みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
活動②(記録)

2015年遺骨収集61日目 「お帰り、あんちゃん」。瞼の兄の万年筆

国吉勇さんと梶原さんの万年筆

国吉勇さんと梶原さんの万年筆

戦争資料館で朝日新聞の木村記者の取材を受ける国吉さん

戦争資料館で朝日新聞記者から取材を受ける国吉さん

沖縄県浦添市沢岻(うらそえし・たくし)の壕で昨年11月、那覇市の遺骨収集家・国吉勇さん(76)が発見した、旧日本海軍所属の梶原隼人さん(戦没当時23)の万年筆が、故郷の福岡県に住むご遺族の元へ返還されました。

★沖縄タイムスに掲載されました

www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=108105

★NHKで放映されました

www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022621000.html

帰ってきた万年筆を見る梶原敦さん(手前右)、妻の(手前左)、長男のさん(後方右)

帰ってきた万年筆を見る梶原篤さん(手前右)、妻のみち子さん(手前左)、長男の秀康さん(後方右)

NHKの取材を受ける梶原篤さん

NHKの取材を受ける梶原篤さん

受け取られたのは、同県篠栗町高田に住む隼人さんの弟・梶原篤さん(86)です。終戦から70年。戦没者の遺留品が、二親等以内の家族へ帰る例は極めて珍しいです。

故梶原隼人さん

故梶原隼人さん

厚生労働省などの記録によると、隼人さんは1944年(昭和19年)6月、千葉県にあった海軍砲術学校の第149防空隊へ入隊。その年の9月、海軍沖縄方面根拠地隊の司令部へ配属されました。

兄隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

兄隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

そして、翌45年(昭和20年)5月3日、南西諸島で米軍などとの戦闘中に戦死、と公報されています。弟さんの話によると、砲撃を担当されていたそうです。

隼人さんの名が刻まれた平和の礎

隼人さんの名が刻まれた平和の礎

隼人さんの名が刻まれた礎と平和祈念公園

隼人さんの名が刻まれた礎と平和祈念公園

沖縄戦の記録などによると、旧日本海軍は、那覇市や豊見城市で、上陸してきた米軍を洞窟戦などで迎え撃ち、ほとんどの兵士がそこで戦没した、とされています。なぜ、浦添市で隼人さんら海軍兵が亡くなっていたのかは、謎のままです。

梶原隼人さんの万年筆

発見された現場で、梶原隼人さんの万年筆を撮影

梶原さんの遺留品などが見つかった壕

梶原さんの遺留品などが見つかった壕

隼人さんの万年筆は、「浦添御殿の墓」がある沢岻公園内のお墓の横に繋がる壕内で、3~4柱の遺骨と一緒にみつかりました。他にも海軍の装備品や武器などが複数出土しています。

浦添御殿の墓

浦添御殿の墓

浦添御殿の墓を説明する立て看板

浦添御殿の墓を説明する立て看板

収容した国吉勇さんは、「畳三畳ほどの狭い壕で、複数の遺骨が岩の下敷きになっていた。隠れていたところを攻撃されたのだろう」と現場の状況を説明されます。他の兵士の万年筆も、4本出てきたそうです。

発見場所の前でNHKの取材チームに説明する国吉勇さん

発見場所の前でNHKの取材チームに説明する国吉勇さん

万年筆の発見現場の高台から、米軍の上陸方面を望む

万年筆の発見現場の高台から、米軍の上陸方面を望む

「お帰り、あんちゃん」。帰って来た万年筆を手に、71年前に別れた瞼の兄を偲ぶ篤さん。ご自身は、隼人さんよりも二カ月早く、愛媛県の松山海軍航空隊・飛行予科訓練生(予科練)に入隊されました。

帰ってきた万年筆を眺める梶原篤さん

帰ってきた万年筆を眺める梶原篤さん

篤さんが出征する時、旧国鉄・飯塚駅(現在のJR飯塚駅)まで見送りに来てくれた優しい兄の姿を忘れられない、と話されます。息子が戦地へ出向く姿を見ることが出来なかったご両親に代わって、送り出してくれたのだ、と当時を振り返られます。

梶原家の集合写真。後方右端が隼人さん。手前右から4人目が篤さん

梶原家の集合写真。後方右端が隼人さん。手前右から4人目が篤さん

当時の自らの写真を手に笑顔で語る篤さん

軍服姿のご自身の写真を手に笑顔で語る篤さん

松山市や宇和島市などで、厳しい訓練を受けていた篤さんのもとへ、隼人さんの達筆な字で、「元気にしているか」などと、励ます手紙が何通も届いたそうです。

隼人さんに贈られた勲八等の表彰状

戦後、隼人さんに贈られた勲八等の表彰状

「それが、この万年筆で書かれたのでしょうか」と、折れた本体に刻まれた氏名を、何度も指でなぞられます。そして、「この万年筆は、あんちゃんのために私が、お店から買って来たものだと思います」と懐かしみます。

帰ってきた万年筆を何度も指でなぞる篤さん

帰ってきた万年筆を、何度も指でなぞる篤さん

あの時代、万年筆は貴重品でもあり、文字を書く上では必需品でした。ゆえに、「万年筆の病院」があったそうで、そこで篤さんが兄のために購入した商品に間違いない、と話されます。

万年筆を仏壇に供え、手を合わせる篤さん

万年筆を仏壇に供え、手を合わせる篤さん

終戦後、「隼人さん」として届いた白木の箱に、手を合わせ続けてきた篤さん。一族の祖霊と共に、供養を怠らなかったそうです。が、どうしても箱の中身は確認できなかったと、うなだれます。

隼人さんの写真を手荷物篤さん

隼人さんの写真を手に持つ篤さん

「兄は沖縄で戦死したと伝え聞いていました。あの地獄のような戦場です。遺骨や遺留品が、故郷へ帰って来られるはずがない。それを知るのが、辛くて、怖くて‥」

万年筆を愛おしげに何度も触る篤さん

手慣れた様子で万年筆を使う篤さん

自らも予科練に志願して、戦地へ赴いた篤さん。71年ぶりの兄の帰宅に、最初は気丈に振る舞われていました。でも、耐えきれないように、「これで、やっと本当のあんちゃんを供養できます」と、溢れ出る涙を拭いながら呟かれました。

隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

息子の秀康さん(後方)や妻のみち子さん(手前左)と万年筆について語る篤さん

息子の秀康さん(後方)や妻のみち子さん(手前左)と万年筆について語る篤さん

隼人さんの万年筆は、篤さんと他の兄弟、家族たちと過ごした後、福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館で、戦後70年企画として開かれている「物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦」で、他の遺留品と共に展示されています。

大刀洗平和記念館の山本館長(中央)と語る篤さん(左端)

大刀洗平和記念館の山本館長(中央)からの展示依頼を快諾する篤さん(左端)

この企画展は、沖縄戦が終結した時期に合わせた6月末まで開催されています。問い合わせは、同館(0946-23-1227)まで。興味がある方は、ぜひ、お訪ねして、ご覧になってください。

物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦の展示場

物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦の展示場

2015年遺骨収集60日目 大刀洗平和記念館で沖縄戦の遺留品を展示

大刀洗記念資料館で開催されている「遺物が語る沖縄戦」

大刀洗平和記念館で開催されている「遺物が語る沖縄戦」

遺骨収集家の国吉勇さんたちが集めた戦没者らの遺留品が、福岡県筑前町にある「大刀洗平和記念館」で展示されています。タイトルは「物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦」。同館の戦後70年企画展として、6月29日まで開催されています。

沖縄戦当時の写真や遺留品が展示されている

沖縄戦当時の写真や遺留品が展示されている

軍馬の蹄が残った蹄鉄。沖縄戦では馬が重用された

軍馬の蹄が残った蹄鉄。沖縄戦では馬が重用された

沖縄戦で使用された武器や薬品類、生活道具などが150点余り。激しい戦闘で破壊されたり、永年土に埋もれて劣化していたりしていますが、戦争の往時の記憶を呼び起こす品々ばかりです。

来館者も、足を止めてじっと展示品に見入る

来館者も、足を止めてじっと展示品に見入る

お母さんと一緒に来た小さな女の子は、「これ、なあに?」

お母さんと一緒に来た小さな女の子は、「これ、なあに?」

今回、紹介されているものは、国吉さんの10万点を超える所蔵品からすれば、ほんの一部です。が、同氏が60年間に亘って集めた遺留品が沖縄を出て、このような本土の資料館で展覧会をして戴くのは、初めてのことです。

旧日本軍が所持していた拳銃や小銃

旧日本軍が所持していた拳銃や小銃

鉄兜などの展示品

鉄兜などの展示品

展示品で、まず目を引くのが、旧日本軍兵士が持っていた拳銃や小銃などの武器類です。当時、物資が不足し、粗悪な原料で作られたせいか、鉄製品は劣化してボロボロになっています。特に、銃弾で穴が開いた鉄兜の薄さに驚きます。

陶磁器の手りゅう弾など

陶磁器の手りゅう弾など

米兵から水を貰う少女の写真も展示

米兵から水を貰う少女の写真も展示

そして、鉄の代用品として作られた陶器や磁器の地雷や手りゅう弾。武器として、どれだけ役に立ったのかは不明です。が、皮肉なことに、鉄製ならば朽ち果てているところ、ほぼ完全な姿で残っています。

陶磁器の地雷

陶磁器の地雷

出土したメガネ

出土したメガネ

これらは、資源のない日本が巻き込まれた無謀な戦争の貴重な証拠です。有名な窯元も、陶磁器の手りゅう弾や地雷などを焼かされたそうです。

おばあちゃんと一緒に訪れた可愛い坊やが、館内を駆け回っていた

おばあちゃんと一緒に訪れた可愛い坊やが、館内を駆け回っていた

出土したフォークやスプーン

出土したフォークやスプーン

そうした職人たちは、暮らしの道具だけでなく、「人を殺す武器作りのお手伝いをした」として、今も激しく後悔されている、と聞き及んでいます。

熱で溶けてしまったガラス製の注射器

熱で溶けてしまったガラス製の注射器

へしゃげた飯盒

へしゃげた飯盒

戦争の残虐さを感じさせるのが、火炎放射器などで焼かれて変形してしまった注射器や飯盒などです。ガラスやアルミが熱で溶けて、原型を留めていない状態で出土したそうです。

火炎放射器で焼かれて、お茶碗に付着した遺骨

火炎放射器で焼かれて、お茶碗に付着した遺骨

米軍の関係者が撮影したケガをした少年の写真も展示

米軍の関係者が撮影したケガをした少年の写真も展示

また、壕内に持ち込んだ茶碗に焼かれて付着した遺骨や、野戦病院壕で出土した切り取られた腕の骨など、兵士や民間人が味わった戦場の地獄を垣間見ることができる遺留品も展示されています。

時を止めたままの時計

時を止めたままの時計

展示物に見入る来館者

展示物に見入る来館者

まさに、沖縄を訪れたことがない「ヤマトンチュ」にとって初公開となるものばかり。この企画展の開会と同時に、読売新聞社などの全国紙が紹介してくださいました。夫・哲二が、この15年間、沖縄で撮影してきた遺骨収集作業の写真も、一緒に展示されています。

展示されている旧日本陸軍の九七式戦闘機

展示されている旧日本陸軍の九七式戦闘機

特攻した「さくら弾機」の搭乗員たち

特攻した「さくら弾機」の搭乗員たち

大刀洗平和記念館は、福岡県筑前町が2009年(平成21年)10月、開館した歴史資料館です。旧日本陸軍の九七式戦闘機や、海軍の零式艦上戦闘機など、第二次世界大戦当時の資料などが約1800点が展示されています。

館内には、戦時中の写真や垂れ幕が展示されている

館内には、戦時中の写真や垂れ幕が展示されている

旧海軍の零式艦上戦闘機を見る来館者

旧海軍の零式艦上戦闘機を見る来館者

建物の外観は、飛行機などの格納庫を模した蒲鉾型です。戦時中、この大刀洗飛行場から、特攻隊の中継基地として、多くの隊員を乗せた機体が飛び立っていったそうです。

蒲鉾型の格納庫を模した大刀洗平和記念館

蒲鉾型の格納庫を模した大刀洗平和記念館

写真や当時の軍服なども並ぶ

写真や当時の軍服なども並ぶ

そうした隊員たちの遺影や遺書、父母や兄弟へ宛てた手紙なども展示されています。勇ましい言葉の行間に、切々とした家族への想いが滲み出ていて、何度も読み返すうちに涙がこぼれてきます。

特攻した兵士の家族へ宛てた遺書

特攻した兵士の家族へ宛てた遺書

特攻などで戦没した兵士たち

特攻などで戦没した兵士たち

東洋一の規模を誇った飛行場でしたが、1945年(昭和20年)3月などに、米軍のB29爆撃機による空襲を計7回も受けています。

大刀洗空襲の展示品など

大刀洗空襲の展示品など

ずらりと並んだ戦没者の遺影

ずらりと並んだ戦没者の遺影

飛行場やその周囲の軍事施設は壊滅的な被害を受け、兵士だけでなく、幼い児童を含む多くの犠牲者を出しました。その犠牲者の遺影や資料なども展示されているのです。

墜落したB29爆撃機の残骸などの写真

墜落したB29爆撃機の残骸などの写真

平和記念資料館の入り口

平和記念資料館の入り口

数多くの犠牲のうえに成り立つ平和を享受できている今。この資料館も、二度と戦争は起こさない、という決意のもとで、「平和への情報発信基地」として、 メッセージを伝え続けています。

特攻隊員の遺書

特攻隊員の遺書

特攻隊員の遺影

特攻隊員の遺影

可能ならば、家族への想いを胸に、若くして戦没した若者たちの遺言と、悲惨な沖縄戦の「物言わぬ証言者」を見るために、大刀洗を訪ねてやってください。未来ある若者の悲壮な決意と、言葉にできない無念さが胸に迫りました。

展示されている千人針など

展示されている千人針など

記念館の前で、山本館長(左)と梅津学芸員(右)にと一緒に

記念館の前で、山本館長(左)と梅津学芸員(右)と一緒に

今回の展示会を企画して下さった同館長の山本寛さま、学芸員の廣瀬薫さま、梅津繁美さま。そして、コーディネートのために走り回って下さった野田良太さまをはじめ、同館のスタッフの皆さま。心より感謝いたします。ありがとうございました。

企画展のパンフレット

企画展のパンフレット

 

2015年遺骨収集54日目 今年の収骨活動は終了

平和の礎の前で遺骨を仕分ける

平和の礎の前で遺骨を仕分ける

終戦から70年の今年、沖縄県での私たちの遺骨収容作業が終了しました。1月20日に沖縄入りして、54日目。様々な弊害や制約があって、考えていた以上に収骨活動が進みませんでしたが、仲間たちの助けを得て、大きな成果をあげることができました。

NHKの沖縄放送局で取り上げて下さいました。

http://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/5093165411.html

納骨袋に、参加者の名前や活動場所などを記す

納骨袋に、参加者の名前や活動場所などを記す

まず、収骨量の多さです。全体量もさることながら、部位別で言うと30柱(30体)以上は、納骨できたのではないか、と思われます。これだけの量を出せたのは、終戦から60年以来です。

NHKのカメラマンも撮影後、遺骨を慈しんでくれた

NHKのカメラマンも撮影後、遺骨を慈しんでくれた

そして、特筆すべきは、戦没者の遺留品のことです。今年は、主に糸満市喜屋武と福地の丘陵地帯で活動したのですが、発掘できた遺留品の種類の豊富さと出土量の多さに驚いています。

喜屋武と福地の丘陵地帯から出てきたボタンなどの遺留品

喜屋武と福地の丘陵地帯から出てきたボタンなどの遺留品

この後の活動として話を紡ぎますが、持ち主の身元が判明し、ご遺族の元へお返しできる遺留品が複数出たのです。ひとつは万年筆。もう一つは印鑑とメガネです。70年の歳月を経て、奇跡のような出来事です。

民間人の遺骨が出る岩の隙間から出てきたキセルの一部

民間人の遺骨が出る岩の隙間から出てきたキセルの一部

収骨は終わりましたが、次回は、遺留品の返還活動などを報告いたします。感動的な話もあれば、次世代の若者が活躍する事例もありそうです。今年は、実際の遺骨収容よりも、行政との軋轢やマスコミ対応などで多忙だった活動年になりました。

遺骨袋を納骨。今年は量が多いので重い

遺骨袋を納骨。今年は量が多いので重い

節目の年になると、いつもこうなりますが、それも、重要な仕事だと受け止めています。ただ、大切なことは、私たちの活動の原点である「戦没者の慰霊のために働く」ということを忘れてはいけない、ということです。

平和の礎の目で厳かな時間

平和の礎の前で厳かな時間

埋もれたままの遺骨を少しでも陽の当たる場所に戻してあげる。それを今年も実践できたと自負しています。でも、まだ数多くの戦没者が、沖縄の山野に眠っています。私たちの活動が、いつ終わりを迎えることができるか、想像がつきません。

5つの納骨袋を仮安置した。これでお別れ‥

5つの納骨袋を仮安置した。これでお別れ‥

今後も、体力と気力が続く限り、がんばります。多忙で、ブログの更新が滞ったことをお詫びいたします。終戦から70年の遺骨収取活動、もうしばらく、お付き合いください。

2015年遺骨収集35日目 戦場のハーモニカ②

トーチカの中で発見したハーモニカを見せるエリちゃん、

トーチカの中で発見したハーモニカを見せるエリちゃん

先日、糸満市の喜屋武と福地にまたがる旧日本軍のトーチカから出てきたハーモニカ。その背景を調べるために、まず、製造業者である「ヤマハ」さんに、製造時期や型番、その歴史などを聞いてみました。詐欺師のようにペラペラと喋る夫・哲二の電話に、最初は胡散臭そうにされていましたが、後日、すごく丁寧な返信が送られてきました。

トーチカ内で見つかったハーモニカ

トーチカ内で見つかったハーモニカ

その内容をまず、ご覧下さい。

 弊社は、創業から戦前までの記録の多くを戦時中に焼失、紛失し、その後、資料等の積極的な収集をしてきていないため、調査をさせていただいたものの、十分な回答をご用意することができませんでした。

 弊社では、1914年(大正3年)にハーモニカの製造を開始しました。当時国内市場を独占していたドイツ製ハーモニカに対抗して製造を始めましたが、同年に勃発した第1次世界大戦によって、ドイツ製ハーモニカの供給が減少したことにより生産数を伸ばし、翌1915年(大正4年)には、欧米への輸出も開始しました。

 記録によると、初年度が約1500本の生産数に対し、5年後には年間約20万本を生産していますので、その急激な増産の様子がうかがえます。国内では若者を中心に流行したようです。1944年(昭和19年)に戦況により楽器生産を全面停止するまでの間、音の配列の改良や、国内初の複音20穴ハーモニカの完成など、ハーモニカ音楽の発展に尽力しました。

 今回お問い合わせいただきましたハーモニカは、20穴のものであり、1919年(大正8年)以降に生産されたものですが、設計図やカタログ等の資料が残っていないことと、外観の痛みがひどいことから、製造年の判断ができませんでした。遺留品を収集された場合は、遺族の方へお届けする努力をされているとサイトにて拝見しました。皆さまの意義深きご活動のお役に立てず、心苦しく思っております。ご理解の程、何卒宜しくお願い申し上げます。

 お返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。今後とも宜しくお願い申し上げます。

IVUSAのひとり一人の学生が手に取って、ハーモニカを見る

IVUSAのひとり一人の学生が手に取って、ハーモニカを見る

ヤマハさんは、楽器や半導体、スポーツ用品などの製造販売を手がけられています。ピアノの生産量は世界最大で、品質もトップクラスとされています。その前身は、1897年(明治30年)に発足した日本楽器で、その後、「ヤマハ・YAMAHA」の社名を経て、創業90周年を機にヤマハと改称したそうです。

国立戦没者墓苑へ納骨するため袋に発見日時や場所などを書き込むIVUSAの学生

国立戦没者墓苑へ納骨するため袋に発見日時や場所などを書き込むIVUSAの学生

ご返信頂いた内容を鑑みて、戦時中の国内状況の悪化で、楽器の製造どころではなく、戦争に巻き込まれてゆく様子が垣間見えます。ウィキペディアなどによると、1938年(昭和13年)には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産をしていたとされています。そして、返信文にあるように、1944年(昭和19年)11月には楽器類の生産を完全に休止。翌年夏、連合軍の戦艦から浜松の工場が砲撃され、全壊して終戦を迎えたそうです。

納骨するために仮安置される遺骨に祈る男子学生

納骨するために仮安置される遺骨に祈る男子学生

この回答文などを見て驚いたのが、楽器を作る会社までが、当時、軍需産業にシフトされていたことです。様々な「音楽」が平和の象徴とされている現代。反戦歌もラブソングも、誰でも自由に口ずさみ、演奏することが可能です。でも、日本が戦争に突入してゆく70数年前、敵国のアメリカやイギリスの音楽として、ジャズなどが禁止されたそうです。そして、国民の戦意を高揚させる軍歌が、次々と世に送り出されました。

不発弾処理をする自衛隊員

不発弾処理をする自衛隊員

私たちも子供の頃、よく右翼団体とされる方々が、街宣車から大音響で流す軍歌を不思議な想いで聞いたものです。「カッコいいし、勇ましい。何か心が沸き立つような感じ‥」と。でも、その音楽の多くは、当時の日本人を鼓舞し戦地へ送り出す、「死の行進曲」でもあったようです。

収集活動の最終日。戦没者の遺骨を納骨するために車に乗り込む学生たち

収集活動の最終日。戦没者の遺骨を納骨するために車に乗り込む学生たち

私たちが知っている中で最も怖い、と感じた軍歌は下記の歌です。その歌詞に注目して下さい。

「出征兵士を送る歌」(ウィキペディアより)


我が大君(おおきみ)に召されたる
命栄えある朝ぼらけ
讚えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征けつわもの日本男児


華と咲く身の感激を
戎衣(じゅうい)の胸に引き緊(し)めて
正義の軍(いくさ)行くところ
誰(たれ)か阻まんこの歩武(ほぶ)を
いざ征けつわもの日本男児


輝く御旗(みはた)先立てて
越ゆる勝利の幾山河(いくさんが)
無敵日本の武勲(いさおし)を
世界に示す時ぞ今
いざ征けつわもの日本男児


守る銃後に憂いなし
大和魂揺るぎなき
國のかために人の和に
大盤石の此の備え
いざ征けつわもの日本男児


あゝ万世の大君に
水漬(みづ)き草生す忠烈の
誓い致さん秋(とき)到る
勇ましいかなこの首途(かどで)
いざ征けつわもの日本男児


父祖の血汐(ちしお)に色映ゆる
國の譽の日の丸を
世紀の空に燦然と
揚げて築けや新亞細亞(あじあ)
いざ征けつわもの日本男児

終戦から70年が過ぎても、壕や土の中に眠っていた遺骨。国による収容は遅々として進まない

終戦から70年が過ぎても、壕や土の中に眠っていた遺骨。国による収容は遅々として進まない

遺骨収集を続けていて、この歌の内容と意味を知った時、心が震えるほど憤りました。万歳の歓呼で送り出された「日本男児(にっぽんだんじ)」が、今も、数多く戦地に残されたままだからです。しかも、暗い洞窟の土に埋もれて、落下した大岩の下敷きとなり、砲撃を何発も浴びて粉々に散乱し、海中に沈んだ船内に閉じ込められています‥

収容した遺骨に祈る学生たち

収容した遺骨に祈る学生たち

これが、「水漬(みづ)き草生す忠烈」を誓った、「つわもの」たちの姿です。日本人は、肉親が行き倒れて亡くなっていたら、遺骨の引き取りを拒むでしょうか。余程の不貞を働いていない限り、大切にお迎えし、先祖からのお墓に納骨すると思います。まして、家族や国のために命を落とした人を蔑ろにするような国民性はない、と断言したいぐらいです。なのに、沖縄を始め、極東ユーラシア大陸や南太平洋の海と島々には、放置されたままの遺骨が数多く残されたままです。

遺骨を前に泣き出す女子学生

遺骨を前に泣き出す女子学生

そして、「父祖の血汐(ちしお)に色映ゆる。國の譽の日の丸を世紀の空に燦然と、揚げて築けや新亞細亞(あじあ)」のくだり。日の丸の赤と父祖の血汐‥。それを、アジアの国々へ掲げる‥。怖ろしい。現代の平和な日本からは、連想できないような内容です。

国吉勇さんから、遺留品の説明を受けるIVUSAの学生たち

国吉勇さんから、磁器製の手榴弾の説明を受けるIVUSAの学生たち

でも、あの時代、音楽に自由はなくなり、戦意の高揚と、天皇陛下を中心とした国粋を煽る歌詞が幅を利かせました。勇ましい歌で、前線で戦う兵士を称え、忍耐強い銃後の家族を励ます歌が、次々と生み出されたのです。そして、兵士と民間人を合わせて260万人~310万人の戦没者(ウィキペディアより)を生み出す一役を担ったとされています。

ハーモニカを見つけたエリちゃん。青空の下で、何が書かれているかをチェックする、

ハーモニカを見つけたエリちゃん。青空の下で、何が書かれているかをチェックする、

話を戻します。一体、このハーモニカの持ち主は誰であったのでしょうか。そんな軍歌に煽られて、沖縄で戦った出征兵士の持ち物ですか?。本来、入ることさえ適わない、陣地に隠れていた、歯も生えそろわない小さな顎の持ち主でしょうか。判っている事実は、日本軍が米軍を迎え撃つために構築した、トーチカ内の石垣の隙間に差し込まれていた、だけです。

出土した湯呑み(中央)やカフスボタン(左)。兵士の物とは思えない

出土した湯呑み(中央)やカフスボタン(左)。兵士の物とは思えない

子供の遺骨とみられる未成熟な骨が、数多く出土するこのトーチカ。要塞のような陣地壕から見つかる数々の民間人の遺留品‥。本島南端に位置する喜屋武と福地の丘陵が、沖縄戦終結時の戦場を浮き彫りにしているように見えてきます。圧倒的な力で迫りくる米軍に対し、軍も民も、ただ逃げ惑いながら、洞窟や岩陰で身をひそめている様子が。

トーチカから出てきた子供らしき顎の骨。奥歯などが生え揃っていない

トーチカから出てきた子供らしき顎の骨。奥歯などが生え揃っていない

積み上げられた石垣に隠れながら、ハーモニカの持ち主は、最後に何のメロディを奏でたのでしょう。戦意を高揚させる軍歌?。それとも、故郷の家族を想う唱歌の可能性も。もし、子供だったら、得意な童謡だったかもしれません。激しい空爆や砲撃のさなかに、そっと隠された小さな楽器。その持ち主の心情を考えると、涙が止まりません。どうぞ、これからの世は、音楽を平和のためだけに奏でる時代であって下さい。

2015年遺骨収集活動30日目 海外のジャーナリストから取材を受けました

国吉勇さんを撮影する仏人ジャーナリストたち

国吉勇さんを撮影する仏人ジャーナリストたち

沖縄戦の終結から70年の今年、私たちの遺骨収集活動が海外のジャーナリストから取材を受けました。欧州のテレビで放映したい、と依頼があり、記者とカメラマン、通訳兼コーディネーターの3人のフランス人がやってきました。

白梅学徒隊の生き残りの女性を取材するGさん

白梅学徒隊の生き残りの女性を取材するGさん

外国語が苦手な夫婦は、「フランス語?、あいさつの言葉も判らんよ‥」とオロオロ。が、自らもジャーナリストでありながら、今回は通訳とコーディネートを担当するQさんは、日本語がペラペラ。記者のⅯさんも、会話レベルならば完璧の日本語を話します。カメラマンのGさんも、片言ながら、沖縄のおばぁとあいさつを交わしていました。

白梅の中山きくさんと名刺交換

白梅の中山きくさんと名刺交換

「うーん、恥ずかしい。せめて、あいさつぐらい勉強したらよかった‥」。ちょっと、萎れながら、哲二を見ると、「どうせ、俺は解からん」と、まったく意に介する様子はなし。優秀な外国人記者のチームに、堂々の日本語で答えています。そのうえ興奮して、いつも以上に難しい講釈を捲し立てているので、余計に恥ずかしさが募ります。

学生に付き添われて階段を登るきくさんを撮影

学生に付き添われて階段を登るきくさんを撮影

一方、占領下の「アメリカ世」で暮らした、ウチナンチュの国吉さん。「昔は英語で会話したものよ」と、自信満々でしたが、彼らの前では緊張して、日頃、使い慣れない敬語の日本語でタドタドと答えている始末。二人とも、ダメねぇ。でも、私も同じ。彼らが取材中は、出来る限り近づかいないように、動向を伺いながら行動していました(笑)。

国吉さんの戦争資料館で撮影中に打ち合わせ

国吉さんの戦争資料館で撮影中に打ち合わせ

でも、この3人。取材対象に対する姿勢が素晴らしかったです。記者のⅯさんは、納得がいくまで、様々な形で質問を投げかけます。決して誘導したり、大袈裟な内容を引き出そうとしたりしないで、本人の心の声を見事に引き出していました。

証言者の話を聞く学生たちを撮影

証言者の話を聞く学生たちを撮影

Qさんも、難しい内容の日本語を完璧に通訳し、取材の段取りや交渉事も難なくこなします。日本語のジョークや言い回しでさえ、理解して返してくる様に、「私たちよりも、日本の言葉や文化を理解しているのでは‥」と、感じてしまいました。

きくさんを撮影

きくさんを撮影

そして、カメラマンのGさん。その取材姿勢の素晴らしさに、夫の哲二も舌を巻いていました。良い映像が撮れるまで、絶対に妥協しない執念。納得できないときは、時間をかけて粘り、必ず自分のイメージに近い絵が撮れるまで、絶対に引き下がりません。国吉さんも哲二も、「とても、良い体験をさせてもらった」と、心から喜んでいました。

学生に証言するきくさんを撮影

学生に証言するきくさんを撮影

まだ、放映されていないので、何を取材されたかなどは一切、記せません。だけど、きっと良い番組に仕上がるはずです。多忙なため、駆け足で、沖縄を後にされましたが、もっと早く相談して下されば、沖縄戦を体験した更にすごい人も紹介できたのに‥。それが残念です。

白梅の中山きくさんと対面

白梅の中山きくさんと対面する、左からGさん、Ⅿさん、Qさんら

ただ、約束しました。次は青森へ遊びに来ていただける、と。とても、楽しみですが、背が高いGさんは、我が家の鴨居で頭を打ってしまうかも知れません。狭いトイレや風呂も大丈夫かなぁ。私の手料理の日本食が口に会うのか心配‥。

国吉さんの戦争資料館でカメラを構えるQさん(右)とMさん

国吉さんの戦争資料館でカメラを構えるQさん(右)とMさん

しかし、マタギの伊勢親方にも会って戴き、白神の森を案内出来たら喜ぶだろうなぁ。深浦の子供たちも紹介したい。大間越の3人娘はどんな態度で応じるかな。

白梅の搭に祈る国吉さんや学生たちを撮影する

白梅の搭に祈る国吉さんや学生たちを撮影する

Gさん、Ⅿさん、Qさん。ありがとうございました。取材だけでなく、様々なことでお世話になってしまって。心より、御礼を申し上げます。次回は青森で、お待ちしています。

2015年遺骨収集活動27日目 「JYⅯA」の精鋭たち

今年も来てくれたJYMAの若者たち
今年も来てくれたJYMAの若者たち

この時期、遺骨収集の第一人者である国吉勇さんを頼って、多くの団体が沖縄県を訪れます。中でも、私たちが最も頼りにしているグループの一つが、「JYMA」(日本青年遺骨収集団)。大学生を中心に結成され、沖縄のほかに、サイパンやソロモン諸島などへも、戦没者の遺骨収集のために隊員を派遣しています。

2月20日にNHKの「おはよう日本」で放送されました

出てきた遺骨を指し示すJYMAのメンバーたち
出てきた遺骨を指し示すJYMAのメンバーたち

今年、参加してくれたのは、学生と社会人ら約25名。初日は、糸満市喜屋武、福地にまたがる陣地壕と、半ば埋没した新垣の壕の二手に分かれました。が、新垣の壕が、土砂の搬出中に浸水し、続行は不可能に。そのため、喜屋武、福地の陣地壕に全員が集合して、収集活動に取り組みました。

喜屋武のジャングルで、遺骨収集に臨む学生たち
喜屋武のジャングルで、遺骨収集に臨む学生たち

ここは、サンゴ石灰岩が隆起した丘陵で、複数の壕や散兵壕、トーチカなどが散在する旧日本軍が造った要塞です。でも、砲撃や空爆で巨大な岩盤が崩落し、丘全体が徹底的に破壊し尽されています。山肌には尖った岩がゴロゴロ転がり、その上に木の根や蔓が巻き付き、不安定この上ない現場です。そのジャングルを切り開きながら、JYMAは活動を開始しました。

掘り出した遺骨を愛おしげに抱える女子学生
掘り出した遺骨を愛おしげに抱える女子学生

日によっては、IⅤUSA(国際ボランティア学生協会)の学生らも交えて、総勢160名が参加。その中でも、JYⅯAの隊員には、未経験者が掘ると崩落の危険がある場所や、閉塞感のある真っ暗な竪穴の壕など、作業が高難度で体力的にきつい場所を担当してもらいました。時には、他団体と混成チームを組み、初心者の指導をお願いすることも。

不発弾の処理をしてくれる自衛隊員。左端はJYMAの学生
不発弾の処理をしてくれる自衛隊員。左端はJYMAの学生

場所によっては、70年間堆積した土と岩を延々と取り除き続けるだけ。そんな状況でも、初心者へ熊手やツルハシの使い方や掘り方、遺骨と石の区別の仕方を教えながら、励んでくれています。そして、周囲に不発弾の危険などがないか、絶えず目を配っています。他の団体による、「遺骨や遺留品を発見!」の声があがる中、地道に下積み作業を続けることは、悔しくて無念だったと思います。が、誰一人、不平不満を口にすることなく、任務をまっとうしてくれました。

国立戦没者墓苑の仮安置所に、遺骨を届ける女子学生
国立戦没者墓苑の仮安置所に、遺骨を届ける女子学生

収集活動も終盤を迎えるころ、JYⅯAのメンバーからも、遺骨を発掘したという朗報が届き始めました。木の根に覆われたトーチカからは、頭の骨などが出土。軍靴が散乱し、担架の残骸があった岩の隙間では、砲撃でバラバラになった骨片や歯などを丁寧に拾ってくれていました。

氏名や日付などを納骨袋に書き込むJYMAの学生
氏名や日付などを納骨袋に書き込むJYMAの学生
納骨を前に、まず全員で遺骨に拝礼
納骨を前に、まず全員で遺骨に拝礼

最後まであきらめずに、壕口付近を掘り進めてくれた隊員らは、石の下敷きになった戦没者の腕の骨を発見。時間切れで収骨に至りませんでしたが、次へ繋がる大きな成果です。悪条件の中、隊員たちの戦没者への想いが、次々と実を結んでいるように感じられて、私たちの胸も熱くなりました。

仮安置所の遺骨へ焼香するため歩み寄る女子学さえい
仮安置所の遺骨へ焼香するため歩み寄る女子学生
遺骨に拝礼する女子学生
遺骨に拝礼する女子学生

収集活動の最終日、遺骨の選別作業と拝礼を行います。納骨を前に、メンバーが集めた骨と一堂に会し、獣骨や石が混ざっていないか、入念にチェックする大切な作業です。そして、部位ごとに骨を並べ、70年間、暗い土の中にいた戦没者の一人ひとりに想いを馳せ、全員で拝礼します。

仮安置所の遺骨に手を合わせる男子学生
仮安置所の遺骨に手を合わせる派遣隊の黒田隊長
遺骨に焼香する男子学生
遺骨に焼香する男子学生

この活動場所は、旧日本軍の陣地壕でありながらも、幼い子供の骨や民間人のものとみられる遺留品が出土しました。やっと日の目を見ることができた遺骨を、全員が慈しむように選別します。寡黙になる男子学生。戦争で人生を絶たれた方の無念を想い、涙ぐむ女子学生‥。戦没者に寄り添い、数多くの犠牲の上に成り立っている平和に感謝して、未來への誓いを新たにする、厳かな時間です。

収容した遺骨を手にする女子学生
収容した遺骨を手にする女子学生
遺骨を仮安置した後、泣き出す女子学生たち
遺骨を仮安置した後、泣き出す女子学生たち

純白の納骨袋に収めた遺骨は、翌日、摩文仁の丘にある仮安置所へ納骨されました。ただ今後、遺留品が見つかる可能性がある場所の遺骨は、私たちがお預かりしています。引き続き周辺の発掘を続ける必要があるからです。手つかずの場所が多かったこの陣地壕は、残されている遺留品の数も多く、名前入りの万年筆や印鑑、認識票などが、次々と出土するのです。

平和祈念資料館で、戦没者の検索をするJYMAの学生たち
平和祈念資料館で、戦没者の検索の説明を聞くJYMAの学生たち

納骨の後、摩文仁の平和記念公園にある戦没者の検索システムで、今回見つけた印鑑に刻まれた苗字を調べました。遺留品の返還活動に欠かせない手続きです。印鑑の発見者はIⅤUSAの学生だったのですが、派遣期間の都合で参加できなかったため、同じ学生であるJYⅯAのメンバーが検索します。

戦没者の名前が判明、礎へ向かう学生たち
戦没者の名前が判明、礎へ向かう学生たち
平和の礎で戦没者の名前を探す
平和の礎で戦没者の名前を探す

そして、該当する戦没者を確認しました。なんと、お一人だけ。これは、めったにないことで、もし、ご遺族がいらっしゃれば、返還できる可能性が高そうです。その後、印鑑の持ち主とみられる、戦没者の氏名が刻まれた平和の礎へ。私たちが遺留品の返還活動に携わるとき、必ず訪れる場所です。

該当者の名を見つけました。思わず笑顔が
該当者の名を見つけました。思わず笑顔が
礎に刻まれた戦没者に、鳴きながら手を和え焦る女子学生
礎に刻まれた戦没者に、涙ぐみながら手を合わせる女子学生

沖縄戦で亡くなった方は、ほとんどの遺骨や遺留品が故郷へ帰っていません。それゆえ、礎に刻まれた名前を戦没者が存在した証として、お参りされるご遺族が多いと聞きます。礎をお墓のように拝んだり、名前を紙に鉛筆で描きなぞったりする方もいます。遺留品をお返しする時、礎へ行くことができないご遺族もいるので、写真を撮ってお見せすることにしているのです。

平和の礎の前で、感極まって泣き出す女子学生
平和の礎の前で、感極まって泣き出す女子学生
礎に刻まれた戦没者の名前に触れる女子学生
礎に刻まれた戦没者の名前に触れる女子学生

学生たちは、「戦没者を礎に刻まれた何十万人としてではなく、ひとりの個人として身近に感じました」と、号泣する姿も。現在、所管する都道府県に問い合わせ、ご遺族探しを始めています。もし、判明すれば、両団体の学生と一緒に返還しに行きます。

掘り出した遺骨に拝礼するJYMAの学生たち
掘り出した遺骨に拝礼するJYMAの学生たち

JYⅯAの皆さん、終戦から70年目の遺骨収集活動、お疲れ様でした。ほんとうによく頑張って下さいました。国吉親方共々、心より感謝しています。若き精鋭諸君、また来年もお会いしましょうね。ありがとうございました。

2015年遺骨収集25日目 戦場のハーモニカ①

陣地壕内で見つかったハーモニカ

トーチカ内で見つかったハーモニカ

沖縄県糸満市喜屋武で、旧日本軍が使用していた石積みのトーチカから、戦没者の遺留品とみられる楽器のハーモニカが出てきました。住民が避難していた壕内から見つかることはあるのですが、兵士たちが駐留する戦いの場で見つかる例は、きわめて珍しいです。

この石垣の隙間に差し込んであったのを女子学生が見つけた

この石垣の隙間に差し込んであったのを女子学生が見つけた

高台にある陣地の石積みの間に差し込んであったそうで、IVUSA(国際ボランティア学生協会)の女子学生が、遺骨収集中に発見しました。片面には、「ヤマハバンド」と描かれ、裏面には、蝶の印と、「Butterfly Harmonica」と刻まれています。

日本軍の陣地跡が残るジャングルで、遺骨収集に臨むIVUSAの学生たち

日本軍の陣地跡が残るジャングルで、遺骨収集に臨むIVUSAの学生たち

いったい誰が持ち込んだのでしょうか。トーチカに居た日本兵が、戦闘の合間に吹くため?。それとも、兵士が全滅したり、撤退したりした後に、入り込んだ民間人が置いて行ったのかな。謎は深まります。

遺骨に手を合わせるIVUSAの学生たち

遺骨に手を合わせるIVUSAの学生たち

その場所は、高さ約2㍍、横幅が5㍍程の人工の石積みに、大きな機関銃か軽砲を備え付けられる大きさの銃眼が開いている、兵士が駐屯したトーチカ。背後の壁には、敵の攻撃なのか、黒く焼け焦げたような跡も残っています。

ハーモニカが見つかった時の様子をNHKの記者(左)に説明する女子学生

トーチカ内でハーモニカが見つかった時の様子をNHKの記者(左)に説明する女子学生(右端)

規律を重んじる日本軍兵士が、戦場でハーモニカを吹いていたとは思えません。ましてや、洞窟や岩の隙間から、米軍にゲリラ攻撃を加えていた沖縄戦ですから。ならば誰が持ち込んだのか。その答えは、70年過ぎた現場の状況で判断するしかないようです。

ハーモニカに描かれた文字を懸命に読み取ろうとする男子学生

ハーモニカに描かれた文字を懸命に読み取ろうとする男子学生

実は、このハーモニカの近くで、子どもの顎の骨が見つかりました。両者の距離は50cmも離れていませんでした。そして、石積みの下の地面から、大人の骨に交じって、子どもの遺骨や歯が複数出土したのです。

出土した子供の物とみられる下顎骨の説明を聞く学生たち

出土した子供とみられる下顎骨の説明を聞く学生たち

そして、下顎を詳細にみると、まだ奥歯が生えそろっていない状況。当時の子供の栄養状態が悪かったとはいえ、ハーモニカを吹けるような年代の遺骨とは思えません。でも、機関銃を構えている陣地に、そんな子供が出入りできるとは考えられないのです。

学生に身振り手振りで説明する哲二

学生に身振り手振りで遺骨の説明をする哲二

このトーチカで見つかった、ハーモニカと子供の顎の骨。関係各方面に問い合わせるなどして、更なる情報を集約して続報を書き込みます。もうしばらく、お時間を下さい。

2015年遺骨収集活動22日目 今年も来てくれた「IVUSA」の若者たち

沖縄本島南部のジャングルで、遺骨取集に臨むIVUSAの学生たち
沖縄本島南部のジャングルで、遺骨取集に臨むIVUSAの学生たち

2月の沖縄には、戦没者の遺骨収集のため多くの方が訪れます。県外から個人や団体が、那覇市在住の国吉勇さんを頼って、熱き想いを胸に集まってきます。「IⅤUSA」(国際ボランティア学生協会)も、その一員。

沖縄タイムスに紹介されました

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=103341

監視哨があった頂上付近で活動する学生たち
監視哨があった頂上付近で活動する学生たち

昨年に続き、大学生130名余りが、参加してくれました。今回は、国吉さんが発掘した遺留品の講演、白梅学徒隊の中山きくさんの平和学習などのあと、現場で遺骨収集活動を行いました。

学生たちに戦没者の遺留品を見せる国吉勇さん
学生たちに戦没者の遺留品を見せる国吉勇さん
学生たちに見せたスライドショー
学生たちに見せたスライドショー

今年の活動場所は、糸満市南部に広がるサンゴ石灰岩の丘陵地。畑に囲まれたジャングルで、本島南端の喜屋武岬にも近く、森の上空には猛禽類のサシバが舞う、のどかな丘です。

岩の庇の下で遺骨を収集する学生ら
岩の庇の下で遺骨を収集する学生ら

 が、沖縄戦の終結間近には、米軍の空や海からの猛烈な爆撃や砲撃などが降り注ぎ、兵士や民間人の遺体が、累々と転がっていたそうです。昨年の活動や調査などから、本格的な遺骨収容がなされていないことが判っていたので、IVUSAの若い力を借りる場に選びました。

みんなで仲良く昼食タイム
みんなで仲良く昼食タイム
休憩中も元気いっぱい。若者たちは屈託がない
休憩中も元気いっぱい。若者たちは屈託がない

ただ今回は、大勢の学生が広範囲で作業できるフィールドが必要であり、事前の再調査のため徹底的に現場を踏破。それにより、小高い丘の頂上に監視哨の跡を発見し、そこから伸びる瓦礫で埋もれた散兵壕が、複数の壕口に続いているのを確認しました。

学生たちは、散兵壕も掘り進む
学生たちは、散兵壕も掘り進む
銃眼が付いた石積みの陣地壕内で活動
銃眼が付いた石積みの陣地壕内で活動

そして、大型の機関銃が置かれていたとみられるトーチカや石積みの銃眼、蛸壺なども無数にあり、山全体が旧日本軍の要塞であったことが判明。また、トーチカや陣地壕は、複数の地下トンネルで繋がれており、手つかずらしい壕も数多く残っています。

掘り出した遺骨の部位を確認する
掘り出した遺骨の部位を確認する
遺骨の破片に、軍服のボタンが溶着していた
遺骨の破片に、軍服のボタンが溶着していた

さすがに、地表へ露出している遺骨は多くありませんが、壕を塞ぐ巨大な石の隙間から覗くと、兵士の軍靴や、遺骨が散乱している場所も。いずれも、破壊された岩や木の根など覆われており、戦後70年間、誰にも顧みられることなく放置されていたようです。

掘り出した旧日本軍の認識票を見せる女子学生
掘り出した旧日本軍の認識票を見せる女子学生
土の中から出てきた旧日本軍兵の鉄兜

土の中から出てきた旧日本兵の鉄兜

地元の自治会長さんらに話を聞くと、この丘で戦時中に悲惨な体験をした方がたくさんいた、と言います。地域の方々も、戦後、恐ろしくて行くことができなかった場所だそうで、子どもたちにも絶対に行ってはいけない、と教えていたそうです。

哲二から、遺骨収集の話を聞く学生たち

哲二から、遺骨収集の話を聞く学生たち

疲れたぁ。でも、芝生で寝ころぶと気持ちいいね!

疲れたぁ。でも、芝生で寝ころぶと気持ちいいね!

まるで、禁断の地のようですが、遺骨の収容となると話は別。怖い場所でも、危険な壕内にも、躊躇わずに入らなければなりません。そんな恐れは微塵も見せない、やる気満々の学生たちと一緒に、亜熱帯のジャングルへ分け入りました。

時々、国吉さんが見回りに来る。「何か出ましたかね?」

時々、国吉さんが見回りに来る。「何か出ましたかね?」

監視哨付近をみんなで手分けして掘る

監視哨付近をみんなで手分けして掘る

壕での作業は、まず、木の根や岩を取り除き、元の地盤まで掘り下げなければなりません。あくまでも目安ですが、散兵壕は敵から隠れて行き来する通路ですから、最低でも中腰になれる130cmの深さ、陣地壕ならば立って歩ける180cm程度の高さまで掘る必要があります。

高温で焼かれて膨張し、膨らんだ缶詰。所々がクレーターのようになって穴が開いている

高温で焼かれて膨張し、膨らんだ缶詰。所々がクレーターのようになって穴が開いている

戦争の生き残りである、地元の農家の男性から話を聞く
戦争の生き残りである、地元の農家の男性から話を聞く

艦砲射撃や空爆によって砕けた岩盤や土砂などで、壕内がほとんど埋まっているため、作業がはかどりません。その土砂や岩などを取り除かないと、戦没者の遺骨が出てこないからです。

遺骨のひとつを手に取って眺める女子学生

遺骨のひとつを手に取って眺める女子学生

かつては、日本軍が沖縄を守備するために要塞化していた丘陵ですが、凄まじい米軍の砲撃などで原型を止めていない程に破壊されています。何トンもあるようなサンゴ石灰岩の大岩が折り重なり、その上をガジュマルやつる草などが覆い尽くしているのです。

沈み込んだ表情で、遺骨収集についての説明を聞く学生たち

沈み込んだ表情で、当時の戦闘の状況を聞く学生たち

ゴツゴツした地面が続くため、足場は悪く、斜面の尖った岩が、今にも崩落しそうな危険な道。でも学生たちは、元気いっぱいに声を掛け合いながら、数人のグループに分かれてジャングルに散らばって行き、それぞれの持ち場で作業を進めてくれます。

遺骨を納骨するために運ぶ

遺骨を納骨するために運ぶ

男女が、それぞれ作業を分担し合い、70年の間に積もった土と岩、木の根を取り除く「正味の土方仕事」に臨みます。が、何日間も岩や土と格闘するだけで、遺骨も遺留品も出せないチームもあったようです。そして、「遺骨収集に来ている実感がわかず、意義を見出せない」と、感じた学生がいたと聞きました。

感極まって涙ぐむ女子学生も
感極まって涙ぐむ女子学生も

でも、持ち場で遺骨が出なくても、そこで亡くなった方がいなかった、もしくは、そこでの収骨は終わっていた、ということが確定します。それは、戦没者はもちろん、沖縄戦の傷跡と向き合いながら暮らす地域の方のためにも、意味のある活動です。

遺骨を前に座り込んで動かない学生

遺骨を前に座り込んで動かない男子学生

遺骨や遺留品、危険な不発弾がない場所が、少しでも広がってゆき、それが全島に行き渡る時が、沖縄での遺骨収容が完了する時なのです。作業が進むにつれ、学生たちもその現実に気づき始め、途中で投げ出すようなメンバーは一人も出ませんでした。

掘り出した遺骨を前に、納骨する手順などの説明を聞く学生たち

掘り出した遺骨を前に、納骨する手順などの説明を聞く学生たち

活動日程が終盤に入るころ、遺骨や遺留品が、次々と出土してきました。最終的には、IⅤUSAだけでなく、他の学生団体や社会人のグループも加わり、総勢160人態勢になりました。

遺骨を見る学生を取材する読売新聞の記者

遺骨を見る学生を取材する読売新聞の記者

そして、20名余りとみられる戦没者の遺骨を集めることができました。中には、幼児や成人しきっていない骨もあり、軍民入り乱れて犠牲となった戦場の有り様が浮き彫りになりました。

掘り出された戦没者の歯

掘り出された戦没者の歯

バケツで土砂を運ぶ

バケツで土砂を運ぶ

私たちが昨年、認識票を発見していた壕の周辺で、新たに2枚の真鍮製の認識票が出ました。これで、この場で拾得した認識票は合計8枚。また、その周辺からは、兵士の物と思われる印鑑を学生が掘り出しており、今、ご遺族の行方を探す作業に取り掛かっています。

掘り出した遺骨に全員で手を合わせる

掘り出した遺骨に全員で手を合わせる

集めた遺骨を前に最終日、慰霊を行いました。涙ぐむ女学生や唇を噛みしめる男子学生もいます。皆、それぞれの想いを胸に秘め、戦没者のために祈りを捧げます。そして、一片一片、丁寧に袋に詰めて、納骨します。

哲二の説明を熱心に聞く学生たち

哲二の説明を熱心に聞く学生たち

遺骨に手を合わせる男子学生

遺骨に手を合わせる男子学生

IⅤUSAの皆さん、本当にお疲れ様でした。未来を担う若き皆さんが、日本と世界の平和のために、戦争の無い世の中を作ってくださることを信じてやみません。本当にありがとうございました。そして、来年もお会いできますように。

楽しい昼食時の笑顔

楽しい昼食時の笑顔

沈み込んだ表情で収骨数を聞く

それぞれの想いを込めた表情で収骨数を聞く

私たち夫婦は、君たちが大好きです。

休憩中、仲間たちとはしゃぐ学生たち

休憩中、仲間たちとはしゃぐ学生たち

2015年遺骨収集活動20日目 白梅学徒隊の中山きくさんとIVUSAの学生が交流

野戦病院壕の前で、当時の様子を語る中山きくさん
野戦病院壕の前で、当時の様子を語る中山きくさん

太平洋戦争の終結から70年を迎える今年、「IVUSA」(国際ボランティア学生協会)の若者たちから、「沖縄戦の体験者から話を聞きたい」という申し出がありました。戦争の生き残りが少なくなり、その記憶も薄れる中、平和の大切さを考えて守るきっかけにしたい、とのこと。こんな時こそ、旧知の仲である「白梅学徒隊」の中山きくさんにお願いし、学生との交流が実現しました。

QAB琉球朝日放送で放映されましたhttp://www.qab.co.jp/news/2015020862797.html

読売新聞西部版で紹介されました。

http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20150210-OYS1T50008.html?fb_action_ids=539971122812694&amp

2月9日付けのNHK沖縄放送でも紹介されました。

きくさんの話を聞くIVUSAの学生たち
きくさんの話を聞くIVUSAの学生たち

白梅学徒隊とは、沖縄県立第二高等女学校の女学生たちによって編成された部隊です。「従軍補助看護婦」として、八重瀬岳(現八重瀬町)の第24師団第一野戦病院壕などに46名が配属され、最終的に22名が亡くなったとされています。まず最初は、その病院壕で、当時の様子を伺いました。

学生の手を借りて急な階段を一歩ずつ登るきくさん
学生の手を借りて急な階段を一歩ずつ登るきくさん

ゴツゴツしたサンゴ石灰岩と脆い砂岩を掘って造られた洞窟は、病院とは名ばかり。病室や手術場は岩肌や地面が剥きだしのままです。ろくな設備はなく、薬や包帯も不足し、手足を切断する手術でさえ、麻酔を使えなかったそうです。

野猿病院壕の入り口できくさんの話を聞くIVUSAの学生たち
野猿病院壕の入り口できくさんの話を聞くIVUSAの学生たち

そして、負傷した兵士の傷口には蛆がわき、肉が壊死して真っ黒に変色していく様子を直視できなかった、ときくさんは振り返ります。連日のように降り注ぐ砲弾の雨の中、血膿に汚れた包帯を艦砲射撃で空いた穴の溜まり水で洗ったり、切り取った手足を空き缶に入れて捨てたりしたことが、今も忘れられないそうです。

学生たちに絵本を使って当時の様子を語るきくさん
学生たちに絵本を使って当時の様子を語るきくさん

戦局が悪化するにつれて、運び込まれれる傷病兵は500人を超え、医師も看護士も眠る暇もなく治療にあたりました。きくさんたちも、横になる時間や場所もなく、壁にもたれて立ったまま居眠りしたそうです。それでも、傷ついた兵士たちの治療に全力を注いでお手伝いし続けた、と証言されます。

周囲の状況が見渡せる高台にある野戦病院壕の近くで、戦争の講話が続けられる
周囲の状況が見渡せる高台にある野戦病院壕の近くで、戦争の講話が続けられる

参加した約130名の学生たちは、実際の現場で語られる凄惨な体験を固唾を飲んで聞き入ります。メモを取りながら、涙を拭う女の子も。きくさんが配属された「手術場(しゅじゅつば)壕」は、四畳半ほどの広さ。壕の入り口のすぐ右脇にあり、学生たちは怖々のぞき込んでいました。

きくさんの話を聞く学生
きくさんの話を聞く学生

午後からは、きくさんの同窓生が10名亡くなった糸満市国吉の壕の中で、遺骨収集作業を実施します。この壕は、一度解散した学徒たちが、再び集まって、隠れていた野戦病院壕です。沖縄戦の終結間近に、米軍から激しい攻撃を受け、兵士や学徒たちが数多く命を落としたそうです。

白梅の搭に献花するIVUSAの学生たち
白梅の搭に献花するIVUSAの学生たち

まず、白梅学徒隊を慰霊する搭に祈りをささげ、学生たちが一人ずつ献花します。「こんなにたくさんの学生さんたちに花を戴くなんて、6月23日の慰霊祭の様ですね」と、きくさんも喜ばれています。そして、社会人参加者を含めた約140名全員が、慰霊塔に拝礼した後、きくさんの講話に聞き入ります。

国吉勇さんが所有する旧日本軍の手榴弾を手にするきくさん
遺骨収集家の国吉勇さんが所有する旧日本軍の手榴弾を手にするきくさん

「米軍の火炎放射で、同窓生の一人は身に着けている服に火が付いたまま、壕の外へ飛び出したの。そこで米兵に抱きとめられて命が助かった。でも、背中に大やけどを負ったのよ」

白梅の搭横の壕から出てきた焦げた遺骨
白梅の搭横の壕から出てきた焦げた遺骨

真っ黒に焦げた米の塊を見て、「兵士たちに配られていた玄米のおにぎりですね。でも、これをお腹いっぱいに食べられる人はいなかった。お米は貴重品だったからね」

一列になって遺骨を収集するIVUSAの学生たち
一列になって遺骨を収集するIVUSAの学生たち

たくさん出てきた遺留品や遺骨を見て、「あれから70年。多くの同窓生が亡くなったり、寝たきりになっていたりするの。もう、現場まで来れる仲間はいない。だから、写真に撮って見せてあげる。みんなが懐かしむのと、悲しむのを、同時に見ることになるけど‥」

決意を込めた表情で、遺骨収集に向かう学生たち
決意を込めた表情で、現場に向かう学生たち

お話しの最中、学生たちが掘り出してきた遺骨や遺留品を見て、驚きながらも感慨深そうに言葉を選ぶ、きくさん。搭の前に並べられた真っ黒に焦げた乾パンを数個、ポケットにそっとしのばせます。これも、寝たきりになった同窓生に見せてあげるそうです。

IVUSAの学生たちと一緒に戦没した同窓生の碑に手を合わせるきくさん
IVUSAの学生たちと一緒に戦没した同窓生の碑に手を合わせるきくさん

午前9時から午後4時まで、昼食時を除き、ずっと立ったまま話を続けます。「今の私は、自宅へ帰れば、お風呂に入ることができ、美味しいご飯もお腹いっぱいに食べられる。そして暖かい布団で、心安らかに眠れます。でも、戦没した同窓生は、座ることも、寝ることも出来ないまま、働き続けて亡くなった。ここで証言する時は、私も戦時中に戻ります。だから、座りながら話すことなどできません」

野戦病院壕前のきくさんと学生たち
野戦病院壕前のきくさんと学生たち

足が曲がらなくなり、杖を手放せなくなったきくさん。証言する時は、絶対に腰をおろさないし、急な階段があっても必ず現場まで足を運んで下さいます。そんな姿に、女子学生たちは、「戦禍で、大切な学友を亡くした悼みが伝わって来る鬼気迫る姿です。私たちより若い時に、そんな地獄の出来事を体験したとは‥。平和な時代に生きる私たちにとって、身も心も引き締まるようなお話しです」

立ったまま、学生たちに体験談を話すきくさん
立ったまま、学生たちに体験談を話すきくさん

そんなきくさんも、戦争体験は約50年間、口を噤んでいたそうです。「言葉に出来ないほどの悲惨な出来事でした。同時に、生き残った事がうしろめくて‥。でも、次世代へ伝えないと、今の平和を守ることができない、と思いを改め、講話を始めました。それは、無念の想いを抱きながら戦没した同窓生が、見えない力で背中を押してくれているのでしょう。彼女たちのためにも、口や身体が動かなくなるまで、私は証言し続けます」

壕から出てきた熱で溶けた注射器を見るきくさん
壕から出てきた熱で溶けた注射器を見るきくさん

こぼれ落ちる涙を拭おうともせずに聞き入っていた女子学生が呟きました。「きくさんと今は亡き同窓生の方々の意志を継いで、平和の大切さを噛みしめて生きてゆきます。二度と戦争を起こさない国を作るのは、私たちの重要な役割なんだと再認識しました」

白梅の搭の横の壕に入るIVUSAの学生たち
白梅の搭の横の壕に入るIVUSAの学生たち

2015年遺骨取集活動9日目 防疫給水部隊の壕と国の遺骨収集

「第27野戦防疫給水部隊」終焉の地と書かれた石碑。左後方に竪穴の壕がある=29日午前、糸満市束辺名で
「第27野戦防疫給水部隊」終焉の地と書かれた石碑。左後方に竪穴の壕がある=29日午前、糸満市束辺名で

旧満州国で「731部隊」と呼ばれ、恐れられた、関東軍の防疫給水部隊をご存知でしょうか。敵国の捕虜を人体実験したり、ペスト菌などを使った細菌戦を研究したりしたとされる、非人道的な行為が取りざたされた機関です。実は、沖縄を守備していた第32軍にも防疫給水の部隊がありました。その一つが、「野戦第27防疫給水部隊」です。主に、日本兵の飲料水の確保や、病気を防ぐための役割を担っていたとみられますが、その実態は、よく判っていません。

石碑の横に立つ国吉さん。この壕には何度も上り下りしている
石碑の横に立つ国吉さん。この壕には何度も上り下りしている

終戦から70年。その第27防疫給水部隊が終焉した壕で、国が遺骨収集に取り組み始めました。厚生労働省が担当し、1月29日から2月1日までの4日間実施する予定だそうです。

ジャングルの中にぽっかりと口を開けた壕口
ジャングルの中にぽっかりと口を開けた壕口

この壕口は、サトウキビやニンジンなどの畑に取り囲まれた丘にあるジャングルの中です。約5メートル四方の穴がぽっかりと開き、底までの深さは約10メートル。なんと、地上から見ても、壕の底に遺骨が見えています。そして奥行きも、相当、深そうです。遺骨取集家の国吉勇さんによると、同部隊の本部壕だったため、中の通路は複層に分かれ、今は閉じられているいくつかの出口に繋がっているようです。

別の壕内で本日収骨した遺骨。肩甲骨やあばら骨などがあった
別の壕内で本日収骨した遺骨。肩甲骨やあばら骨などがあった

国吉さんが、数十年前に入った時には、多くの戦没者の遺骨が散乱していたそうです。中でも、服毒死したとみられる4名の遺骨が、枕を並べて倒れていた悲惨な光景が印象的だったと話されています。この部隊が沖縄戦で果たした役割は、記録も証言も残っていないため、よく分かりません。一説には、米軍の上陸と同時に細菌戦を想定していたのでは、という憶測も耳にしますが、真偽はまったく不明で、謎のままです。

狭い壕の岩の間で収骨する哲二。太り過ぎで苦しそう
狭い壕の岩の間で収骨する哲二。太り過ぎで苦しそう

今回、この壕で実施される国の遺骨収集活動をお手伝いしたい、と申し出てみました。が、あっさりと門前払い。土地の所有者さんの意向や、危険であるから、という理由だそうです。でも、先日、地主さんに遺骨収集活動を打診したら、「どうぞ、やってください」と話されていたのですが‥

横から見た壕口。上部には木が生い茂っている
横から見た壕口。上部には木が生い茂っている

さらに、不思議なことに、この壕で国が収集活動をする日時や詳細を知ろうと、沖縄県や遺骨収集情報センターに聞いても、教えてくれません。当の厚生労働省に問い合わせても、事前には教えてもらえませんでした。なぜ、公にしないのか疑問に思って、現場を訪ねて担当の厚労省職員に聞いてみました。すると、地主の意向を前面に押し出しながらも、こちらからの「危険な物や不都合な物が見つかる恐れがあるからか」、との質問に、「その可能性も捨てきれない」と、否定しません。

出てきた手榴弾に近づいてきたオカヤドカリ。光をあてると殻に引っ込んだ
出土した手榴弾に近づいてきたオカヤドカリ。光をあてると殻に引っ込んだ

なんだか、ぞっとする話です。この壕は、垂直の深い竪穴で、しっかりとした装備がない限り、簡単には降りられません。今年76歳になる国吉さんも、「若い頃は行けたが、今はちょっとなぁ」と、躊躇されます。公式な記録では、過去に2度、遺骨収集されたり、洞くつ探検の方が進入したぐらいで、しっかりとした調査は行われていないようです。

昭和40年代に戦没者の遺族が建立した石碑
昭和40年代に戦没者の遺族が建立した石碑

戦没者の遺骨は、まだ数多く眠っているのか。731部隊が研究していたような、怖い「何か」が出てくるのか。私たちは想像するだけで、分かりません。でも戦後、捕虜への残虐な行為を疑われ、世間を騒がせた機関と同じ役割を帯びていた隊の壕です。国の調査結果の報告を注視しています。

壕口の底には枯れ木や石に混ざって骨も見える
壕口の底には枯れ木や石に混ざって骨も見える

以下、Wikipediaの引用です。

731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水本部で、731部隊の名は、その秘匿名称である満州第七三一部隊の略。満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。

以下略