みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
活動③(追跡)

産土講(うぶすなこう)のしめ縄作り:前編

時には笑顔が溢れ、時には叱咤を飛び交せ合いながら、しめ縄を編む男衆ら、深浦町で

時には笑顔が溢れ、時には叱咤を飛び交せ合いながら、しめ縄を編む男衆ら、深浦町で

深浦町に移住してきて、季節ごとに伝統行事が数多く行われることに驚いています。都会暮らしだと、地域の盆踊りにさえ参加したことがなかったのに、旧暦のお盆を含め、田植えの時期や年末年始にも、持ち回り制ですが様々な行事や神事が執り行われます。

数十キロはあるため、一人では抱えきれない。数人がかりで軽トラックの荷台に積み込む

数十キロはあるため、一人では抱えきれない。数人がかりで軽トラックの荷台に積み込む

今回、紹介するのは「産土講」の準備作業である「しめ縄作り」です。深浦町では、年末に岩崎地区で行われる「裸参り」が産土講として有名です。裸の男衆が、巨大なしめ縄と米俵を担いで集落を練り歩く勇壮な神事です。海辺の神社と山あいの神社に向かって、行列の男衆が同時に駆け出し、海に早く到達したら豊漁、山に早く到達したら五穀豊穣を得られるという、とてもユニークな行事です。これにはアマチュアの写真家や観光客も大勢訪れます。これも、いずれ紹介いたします。

和気合い合いと進むしめ縄作り

和気合い合いと進むしめ縄作り

私たちの集落の産土講は、もう少し地味な形で進められます。12月上旬、まず、田で収穫した米の稲わらを男衆が協力しながら編んでゆきます。平均年齢が前期高齢者に近い集落。作業は80歳を超える長老の指示のもと、60代から70代までの方々が中心となって始まりました。役に立ちそうもない夫が手伝おうとしましたが、「おめは、写真撮っとけ」と一喝。ビクつきながらもホッとした様子で、カメラを構えています。

この集落の1班のメンバー。私らは下から2番目の若衆になる

この集落の1班のメンバー。私らは下から2番目の若衆になる

この集落には10班まで班分けがあり、私たちは1班です。山に近い方から若い番号を割り振られており、山と深い関わり合いを保ってきた人々の暮らしぶりが伺えます。しめ縄作りは、稲わらを1本ずつ束ね、縄で編んでゆきます。全長は20メートル近く有り、10~15センチ前後の太さまで編み上げます。朝から作業に掛かり、終わるのはお昼を越えます。集落の伝統を受け継ぐ高齢者たちが、時には厳しく、時には満面の笑顔で作業を続けます。

頼りになる男衆ら。初対面では無骨な感じを受けたが、とても優しくて働き者だ

頼りになる男衆ら。初対面では無骨な感じを受けたが、とても優しくて働き者だ

作業には女性陣も参加します。津軽の女性は奥ゆかしくて、いつも男を立てて一歩引きながら仕事をしていますが、実は芯が強くてとてもしっかりとした働き者です。男がダメになっても、まさに女手ひとつで家族を食べさせる心意気を持つ強い女性です。特に齢を重ねるほど、その傾向は強まり、尊敬の念を抱きます。私も見習って、夫の尻を叩こうと思ってしまいます。

男衆を凌駕する働き者の女衆たち。気は優しくて働き者。普段はおおらかだが、締めるところはキッチリと締める、とても頼りになる大先達で、見習うことばかりである

男衆を凌駕する働き者の女衆たち。気は優しくて働き者。普段はおおらかだが、締めるところはキッチリと締める、とても頼りになる大先達で、見習うことばかりである

男衆を凌駕する働き者の女衆たち。気は優しくて働き者。普段はおおらかだが、締めるところはキッチリと締める、とても頼りになる大先達で、見習うことばかりである

男衆を凌駕する働き者の女衆たち。気は優しくて働き者。普段はおおらかだが、締めるところはキッチリと締める、とても頼りになる大先達で、見習うことばかりである

そして、無口で無骨な雰囲気ながら、力自慢でシャイな男衆は文句も言わず黙々と作業に取り組みます。高齢の先達を立てながら、時には真面目な顔つきでジョークを飛ばしながら、淀みなく縄は締め上がっていきます。唯一、流れに乗り切れず、オロオロと作業の邪魔をしているのが我が夫です。んもー、写真に専念していなさい。

数人がかりで締め上げる男衆

数人がかりで締め上げる男衆

締め上がりの時は、全員で力一杯に引っ張ります。この時は男も女も参加します。これで完成。後は、稲荷神社の鳥居に飾り付けるだけです。

全員で縄を締め上げる

全員で縄を締め上げる

稲藁とはいえ、これだけの太さになると相当の重量。男衆が数人で担ぎ上げて軽トッラクの荷台に積み込みます

完成したしめ縄を運ぶ男衆ら

完成したしめ縄を運ぶ男衆ら

この地域の産土講についての歴史は、相も変わらずの勉強不足で解りません。産土の神とは、土地の守護神を指すようで、そこで生まれ育った信者を一生守護してくれると信じられているそうです。ウィキペディアなどによると、氏神と氏子が血縁関係を基に成立しているのに対し、産土神は地縁による信仰意識に基づいているとされています。この社は、白神大権現の里宮として祀られている稲荷大社ですが、古くから地域の人々の信仰の拠り所として、様々な神事や伝統行事を司る場所であったようです。産土講も、神社を中心とする信仰を守るために、毎年持ち回りで執り行われてきた神事のように思われます

男衆が総出で境内の清掃

男衆が総出で境内の清掃

1年の穢を払うために、まずしめ縄を奉納する神社の境内を男衆が清掃します。

稲荷神社らしい真っ赤な鳥居が並ぶ。この一の鳥居にしめ縄を飾る

稲荷神社らしい真っ赤な鳥居が並ぶ。この一の鳥居にしめ縄を飾る

そして、女衆は社殿内を清掃し、神事に向けての神具を並べます。電気もなく、暖房もない北国の師走時、手がかじかむのを通り越して、感覚がなくなります。それが、全身に及ぶ頃、ようやく作業が終了します。

写真下、社殿内で神具の準備と清掃をする女衆。白神山地の麓にある集落の師走は寒い

社殿内で神具の準備と清掃をする女衆。白神山地の麓にある集落の師走は寒い

そして、男衆らが、鳥居にしめ縄を飾り付けます。長老の指示を受けながら、歪まないよう慎重に作業は進みます。折り悪く、雨も降ってきましたが、誰も怯みません。作業現場は、辛抱強くて粘りにある東北人独特の雰囲気で、黙々と進んでゆきます。

完成したしめ縄を鳥居に掛ける男衆ら

完成したしめ縄を鳥居に掛ける男衆ら

そして、完成。地区の総代さんが、最後の飾りつけをして終了。無口な男たちの表情も一様に緩みます。外気温は氷点下2度。手だけでなく、全身が悴んでいます。心よりお疲れ様でした。

最後の飾り付けが終了

最後の飾り付けが終了

この後は、本番の産土講を1週間後に執り行う予定です。その内容は後日に続きを記します。これも、都会人にとっては初めてずくしの体験でした(後編に続く)。

 

②深浦町の「マタギ」伊勢勇一親方(第2部)

薬莢笛hp

深浦町のマタギ・伊勢親方の続きです=写真上、ライフル銃の薬莢を笛がわりにして飼い犬を呼ぶ伊勢親方、深浦町で

四目ナメコ③hp

親方の暮らしは、その季節ごとに得られる山の幸、海の幸と密接に関係しています=写真上、紅葉が真っ盛りの白神の森で、巨大なイタヤカエデの倒木についたナメコを収穫する親方、深浦町で。冬場はウサギやカモ類などの狩猟鳥獣、春はタラの芽やアイコ(ミヤマイラクサ)、タケノコ(ネマガリダケ)などの山菜、夏場は海辺で釣れるタコや山菜のミズ(ウワバミソウ)、秋はブナ林に生えるキノコや狩猟鳥獣のカモやクマなどです=写真下、カッターナイフでナメコを収穫する。石づきの部分を切り落とす手間を省くため、山中で丁寧に作業する。切り口が雑だと、翌年、生えてこないこともある

ナメコ収穫hp

台風などによる強風や大雨、厳冬期の吹雪でない限り、ほぼ毎日のように山や海へ出かけていきます。大病を患ったための通院日や地域の会合がある日はお休みしますが、時間が許す限り生活習慣のように足が向くそうです。でも、親方は車の免許を所持していないため、自転車か徒歩でしか行けません。行き先は様々ですが、最も遠い所は自動車でも片道30分以上は費やされるので、自転車だと往復で4~5時間はゆうにかかります。舗装された道だったら急な坂道でも自転車で登りきり、後は森林伐採の杣夫が使う歩道やマタギ道を歩きます。よほどのことがない限り、日帰りしますので、山で宿泊する道具は持って行きません。でも、山で野宿するのはへっちゃらなようで、山にある材料で小屋掛けも出来るし、雨の中でも焚き火を起こして煮炊きできる、と話されます(現在の白神山地周辺では、焚き火は規制されています)=写真下、雪が積もった急斜面を登る。一歩間違うと、谷底まで滑落し、命の保障はない

雪の斜面を登るhp

親方と一緒に輪カンジキを足に取り付けて、雪山を歩いてみました。患う前は、重い銃と銃弾、鉈やロープなど数十キロの荷物を背負っても、雪山を飛ぶように走れたそうです。地元の猟師たちも、「当時の伊勢にはついて行けなかった」と口を揃えます。それが今、山は歩けるようになりましたが、左足を引きずる後遺症が残っており、ゆっくりとしか進むことが出来ません。それでも、慣れていない私たちが、ようやくついて行けるスピードです。いざ一緒に歩くと、どっしりとした歩調ながら、一歩一歩を確実に刻んで行くので、思った以上の速さに驚かされます。体重が重すぎる夫はカンジキが合っていないせいか、足が何度も雪に中に沈み、喘ぎながら汗まみれでついて来ます。私も夫ほどではないですが、時々、カンジキごと雪の中に沈みこみ、思うように前に進めません。それが親方は、長年、山を歩き続けたマタギの成せる技なのでしょうか、雲の上を歩く仙人のように真っ白な雪の上を歩いていきます=写真下、私たちが追いつくのを待ってくれるため一服しながらブナの巨木を見上げる親方。とても心優しく、頼れる存在だ

春の雪山⑤hp

ブナなどの広葉樹からなる白神山地の冬は、一部の植栽されてある場所を除き、まったく緑が見当たりません。一面の雪景色とグレーや黒っぽい冬枯れの木々が茂るだけの男性的な風景です。でも、天気が良い日は空が真っ青です。北国の冬の青空が、こんなに澄んだ素晴らしい色だと初めて知りました。そして、あまり強くない太陽の光が、真っ白な雪のキャンパスの上に木々の影を作り、大自然の白と黒を見事なコントラストで表現しています=写真下、真っ青な空に向かって枝を張るブナの巨木。その下の写真は、春先に立木の下から雪が溶けてゆく「木の根空き」と呼ばれる現象。白と黒の陰影が美しい模様を描き出している

ブナ初春①hp

初春の雪山③hp

そんな雪山で親方が狙うのはウサギです。足跡などをよく見かけるカモシカは、国特別天然記念物に指定されているため、当然、獲ることはできません。時にはヤマドリも撃てますが、冬場の獲物はウサギが中心になります。本来は、複数の仲間たちを勢子と撃ち手に分けて巻狩りをします。でも、過疎化と高齢化で狩猟者が減ってきている今、単独で行くしかありません。ウサギの足跡を追跡し、大木の下や茂みに隠れているのを見つけては仕留めていきます。効率が悪い猟法なのですが、時の流れはいかんともしがたいようです=写真下、真っ白に彩られたブナの林で、木々を見上げる親方。その下の写真は、春はまだ遠く、枝は冬枯れたままだ

春の雪山③hp

ブナ初春④hp

今年は、例年になく雪が多い年でした。その為なのか、ウサギはあまり獲れなかったようです。会う度の挨拶事のように、「まいねな年だびょん(今年はダメだったなぁ)」と愚痴られますが、獲物は山や海からの授かり物なので、実際は泰然と受け止められています。そして、自然から様々な糧を得られるのは、この森と海のおかげだ、と時折、呟かれます。それほど白神山地は、恵み豊かな命に満ち溢れた森であるようです=写真下、雪上には動物以外は何の足跡も残っていない森を歩く親方

雪山でhp

長く厳しい冬が終わり、間もなく白神の山々に春が訪れそうです。親方の活動も活発化してきます。冬枯れの林床に、可愛いフキノトウが顔を出し始めています。その後は、コゴミやタラの芽などの山菜の収穫時が訪れます。そして、ツキノワグマの害獣駆除を依頼されれば、初春の山へ向かいます。親方は今年で74歳。もう、鉄砲を置いては、という声が一部からあったようですが、まだまだ山では若い人に引けは取らない、と意気込んでおられます。私たちも、親方の命ある限り、白神に生きる一人のマタギの人生を追い続けるつもりです=写真下、約14~5年前、雪が降り積もった牧場を歩く親方。ウサギの痕跡を探しに来た。その下の写真は、雪景色となった原野で生き物の痕跡を探す親方。少し年老いたが、まだまだ元気。後方は白神の山々(3部に続く)

長慶平hp

大峰山hp

 

豊饒の海に流れ着いた厄介者

座礁したカンボジア船籍の貨物船。後方には雪を被った白神の山々が見える、深浦町で
座礁したカンボジア船籍の貨物船。後方には雪を被った白神の山々が見える、深浦町で

3月の始め、世界遺産・白神山地から日本海へ流れ込む笹内川の河口に、カンボジア船籍の貨物船「AN FENG8」(アンファン号)(乗組員12人)が座礁しました。約2000トン程の貨物船です。秋田港で1日に積荷をおろした後、北海道の室蘭港に向けて出港したそうです。折しも、座礁した深浦町沖は、暴風雪・波浪警報が発令されていた大シケの海。10メートル近い波と強風が吹き荒れ、空荷の船が航行するには、誰もが首を傾げるほどの天候だったそうです。

船橋に人影が見えたがカメラを向けると隠れてしまった

船橋に人影が見えたがカメラを向けると隠れてしまった

幸いにも、深浦消防署の岩崎分署と海上本庁の職員らが決死の救出を試みて、全員が無事に救助されました。でも、翌日には、船の燃料であるC重油が、笹内川河口付近の海岸線に流失しているのが確認されました。この海は、アワビやサザエ、タコなどの魚貝類やサケも水揚げされる豊饒の海で、地域の方々は口々に不安と早期の対策を訴えています。町では吉田満町長を本部長とする「アンファン号座礁対策本部」を設置。流出した油の除去や船の早期撤去に向けて行動を開始しました。

座礁した貨物船の横で空を見上げながら天候を心配する伊勢親方

座礁した貨物船の横で空を見上げながら天候を心配する伊勢親方

この座礁船の近くの浜には、深浦町の「マタギ」・伊勢勇一親方のご自宅があります。親方はこの浜で毎朝、飼い犬の散歩を兼ねた採集作業を日課とされており、巨大な樽イカ(ソデイカの一種)やタコなどを幾度となく拾っています。座礁船のおかげで、「危険だから」と規制を受けて、浜にも近づけなくなった伊勢親方と一緒に現場を歩きました

座礁船を背に海岸線を歩く親方。事故当時は、重油の刺激臭が充満し、マスクをしないで歩くのが苦痛だったという

座礁船を背に海岸線を歩く親方。事故当時は、重油の刺激臭が充満し、マスクをしないで歩くのが苦痛だったという

浜に出た途端、作業員と町の関係者が駆け寄ってきて、「危険だから立ち去れ」と、警告を受けました。でも、親方にとっては、この浜は日課として毎朝、欠かさず歩く場所。釈然としないまま、船から離れた場所で作業を見守ります。現場では、流出した重油が拡散しないようにするためのオイルフェンスの設置や、船内に残されている重油の抜き取りを進めようとしていますが、強風と高波で、作業は思うように捗っていません

油が流出した時の拡散を心配する親方。この海で夏はタコを獲り、冬はイカを拾う。魚も釣るし海藻も採取する。まさに生活の糧を得る場

油が流出した時の拡散を心配する親方。この海で夏はタコを獲り、冬はイカを拾う。魚も釣るし海藻も採取する。まさに生活の糧を得る場

漏れ出た重油の量はそう多くなかったようで、現在は海岸を歩いてもまったく匂いません。が、船が座礁した当時は、顔をしかめる程の刺激臭が、集落全体を覆い、道を歩くのが苦痛だった、と親方は振り返ります。

座礁した貨物船を繋ぎとめていた鎖。強風と高波で断ち切られてしまった

座礁した貨物船を繋ぎとめていた鎖。強風と高波で断ち切られてしまった

そして、現場に係留されていた座礁船ですが、強風に煽られて係留していたロープを断ち切り、南の秋田方面に向けて移動しています。その都度、ロープで縛り付けていますが、また大荒れの天候になると、転覆したり、そのまま漂流したりする可能性もあります。1997年に日本海で沈没し、多量の重油を流出させたナホトカ号の事故を思い起こします。この貨物船はタンカーではないので、あれほどの惨事にはなり難いと想定されていますが、燃料であるC重油が全部流出してしまうと、周辺の海へ与える影響は微少とは言い切れません。

早く撤去してもらわないと生活に影響が出る、と憤る伊勢親方。もう50年間以上、この浜で獲物を拾って暮らしてきた。白神の山から流れ出た栄養分をたっぷりと含んだ水が作った豊饒の海。親方の海だ

早く撤去してもらわないと生活に影響が出る、と憤る伊勢親方。もう50年間以上、この浜で獲物を拾って暮らしてきた。白神の山から流れ出た栄養分をたっぷりと含んだ水が作った豊饒の海。親方の海だ

船主は中国人で、乗組員はベトナム人が多数を占めていると発表されています。全員が無事で何よりでしたが、船が事故を起こした時のために契約していた保険会社との話し合いが進展していないらしく、油の除去や抜き取り、船体の撤去作業などは遅々として進んでいないようです。事故から約3週間、保険金が「降りる、降りない」の問答を繰り返すだけの当事者たちに不信感が募るよ、と対策を講じる役場関係者がつぶやいていました

新聞記者時代、座礁したまま何十年も放置されたままの北朝鮮船籍の船や中国船籍の船を取材しました。結局、船主は何の処置もしないまま、行政が税金を使って処理させられていました。今回もそんな例にならないことを祈ります。親方らが安心して浜を歩けるようにするため、市町村だけでなく国からの手助けも必要だと感じました。特に最近、何かにつけて傲慢な中国が相手ですから。

また、進展があれば、経過報告いたします。(哲)

①深浦町の「マタギ」伊勢勇一親方(第1部)

撃つ寸前①hp

遺骨収集活動も一段落しましたので、私たちの本業である白神山地の生活文化の紹介を再開いたします。青森県を含めた東北地方では、縄文以前の時代から、世界有数のブナの森で暮らしてきた末裔たちが、今も狩猟採取を続けながら暮らしています。その一人が伊勢勇一親方=写真上、初春の木々が芽吹く直前の森で、ライフル銃でツキノワグマを狙う伊勢親方、深浦町で

ウサギ狩り④hp

ウサギ①hp

伊勢親方は、白神山地のある深浦町で生まれ育ったマタギではありません。宮城と山形両県の山深い村で生まれ、地元のマタギだった祖父や父親たちから狩猟採集の技術を叩き込まれました。20歳代の頃、親類を頼って同町に住み着き、以来、50年以上も白神の森でクマやウサギなどを狩り、キノコや山菜などを採取してきました=写真上、スノーモービルの荷台に狩ったウサギを積み込み、決めている場所であっという間に食べられるように解体した、同町で 

サングラスhp

ただ、獲物は法律に定められた期間しか捕獲することができません。それだけの活動では、当然、生活は成りたちません。ゆえに若い頃から、高度経済成長期に盛んだったトンネル工事や高速道路の建設現場などで出稼ぎ労働をしていました。が、45歳の時、青函トンネルの工事現場で、仕事の無理がたたったのか脳内出血で倒れ、生死の境をさまよった末に半身付随に=写真上、雪盲防止のサングラスに映り込む冬枯れの森。ここは親方のウサギ狩りの縄張りだ、同町で

荒野を行くhp

本来ならば、業務中に発生した事故なので、労働災害の認定が下りてもおかしくない事案でした。でも、その手続きの方法も手順も判らなかった親方には、なんの保障もありませんでした。寝たきりに近い状態となったため、当然、仕事を続けることもできません。そのまま解雇となり、無収入で暮らしていかざるを得ない状況になってしまいました=写真上、雪が積もった荒野を行く伊勢親方。脳内出血の影響で今も左足を引きずって歩く、同町で

アップhp

しかし、たった一人でクマと格闘したり、人が歩けないような断崖絶壁でキノコの採取などをしてきた親方は、不屈の闘志の持ち主でした。不随になった左半身の動きを取り戻すため、自ら考えた生きるためのリハビリテーションが森の中で始まりました。まず、歩けるようになるため、不自由な体で獣道からなる白神のマタギ道を杖を突きながら歩き回りました。そして、筋力を取り戻すために、左手にノコギリや鉈を縛り付けて木を切ったり、斜面に生えた下生えを掴んで体を引き上げながら登ったり‥。更に帰宅後、お風呂の中に徳利を持ち込んで、湯を入れた状態で持ち上げたり握り締めたりして、握力の再生も試みました。まさに復活するための必死のリハビリで、ようやく日常生活ができる程度にまで回復したそうです=写真上、森を歩くたびに様々な場所の説明をしてくれる。「ここはクマが通る道」、「ここに春先、山菜がでる‥」など。白神の森の知識は無尽蔵のようだ

春の雪山②hp

でも、事態は深刻でした。ただでさえ仕事が少ない東北地方で、体を自由に動かせない人を新たに雇ってくれる企業は多くありません。山の測量や木を切る技術も他の人に引けを取らない親方でしたが、日雇いの仕事はあっても、常雇いの勤め先は見つかりませんでした。そして、白神の麓にある村々にも不景気の風が吹き始めると、懸命に介護してくれた奥様のパート労働の僅かな収入と、山野で親方が収穫してくる獲物だけが暮らしを支えるすべてとなりました。こうして不本意ながらも、狩猟採取だけが仕事になってしまったのです。そこから、白神のマタギとしての本格的な生活が始まりました=写真上、春先の森を歩く親方。リハビリのおかげで左足も動くようになり、輪かんじきを高々と上げられるようになった(2部へつづく)

 

地域の行事「十日講」の当番が我が家に回って来ました

毎月、持ち回りで地域の稲荷神社に祈りを捧げる「十日講」の宿(当番)が、我が家にやってきました。隣近所5軒ずつがひと組となって輪番で担当するのが習わしで、宿になる家が軒先に幟を立て、家内には掛け軸を飾り、赤飯などの供え物をして祈祷する、とされています。毎月10日に執り行われるようです=写真下、十日講の掛け軸を居間に吊るし、ロウソクを灯した。これでよかったのかなぁ、深浦町で

十日講掛け軸hp

いつごろ始まったか定かではないのですが、集落にある稲荷神社と白神岳の山頂にある白神大権現への信仰を深める行事で、同時に隣近所で「講仲間」を作ることで結束と親睦をはかるのも目的のようです。

この集落にある稲荷神社の由来も、不勉強のためよく解らないのですが、初夏や夏に本格的な祭祀を執り行っており、そのひとつは青森県の無形文化財に指定された伝統行事となっています。地域の方々はこの神社を大切にされており、毎年、鳥居にかける大しめ縄を稲藁から編んで交換し、境内の清掃や社殿の補修なども、率先して行っています=写真下、幟を掲げ神社へお供えとお祈りに向かう。膝近くまで積もった雪のため、境内への階段の上り下りだけで転がり落ちそうになった、同町で

十日講④hp

そして、白神岳の頂上には白神権現の奥の院があり、毎年旧歴の8月に「山かけ(御山参詣)」と称した神事も執り行っています。笛、太鼓を打ち鳴らし、山頂まで登る行事で、麓にある地区の稲荷神社が、「里宮」としての役目を担っているようです(間違っていたらすみません)。 記録によれば、日露戦争のころまでは、若衆が神事の一週間前から稲荷神社に泊まって精進し、津梅川で禊をしてから、笛、太鼓を打ち鳴らして山かけし、五穀豊穣を祈願したとされています。白神大権現のご神体は大山祇神と伊邪那岐、伊邪那美の両神であると伝えられているようですが、真偽は不明です=写真下、稲荷神社でお祈り。歴史を感じさせる社殿だが、暖房も電気もないので寒い、同町で

十日講⑤hp

関西に住んでいた頃は、1月10日といえば商売繁盛の神様「えべっさん」が有名ですが、東北に来てからはご縁がありません。そういえば戎神社もあまり見かけませんねぇ。商売している訳でもないので、関係ないんですが。この地域の伝統行事や神事は、いずれ紹介いたします。

シジュウカラhp

写真左、玄関の風避け室の枠にとまるシジュウカラ。この後、お風呂場にまで逃げ込んだ。ガラス窓に衝突するとケガをするので、外に出してやろうと入口や窓を全開にしたのですが、バタバタ逃げ回るだけでなかなか出ていきません。可哀想なので強制的に捕獲して出そうとすると、大慌てで玄関口から飛び出して行きました。鳥が入ってくるなんて‥、「とり入れる」との語呂合わせで縁起が良いですね。今年は良いことがあるのかな‥、楽しみな1年です(律)。

 

 

 

 

 

 

深浦町の新春町民放談の集いで講演しました

今年は白神山地が世界自然遺産に指定されて20年になります。その節目の年に、遺産地域の主要部分を占める深浦町で開催された「新春の集い」で講演をいたしました。町に対する提言という形で、白神山地の自然と生活文化を次代を担う子供たちへ伝えたい、という表題で、約80枚の野生動物などの写真を紹介しながらお話しさせて戴きました=写真下、町民ホールで開催された深浦町の新春のつどい

新春放談hp

100人以上の町民や関係者の方々が集まって下さり、吉田満町長による年頭の挨拶のあと、夫が写真をプロジェクターで再生し、私がお話するという形で実施。人前で話すのは十数年ぶりなので、年甲斐もなくドキドキしましたが、講演後に来場者の方々から、「良かったよ」とお褒めの言葉をいただき、ホッとしています。昨年末、2期目の当選を果たされた若い町長が、生き物の写真を通して私たちの仕事に注目して下さり、白羽の矢が立ちました。町への想いを熱く語りながら実務に取り組まれる実直な方で、「白神の自然と生活文化を子どもたちへ伝える橋渡しがしたい」という、私たちの活動に理解を示して下さいました=写真下、来場者の席を一人ひとり訪ねて話し込まれる吉田町長(左から二人目)

町長と②hp

若者の都会への流出などで過疎が進み、限界集落化が進む深浦町ですが、自然遺産の森を守りながら地域活性を進めたいとする町民の意志が、心熱き町長を通して伝わってくる集いでした。私たちも白神の自然とそこで暮らす人々の生活文化を取材し、情報発信していきますので、今後ともよろしくお願いいたします=写真下、深浦町賛歌を合唱するコーラスの女性たち

合唱hp 海岸線に民家が立ち並ぶ旧岩崎村の集落写真下平成の大合併で深浦町に併合されました。ブナの森がもたらす豊穣な自然の恵は、キノコや山菜などの山の幸だけでなく、身が引き締まった日本海の魚貝類も食卓に届けてくれます。縄文時代から人が暮らしていた痕跡が残っており、今も鏃(やじり)や手斧などの石器が、畑仕事などをしていると出土します。湯量が豊富な温泉もあり、保養するには最適な観光地です。ここに移住して来て、心休まる日々を送っています。

⑲伊勢さんの住む街hp