の遺骨のみを発掘する作業だと思われがちですが、一緒に出てくる遺留品も、実は大切にしなければなりません。その理由は、遺骨をご遺族にお返しできることは、血縁関係にある遺族の減少などで年々、難しくなっていますが、氏名の刻まれた遺留品は、関係のある親族へお届けできる可能性があるからです。
沖縄戦・戦没者のほとんどのご遺族へは、戦死公報と共に、空っぽか石ころが入った白木の箱が届くだけで、遺骨や遺留品など故人を偲ぶものは何一つ送られていません。当然、形見のような品をお持ちでない場合が多く、一昨年に開始した遺留品の返還活動では、何度も感動的な場面に遭遇しました。
そうした戦没者とご遺族の「69年間の空白」を、一気に埋めてくれる遺留品。今回、出土したいくつかを、ご紹介致します。まず、糸満市喜屋武岬近くで見つけた認識票です。発見した場所は、旧日本軍の陣地になっており、多くの壕やトーチカ跡などが数多く残っています。ほとんどが、米軍からの砲撃を受けて崩落していますが、入り口部分の巨岩を退けたり、人が入れるぐらいの隙間を掘ってやったりすれば、中に入ることができます。
この認識票に刻まれている「山3475」部隊は、陸軍歩兵第32連隊に所属。喜屋武に配属されていましたが、司令部があった首里に近い中部の前田高地へ転戦し、上陸してきた米軍と激しい戦闘を繰り広げた部隊として知られています。真鍮製の一つは、小さな壕を入ってすぐの地面の上に転がっていました。
付近を掘ると、次々と計4枚の認識票が見つかりました。残念ながら2枚は鉄製で、錆びてしまって判読不明でしたが、遺骨収集家・国吉勇さんによると、「これだけまとまって一か所から出るのは初めてだ」と、驚かれています。同じ場所から1~2枚出てくることはあっても、まとまって4枚出土する例は、今まで経験にない、と話されています。
なぜ、1メートル四方の場所から、これだけ多くの認識票が出たのでしょうか。「切り込み」といわれた特攻に出る時、身元を明かさないために置いて行ったのか。それとも、亡くなった戦友の認識票を集めて所持していたのか。集団で降伏する際、日本兵とわからないよう捨てたのでしょうか。
ただ、認識票を掘り出したすぐ脇から、当時のメガネが出土したので、所持品を捨てて降伏したのではなく、戦没されている可能性が高そうです。この認識票の持ち主たちは、大切な戦友同志だったのでしょうか。地獄の戦場で、お互いの故郷や家族の話をして、一度でも心癒される時があったことを願ってやみません。
そして、大量の軍服のボタンがメガネや認識票の近くから出てきました。また、同じ壕の少し離れた場所から、軍服の生地が付着したままのボタンも出土しました。これは、過去に見かけた例はなく、国吉さんの戦争資料館にもありません。大抵は、焼かれたり、朽ちたりして、服地は無くなっているのですが、ボタンを繋ぎ留める糸までがきれいに残っています。遺留品としては極めて珍しいもので、国吉さんも、「奇跡だ!」と、驚かれています。
付近の壕からは、薬瓶やアンプルも出土しました。化粧品で有名な資生堂製の軍用の歯ブラシやランプの芯などもあり、やはりある程度の規模を持った部隊の陣地だったことが伺えます。そして、謎の遺留品。何なのか、どういう目的で使われたのか、国吉さんにもわからないそうです。もし、使用法をご存知の方がいらしたら、お教えください。
沖縄戦末期の島尻の壕には、追い詰められて逃げ場を失った民間人や敗残兵が混在していたらしく、軍の装備品以外にも、お年寄りの入れ歯や子どもの学用品、生活道具などが数多く見つかります。この認識票を掘り出した陣地の近くにある壕からは、子どもの遺骨や歯が見つかりました。
そして、この喜屋武の壕で収集活動をしている最中に、なんと震度4の地震に見舞われました。なんか地鳴りのような音がするなぁ、と思っていたら、グラ、グラグラ。穴掘りに邁進する夫は、ほとんど気づいていないようでしたが、私は肝を冷やしました。だって、大きな岩がお互いを微妙に支え合いながら均衡を保っている狭い壕です。どれかが崩れたら、間違いなく生き埋めになります。
「お願いだから、落ちて来ないで。崩れないで!」と祈りながら、静まるのを待ちました。揺れたのは数秒でしたが、地鳴りはしばらく続いたので、生きた心地がしません。が、夫は、「ん、なんの音。軍用ジェット機が飛んでいるのかな」と、恍けた顔でこちらを見つめています。あんたの頭の上にある巨岩が、一番危ないのよ!。
そして、遺族へお返ししたい遺留品を紹介します。今回、素晴らしい働きを見せてくれた学生ボランティア「IVUSA(イビューサ)」のメンバーが掘り出してくれた万年筆です。糸満市真栄里の病院壕で見つけました。「セーラー万年筆」製で、ペン先も金の完全品です。当時、万年筆は高価だったため、氏名が刻まれているケースが多いのですが、残念ながら今回は見当たりませんでした。ただ、削り取ったような痕跡があり、何らかの理由で名前の部分を消したのでしょう。
同じく、真栄里の病院壕から、学生ボランティアの「JYMA(ジェーワイエムエー)」が見つけた「鹿島」と刻まれた印鑑です。摩文仁にある平和の礎の検索システムで探したところ、本土から出兵してきた戦没者の中に、12人の鹿島さんがいらっしゃることがわかりました。下記の皆さまです。もし、お心当たりのある方は、このホームページにコメントしてください。何としてでも、お返ししたいと考えています。
「鹿島 秀雄」さん(北海道宗谷支庁)
「鹿島 勇」さん(北海道上川支庁)
「鹿島 源熊」さん(東京都)
「鹿島 貞三」さん(東京都)
「鹿島 壬四郎」さん(新潟県)
「鹿島 繁夫」さん(愛知県)
「鹿島 利直」さん(愛知県)
「鹿島吉之助」さん(兵庫県)
「鹿島 石男」さん(徳島県)
「鹿島昭雄」さん(福岡県)
「鹿島 秀夫」さん(大分県)
「鹿島 堅」さん(鹿児島県)
私たちは、返還の活動もすべて無償のボランティアで行っています。もしかしたら、と思う方があれば、HPにコメントしてください。連絡先を書き込んで下さっても、一切公開することはありません。個人のプライバシーは最大限に配慮いたしますので、安心してお問い合わせ下さい。ご連絡をお待ちしています。
今年の私たちの遺骨収集活動も、いよいよ終わりを迎えました。一月末に沖縄入りしてから一か月半、気が付けばあっという間でした。時間切れでやり残してしまった場所や、地元の方から遺骨があるかもしれない、と情報を戴きながら、手を付けられなかった場所が毎年のようにあり、今回も後ろ髪をひかれる思いで沖縄を後にします。
ここ数年は、学生さんをはじめ、多くの方と一緒に活動する機会に恵まれています。最近は、遺骨収集家の国吉勇さんを頼って来る、個人のボランティアも増え、嬉しい気持ちと同時に、沖縄戦と遺骨収集活動の「次世代への継承」について、深く考えさせられます。最終日、彼らと一緒に発掘した遺骨を納骨してきました。
晴れているのに、驟雨に見舞われる、「キツネの嫁入り」のような天気。掘り出した遺骨をいったん広げて、石や遺留品が混ざっていないか最終チェックします。糸満市喜屋武岬近くの壕で収集した遺骨には、子供の骨や歯が数多く混ざっており、手にした時のあまりの小ささに、胸が詰まります。地獄のような戦場で、未来ある人生を奪われた幼き命を思うと、涙が止まりませんでした。
国立戦没者墓苑がある沖縄県の平和祈念公園を訪れたお客さんも、足を止め、時には涙しながら手を合わせて下さいました。失われた命は二度と戻って来ませんが、戦後69年過ぎた今も、冷たい土の中に埋もれていた戦没者が、身を持って戦争の悲惨さと、平和の尊さを教えてくれているような気がします
これで、私たちの2014年の遺骨収集活動は無事に終了することができました。1年間ぶっ通しで、遺骨収集活動をされる国吉さんをはじめ、一緒に作業させて戴きました皆さま、ありがとうございました。
そして、遺骨収集に関する講演会でお話しをする「場」を作って下さった沖縄の仲間たち。心より感謝いたします。関係各位の皆さま、今年もお世話になりました。来年の戦後70年は、もっと長期間滞在したいと想っています。また、必ず帰ってきます。お元気で!
沖縄戦で、米軍が最初に上陸した地点に近い宜野湾市我如古にある病院壕とトーチカ跡で4日間、収集活動をしました。今回は、岡山県から来られた山口つえみさん、長崎県の池原梨恵さん、夫の新聞社時代の後輩二人、国吉親方、私たち夫婦の計7人です。
山口さんと池原さんは、アルピニストの野口健さんたちと一緒に収集活動をされていた方で、昨年来、独り立ちし、国吉親方の元を訪ねて来てくださいました。硫黄島で収集した経験もお持ちで、骨の見分け方などは親方が舌を巻くほど研究されています。
うら若き女性陣の参加に、親方も終始ニコニコしています。そう、私のようなおばさんや、夫のようなホッチャレたおっさんと活動するよりも、数倍、嬉しそうです。が、遺骨が出始めると、「兵士のものだね。焼かれている」と、いつもの厳しい遺骨収集家の顔に戻り、一片も残さないように拾い始めました。
この付近は、上陸した米軍を食い止めようとする日本軍が、最初に激しい抵抗をした防衛ラインで、この壕の近くにある嘉数高地の戦闘は、沖縄戦史に残る大激戦とされています。周辺では、多くの日本兵が亡くなっており、この壕やトーチカの跡からも数多くの遺骨が集められたそうです。にもかかわらず、今回も一人分ぐらいの部位が出てきました。
さて、夫の後輩の新聞記者たちですが、終戦から70年近くが過ぎて、あの大戦をどう伝えるかの模索に入っています。スケジュール的な報道と批判を受けるかも知れませんが、戦争の記憶を持つ世代が減り続けている時代に、何を捉えて伝えるかは、報道機関と記者個人のセンスが問われるところです。
ゆえに彼らは、戦争の記憶を追える様々な現場に足を運び、体験しながら答えを探し出そうとしているのです。南の島のこの現場まで、訪ねてくる心意気や良し。あとは、どう伝えるかでしょう。でも此処で見たことは、一生、忘れえない体験だったに違いありませんし、きっと理解を深めてくれたと信じています。かつて「浜田道場」と呼ばれた、夫の新人記者養成の「虎の穴・門下生」ですものね(笑)
ま、バカな話は置いといて、色々な立場の方が、収集活動に参加し、先の大戦の悲惨な現場を身を持って知って下さることが、何よりも大切なことです。今年で69年目を迎える沖縄の終戦の日が、あと数カ月で訪れます。憲法の問題や自衛隊の存在意義を問う判断が、国の焦点と成り始めた、昨今。亜熱帯の島の土に埋もれ、日の目を浴びることも出来ない戦没者たちが何を訴えているのか、私たち夫婦に代弁できる力はありません。
でも、二度と、国のためにと強制されて、国民が死ぬことが正当化される時代は、来て欲しくないと訴えることはできます。国や家族のために戦うのは、誰かに強制されたり、無理やり決断する事ではないのです。あくまでも、自らの意志で、攻めてくる敵に対する自衛力として立ち上がるだけで、充分ではないでしょうか。実際、そんな小国の方が、帝国主義の大国を打ち負かして来た歴史も、過去に刻まれているようです。私たちは、そんなおっとり刀の生き方で、終生、のんびりと平和に過ごしたく、思っています。熱き想いの国士に怒られるかな?
昨日、糸満市真栄平の旧日本軍陣地壕前に張り巡らされた散兵壕から、兵士の遺骨が見つかりました。全身のほとんどの部位が残っており、終戦から69年、これほど完全な形で出土される例は珍しいです。私たちは、少し離れた岩の裂け目で作業をしていましたが、別のボランティアグループが発見して、掘り出されました。長い事、放置され気の毒な兵士の遺骸でしたが、多くの方々の手で日の目を浴びることが出来たのは何よりの喜びでした。高齢者が多い、このグループの方々も、全身骨を発掘されるのは初めての経験らしく、皆さん、やや興奮した様子。それぞれに、感想を述べられながら、丁寧に収骨されていました。
が、気になる事象が幾つかありました。まず、現場を訪れた報道関係者です。遺骨が出てきた状況を取材する上で、その場で口々に話される憶測を、あまりにも簡単に受け入れすぎるということです。現場の説明をされる方を非難する気は毛頭ありません。皆さま、それぞれの思い込めながら頑張られているボランティアの方々で、多様な意見をお持ちなのは当然の事だからです。しかし、その発言を鵜呑みにして、新聞に記事を書き込んでいる姿を見て、記者の取材力もここまで落ちたのか、とガッカリしました。まず一つは、当時の状況への知識不足です。ボランティアの発言する用語が、理解できないのです。そして、現場の状況を注視しないで、巧みに話される方からだけ取材するため、残されている事実を検証することなく取材を終えています。
この2つの新聞社が書いた記事には、「手を胸に置いてあおむけに寝かされた形」とか「他の兵士が弔った形跡がある」とあります。倒れていた兵士の形が偶々、そのようにあったので、発見された方々は「そう憶測された」のだと思いますが、私たちがこの現場を見たときは、決してそうは見えませんでした。まず、弔ったのならば、なぜに兵士らの重要な通行場所となる散兵壕に戦友を埋めるのでしょうか。埋めた後を、通信のため、斥候のため、仲間が走り回ることになります。終戦後に埋めたのでしょうか。この散兵壕からは、粉々になった他の兵士の遺骨や遺留品が、同じ土の深さから多数出て来ており、後から埋めたのならば深さや土の被りが違います。
そして、なぜか兵士の遺留品が極端に少ないのです。更に、両足首から先の骨がないのと、手の指の骨が少なかったことです。このグループが収骨した後、国吉さんと夫婦二人で、目を皿のようにして、遺留品と残骨を探しました。結局は、遺骨と一緒に見つかった陸軍の上着のボタン一つと小銃弾の部品が一つでした。本来は、兵士が亡くなっていた場合は、鉄兜や手りゅう弾、靴もしくは地下足袋、その他の個人所有物などが残っているのですが、それらがまったく見当たりません。倒れている形から、仲間が埋葬したのでは、と憶測されているのですが、艦砲射撃などによる鉄の暴風が吹き荒れている壕の前に、命を懸けてわざわざ埋葬しに行く理由が判らないのです。戦友が傷つくと、普通は壕の中に引きこんで、治療を試みるのでは、と考えてしまいます。
で、私たちの推測です。主観が入り混じっていますので、関係者の皆さまは、お気になさらず聞き流してください。この遺骨のお腹の部分に、艦砲か榴弾砲などによる巨大な鉄の破片(厚さ7、8cmの携帯電話ぐらい)が2個、残っていました。散兵壕を移動中、真っ赤に燃えて回転しながら飛んできた破片が腹部にあたり、衝撃で仰向けに倒されたんでしょう。手が合わさっているように見えるのは、飛び出てくる内臓をとっさに両手で抑えたんだと思います。その塊の大きさからして、被弾の衝撃は全身に及んでいるはずで、たぶん、ご本人は数分間も生きられなかったと思います。そして、鉄兜や身に着けた遺留品がまったく見当たらない理由は、亡くなった兵士から、戦中、戦後のどちらかに、誰かが奪い取っていったのではないか、とみています。残酷な話ですが、足首から先の骨がないのは、遺骨になった後に、中に足首の骨が入ったまま靴ごと持ち去ったのかもしれません。戦後、革製品の靴は貴重品でした。更に、鉄不足から、戦場跡の鉄兜なども集められたといいます。倒れた日本兵から、米兵が金目のものを奪った、という証言も残っています。戦場で人間が見せる狂気と終戦後の貧しさから、死者の持ち物を奪ってでも、という時代があったと聞きます。この付近に進駐してきた第24師団は、北海道を中心に編成され、中国大陸で歴戦を重ねた勇猛な部隊だったそうです。でも、沖縄では敗走に次ぐ敗走で、多くの将兵が戦死したとされています。最高司令官だった雨宮中将も、この地で自決されたと記録にあります。壕からの住民の追い出しやスパイ嫌疑など、旧日本軍に対する住民感情も、決して良くはなかったようです。この現場の遺骨を取材するだけでも、多くの立場の方の意見を聞き、様々な過去の出来事を積み重ねながら、事実がどこにあるのかを複層的な視点で探る必要があるのです。
長々と書き連ねましたが、意見があるのはマスコミに対してです。遺骨が見つかる度に、充分な取材もしないで現場の一部の声だけを聞き、簡単に紙面化してしまうセンスに、同じ新聞記者をしていた身として、寂しさを感じてしまいます。終戦から、69年間も埋もれていた日本人が出てきたのですよ。もう少し、戦史を勉強し、現場をよく知って、より多くの人から話を聞き、人間の尊厳に迫れるような深い取材をしてやるぞ、という気構えが見たかったです。そして、この地域が持つ沖縄戦への感情をしっかりと加味しながら、きちんと事実を追求して伝えるという、地元マスコミの利点と力量を発揮する姿を示して欲しかった。それは、国内で数少ない地上戦があった沖縄で、ジャーナリストをしている立場なのですから。
そして、夫の写真が紙面に出ている社もありましたが、本人から掲載の許可を取りましたか。今までこの新聞社には、「載せないで」と言っているのに2回。無許可で1回載せられています。社に知り合いがいるので笑い話として事情を聞くと、「使える写真がなかったから仕方なく」(笑)、といった具合でした。別段、罪に問う気持ちはありません。が、肖像権や本人の希望は二の次なのでしょうか。ため息が出てしまいます。私たちは、毎年、遺骨を収集するために1か月~2か月、沖縄に滞在して活動しています。このホームページで、その様子を情報発信することもあれば、マスコミに声を掛けて、報道してもらうこともあります。自らも、ジャーナリストとして活動しているので、このような報道の姿勢に大きな失望を感じてしまいます。嫌な意見だと思いますが、何よりも平和と民主主義を大切にする沖縄の新聞社を応援したいがための発言です。だから、今後は現場で声を掛けて下されば、私たちで良ければお手伝いします。様々な課題が山積みな沖縄を報道するために、今後もがんばってくださいね!
私たちがお付き合いしているグループのなかで、特に熱心な姿勢で遺骨収集に取り組まれている「戦没者慰霊の会ひょうご」(楠田誠一郎代表)のメンバーが、今年も沖縄で活動して下さいました。この会には、毎年のように参加されるリピーターが多く、楠田代表を中心に、もはや一つの「チーム」といっていい程の結束と技術力で、活動に臨まれます。
今回、最初に取り掛かった場所は、浦添市の構築壕。ここは、首里にあった指令部を守る防衛線の要とされた場所で、大激戦があったシュガーローフの一部です。遺骨収集家・国吉勇さんによると、近隣にも多くの陣地壕が残っており、数多くの戦没者の遺骨を収集したと話されています。
この壕は、住宅地の下にある斜面の雑木林の中にあり、入り口がほとんど土砂で埋没していたため、69年間、誰も知らないままで放置されていました。もちろん、手つかずの状態です。こうした壕は、中に遺骨がたくさん残されている可能性もあり、穴の最深部まで流れ込んでいる土砂を完全に掻き出せば、大きな成果を得られることもあります。
張り切る楠田代表を先頭に、まず、全員によるバケツリレーで、土砂を運び出します。私は運動と根性不足で、すぐ音を上げそうになるのですが、女子の参加者を始め、みんなが黙々と頑張ります。沖縄の方言で「ニービ」という独特色をした赤土は、掘りやすいのですが、水分を含むと泥のように重くなります。
今年は二月に入って例年以上に悪天候が続き、作業途中も間断なく雨が降ります。でも、チーム全員の頑張りで、外に積み上がったニービの赤い山は、どんどん大きく成長して行きます。その上で、お弁当が食べられるぐらいに竪穴を掘り進めると、入り口から壕の底までは約3メートルほどの深さになっていました。
そこが元の地盤です。人が一人、ようやく活動できる広さまで穴が大きくなったら、今度は奥へ向けて横穴を伸ばします。その間、ニービの砂をバケツリレーで、絶えず運び出して行きます。全員の息が上がり始めた頃、穴の奥から遺留品が出てきた、との声が。
楠田代表が、潜り込んでみると、小銃弾やガラス瓶、見たこともないような油脂の塊などが出て来ています。やはり、旧日本陸軍の陣地壕だったらしく、兵士の持ち物が次つぎと見つかりました。不発の照明弾や銃弾の塊、爆発した擲弾筒の破片などです。
ニービに覆われていたせいか、比較的状態が良いままで出てくる品もあります。防毒マスクの部品として使われていた、解毒するための吸収管などは、文字が読み取れるほどの完全品として発掘されました。ここまで程度の良い品は珍しく、国吉さんも、「ここまで良いのは初めて見た。宝物だよ」と満面の笑みです。
でも、3日間かかって、穴の奥まで掘り進めましたが、結局、遺骨は一片も出てきませんでした。残念な結果でしたが、額に玉のような汗を浮かべた楠田代表が、「良かった。ここで誰も亡くなっていなかった、ということが、判っただけでも大きな成果です。みなさん、お疲れ様でした」と、笑顔でこの壕での作業の終了宣言。
最終日は、糸満市真栄里の病院壕付近の山野を全員で探査し、残骨を幾つか収集。糸満市摩文仁の国立戦没者墓苑に仮納骨して、今回の活動を終えました。納骨を前に、お線香をあげて、骨の部位を鑑定していると、訪れた観光客の方々も集まって手を合わせて下さいました。69年ぶりに日の目を浴びた戦没者や収集活動をした会のメンバーにとって、ありがたい供養の場を設けることができました。
来年以降は、ひょうごの会に属するメンバーに限って、私ら夫婦が沖縄で滞在している時期ならば、いつ来て戴いても現地で一緒に収集活動できるように、楠田代表と話し合って決めました。その場合は、必ず代表の了解を取ってから、私たちに連絡してください。そして、国吉親方と共に、一緒に収集活動を致しましょう。楠田代表も、休みが取れ次第、現地に駆け付けると話されています。この会との連携は、今後も更に深まっていきそうで、将来が楽しみです。
最後になりましたが、改めまして、今年もごくろうさまでした。ありがとうございました。厚く、御礼を申し上げます。来年、また沖縄でお会いしましょう。
今年も「JYMA」(日本青年遺骨収集団)の学生らが、沖縄県へ遺骨収集に来てくださいました。毎年のように一緒に活動している頼れる若者たちで、時には、私たちと同年代のOBや社会人参加者もいらっしゃいます。今回、派遣されたのは約25人。昨年、顔を合わせた方もいましたが、ほとんどが初参加の方でした。
彼らの活動の歴史は古く、1967年に発足後、厚生労働省が実施する国内外の遺骨収集活動に派遣メンバーを送るなど、輝かしい実績を持っています。この会についての詳しい内容は、昨年、書き込んでありますので、その記事を参照してください。
先日、書き込んだ「IVUSA」とは違うグループですが、JYMAは戦没者の遺骨収集に特化した団体です。ガダルカナルを始めとした南太平洋の島々や、シベリアなどにも隊員を派遣しているエキスパート集団で、沖縄でもその実力をいかんなく発揮してくれます。
ただ今回は、泥沼のような壕で、腰まで水につかって泥の中に手を差し込んで遺骨を拾うという、この活動でも最も過酷な仕事を担当しました。また、今年の沖縄地方は、雨が多く、肌寒い日が続きました。そのせいか、インフルエンザに感染した隊員が続出。仕事は最後までやり遂げましたが、打ち上げに参加できない学生もいて、とても気の毒な事をしてしまいました。
そのインフルエンザ、実は私らにも伝染ったようで、お医者さまから、「1週間の行動制限」を告知されました。おかげで、私たちも遺骨収集を休む羽目に。でも、このウイルスを運んできたのは、どうも国吉親方のようで、親方と一緒に作業したチームに次々と感染患者が出ました。
普段は、雨が降ろうが槍が降ろうが、遺骨収集を休まない親方が、珍しく「今日は休むよ」と語っているのを聞いて、気づくべきでした。でも、時すでに遅し。約7~8名の感染者を出した危険な宿主・本人は、本日も元気良く、遺骨収集現場へ向かったようです。悔しいですが、私らは宿舎に隔離。まぁ、咳がまだ少し出ますし、仕方ない‥。恨みますよ、親方(笑)。
JYMAのメンバーは、例年通り、約10日間の日程を終えて、沖縄を後にして行きました。どんな現場でも、不平不満を一切言わず、自らが率先して過酷な仕事に取り組む彼らの活動姿勢は、素晴らしいの一語です。また、来年も会えるのが楽しみです。遺骨取集に関わる若者たちが、今後も活動しやすいよう、親方共々、力を注いで行きます。
沖縄県の遺骨収集家・国吉勇さんを訪ねて、多くのボランティアが集まってきます。特に2月、暑くもなく、内地ほど寒さも感じないこの時期は、数多くの団体が遺骨収集のお手伝いに来てくださいます。3年ぶりに大人数で参加してくれたのが、国際ボランティア学生協会(International Volunteer University Student Association)、通称「I・V・U・S・A」(イビューサ)の大学生たちです。
国際協力、環境保護、福祉活動、災害救援などの分野で、ボランティア活動を通して若者の情熱や力、それぞれの感性を活かしたい、と願う団体です。様々な現場で社会貢献をしながら、参加した学生らも実戦で学習することを目的に結集しています。近年では、豪雪地帯の屋根の雪下ろし、東日本大震災のがれき撤去、発展途上国での国際貢献など、多様な活動を行っています。
そして今回は、首都圏や関西、九州など、幅広い地域の大学生が約90人参加して下さいました。男女を問わず、澄み切った瞳と輝くような笑顔で、一生懸命に働いてくれる若者たちに、夫も私も、あっという間に心を奪われました。その一途さと可愛さに、もうメロメロです。
ただ、残念なことに、私ら夫婦がインフルエンザに感染していたよう(後日に判明、ごめんなさい)で、高熱と止まらない咳による寝不足で、ここ数日、フラフラの状態でした。いつも参加してくれる遺骨収集を専門とする学生グループ「JYMA」ならば、エキスパートも揃っているので、安心して任せられるのですが、ほとんどが初体験という「IVUSA」には、そういう訳にも行きません。
でも、この子たちの為ならと、弱り切った身体に鞭打って、現場に出ました。収集場所は、糸満市真栄里の病院壕と周辺の陣地跡。戦没者の遺骨や遺留品に向き合うのは初めて、という学生さんがほとんどです。が、皆、熱心に、道具の扱い方や不発弾が出た時の注意などを聞いています。
そして説明が終わると、病院壕を中心に、トーチカ、塹壕、たこつぼ跡などに分かれて配置につき、熱心に掘り進めて行きます。壕の中は、通路の左右に「病室」が作られていますが、土質は地元の方々が「クチャ」と呼ぶ固い粘土層です。病院とは名ばかりの泥の穴に、驚きと慄然としながらも、熊手やスコップにへばりつく粘土と格闘しながら作業をしてくれました。
同じような激戦地だった小笠原諸島の硫黄島へ派遣されたメンバーもいると聞いていましたが、この作業は生半可な経験ではエキスパートになれません。でも、真面目で熱心な想いが通じたのでしょうか、戦没者の肩甲骨や頭骨などの遺骨が次々と発掘されました。また、遺留品も、痛んでいない万年筆の完全品が出たほか、煙幕弾や手りゅう弾などの武器も見つかり、陸上自衛隊の爆発物処理係に最終処分をお願いしました。
期間は3日間でしたが、90人の学生たちは一人の脱落者もなく、最後まで働き続けます。大きなスコップで、1㍍以上も泥を掘り進めた女子学生らには驚かされました。そして、道具が足りなくても、全身を使って大岩と格闘する凛々しい男子学生。夫が語る悲惨な戦争体験者の話を聞き、涙を拭いながら遺留品を探し当てた男女のペアの誇らしげな顔‥。やり終えたみんなの笑顔が、とても素敵でした。
最終日、いく柱か出た遺骨を前に、全員で黙とうを捧げます。数多くの学生が、69年間も放置されてきた戦没者を目の当たりにして、涙を流しています。それは、素晴らしい光景でした。そう、君たちが来なかったら、この人たちは未だに暗い土の中に埋もれたまま、供養もされずに忘れられていたんだ。「ほんとに、よくやってくれた。ありがとう」と、掘り出して貰った戦没者の声を代弁するかのような言葉が、私たちの口から自然に出ていました。
今回の遺骨収集を通して、一人ひとりの若者が沖縄戦と向き合い、戦禍で命を奪われた人や、その帰りを待ち詫びていた家族らに想いを馳せることができたと思います。人間の命と尊厳を簡単に踏みにじってしまう戦争の理不尽さを、十二分に考えてくれたことでしょう。
「この石の下で誰か亡くなっているかもしれない!」と、歯を食いしばりながら巨岩と格闘してくれた男子学生たち。「私、何にも知らなくて‥」と、遺骨を前に号泣した女子学生さん。「何か刻み込まれてない?」。掘り出した遺留品に名前が書き込まれていないか、一生懸命に汚れを拭ってくれた君‥。みんな、自らの力の限りを尽くして頑張ってくれたね。その一途で純粋な気持ちを、いつまでも忘れないでください。
そして、平和な日本を築き上げるために、今後も若い力を結集して新たな道を切り開いて下さいね。「私たちは『IVUSA』ですから。どんな過酷な仕事も、丁寧にやり遂げます」と、まなじりを結して語ってくれたチームリーダー。未来の日本を託す意味も込めて、思いっきり、期待していますよ。そのためには、来年も、ぜひ、沖縄に来て下さい。そして、一緒に頑張りましょう。諄いようですが、お待ちしていますよ。
最後に一言。活動の終了後、現場を離れようとする私たちの車に、別れを惜しんだのか全学生が駆け寄って来て下さいました。皆が口々に、「お世話になりました。ありがとうございました」を連呼してくれます。そして、私らの姿が見えなくなるまで、千切れるほど手を振り続けてくれたのです。もう、感動で胸がいっぱいになりました。この体験、私ら夫婦の「生涯の宝物」になりそうです。ほんと、ありがとう、「IVUSA」のみなさん。また、会おうね!
遺骨収集活動も9日間が過ぎました。収集する時間より、その他の用事が目白押しで、まともな活動も、書き込みも、なかなかできません。そんな中、糸満市真栄里集落の裏山で、戦没者の遺骨を発見しました。沖縄戦の末期、このあたりは真栄里高地と呼ばれ、南下してくる米軍を迎え撃つ旧日本軍兵士が、死守していた場所だそうです。
野戦病院壕の出入り口付近にある壊れたトーチカ跡。崩れた岩の間の地面に、半分埋もれるような形で頭蓋骨が露出していました。終戦から69年、これだけ完全に残っている頭骨の出土は珍しいです。一緒に発掘した遺骨収集家・国吉勇さんも、「驚いたねぇ。長い事、誰にも見つからずに、この姿で空を見上げていたんだな‥。でも、良かったよ、出て来れて」と、感無量の声。
現在も収骨中ですが、骨の部位からすると、ほぼ3人分ぐらいだと推定されます。ただ、この場所は、古い沖縄のお墓だった可能性も有り、埋葬骨と思われる骨もパラパラと出ています。何人分、と私たちは特定できませんが、1体、もしくは2体分の戦没者の遺骨がありそうです。
この場所は、沖縄戦末期の1945年6月、南下してくる米海兵隊と旧日本軍の歩兵第32連隊が激戦を繰り返した高台で、両軍ともに数多くの戦死傷者が出ています。そこにあった野戦病院を守ろうとした兵士の遺骨かも知れません。ただ、頭骨も鎖骨も、やや小ぶりなことから、もしかすると学徒兵の可能性もありそうです。正式に鑑定して戴かないと、何とも言えませんが、69年ぶりに出会えたその顔は、少し優しげな輪郭に見えました。
これからは、この戦没者らの遺留品を探す作業です。大岩を退け、堆積した土を掘り起こし、岩の隙間なども隈なくのぞきこみます。身元の分かるものが見つかれば、ご遺族へお返しできるからです。何とか、出て来て欲しい、と祈りながら、作業を続けています。明日もまた、この場所で「Recovery」を続けます。
最近は、体調不良が続き、身辺にも様々なトラブルが湧き起こっています。でも、地獄だった戦場で亡くなった後、69年間も放置されていた方々に比べると、たいした苦労ではありません。全身筋肉痛になった体に鞭打ちながら、「さぁ、明日も頑張ろう」と、夫婦で励まし合っています。こうして、私たちの元に出て来てくれるだけで、嬉しくて、発掘と同時に涙がこぼれそうになります。最後の一人を収骨するまでは諦めない、を目標に、歩んでゆくつもりです。応援してください。