みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
活動②(記録)

日本人のルーツを探る「化石人骨」

縄文晩期もしくは弥生人が使っていたとみられるヒメゴホウラ(手前)などの貝から作った装身具

縄文晩期もしくは弥生人が使っていたとみられるヒメゴホウラ(手前)などの貝から作った装身具

遺骨収集活動をしていて、思わぬ出来事がありました。それは、遺骨収集ボランティアのメンバーたちが、沖縄本島中南部の洞穴や巨岩の下から、歴史資料としてとても価値の高い発見をしたのです。糸満市摩文仁にあるハンタ原(ばる)遺跡から出土しました。この付近は戦跡国定公園の特別保護区に指定されており、地面を掘ることも、岩ひとつ動かすのも正式な許可が必要です。メンバーたちは付近の洞穴で遺骨を探しているときに、偶然、地表に出ていた「溶けた石のような骨」と一緒に拾ったそうです=写真下。直ちに市の教育委員会へ届けました。そこで、人類学に詳しい山口県下関市にある土井ケ浜人類学ミュージアムの松下孝幸先生が駆けつけました。

溶けた骨hp

沖縄が真夏の太陽に照らされる2007年7月、本格的な発掘調査が始まりました=写真下、糸満市摩文仁で

発掘現場1⑧

発掘当時、松下先生は「装身具や骨の状態などから、出土しているのは縄文の晩期から弥生初期のもの」と推定されていました。ただ、表層部に骨が折り重なっている状態で=写真下、その下層には更に古い時代の遺物が埋まっている可能性があるそうです。

発掘断面6⑪

実は沖縄本島南部からは、旧石器時代の人骨が発見されているのです。約1万8千年前の港川人の骨で、復元可能なものが数体出土しており、東アジア最大級の歴史資料とされています。それ以外にも、本島や周辺の離島などで貴重な資料が次々と見つかり、沖縄は化石の宝庫と呼ばれています。

糸満市内の道路工事現場で見つかった弥生人のものと見られる下顎骨

糸満市内の道路工事現場で見つかった弥生人のものと見られる下顎骨

その理由は、島々がサンゴ石灰岩の地盤で成り立っており、雨などで溶け出した石灰分に覆われた骨は風化しにくく、大地の酸性化も進まないため、地表面や地下の化石が守られてきたのです。同時に自然洞穴が無数にあり、その洞穴の中からもかなり古い人骨や動物たちの骨などが見つかっています。

サンゴ石灰岩の岩に挟まれた隙間にあるハンタ原遺

サンゴ石灰岩の岩に挟まれた隙間にあるハンタ原遺跡の発掘現場

今回、ハンタ原遺跡から出土した装身具や人骨を紹介します。

出土したままの人骨。まだ土が付いている

出土したままの人骨。まだ土が付いている

宝貝に穴を開けた装身具

宝貝に穴を開けた装身具

サメの歯を加工したもの。錐で開けたような穴がひとつ空いていた

サメの歯を加工したもの。錐で開けたような穴がひとつ空いていた

土器片。縄文晩期のものと推定されている

土器片。縄文晩期のものと推定されている

今回、発掘の指揮を執った松下先生どんな小さな遺物も見逃さないようにするため土はふるいにかけ、細かな作業をする道具はほとんど手作りで臨むそうです

見えてきた頭蓋骨の周辺にある土を慎重に取り除く

見えてきた頭蓋骨の周辺にある土を慎重に取り除く松下先生

骨や遺物の状況が見えてくると、まず計測し、写真の撮影と正確な配置と形状などを用紙に記録します=写真下

発掘風景hp

 先生は、吉野ヶ里遺跡の調査などにも関わられた、骨の同定に詳しい人類学の権威です。そして発掘調査のきっかけとなった人骨や装身具を見つけたのは、国吉勇さんらのグループです

遺跡発掘に臨む国吉さん(右端)と松下先生(左端)、人類学のNPO法人・松下真実さん(中央)

遺跡発掘に臨む国吉さん(右端)と松下先生(左端)、人類学のNPO法人・松下真実さん(中央)

国吉さんは、ハンタ原以外にも中南部の4~5ヶ所で古い時代の人骨を見つけており、遺骨収集家が貴重な歴史資料の発見につながるお手伝いもしています。

まだ未調査の洞穴にある人骨。石灰岩と頭蓋骨の一部か接着している

まだ未調査の洞穴にある人骨。石灰岩と頭蓋骨の一部か接着している

未調査の洞穴にある人骨。岩に腕か足の骨の一部が溶け込んだようになっている

未調査の洞穴にある人骨。岩に腕か足の骨の一部が溶け込んだようになっている

 ハンタ原遺跡の調査は終了しました。その結果、縄文時代後期(約4千~3千年前)の遺跡であることが判り、85体分の人骨と貝製品などの装身具が約230点出土しました。そのなかに、国内最大級となる大人男性の右前腕部の尺骨が含まれており、その身長は170センチ近くあったと推定されます。当時の男性の平均身長が約158センチだったので、かなりの高身長であったようです。これほど大きい尺骨の縄文人骨は、国内で発見された例がほとんどなく、松下先生は「港川人が進化したのか、それとも九州縄文人が南下したのか謎は残るが、貴重な発見だ」と説明されています

表土に現れた人骨など

表土に現れた人骨など

今回の発掘作業は、土井ケ浜人類学ミュージアムと糸満市教育委員会が2007年7月から10年7月まで実施し、成人男性32体、成人女性31体、子ども15体、不明7体を発掘しました。頭骨を石灰岩で取り囲む「石囲墓」と呼ばれる方法や、骨を1カ所に集める「集骨」と呼ばれる方法で埋葬されており、国内で始めて出土した貝製の装身具類も見つかっています=写真下。遺骨収集家の発見が、貴重な歴史資料であることが証明されたのです。

頭蓋骨1⑩

しかし、遺骨を取り巻く事情は、良い話ばかりではありません。ハンタ原遺跡の発掘調査が進んでいた当時、衣装ケースに詰められた謎の人骨が糸満市内の洞穴に放置されていました=写真下。墓荒らしの容疑で捜査されましたが、遺族も容疑者も不明です。100柱以上あり、死後、数十年過ぎた土葬の骨と見られています。結局市が無縁仏として引き取ったそうです。

放置人骨6⑯

そして、トラブルはこれだけではありません。人骨が見つかった場合、まず警察が事件や事故の有無を調べ、戦没者なら県の福祉・援護課が、古い人骨の可能性があれば地元の教育委員会が対応します。しかし、十分な鑑定もなく、すべてを戦没者として納骨してしまう例がこれまでにあった、といわれています。このハンタ原遺跡も特別保護地区でありながら、過去に一部遺骨収集された痕跡が残っています。激しい地上戦があった60数年前の沖縄では、風葬のお墓だった洞穴や岩の隙間に、戦禍から逃れようとした避難民や兵士があふれていました。そこで犠牲になった人の骨は、今もお墓の埋葬骨の中に紛れています。そして、その場所は古代人が永い眠りについている聖なる地でもあるのです。山野に、戦没者の遺骨、風葬による埋葬骨、何千年も昔の人骨が混在しているという、悲劇の島の特殊な事情がうかがえます。

松下先生も、この事態を憂いていらっしゃいます。

私たちは遺骨収集のボランティアを国吉さんと共に、今後も続けるつもりです。新たな仲間も増え続けており、人類学の権威で骨の専門家である松下先生もお誘いしていますが、まだまだご多忙なようです。いずれは先生の力もお借りしたいと切望しています。このホームページを読んで下さった皆さまも、沖縄で一緒に骨を探してみませんか。もしかしたら、戦没者の慰霊と歴史的な大発見を体験できるかもしれませんよ。

(哲)

兄の遺骨を探す井上徳男さんご夫妻

 

兄の戦死公報に記されていた地名の標識の下で、慰霊の祈りを捧げる徳男さんと富美子さん。この標識を墓標代わりにしている、沖縄本島南部の旧具志頭村で

兄の戦死公報に記されていた地名の標識の下で、慰霊の祈りを捧げる徳男さんと富美子さん。この標識を墓標代わりにしている、沖縄本島南部の旧具志頭村で

遺骨収集をする上で、忘れられないご夫婦がいらっしゃいます。2005年まで毎年、沖縄県を訪問され、冬の約2~3ヶ月間、ほとんど休日も取らないで兄の遺骨を探していた井上徳男さんと富美子さんのご夫妻です。井上さんは1927年生まれの85歳、富美子さんは80歳。中国戦線から、沖縄へ転戦されたお兄さんが、本島南部で戦死。息子の遺骨や遺品が帰ってこなかったことを、嘆きながら亡くなった父母の想いをかなえるのも目的のひとつでした。

 お兄さんの名前は「井上清隆さん」。徳男さんより、4歳年上でした。優しく親孝行な兄で、徳男さんも後を追って兵士になる覚悟を決めていた、と当時を振り返られます。

国戦線で戦う兄から家族に届いた手紙。徳男さんは模写された兄の手にそっと自らの手を重ね合わせた

中国戦線で戦う兄から家族に届いた手紙。徳男さんは模写された兄の手にそっと自らの手を重ね合わせた

本島南部の海岸線で、海を見下ろす丘の上にお兄さんが所属していた部隊の慰霊碑があります戦死したとされる場所とは少し離れていますが、毎年、ここにも献花されていました。大きな碑なので、石に映り込むご夫婦の姿が小さく見えます。収集を休む日には、お兄さんの足跡をたどりながら、慰霊を続けられていました。

お兄さんが所属していた部隊の慰霊碑

お兄さんが所属していた部隊の慰霊碑

井上さんたちが遺骨収集を卒業されてから7年が過ぎました。ご夫婦は1990年頃から約15年間、沖縄で収集活動をされ、その後は慰霊のためだけに訪れられているようです。心優しくて働き者のお二人が大好きで、「いずれは井上さんたちのように齢を重ねようね」と夫と話し合ったものでした。

壕内の地面をかっちゃぎで掘る井上夫妻、旧具志頭村で

壕内の地面をかっちゃぎで掘る井上夫妻、旧具志頭村で

そのお二人ですが、遺骨収集の技術は国吉さんに次ぐ熟練度で、まさに職人技のようでした。1トン以上はある大岩を当時、70半ばだった井上さんが、ツルハシ1本で簡単に向きを変えて移動させます。

汗まみれで掘る徳男さん

汗まみれで掘る徳男さん

富美子さんは、食事をする時間も惜しみながら地面を掘り、小指の爪のような骨片まで丁寧に収集されていました。

掘り出した遺骨を並べる富美子さん

掘り出した遺骨を並べる富美子さん

私たちも、このお二人から収集の技術を学ばせていただきました。 

国吉さん(左端)と一緒に納骨する井上夫妻、本島南部の沖縄戦没者墓苑で

国吉さん(左端)と一緒に納骨する井上夫妻、本島南部の沖縄戦没者墓苑で

お兄さんの遺骨や遺品を探しながら、毎日山野に出向き、時には壕の中へ、時にはアダンのジャングルへと足を伸ばし、収集をされます。当然のことながら、他の方の遺骨や遺品も出てきますので、それも丁寧に発掘され、納骨されていました。 

ご夫妻が中部の浦添町にある壕から掘り出した旧日本陸軍兵士の認識票

ご夫妻が中部の浦添町にある壕から掘り出した旧日本陸軍兵士の認識票

時には、国吉さんに代わって遺品の持ち主の身元を探されたこともあります。ステンレスなどの金属で作られている米軍の認識票と違い、日本軍のものは真鍮で作られていました。穴の中に紐を通し、服の下にたすき掛けにして身につけていたようです。

国吉さんが見つけた沖縄戦当時の米兵の認識票。身元は不明

国吉さんが見つけた沖縄戦当時の米兵の認識票。身元は不明

戦況が悪化するにつれ、物資が不足してくると、真鍮から鉄に変わり、最後は竹や木製で間に合わせた事もあったと聞きます。戦場で亡くなる兵士の身元を記す唯一の証だけに、何とも心もとない装備です。

国吉戦争資料館に展示される鉄製の認識票。錆びてボロボロだ

国吉戦争資料館に展示される鉄製の認識票。錆びてボロボロだ

認識票から身元を判明させるためには国や都道府県が管理していた「留守名簿」が使われます。兵士たちの名前や出身地、血液型などを記録したもので、認識票に刻印された数字などから、名簿と照らし合わせて個人を特定する仕組みです。が、ポツダム宣言を受諾する8月15日前後、機密資料を含めた公文書を焼却処分する命令が下され、あろうことか留守名簿も一緒に焼かれてしまったのです。

兄清隆さんの遺影にロウソクを灯す夫妻。宿泊先のホテルでも、毎朝祈りを捧げていた

兄清隆さんの遺影にロウソクを灯す夫妻。宿泊先のホテルでも、毎朝祈りを捧げていた

アリューシャン列島のアッツ島や北マリアナ諸島のテニアン島など、早い時期に総員が玉砕(戦死)した場所の名簿は残っているのですが、終戦直前まで戦闘が続いていた島々の名簿は全く残っていないのです。管轄する厚生労働省や専門家によると、本人番号が特定される名簿は、戦犯の証拠品になるのを恐れ、他の公文書と共に焼却された、と伝えられているそうです。

八重瀬岳にある公園の岩の隙間にあった遺骨。一箇所にまとめて放置されていた

八重瀬岳にある公園の岩の隙間にあった遺骨。一箇所にまとめて放置されていた

当然、沖縄で闘った部隊の名簿も残っていません。井上さんたちが見つけた認識票も、野戦高射砲第81大隊や歩兵第22連隊までは判明しましたが、個人の名前の特定には至りませんでした。部隊名の判別は防衛省や米軍が残していた戦史などの資料から判明したのです。遺族に返せる、喜んでもらえる、との期待は一気に萎んでしまいました。こうした苦労が報われないのは収集作業を続ける上で、もっとも辛い時です。国や家族を守るため、命を賭して闘った兵士の帰りを待つ留守家族の心情を思うと、あまりにも厳しく哀れな現実です。こんな後方支援しかできなかった国は、二度と戦争を起こしてはならないし、戦いに巻き込まれてもいけないと感じました。 

戦死した兄の名を平和の礎から紙に複写する井上夫妻、本島南部の摩文仁の丘で

戦死した兄の名を平和の礎から紙に複写する井上夫妻、本島南部の摩文仁の丘で

ただ、稀に部隊名や名前が書かれている認識票も出てきます。位が高い将校や民間の軍協力者が所持していたとみられています。井上さんたちが掘り出した認識票にも=写真下、「留萌町南山手通 高藤義冶と刻まれていました。これならばと戸籍などを頼りに身元を追跡しましたが、持ち主の特定には至りませんでした。何とかならないものかと、持てる手段はすべて使いましたが、解りませんでした。専門家に聞くと、家族や親戚が死に絶えて戸籍が消えてしまったか、もしくは戦時中の特務機関関係者で偽名を名乗っていたのでは、と憶測されていました。

認識表2認識表2表

残念な結果ですが、沖縄戦では遺骨と一緒に旧日本兵の認識票が出てきても、家族のもとへ戻ることができません。私たちも沖縄守備隊の司令部壕から、複数枚の認識票と遺骨、遺品を掘り出しましたが、すべてが手がかりなしで返還に至りませんでした。とても、悲しく悔しい現実です。

終戦から60年の時、掘り出した100柱を超える遺骨を納骨する国吉さん(左端)と井上ご夫妻、沖縄戦没者墓苑で

終戦から60年の時、掘り出した100柱を超える遺骨を納骨する国吉さん(左端)と井上ご夫妻、沖縄戦没者墓苑で

井上さんご夫婦は、北海道の知床に住んでいらっしゃいます。若い時から働き詰めに働いて農地を次々と開拓し、定年後の最初の旅行が遺骨収集での沖縄への旅でした。そして孫も生まれ隠居する年齢になっても、壕の中で掘り続けられました。終戦から60年の年、NHKのドキュメンタリー番組に取り上げられ、それを最後に遺骨収集は卒業されましたが、今も電話でお話すると、掘りに行きたくてウズウズしている、とおしゃいます 。

壕の入口で一服する井上夫妻。左端は国吉さん、本島南部の旧具志頭村で

壕の入口で一服する井上夫妻。左端は国吉さん、本島南部の旧具志頭村で

律儀な方なので、番組で「もう終わりにする」と、宣言してしまった手前、収集活動には来られませんが、お身体が動く限りは、また、あの熟練の手際を見せて頂きたいものです。

大勢の方が亡くなり、波打ち際を埋め尽くした海岸で慰霊する井上夫妻、本島南部の大度海岸で

大勢の方が亡くなり、波打ち際を埋め尽くした海岸で慰霊する井上夫妻、本島南部の大度海岸で

大先輩。いつまでもお元気で長生きしてください。不肖の後輩ですが、私たちが引き継ぎます(律)。 

遺骨収集家・国吉勇さん

太平洋戦争の激戦地だった沖縄県。約70年前、亜熱帯の島々に鉄の暴風が吹き荒れ、住民と日米両軍合わせて20万人以上が犠牲になったとされています。そんな戦没者の遺骨をボランティアで60年近く収集されている方がいます。

遺骨収集家・国吉勇さん

遺骨収集家・国吉勇さん

沖縄戦の最中、母親をマラリアで失い。兄が乗った本土への疎開船は近隣の海域で米軍の潜水艦に沈められています。収集を始めたきっかけは、少年期に終戦を迎え、多感な頃の遊び場が不発弾が転がる死屍累々の戦場跡だったから、とよく回想されます。当時、家計の助けになれば、とクズ鉄を拾いに行き、そこで遊び道具などを探しているうちに、自然と遺骨も拾うようになったそうです。そんな国吉さんを頼って、戦没者の遺族や友を亡くした元兵士らが、今も沖縄を訪れています。これまで数千柱の遺骨を納骨しており、見つけた遺品は数十万点に及ぶそうです。もう一人のお兄さんも鉄血勤皇隊として動員されて米軍と戦い、部隊のたった独りの生き残りとして、ハワイに抑留された経験をお持ちだと聞きます。作家・吉村昭先生の小説のモデルにもなったそうです。

掘り出した元兵士らの印鑑を手にする国吉さん

掘り出した元兵士らの印鑑を手にする国吉さん

私たち夫婦も毎年、国吉さんと一緒に遺骨収集活動をしています。出会った当初はとても厳しくて、掘り方が甘かったり、手を抜いて休んでいたりすると、厳しく叱責されました。10年以上通い続けて、ようやく叱られないレベルになってきましたが、時間があれば連日のように山野へ出向き、亜熱帯の太陽の下でも汗まみれで作業に臨む姿を見ていると、他人だけでなく自らにも大変厳しい方だと実感します。

掘り出した遺骨を並べる国吉さん(左端)ら、沖縄本島南部の八重瀬岳で

掘り出した遺骨を並べる国吉さん(左端)ら、沖縄本島南部の八重瀬岳で

そんな国吉さんが掘り出した遺骨や遺品を紹介します。旧日本軍が敗走した本東南部の岬近くで、開発のため切り開いた森の跡に大たい骨が岩に挟まった状態で突き出ていました。 

約60年間、野にさらされたままの骨は真っ白に朽ちていました(写真は突き出た状態を見せるため、埋まっていた骨の横に穴を掘りカメラをあおって撮影した)

約60年間、野にさらされたままの骨は真っ白に朽ちていました(写真は突き出た状態を見せるため、埋まっていた骨の横に穴を掘りカメラをあおって撮影した)

⑤の写真手りゅう弾S

すぐ脇に日本製の手りゅう弾が転がっており=写真上、軍服のボタンなどが一緒に落ちていたことから日本兵の骨と思われます。遺骨と一緒に、当時の人たちが使っていた生活用品や装身具、そして武器や医療器具などが出てきます。個人名が刻まれている場合は、遺族にお返しするよう努められていますが、それ以外のものは国吉さんが開設する「戦争資料館」に展示してあります。その一部を紹介します。旧日本兵が使っていたお茶碗。軍人の姿や旭日旗などが描かれています。

旧日本兵が使っていたお茶碗

旧日本兵が使っていたお茶碗

マラリア予防薬の容器。当時の沖縄はマラリアが大流行していた

マラリア予防薬の容器。当時の沖縄はマラリアが大流行していた

そして、マラリア予防薬の容器。当時の沖縄はマラリアが大流行していました。さらに、旧日本軍の兵士が立てこもっていた洞穴で、位の高い人の軍靴と一緒に出てきた「白粉(おしろい)」の容器です。「慰安婦さん」と呼ばれた人が使っていたのでは、と国吉さんは話されています。

「白粉(おしろい)」の容器

「白粉(おしろい)」の容器

これは、毒ガス用救急箱の一部です。近い場所から防毒面なども出てきており、化学兵器を使った戦闘も想定していたようです。実際に使用されたかは定かではありません。

毒ガス用救急箱の一部

毒ガス用救急箱の一部

防毒面

防毒面

国内の資源に乏しい旧日本軍は、鉄不足から陶器で作った兵器を使用していました。 

陶器で作った地雷

陶器で作った地雷

米軍の手りゅう弾と旧日本軍の陶器製の手りゅう弾を並べた

米軍の手りゅう弾と旧日本軍の陶器製の手りゅう弾を並べた

砲弾などの破片

砲弾などの破片

終戦後、あちこちに点在する洞穴は、大勢の人が亡くなった場所として忌み嫌われました。元々、お墓だった場所以外は、ゴミ捨て場にされたり埋められたりしました。そんな中にも戦没者の遺骨が数多く眠っているといわれています。この洞穴は海軍が使っていた手掘りの壕です。中の壁面は火炎放射器で焼かれて真っ赤に染まっており、この中からも国吉さんは多くの遺骨を掘り出されました。入り口付近が粗大ゴミの捨て場になっており、ゴミの間から毒蛇が見つかることもあり、出入りに苦労するそうです。

ゴミが捨てられている海軍の手掘りの壕。中の壁面は火炎放射器で焼かれて真っ赤に染まっている

大量のゴミが捨てられている海軍の壕。中の壁面は火炎放射器で焼かれて真っ赤に染まっている

これは、高温の熱で焼かれた遺骨です。銃弾が引っ付いていることから、兵士のものと思われます。火炎放射器などで焼かれたものではないかと見られています。焦げたお米も出てきました。

高温の熱で焼かれた遺骨

高温の熱で焼かれた遺骨

焼かれて焦げたお米

焼かれて焦げたお米

そうして、往時を忍ばせる丸い形が特徴的なメガネ。持ち主は最後に何を見たのでしょうか。 

丸い形が特徴的な当時のメガネ

丸い形が特徴的な当時のメガネ

よく出土する時計。約70年前に時の刻みを止めてしまいました。ほとんどが懐中時計です。

約70年前から時の刻みを止めてしまった時計

時の刻みを止めてしまった時計

溶けて原型を留めていない飯ごう。火炎放射器などで焼かれたものらしいです。

溶けて原型を留めていない飯ごう。火炎放射器などで焼かれたものらしいです。

溶けて原型を留めていない飯ごう

ある野戦病院の壕から出てきた体温計や薬のアンプルです。海軍の刻印があります。 

野戦病院の壕から出てきた体温計や薬のアンプル。海軍の刻印があります。

体温計や薬のアンプル。海軍の刻印がある

お茶碗にこびりついた遺骨も。焼かれたらしく、一部が焦げていました。  

お茶碗に付着した遺骨。焼かれたらしく、一部が焦げていました。

お茶碗に付着した遺骨。焼かれたらしく、一部が焦げていた

鋭利な刃物で切断された腕の遺骨は、野戦病院で切り落とされた負傷者の腕ではないか、と見られています。

鋭利な刃物で切断された痕跡が残る腕の遺骨

鋭利な刃物で切断された痕跡が残る腕の遺骨

国吉さんの友人が所持していた血判状=写真下画像の一部は加工してあります)。米軍に切り込みなどの特攻をするために分隊全員が血の結束を誓って押捺し、突撃したといいます。所持していた人だけが運良く生き残り、これが現在に伝えられました。

血判署

自らが経営する会社の事務所の一角に、数十万点の遺品が展示されています。ここには数多くの遺族が、帰ってこない肉親の手がかりを求めて訪ねてきます。そして、誰が来ても国吉さんは快く受け入れ、持ち主が見つかれば無償で返還されています。こうした活動をすべてボランティアでやってきた国吉さんは1939年生まれ。もう70半ばになり、最近はこの遺品をしっかりと管理してくれそうな公営の資料館へ、すべて無償で寄贈したいと話されています。

ただ、本業の消毒会社の運営や遺骨収集以外は、根っから不器用な国吉さん。独特な言い回しをされることが多く、数十万点の遺品を集めた苦労の対価をついお金で計ってしまい、「何千万円の値打ちがあるさ」と口走ることがよくあります。それが独り歩きして誤解を生み、一部のマスコミや団体などから疑問や非難の声があがりました。

戦争資料館について語る国吉さん

戦争資料館について語る国吉さん

まさにその通りで、国や家族のために戦った兵士たちや地獄の戦場で非業の死を遂げた民間人の遺留品をお金に換算した非はあると思います。でも、詳しい経緯を聞いてみると、「この資料館は自らの人生を注ぎ込んだ遺骨収集活動の集大成。それを理解して欲しかったので、つい金の値打ちで表現してしまった」と、反省されています。そして、「戦争体験者の願いとして、遺品が語る悲惨な事実を後世に伝えるため、しっかりとした公営の資料館に展示して貰いたかった」という思いが、売る売らないという騒ぎになってしまったそうです。齢を重ね、新しい家族も増え、自宅の一部を戦争資料館として提供し続ける事の難しさを感じられているのも、大きな理由です。そうした葛藤が、今回の騒動の一端になったのでは、と思われます。遺骨収集活動に関しては心より尊敬できる国吉さんですが、人間づきあいや言葉の選び方にとても不器用さを感じてしまい、今後もトラブルに巻き込まれないかと心配です。

戦争資料館で国吉さん(左端)から説明を受けるボランティアの学生たち

戦争資料館で国吉さん(左端)から説明を受けるボランティアの学生たち

最近は、沖縄から見てヤマトと呼ぶ本土から、様々な個人や団体が国吉さんを頼ってきます。戦争資料館で国吉さん(左端)から説明を受ける若者たちは、JYMA(日本青年遺骨収集団)という学生らが組織する遺骨収集ボランティアです。もう、数十年前から、国吉さんと一緒に活動している若者たちで、最近は、看護学校の女学生やマスコミを目指す青年らも参加しており、とても真面目に取り組んでくれています。彼ら以外にも、アルピニストの野口健さんたちのグループも頻繁に来られており、その情報発信力の大きさと確かさを心強く感じています。新しい世代層が参加してくださることを国吉さんも心から喜んでおられ、世代交代の担い手に大きな期待を寄せられています。

そしておっちゃんの旦那、おばちゃんの私ですが、国吉さんが山野に出向かれる限り、ツルハシとスコップ、カッチャギ(熊手)を手にして、ご一緒する所存ですよ。がんばりましょうね、国吉さん(律)。

沖縄戦・戦没者の遺骨収集活動

この骨の山は2005年、太平洋戦争が終結して60年目の沖縄県で撮影しました。すべてが、同島南部の壕(ガマ)やサンゴ石灰岩の割れ目に散らばっていた戦没者の遺骨です。

ほぼ100柱(百人分)。終戦から60年が過ぎるまで、ずっと地面の下や岩の隙間に埋もれていました

ほぼ100柱(百人分)。終戦から60年が過ぎるまで、ずっと地面の下や岩の隙間に埋もれていた

新聞記者時代、取材で訪れた沖縄で、「やれ夕刊の締切だ。朝刊の早版に突っ込むぞ」などと、取材相手の立場や心情も察しないまま、日々の紙面を埋めるために走り回っていました。そんな折、数十年に亘って同島で戦没者の遺骨を収集されている方々と出会い、「あんたらも一時的な取材で戦争を伝えるのではなく、ひと欠片でもいいから亡くなった人の骨を拾ってあげなさい。そして沖縄で何があったかを知りなさい」と諭されました

大岩の下から兵士の遺骨が掘り出された。その現場で祈る井上徳男さんと富美子さんご夫妻。沖縄で戦死した兄の遺骨を探しに北海道から15年間通って来られた、沖縄本島南部で

大岩の下から兵士の遺骨が掘り出された。その現場で祈る井上徳男さんと富美子さんご夫妻。沖縄で戦死した兄の遺骨を探しに北海道から15年間通って来られた、沖縄本島南部で

過酷な地上戦に巻き込まれて亡くなった非戦闘員の民衆を含め、数多くの戦没者を出した沖縄戦。その実態を伝えるために、戦争の体験者から話を聞くことばかりに気を取られ、60年以上が過ぎた今も数多くの遺骨が残されたままになっているとは、思いもしませんでした。そして、自分が踏みしめている大地の下に、平和な時代の礎を築いた方々が非業の死を遂げたままの姿で眠っていることも。その時、刹那的な仕事しか出来ていないのが無性に恥ずかしく、沖縄に出張命令を出したデスクに1日だけ休暇をもらい、収集のお手伝いをしました。

旧日本軍の壕から発掘された通信機器。遺骨収集で戦没者とどう向き合えるか‥、那覇市の国吉勇・戦争資料館で

旧日本軍の壕から発掘された通信機器。遺骨収集で戦没者とどう向き合えるか‥、那覇市の国吉勇・戦争資料館で

その作業は驚愕の連続でした。まず、怖い。懐中電灯とロウソクの灯りに照らされる洞窟の天井は今にも崩落してきそうで、えも言われぬ恐怖感がじわじわと押し寄せてきます。そして、作業が無茶苦茶にしんどい。幅や高さが1メートルもない洞窟内で、ツルハシとスコップを使って時には1メートル~2メートル掘り下げないと、埋もれた遺骨は出てきません。ほとんどの壕は、アメリカ軍が爆雷を放り込んだり、馬乗り攻撃をしたりして天井や壁が崩れてしまい、元の地盤まで多くの土砂が堆積しています。その土砂も、沖縄の呼び名でクチャと呼ばれる粘土質のものが多く、水を含むとドロドロになって粘り、乾燥すると硬くて重くなる厄介な存在です。そして、掘り進むと骨かと思われる小さな破片が多数出てきますが、ほとんどがサンゴ石灰岩の破片で、これを遺骨と見分けるのは素人には不可能です。昼休みをはさんで6~7時間の作業でしたが、まさに苛酷な肉体労働で沖縄の亜熱帯の暑さも重なって、地獄のような1日でした。

元地盤まで掘り下げる国吉勇さん。深い穴に長い影が伸びる

元地盤まで掘り下げる国吉勇さん。深い穴に長い影が伸びる、伊江島で

でも、小さな破片であっても骨が出てくると、ホッとするというか嬉しくなるというか、気持ちが高揚しました。不謹慎な話ですが、宝物を掘り出したような気分になるのです。あまりに作業が過酷だったからかもしれませんが、作業を初めて4~5時間後に手の骨の一部が出てきた時には、声を出して喜んでしまいました。そして、小さな破片となって埋もれていた方のことを思うと、熱いものがこみ上げてきます。これがきっかけで、遺骨収集のボランティアに嵌りました。あれから10年以上、毎年、冬になると収集のために沖縄へ通っています。勤めを辞めた今は、40~50日間は現地に滞在し、掘り続けています。来年も、行く予定です。未だに埋もれたままの方を掘り出して、太陽の下で供養ができるように(哲)。

洞窟内のあまりの暑さに井上さんの背中から汗の蒸気が上がった、沖縄本島南部で

洞窟内のあまりの暑さに井上さんの背中から汗の蒸気が上がった、沖縄本島南部で