みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
活動③(追跡)

深浦町の「マタギ」伊勢勇一親方(第5部・新緑の林道で立ち往生)

白神岳hp白神山地も新緑の頃を迎えました。色鮮やかな緑が、麓から山々をゆっくりと染めてゆきます写真上、残雪と新緑のコントラストが美しい白神山地。中央が白神岳、左の稜線が向白神岳、深浦町で。が、今年は雪が多かったのか、山にある根雪が溶けるまでに至りません。それどころか、例年ならば5月25日に開通する弘西林道(県道28号・白神スーパーライン)が、7月1日まで通行止めとされました。この道路は青森県の旧岩崎村(現深浦町)と西目屋村を繋ぐ、40キロ以上が砂利道のオフロードです。毎年、この時期、弘西林道沿いの森を探索したり、ロボットカメラを仕掛けたりするため、林道を通行しない訳にはいかないのです。

伊勢さん①hp

すっきりと晴れ渡った五月晴れの朝、深浦町の「マタギ」伊勢勇一親方と一緒に林道の様子を見に行きました。同時に、冬眠から覚めたクマが木に登っているのを探す目的も=写真上、以前にこの場所で獲ったクマの様子を語る伊勢親方。冬眠穴から出たクマは、太陽光に体を晒しながら広葉樹の新芽を食べるため、ブナやミズキなどの木に登っています。この地方のマタギたちは、その習性を利用して、春先にクマを射止めてきました。最近は、猟友会メンバーの高齢化と猟期が秋だけに限られるため、「春グマ獲り」は難しくなってきていますが、親方は、昔からの習慣として、毎年、森を歩いてクマを探しに行きます=写真下、高さ4~5㍍の雪の壁ができて回廊のようになった弘西林道。雪の圧力でカーブミラーが破壊されている

雪の回廊hp

ミラー②hp

そんな親方が、クマの行動を見張る場所とする「クマ見台」が、白神山地のあちこちにあります=写真上、壊れて雪の上に落ちたカーブミラーに、新緑の樹々と飛行機雲が映りこんだ。簡単に行ける場所もあれば、駐車した車からマタギ道を1~2時間歩くような地点も。弘西林道沿いに、いくつかあるというので、新緑の見物を兼ねて一緒に張り込みむことに。それが‥写真下、路肩の土砂が増水した川の流れにえぐられて、落ちてしまったガードレールや道路の舗装。災害復旧工事で修復しても、ひと冬超えれば、あちこちでこのような光景になる

崩れ②hp

崩れ①hp

驚いたことに、5月末にもかかわらず雪で道路が塞がっていたり、路肩は崩れていたりで、車が通行できない場所が多々あります。4輪駆動車で慎重に大穴を避け、落石を片付けながら進みました。が、「一つ森」という峠で道が雪に閉ざされており、ついに立ち往生。結局、目的地には行き着けずに、あきらめて戻ることになりました=写真下、林道上に残る雪。親方の指示で、車はここでストップした。無理してこれ以上進むと、二進も三進も行かなくなる

通行止めhp

写真下、雪の重みで壊された落石防止のフェンス。すごい力だ

雪フェンス①hp

残念なので、白神岳と向白神岳など、世界遺産の山々が一望できる高台から、谷を挟んだ対岸の斜面にいるクマを探してみました。双眼鏡で見ても豆粒のような大きさでしか確認できませんが、新緑もしくは枯れ木の中に真っ黒な蠢く点を見つければ、ほとんどがクマです。親子連れの場合は、木に登っている母グマの下で、子グマがチョロチョロと走り回っています。単独の雄グマは、遠方から見ても大物であると判別できることもあります=写真下、自らの縄張りである笹内川沿いの森を双眼鏡で見る伊勢親方

伊勢さん③hp

新緑の幾何学hp

伊勢親方は、体を壊していた時期や出稼期間中を除いて、ほぼ毎年、早春の山を巡ってクマを見続けてきました=写真上、根っこ部分から雪が溶けてくる「木の根開き(きのねあき)」が出来た白神山地の斜面。こうした立木にクマが登ることもある。そして何十頭も射止めたそうです。だから真剣そのもの。物見遊山の私たちと違って、対岸の斜面を見続けたまま、ほとんど双眼鏡を離しません。まさに視界にある全部の木を見逃すまい、とする意気込み。だが、この日も2時間近く粘りましたが、現れてくれませんでした=写真下、新緑の木々の上に飛行機雲が白い筋を引いた

飛行機雲hp

新緑と月hp

 残念ですが、仕方ありません。野生動物との駆け引きではよくあることだ、と親方は笑います。でも、ここ最近の雪の多さには閉口しているようです。地元の長老も親方も、「山もそうだけど、道路にこんな時期にまで雪が残っているのは異常だ」と口を揃えます。そして、「クマの動きも変だし、山菜が出るのも遅すぎる。山奥はまだ、冬のままだな」と呟きます=写真上、新緑の梢上に広がる五月晴れの青空。同じ青森県の酸ケ湯温泉では、積雪量がこれまでの記録を超えたそうです。私たちが住む深浦町の海岸線は、青森県の他の地域に比べて、雪が少ないところだとされています。そのため、屋根の雪下ろしは一度もしたことがありません。が、家の近所の里山でも、日陰にゆくと雪が残っている場所があるほどです=写真下、落石防止のネットをくぐり抜けて落ちてきた巨木を見る伊勢親方。白神の林道は危険がいっぱい

木転落①hp

森の中に仕掛けたロボットカメラに写る生き物たちにも影響があるようです。この時期、茶色くなるウサギがまだ冬毛のままであったり、顔色が黒と白のブチ模様のテンがカメラの前に登場したりしています。現れる回数も、心なしか少ないような感じも‥。都会育ちの私たちにとって、これ以上寒冷化が進むのは、困りものです。当然、親方たちも、森での暮らしのリズムが狂うので、快く思ってはいないようです=写真下、林道を覆った雪の上に残る生き物たちのフィールドサインを探す伊勢親方

フィールドサインhp

ウサギ糞hp

雪が残ったままの林道にウサギの糞が多数落ちていました=写真上、雪の上に残されたウサギの糞。いっぱい散らばっていた。生き物たちのフィールドサインをチェックする親方も、「よしよし、ウサギは増えてきているようだな」と、嬉しそうです。太古から続くブナの原生林は、様々な環境の変化を乗り越えて、現在も存在し続けています。過去に氷河期はあったのでしょうが、温暖化を経験したことはないと思われます。人間の暮らしが自然に与える影響を無視できなくなってきた時代。この白神山地の貴重な森を、どう守るべきなのでしょうか。有史以来、持続可能なかたちで、自然を利用してきた人たちに学びを請いたいところです。親方、次の森の学習会はいつですか?。元気に長生きして、私たちを導いてくださいね。

 

春の森の恵み「ヒラタケご飯」

ヒラタケ③hp

大型連休も終わり、観光や帰省のお客さんも帰って静けさを取り戻した白神の里。双眼鏡を片手に、ぶらりと森の散策に出かけてみました。雪解け間もない山は、木々の葉が開いておらず、下草も少なくて歩きやすいため、視界良好です。野鳥の観察や動物のフィールドサインを見つけるには、最高のコンディション。そんな春の森を満喫していると、カモシカの歩いた跡をたどって、ガサガサと丘を登っていた夫の喜々とした声が響き渡りました。「やったぞ!。おーい、早く来い」。急いで追いつくと、倒木を指さして、「ヒラタケだ、ヒラタケ」と小躍りしています。黒灰色の扇形の傘が、波のように重なった姿が特徴の美しい食菌です。自然の造形美だね、と顔を上げると、早くも腰のマキリを抜き放って、スパスパっと収穫しているではありませんか。考えるより先に手が動いてしまう、せっかちな性分の夫。「春のヒラタケの写真、今まで撮ったことないよね」と言うと、いつものことながら、口をパクパク。もう、後の祭りです=写真上、収穫したヒラタケ。良い香りがする

裂くhp

ヒラタケは、日本人になじみ深い食用キノコで、平安時代の説話を集めた「今昔物語集」などにも登場します=写真上、虫出しをして、きれいに洗ったヒラタケを食べやすいように細かく裂く。海外でも食べられており、傘の形がカキの貝殻に似ていることから、オイスター・マッシュルームと呼ばれています。香りがよく、出汁も出るキノコで、みそ汁や鍋の具、煮物などに利用でき、白神山地周辺では、早春と秋、二回の収穫期があります。ただ、毒キノコのツキヨタケに似ているため、発生が重なる秋の収穫時期は注意が必要です。

ニンジンhp

お鍋の季節はちょっと過ぎてしまったので、今回は炊き込みご飯に挑戦してみました=写真上、ニンジンをみじん切り。まず、塩一掴みを入れた水にヒラタケを浸け、「虫出し」をします。キノコの汚れ具合にもよりますが、最初は10分ぐらいで水を換え、再び同様の塩水に30分ぐらい浸してから水洗いし、ザルにあけて水を切ります。この間を利用して、米をといでおきます。醤油を使った炊き込みご飯は、何故か出来上がりがパラパラの硬めに仕上がるので、白米に一割程度、もち米を混ぜておきます。キノコの水が切れたら、手で細かく裂きます。

出汁hp

その他の具を用意します。人参、油揚げ、鶏モモ肉はみじん切りにし、酒、みりん、コブとカツオの出汁、薄口醤油、塩で少し濃い目の味付けで煮ます=写真上、酒、みりん、出汁などを投入。煮汁はひたひたです。好みにもよりますが、我が家では、酒3:みりん1:出汁2:醤油1、塩は味を見て適宜、といった割合にしています。料理酒を使う場合は、塩味がついていますので、加減してください=写真下、塩も少々

塩hp

3~4分、グツグツと煮たら、最後にヒラタケを投入。キノコの美味しそうな匂いが立ち昇ります=写真下、細かく裂いたヒラタケを投入。再び煮立ってから1分程度で火を止め、具と煮汁に分けます。ご飯の水加減は、この煮汁を使い、足らない分は出汁を足して炊飯器の目盛に合わせます。最後に分けておいた具を入れ、味見をします。炊飯器の中の汁を少し舐めてみるのです。この汁の味が、炊き上がった時のご飯の味になるので、足らない場合は塩を、辛すぎた場合は汁を少し捨てて同量の水を入れ、調整してください。よければ、スイッチオン。

ヒラタケ投入

美味しいヒラタケご飯が出来上がりました=写真下、具が全体に行き渡るようによくかき混ぜて。キノコから出た出汁がご飯全体にまわって、独特の味と香りが素晴らしい炊き込みご飯の完成です。四季折々に自然の恵みを与えてくれる白神の山々。春は山菜、と思い込んでいたけれど、油断は禁物です。だって、こんなキノコが出るんだもの。これからは、もっと注意して倒木を見ながら歩かなければ。ま、それらしい雰囲気の木があれば、夫に命じて見に行かせるだけですが。次は、「現場で木に発生している場面」の写真を撮るのよ、おバカさん。山の神様と自然に感謝しつつ、さあ、ご近所のおばあちゃんたちに、お裾分けに行ってきます。

完成hp

 

伊勢親方と白神山地の山菜採り

新緑の白神岳②hp

真っ白く雪を被った白神の山に、黒い地肌が見え始めると、春の山菜採りシーズンが幕を開けます=写真上、新緑に映える白神岳。雪が溶け地肌が出てきている、深浦町で

渓流とキノコhp

4月下旬、深浦のマタギ・伊勢親方が山を見上げながら、「どーら、そろそろ行ってみるか」と、キラキラした眼でひと言。待ってましたとばかり、背負い籠を肩に山へ駆け出します=写真上、渓流の脇に立つ朽木にキノコが群生していた。さぁ、採るぞ。今年は何が出ているかなぁ。が、歩き回ったのにフキノトウしか出ていません。えぇー、大型連休も近いのに、どうなっているの。

コシアブラhp

今年の春は異常気象だ、と親方も地域の長老らも口を揃えます=写真上、コシアブラの新芽?。冬の積雪が多く、春先にはみぞれ混じりの冷たい雨が降り続き、暖かい春風がいつまでも吹いてくれません。4月半ば頃から山を目指す気の早いご近所さんからも、早めの山菜便りがまったく聞こえてきませんでした=写真下、5月上旬、雪渓が残る林道を山菜を手に歩く伊勢親方

雪渓②hp

5月の大型連休に、都会から仲間が訪ねてくるのに‥。楽しい山菜採りどころか、美味しい山菜料理も食べさせることが出来ないのでは。うーん、心配‥と、気を揉んでいたら、親方が「5月に入ってから、ひとりで見に行ってみたら出ておったぞ。ようやく春の味を食べられるな」と、ウド、タラの芽などを少し分けて下さいました=写真下、ボウナを携帯電話で写真に撮る友人

携帯hp山菜hp

当然、戴くだけでは物足りません=写真上、親方の差し入れ。ウド、タラの芽が山のように‥。早速、親方といつもの場所へ出かけました。すると、出ています、出ています。つい先日まで雪の下だった大地から、瑞々しい新芽が顔をのぞかしているではありませんか。地面に這い蹲るようにして取ります。くるっと巻いたゼンマイのような形のものはコゴミ。正式にはクサソテツというシダ類の仲間です。

コゴミ①hp

灰汁抜きの必要がなく、天ぷらやお浸し、胡麻和えなどで食べます。我が家では、茹でてマヨネーズをつけたり、生のまま細かく刻んでピザの具にしたりもします=写真上、大収穫のコゴミ。ちょうど盛りの時期だった。春一番に出るコゴミは、身が細くてマッチ棒ぐらいの太さしかないのですが、一週間程過ぎると、肉の厚いしっかりしたものが出てきます。これらは子どもの小指ぐらいの太さで、色は鮮やかな濃い緑。口当たりの良い柔らかさで、かみしめるとほんのり青草の味がします。かすかな甘味も。

タラの芽①hp

タラhp

そして、タラの芽。トゲトゲの茎先に出てくる柔らかい芽を食べます。山菜の王様とも呼ばれ、都会のスーパーなどでは3~4切れ入ったパックが1個400円前後で売られています=写真上2枚、少し早かったがそれなりに採れたタラの芽。上の写真ぐらい開いても美味しくいただける。これが、格別な味です。特に天ぷら。油で揚げるとあくが抜け、濃厚なコクが出ます。葉がまったく開いていない芽も良いのですが、少し開いた芽の方がパリッと揚がって超美味です。

仕分けhp

今ほど流通も栽培技術もなかった昔、冬場に青い野菜が手に入らなかった北国の人たちは、厳しい寒さに耐えて、やっと口にすることができる「春の天然野菜」だったのでしょう=写真上、収穫後、家に持ち帰って来てからの楽しい仕分け作業。齢を重ねすぎていたり、下半身が不自由だったりする、ご近所のお年寄りたちに配ると、時には涙を流して喜んでいただけます=写真下、春の気配が漂う白神山地。正面が白神岳で、左は向白神岳

新緑の白神岳③hp

ウドhp

おかげさまで、大型連休を満喫できました。なぜか今年は早く顔を出したウドも天ぷらにし、まさに山菜ざんまいの休日でした=写真上、いつもより早く手に入ったウド。東京や大阪から訪ねてきてくれた友人も、「美味しいー」を連呼。「白神の山菜、全部好きかも」と、箸を休める暇もなく食べまくりです。最後に、「うーん、山菜祭りを満喫いたしました。次はキノコを目指して再訪します」と、早くも秋のリピート宣言。

G子hp

白神山地の自然と伊勢親方に心より感謝の気持ちを込めて、ごちそうさまでした。友人たちからは、お土産に持ち帰った山菜を家族に振舞って、二重の美味しさと感激を味わった、と便りが来ています=写真上、春の色と香りが漂うコゴミ。収穫の喜びで、友人も満面の笑顔。でも、(ΦωΦ)フフフ…。白神の山菜は、まだ、これからが本番の収穫期を迎えるのです。さぁ次は、シドケにアイコ、そしてミズにタケノコが待っています。楽しみは尽きませんよ。

「鹿島(春日)祭」の神事:後編

唇の紅を押さえて整える。いつものお転婆娘が影をひそめた、深浦町で

唇の紅を押さえて整える。いつものお転婆娘が影をひそめた、深浦町で

前編でお伝えした「春日祭」の神事です。地域の村祭りは、子どもたちにとっては一大イベントで、この日は学校もお休みです。小学生の女の子たちも、入念にお化粧して、大好きなお祭りに臨みます。

唇には紅を点し、おでこから鼻の頭にかけて白粉を塗る

唇には紅を点し、おでこから鼻の頭にかけて白粉を塗る

祭りの準備は、古い木造家屋の「青年会館」で、地区のお母さんや年配の女性が、子どもたちに着付けやお化粧を施します。ぼんやりと暗い室内で、子どもたちも真剣な表情。

お化粧すると、少しお姉さんになったかな

お化粧すると、少しお姉さんになったかな

つい先程まで、あどけない表情で笑っていました。

大声を上げて、はしゃぎ回ります。もう、誰も止められません

大声を上げて、はしゃぎ回ります。もう、誰も止められません

そう、思わせたのは一瞬でした。着付けが終わると、あっという間にいつもの元気な姿に逆戻り。

この子どもたちの笑顔と元気な姿が、過疎の集落に活気ある花を添えます

この子どもたちの笑顔と元気な姿が、過疎の集落に活気ある花を添えます

祭りの行列でも、先頭に立って、得意満面で太刀棒を振ります。

襦袢をたくし上げて、海の中へ

襦袢をたくし上げて、海の中へ

6月とは言え、まだ冷たい水が打ち寄せる北国の渚。そんなの、へっちゃらで海に水飛び込んで行きます

男衆が担ぐ神輿の下を弾ける笑顔で男の子が走り抜けます

男衆が担ぐ神輿の下を弾ける笑顔で駆け抜ける男の子

「コラー、危ない!」。神輿の下を男の子が駆け抜けて行きます。心配して戸惑いながらも、大人たちは皆んながホッコリと癒されています。

「できるもん!、早く太刀棒を渡して」と、急かす

「できるもん!、早く太刀棒を渡して」と、急かす

「ほら、これが太刀振りのお手本だよ」と、大人たちが実地訓練。青年の踊り手も減ってゆき、今は子どもが主役の祭りですが、大人も皆んなが楽しんでいます。

子どもたちが着る赤い襦袢のいわれは、記録などが残っていないためよく判らない

赤い襦袢を着て踊る子どもたち

行列がスタートした途端、全身を使って踊ります。子どもたちが着る赤い襦袢のいわれは、記録などが残っていないためよく判りません。ただ、医療技術が発達していない時代、青森県を始めとする東北地方の西海岸にも、伝染病である天然痘や赤痢が猛威を振るった、と記録に残っています。その当時、患者の衣類から調度、玩具にいたるまでを、すべて赤色ずくめにする風習があったそうです。それは、天然痘の発疹が赤いほど経過が良い、という理由だけでなく、痘瘡の鬼が赤色を嫌うことからきているとされてます。太古から、赤は魔除けに使われてきた習わしが、子どもたちに着せる襦袢に引き継がれているのかもしれません。

太刀振りの最中、あどけない坊やが真ん中を横切った

太刀振りの最中、あどけない坊やが真ん中を横切った

「危なぁーい」。お母さんが、大声を上げて、祭り衣装の坊やを追いかけます。太刀振りの最中、あどけない坊やが真ん中を横切りました

子どもたちの踊る姿を見るのがお年寄りたちの楽しみ

子どもたちの踊る姿を見るのがお年寄りたちの楽しみ

村の人たちが見守る前を皆んなで行進。子どもたちの踊る姿を見るのがお年寄りたちの励みになります。まさに祭りの花形です。

大人も負けじとはじける笑顔

神輿を担ぐ大人も負けじとはじける笑顔

神事がすべて終わって帰還。あとは一杯飲むだけ

神事がすべて終わって帰還。あとは一杯飲むだけ

大人たちも負けてはいません。春日丸を担ぎながら、沿道からの冷やかしの声?に、弾ける笑顔で応えます。皆んな祭りが大好き。それは、日々の仕事や暮らしの安全祈願であり、豊穣な実りや大漁を祈願する重要な神事でもあるからです。1984年(昭和59年)に青森県の無形文化財に指定されています。

祭りの度に、天然の杉を削って作られる

祭りの度に、天然の杉を削って作られる

鯔背な男衆の横に並べられた太刀棒には、参加者である持ち主の名前が書き込まれています。最後には、舟と一緒に海へ流します。

お母さんも、ついつい体が動いて、踊ってしまいます

お母さんも、ついつい体が動いて、踊ってしまいます

行列が舟宿に近づくと、その班の人たちが祭りの主役たちを出迎えます。昔は行列の中心で踊り、祭りを盛り上げる主役でした

舟流しを男衆が見物

舟流しを男衆が見物

漁協組合の男衆らも、浜で見物。皆んな、北国の厳しい海で網を引く、実直な働き者です。よく、お魚を戴くので、足を向けて寝られません(笑)。

神輿を担いでいた男衆に甘えて飛びつくワンちゃん

神輿を担いでいた男衆に甘えて飛びつくワンちゃん

華やかな祭りの行列に、ワンちゃんも大喜び。神輿を担いでいた男衆に、つい甘えて飛びついていました。

僕も踊りたーい

僕も踊りたーい

可愛い鉢巻き姿の赤ちゃんとお母さん。集落の人ではありませんが、笑顔で見物。

祭りを見物する中国人たち

祭りを見物する中国人たち

祭りをひと目みようと、出稼ぎの中国人労働者たちが、宿舎前に顔を出しました。参加者が履く雪駄を見て、「おしゃれー」と、興味津々でした。

皆んなで神輿の舟見物

皆んなで神輿の舟見物

舟宿に置かれた春日丸。今年の舟の出来はいかが?、と皆が集まってきます。「あの衣装は誰が繕ったの」、「顔の表情がいいね」、それぞれの感想を呟きながら。北国の初夏の日差しが暖かい、午後のひととき。

お年寄りらが祭り見物。みぎから二人目が地区の総代さん

お年寄りらが祭り見物。みぎから二人目が地区の総代さん

祭りの行列を待つ地区のお年寄りたち。右から2人目が総代さん。楽しみにしていた、待ちに待った瞬間です。

祭りの重要な脇役「おばあちゃん」らが神輿見物

祭りの重要な脇役「おばあちゃん」らが神輿見物

「私の若い時は、こうだった」、「それは何十年前?」。軽妙なやりとりに、笑顔が弾けるおばあちゃんたち。彼女らこそ、祭りを準備し、ご馳走を作り、着付けまでこなす、スーパーガールズ。戦争や出稼ぎなどで男衆が村を開けた時にも、この集落を支えてきた屋台骨でもありました。私たちにも、とても優しくて尊敬できるお母さんたちです。長生きしてくださいね。

拍手で行列を迎えるおばあちゃん

拍手で行列を迎えるおばあちゃん

子どもたちの行列を拍手で迎え、満面の笑みを見せるおばあちゃん。祭りが大好きだと、聞きました。

舟流しをする浜で、おばあちゃんが一人で祭りの行列を待っていました。浜で拾った薪を手押し車に満載にして

舟流しをする浜で、おばあちゃんが一人で祭りの行列を待っていました。浜で拾った薪を手押し車に満載にして

夕暮れ前、舟流しをする浜で、おばあちゃんが一人で祭りの行列を待っていました。浜に拾いに来た薪を手押し車に満載にして。深浦町の過疎と住民の高齢化は深刻です。私たちが暮らす地区も、限界集落に向けてまっしぐらに突き進んでいるのでしょう。若衆や子どもたちの数もどんどん減っており、地区にあった小学校は40年前に統廃合されてなくなりました。今は集落の大半が高齢者の暮らす住居となっています。そんな中でも、祭りは華やかに執り行われています。しかし、今後も安定的に継続できるかは、地区を上げての論議になっており、その行き先が心配です。

心優しいお母さんの満面の笑顔。飲み物が入ったバケツの前に陣取り、「ホレ、ビールがいいか酒か、それともジュース?。遠慮するな(笑)」

心優しいお母さんの満面の笑顔。飲み物が入ったバケツの前に陣取り、「ホレ、ビールがいいか酒か、それともジュース?。遠慮するな(笑)」

こうした集落では、私たちのような移住者は珍しく、最初は奇異な目で見られているなと感じることもありました。が、今では集落をあげて歓迎してくださっているのを実感できます。こんな良い人たちが暮らす村が、消えてしまうようなことになっては、心が痛いだけでは済まされません。写真を撮り、記録を残していくことでしか伝えることはできませんが、町と集落がまた昔のような活況を取り戻せるように、取材活動を続けていきたいと考えています。都会の皆さん、よければ遊びにおいでください。そして、祭りを体験するも一興ですよ。それで、ここが気に入ったら、私たちのように移住して来てくださいな。村を上げて大歓迎されますから。

仲良しコンビが笑顔でポーズ

仲良しコンビが笑顔でポーズ

「鹿島(春日)祭」の神事:前編

出発場所で丸木をくり貫いて作った舟を担ぐ男衆、深浦町で

出発場所で丸木をくり貫いて作った舟を担ぐ男衆、深浦町で

先振り(手前)の先導で、進む太刀振りの行列

先振り(手前)の先導で、進む太刀振りの行列

私たちが暮らす集落に伝わる神事、「鹿島祭(春日祭)」をご紹介いたします。4~5人の男衆が、原木の丸木をくり貫いた舟を担ぎ、その前を着飾ってお化粧した十数人の大人と子どもが、太刀棒を打ち合わせて踊り、集落内を練り歩く村祭りです。太鼓と笛のお囃子も加わり、とても勇壮で華やかです。村史などの記録によれば、古くは田植えが始まる前の5月上旬に、五穀豊穣と悪疫退散を祈願して行われていました。でも最近は、働く人たちの休日や子どもたちの学校の都合などで、6月第二土曜日に実施されることが多いようです。

私らの自宅(後方)の横を歩く春日祭の行列

私らの自宅(後方)の横を歩く春日祭の行列

この集落に引っ越してきた当時、譲っていただいた古民家の敷地内に、壊れかけの納戸がありました。ちょうど良い物入れになりそうなので、屋根に登って修繕をしている最中、なんと祭りの行列が通りかかったのです。こんな大切な時に、トンカチで屋根材を打ち付けている場合ではありません。屋根から飛び降りて、立てかけてあった大脚立を担ぎ、カメラを持って行列に先回りをして撮影しました

先振り(手前)の合図で、笑顔で掛け声を復唱する太刀振りたち

先振り(手前)の合図で、笑顔で掛け声を復唱する太刀振りたち

この祭りは、青森県では日本海側の秋田県境に近い旧岩崎村(現深浦町)に古くから伝わってきた「鹿島祭」で、私たちが住む地区では「春日(かすが)祭」とも呼びます。男衆が担ぐ船は、サワグルミなどの原木をくり貫いて作ります。長さは約1.7㍍。桐の木や藁で作った人型を7体乗船させて帆をかけた姿は、北前船を模しており、「春日丸」と名づけられています。船を担いで村内を練り歩くこの神事は、執り行われる時期と祭りの形態から、「虫送り」の儀式も兼ねているかと思われます。

春日丸を担いで村内を練り歩く男衆

春日丸を担いで村内を練り歩く男衆

春日丸を担いで村内を練り歩く男衆

春日丸を担いで村内を練り歩く男衆

この丸木舟の前を、赤い襦袢にたすき掛けをした村の人たちが、踊りながら歩きます。先導するのは、色紙を重ねて切った御幣を手にした「先振り(サキフリ)」。御幣を振りながら、「アーラ、エンヤラ、エンヤラ、エンヤラ、ホーイ」と合図の掛け声を発すると、後ろの太刀を持った踊り手の「太刀振り」たちが手に持った太刀棒を高く挙げて、「エンヤラ、エンヤラ、エンヤラ、ホーイ」と応じます。これが出発の合図となります。そして先振りが、「ア、シッチョイ、シッチョイ、シッチョイナ」と繰り返すと、それに合わせて太刀振りも太刀棒を地面につきながら、同じ言葉を発して後に続きます。10回前後も繰り返したところで先振りが、「エイッ、ヤッ」と声を発すると、2人1組となった太刀振りが、互いに体を入れ替えて交錯しながら、太刀棒を強く2回打ち付け合います=写真下、太刀棒を打ち付け合う子どもたち。これが「太刀振り所作」のひと区切りで、この繰り返しで行列は進んで行きます。 

太刀棒を打ち付け合う子どもたち

太刀棒を打ち付け合う子どもたち

 

山に近い集落内を進む行列

山に近い集落内を進む行列

元々は青年団らが取り仕切っていた行事らしく、集落の真ん中にある「青年会館」という集会所を午後1時に出発します。一行はまず、丸木の春日丸に灯明とお神酒をあげて拝礼します。そして行列は、山と海に面した家々を周り、最後は港に近い砂浜を目指します。これで、集落をほぼ1周する形になります。行列はこの間、4~5ヶ所の「舟宿(フナヤド)」で休憩しながら進んでいきます。この宿はかつて、集落の有力者が宿や酒食を提供していました。農地解放される前の地主が、労働力である小作人に、祭りを機に感謝の意を込めた振舞いをしていたようです。今は、10班からなる地区内の各戸が持ち回りで舟宿を務めています=写真下、舟宿の前で踊る先振り(右端)と太刀振りたち

舟宿の前で踊る先振り(右端)と太刀振りたち

舟宿の前で踊る先振り(右端)と太刀振りたち

舟宿でご馳走を食べる参加者たち

舟宿でご馳走を食べる参加者たち

重い神輿を担ぎ、激しい踊りを繰り返す行列の参加者には、この舟宿が何ものにも代え難い休憩の場となります。東北の旨い酒、日本海で獲れた魚貝類や白神の山の幸、子どもたちには美味しいお菓子もたっぷりと振舞われます。そして、行列が歩く途中の各戸から祝儀やお神酒が献上されると、その家の前の道路で、「アーラ、エンヤラ‥」、「ア、シッチョイ‥」の掛け声を繰り返しながら、祝儀やお神酒の周囲を時計回りに3周します。舟宿の休憩時も、春日丸を玄関先に降ろし、その周囲を同様に3周してから、宿のお世話になります。このご馳走は、カメラマンも含めた見物人すべてに大盤振る舞いされます
キク科の花が咲く民家の庭先を歩く春日丸の一行

キク科の花が咲く民家の庭先を歩く春日丸の一行

海岸線の国道を横断する一行

海岸線の国道を横断する一行

そして夕刻、集落内を練り歩いた後、行列は漁港近くの砂浜に到着します。ここで祭りはいよいよフィナーレを迎えます。春日丸の舳先にはろうそくの火が灯され、太刀振りたちが太刀棒を海に放り投げて流します。この時、春日丸は海へ浮かべられ、男衆が泳いで沖へ曳いて行きます。その後、漁船に引き上げて、さらなる沖へ持って行き、そこで本格的に海に流します。そこでも漁船が、海に浮かべた春日丸の周囲を時計回りに3周して港に戻ります。

春日丸を海に導く若衆たち

春日丸を海に導く若衆たち

春日丸が積み込まれた漁船に手を振る若衆

春日丸が積み込まれた漁船に手を振る若衆

春日丸を沖ヘ流しに行く人たち。

春日丸を沖ヘ流しに行く人たち

これで一連の神事の流れ終わりなのですが、後編は更に細かいディティールで、神事の内容をお伝えします。写真は、祭りの主役でもある子どもたちの姿をアップします。都会とはまた違う、純朴で元気一杯な深浦町の子どもの姿を見てください。
春日丸を積んだ漁船が黄金色の空と海に向けて出航

春日丸を積んだ漁船が黄金色の空と海に向けて出航

春日丸を積んだ漁船の出航を見守る人たち

春日丸を積んだ漁船の出航を見守る人たち

船が見えなくなるまでお囃子を続ける村の重鎮たち

船が見えなくなるまでお囃子を続ける村の重鎮たち

何と、害獣駆除の隊員に任命されました

辞令交付①hp

深浦町で、今年度の鳥獣被害対策実施隊が結成され、吉田満・町長から総勢22名の隊員へ辞令が交付されました=写真上、吉田町長(右)から辞令を交付される猟友会のメンバーたち、深浦町役場で。白神山地の麓の町では、狩猟者の減少や地域の高齢化で、サルによる農作物への被害が著しくなっています。このままでは、農業に携わる人たちの意欲の低下と耕作の放棄につながるとして、昨年度より隊員を10名増員して、獣害に断固たる処置を取る姿勢を構えつつあります。

黄金崎のサル⑥hp

それも、山から麓の集落に降りてきて、お年寄りたちが手塩にかけて栽培した米や野菜を食べ荒らするサルが、ネズミ算的に増え続けているからです=写真上、農場に現れたサルの群れ、深浦町で。世界遺産・白神山地の麓の町とは言え、そこで暮らす人たちの生活が脅かされるほど、追い詰められてきています=写真下2枚、お年寄りのカボチャ畑を荒らすメスサル。畑は全滅した、深浦町で

カボチャ盗るサル⑥hp

カボチャ盗るサル⑧hp

私たちの暮らす地域でも、事態は深刻です。厚い根雪が溶け、長い冬の眠りから覚めた畑で、農業従事者がまず最初にすることは、畑に畝を作ることでも、肥料を入れて耕すことでもありません。冬の積雪で倒れたサルよけの囲いを修復することです。70歳代はまだ若手、80歳や90歳を越えたお年寄りたちが、曲がった背中を伸ばしながら、高い杭を立て、それに網を張り巡らす作業は過酷です。今年になって80歳代のおばあちゃんが、重い生木の杭を肩に担いで運搬中に転倒、頭を数針縫うケガを負いました=写真下、サルに荒らされたカボチャ畑の網を片付けるおばあちゃん。4~5個取れただけで全滅した

被害にあった阿保マサさん⑤hp

被害にあった阿保マサさん⑦hp

こうして春の準備を終えても、焼け石に水。サルは網を破り、杭を倒して、畑の作物に群がります。昨年はカボチャ畑が全滅しました=写真上、全滅したカボチャ畑で呆然と立ち尽くすご夫婦。目には涙が‥。おばあちゃんの泣き顔をみながら憤っていた夫は、石を飛ばす手製のパチンコを作ったり、購入したりして、追い払うお手伝いをしていましたが、一時的に効果があったもののすぐに慣れてしまいます=写真下、サルに荒らされ、まだ完熟しきっていないジャガイモを収穫するお母さん。がっくりと座り込んだ

被害にあった平沢さんhp

そこで、一念発起した夫は昨年夏、わなの狩猟免許を取得。今年から、サルの捕獲や追い払い、町内パトロールの活動に参加することになりました。つまり、有害鳥獣駆除の隊員に選ばれたのです。張り切っていますが、あくまでも素人。まぁ写真は撮れても、果たして悪知恵の働くサルを捕獲したり、追い払ったりすることが可能でしょうか。声がデカイし、体力はあるので追い払いぐらいはできるかも知れませんが‥。地域活動への参加は重要なことなので、頑張って戴きましょう=写真下、吉田町長から辞令交付を受ける夫(左)

哲二辞令交付hp

町長②hp

町では2年前から、担当部署に獣害対策に取り組む専門家を据えて、年々激しくなる猿害に対処して来ました。住民からの通報や苦情を元に、出没地点にオリを置き、捕獲した個体に発信器をつけて、群や頭数の把握に努めてきました=写真上、辞令交付後、事態打開に向けての期待を込めた挨拶をする吉田町長。そのデータによれば、町内には現在、27群864余頭、実質は1000頭前後のサルが生息していると見られています。調査が進むにつれ、群れの数も個体数も年々増加しており、まだまだ増える可能性もあります=写真下、オリで捕獲されたメスザルにテレメトリーの発信機を付ける専門家、外が浜町で

テレメトリー⑭檻hp

テレメトリー③装着hp

 

テレメトリー⑪放獣hp

また、集落に近い場所に住み着いた群れから生まれる子ザルは、山での生活を知らないために人里が故郷となり、田畑などで餌を取ることが日常の暮らしとなるそうです=写真上、ラジオ・テレメトリーの発信機を首に付けられ放たれるメスザル、深浦町で。人を恐れず、時には窓や扉の隙間から人家に忍び込んで、悪戯をした例も聞きました。野生動物に罪はありませんが、天敵もなく増えすぎて人間の生活の域を侵し過ぎることがあれば、やはり人の手によって保護しながら管理するしかなさそうです=写真下、子ザルを背に餌を探す母ザルたち

黄金崎のサル③hp

頭抱えるhp

町の有害鳥獣パトロールや猟友会のメンバーらは、「サルは本当に賢い」と口をそろえます=写真上、獣害対策で頭を抱える深浦町役場の職員ら。まず、人間の顔や車をすぐに覚えて、パトロールのメンバーが来たら、一斉に逃げ去ってしまうそうです。同じく隊員に任命されている伊勢親方に、「次は、畑仕事のおばあちゃんに変装して行ったら?」と、笑い話をすると、真面目な顔で、「それはいいかもな」と、あながち冗談と受け止めていません。さあ、私たちと悪サルとの知恵比べが始まります。色々な作戦を練っています。どんな作戦かは、どこかで賢い「サル」がHPを読んでいるかもしれないので、取り敢えず「秘密」です=写真下、サルの追い払いのため、空砲を放つ伊勢親方

猿追い払い①hp

 

 

④深浦町の「マタギ」伊勢勇一親方(第4部)

新芽③hp

白神の山々に春が訪れ、冬枯れの木々に新芽が吹き出す頃、害獣駆除としてのクマ猟が行われます=写真上、一斉に新芽が吹き出した木々。後方の山々には薄らと雪が被っている、深浦町で。本来、マタギたちがクマを獲る現場は、撮影を目的とした報道関係者はもちろん女性の参加はまず許されません。それを親方が仲間の皆さんを説得してくださり、許可が下りました。特に山の神さまは女神であり、それを敬うマタギたちは猟に女性が同行するのを極度に嫌います。女性の山入りを忌み嫌う風習は各地に存在しますが、マタギたちのその掟はとても厳しいものです。が、親方の尽力による、まさに特別の計らいでした。

狙う④hp

クマ狩りのメンバーは親方を入れて6人。それと、親方の愛犬、アイヌ犬の「ロッキー」です=真上、クマ見台から向かいの斜面にいるクマを狙う親方。全員が隊列を組んで、クマが登りそうな木を求めて、白神山地の奥深くへ入って行きます。カメラ機材を持つ夫と私は、その早いペースに息が上がってついていけません。すると、ロッキーが心配そうな顔で戻ってきて、私が手に持つ杖の先を咥えて、引っ張ってくれます。「ほら、皆に遅れると危ないぞ。早く来い、来い」と導くように=写真下、仕留められたクマの踵にかぶりつくロッキー。唸り声を上げながら何度も、何度も

ロッキー④hp

急峻で、立っているのがようやくの斜面にマタギたちが付けた道が奥深くへ続いています。そこを飛ぶような速さで、メンバーが歩いてゆきます。最後尾の親方が、心配そうに私たちを気遣ってゆっくりと歩いて下さいます。急斜面のマタギ道を1時間ほど歩くと、ほぼ断崖絶壁の開けた場所に出ました。「ここがクマ見台だびょん(だよ)」と親方。双眼鏡を手にしたメンバーたちが、沢を挟んだ向かい側の山の斜面を、食い入るように凝視しています。クマが木に登るのを待っているのです。早朝、登ることもあれば、午後に登り始めることも。その時々の天候や気温によって左右されるそうです=写真下、仕留めたクマの運搬。4人がロープで引きずって下ろす

運搬①hp

観察を初めて10分ほどで見つけました。向かいの斜面のブナの木に登り、太い枝に腹ばいになって身体を干しています。こちらとの距離は直線で200~300㍍。男たちが、トランシーバを手に一斉に動き始めました。クマが逃げる方向に先回りし、待ち伏せて撃つためです。全員が散弾銃ではなく、ライフル銃を手にしています。クマやイノシシなどの大型の獣は、強力なライフルの弾でないと仕留め損ねることがあるからです。手負いで逃げた獣が、何よりも危険な存在になることを皆が身に染みて判っています=写真下、クマを引く旧岩崎猟友会のメンバー。全員が伊勢親方の仲間で屈強な益荒男たちだ

クマ引く①hp

1時間もしないうちに、全員が配置に付いたと連絡がありました。「バーン、バァーン」と鼓膜が破れそうな激しい音。私たちとクマ見台に残った親方が、クマに向けてライフルを1発、2発と発射しました。驚いたクマが木から滑り降り、山の頂上付近に向けて駆け上がるのが見えます。すぐに遠方で、「ターン」と乾いた音が響き、クマが斜面を転がり落ちてゆきました。メンバーが撃った弾が命中し、クマを仕留めたのです。親方に繋がれていたロッキーが放たれ、沢に落ちたクマめがけて弾丸のように走ってゆきます=写真下、解体される前のクマ。マキリが胸元に置かれていた

解体前①hp

間もなく、メンバーたちがクマの手足にロープを縛り付けて、斜面を登ってきました。全員が満面の笑顔。ロッキーが、こと切れたクマの後ろ足に唸り声を上げながら、かぶりついています。親方も笑顔で迎えます。体長約1メートル、80キロぐらいのクマでした。それほど大物ではありませんが、メンバーたちの綻んだ表情を見ると、猟は成功だったようです。ロッキーだけが牙をむきだして険しい顔をしています。クマ犬の本性なのでしょう=写真下、以前お伝えした熊の胆。金と同じ値段で取引されることもあるという

胆のうhp

ここから、麓の村までの運搬がひと苦労です。更なる大物になると、現場で解体して持ち帰ることもありますが、このクラスだと全員がロープで引っ張ります。それでも、屈強な男衆が4人、力一杯引きながら森を駆け下りてゆきます。ロッキーがそれに噛み付きながら追いかけてゆきます。車を止めてある沢筋の林道まで運ぶと軽トラックの荷台に乗せて、集落へ。この後は解体です=写真下、手のひらは中華料理の高級食材。一つひとつ丁寧に取る

熊の手hp

シートを引いた解体場の上に横たえられたクマの胸元には、解体用のマキリ(マタギの山包丁)が置かれました。しゃがみこんだ親方がクマに手を合わせ、小さな声で呟いています。何を唱えているのかは、聞き取れません。そして参加者全員で、手際よく皮を剥いでゆきます。高価な熊の胆は慎重に。手のひらも中華料理の最高の食材にされるといいます。毛皮も内臓もすべて利用します。特に脂肪は、やけどなどの治療に使う脂として重宝するそうです。ロッキーが怪我をした時もクマの油を塗りこまれていました=写真下、全員で行う解体作業。皮を剥ぐと脂肪と赤身が見えてきた

解体①hp

解体が終わると直会(なおらい)です。参加者と希望する家族が呼ばれます。手が空いている地元猟友会のメンバーも駆けつけました。まず、鉄板で肉が焼かれ始めました。皆が焼けた肉に手を付ける前に、細切れにした心臓などを串に刺して、猟に参加したメンバーに配られます。これもクマを獲った時に必ず行う儀式だそうです。私たちも戴きました。コリコリとした歯触りと濃厚な味が口内に広がります。初めて食べたのですが、美味しい。そして、鉄板焼き。油が乗った赤身の肉で、柔らかさに驚きます。男たちは、大声で本日の猟の様子を語りながら、弾けた笑顔で飲んでいます。親方もニコニコ笑って、私たちに焼けたお肉を寄せてくれます。ひとしきり食べたところで、次は味噌味のお鍋。ゴボウをたっぷりと入れたクマ肉の鍋は、とても美味でした。これは、後日にクマ鍋のレシピと一緒に紹介いたします=写真下、仕留めたクマを前に得意満面のロッキー。良い猟犬だったが不慮の事故で急逝してしまった

ロッキー①hp

 白神山地の恵み豊かな森で、有史以来、人々は狩猟と採集をしながら生活をしてきました。今も畑の水路や田の中から、矢じりや石包丁などの石器が出土するそうです。この地で生きてきたマタギたちは、そんな人々からの生活文化を脈々と引き継いで暮らしています。伊勢親方は、この地の出身者ではないのですが、東北地方のマタギの伝統を体現するひとりと思われます。そして、親方と行動を共にする猟友会のメンバーたちも、その多くが地元の出身者であり、白神山地で代々狩猟をしてきた人々の末裔でもあります=写真下、ロッキーの後継犬と紅葉の山を歩く親方

四目沢カミとhp

つい、数十年前まで、山々はこうしたマタギたちが闊歩する場であり、自然と共に生きる人たちの生活の場でもありました。しかし、世界遺産の指定と共に、マタギたちが入れない場所ができ、獲物も自由に獲ることが難しくなりました。今ではマタギを専業とする人は存在しません。かつて活気に満ちていた村は、若者の都会への流出で、過疎と限界集落化が進み、空き家や耕作放棄地は増える一方です。それに輪をかけて、狩猟者が高齢化によって減り続けていることで、サルなどの動物たちが増え、農家の畑を荒らす被害が顕著になってきました。クマも集落の近くで目撃されることが頻繁にあります。動物との境界線が変わり、人間の暮らしが押され始めているのです。野生動物にとってマタギや狩猟者は、恐るべき天敵です。その数が減り、狩猟の文化が終わる時、獣害によって山の辺の零細農家は全滅する可能性もあります=写真下、阿仁マタギの流れを汲む仲間(中央)から、クマの目撃情報を聞く親方。この方も優秀なマタギだったが数年前に他界してしまった

上杉さんと②hp

人々の暮らしが近代化し、今の若い世代は自らが生き物を解体して食べることは、ほとんどありません。野生動物を殺して食べるなど、もっての外だ、との声もあります。でも、野生の生き物を狩り、解体し、その肉を食べてきた文化があったからこそ、今の私たちの食卓に、美味しいお肉が上っているのです。白神山地周辺での人々の暮らしの中に、稲作とは違う、狩猟採集によって生きてきた日本人の原点があるように思えます。その伝統文化が絶えてしまわないことを祈らずにはいられません=写真下、一人で縄張りを歩く親方。雪がチラつく氷点下の渓流を歩いて渡る。最近は一人で山を歩くことが多くなった(5部へ続く)

川渡るhp

③深浦町の「マタギ」伊勢勇一親方(第3部)

狙う②hp

また、伊勢親方のお話にお付き合いください=写真上、ライフル銃でクマを狙う親方、深浦町で。東北地方のマタギといえば、やはり「クマ撃ち」です。白神山地にはクマを追う有名なマタギが数多く存在しました。山に隣接する村々に、それぞれ伝統的な狩猟を重んじるグループがあり、それがマタギの集団でした。遠くは藩政時代に、白神山地周辺のマタギたちが、仕留めたクマを津軽藩の殿様へ献上したという記録も残っています。特に赤石川源流域を縄張りとする大然マタギが有名で、現在もその流れを汲む末裔が鰺ヶ沢町大然地区に、ご健在です。

森をゆくhp

近年になって、日本人の生活文化が様変わりし、伝統的な狩猟で生活していくことは難しくなってしまいました=写真上、阿仁マタギの流れを汲む仲間(前方)と一緒にクマ撃ちのために山を歩く。趣味やスポーツのひとつとして続けられていますが、日本が貧しかった昭和30年代までは、狩猟は貴重なタンパク源と高価な毛皮を手に入れる重要な一次産業でした。金と同じ値で取引された熊の胆など余すところなく利用されたクマ、毛皮が珍重されたテンやキツネなど、生き物が豊富な白神山地は、狩猟者たちが八面六臂の活躍ができた場でした。広範囲な手つかずの森は、地形が険しかったために、奥地まで森林伐採の手は伸びませんでした。その結果、後世に世界自然遺産となる最大級のブナ林が残されたほどです=写真下、山の木々が一斉に芽吹く頃、冬眠から覚めたクマが穴から出てくる。この時期が春のクマ撃ちのシーズンだ。双眼鏡でクマの存在を確認する

一斉に吹き出る新芽hp

そして、東京を中心とした都会への人口流出と産業構造の変化が、白神山地周辺で暮らす人々の生活を劇的に変えてしまう時代が来ました。日本の高度経済成長期です。東京五輪が開催された昭和39年(1964年)前後、都市部の労働力不足は地方の人材によって補完されることになります。旧岩崎村を含む深浦町でも、地元で農林水産業に従事するよりも、集団就職を利用して都会で一旗揚げてやろうとする人が一気に増えました。その頃は、皆が競って都会へ、特に東京を目指したといいます=写真下、山の湧水に口を付ける親方。

幸運の泉hp

その頃、伊勢親方は旧岩崎村に住み、杣夫として山の測量や森林伐採の仕事に従事していました。頼まれて北海道などに木を切る出稼ぎに行くこともありましたが、その合間を縫って、狩猟に出かけていたのです。当時は、山仕事もたくさんあり、ウサギやクマなどの獲物も湧いて出るほど白神にはいた、と振り返ります。若くして、狩猟の知識や技に長け、腕っぷしも強く度胸もあった親方は、岩崎の狩猟者たちに一目置かれるようになりました。集団でのウサギ狩りやクマの巻狩りでも、親方の腕を頼って多くの狩猟者たちが集まってきたといいます=写真下、仲間と一緒に双眼鏡で木に登るクマを探す。冬眠から覚めたクマは、太陽を全身に浴びるため必ず木に登って身体を干すそうだ。人間の日光浴と同じようにビタミンDを体内で生成するためだろうか‥

熊見台hp

しかし、高度経済成長期を経て日本は輸出から輸入大国へと変わり、国産の木材が外国から入ってくる外材の値段に太刀打ちできなくなりました。当然、親方の仕事も減り、山仕事だけでは食べていけません。子供も二人授かって、山仕事ではない土木作業の出稼ぎに出るようになり、狩猟の機会も減ってしまいました。出稼ぎに出ない時は、山に入ることもありましたが、生活もあるし、そう頻繁には行けるものではありません=写真下、クマを発見。ライフルで狙いを付ける。その間に数人の仲間が撃ち手としてクマの行く先を塞ぎに行く。それでも山が恋しくて、出稼ぎ先では昼夜の別なく三交代で働き、わずかな休みに仲間の車で帰って、猟に行ったこともあるといいます。

狙うhp

そんな折、無理が祟ったのか、青函トンネルの掘削作業に従事中、脳内出血を起こして倒れてしまったのです。命は助かりましたが、半身不随となって体の自由が効かなくなってしまいました。言葉もうまく発することができず、トイレにも一人で行けません。その時、奥さまは、「もう、この人は終わりだ」と思ったそうです。それから、親方の必死のリハビリが始まりました。内容は前述したので、ここでは触れません。ただ、歩くスピードは半分以下になり、力も若い時ほど発揮できなくなりましたが、岩崎の狩猟者のリーダー的な存在は変わりませんでした。それは、山の事や生き物の行動を読む知識があったからです。銃の腕も、心配するほど落ちてはいませんでした=写真上、射止めたクマを前で仲間と。それほど大物ではなかったが、鋭い牙と爪を持つ

祝杯hp

こうした折に、私たちをクマの巻狩りに連れて行ってくれたのです。この経緯は後編に続きます(4部に続く)

マタギの料理「ウサギ鍋」

ウサギ②hp

東北地方の山間部に暮らしていた伊勢親方の子供のころは、ウサギは冬のごちそうであり、重要なタンパク源でした。戦後の貧しい時代、雪深い山里で、手に入る肉は自分たちで狩った獲物だけです。そのなかでもウサギは最も簡単に捕獲でき、大量に手に入ったそうです。白神山地もウサギが豊富に生息していますが、この10年ほどは森の中から姿を消していた、と親方は言います。最近になって、ようやく数が復活しつつあるようですが、親方が仲間たちと山のように収穫した全盛期とは比べ物にはならない、と振り返ります。そんなマタギたちのウサギの料理を紹介いたします。=写真上、手際よくウサギを解体する伊勢親方。5~6分ぐらいで丸裸にしてしまった、深浦町で

ウサギ料理①hp

ウサギの肉には、ほとんど脂身がなく、全体が赤身です。野生の物は、臭みがほとんどなく、筋張っている感じもありません。一見、鶏肉のようにも見えますが、味や食感がもう少し複雑で、まったく違うように感じました。バターを使った鉄板焼きも美味しいですが、今回は親方の指導でお鍋にしてみました。具材はゴボウ、ニンジン、サトイモ、白菜などの野菜とコンニャクです。隠し味と風味付けにスライスもしくは摺り下ろしたニンニクも入れます=写真上、ウサギ鍋の材料。手前がお肉

出汁hp

まず、肉を分離した骨(ガラ)を水もしくは沸騰したお湯から煮出します。灰汁をすくいながら、約半日ぐらいかけて、じっくりと煮込みます。この出汁が鍋の基本となりますので、手は抜けません。出来上がりは澄んだ色の良い香りのスープとなります=写真上、約半日かけて煮出した骨のスープ

炒めるhp

フライパンなどで赤身のお肉を炒めます。サラダ油を鍋底に流れるぐらいにたっぷりと引き、強火で炒めてゆきます。お肉に火が通り、白く色が付いてきたら次の行程に=写真上、サラダ油をたっぷり加えて炒める

酒投入hp

日本酒をヒタヒタになるぐらい投入します=写真上、炒めながら日本酒を投入。ヒタヒタになるくらい結構多い目に入れる。

灰汁掬いhp

ここで、しばらく中火で煮込むと、大量の灰汁が出てきますので掬ってやります。この作業が、雑味を取り、肉とスープの旨みを左右するので、小まめにやることが重要です=写真上、灰汁が出るので小まめに掬う

出汁投入hp

5分ほど煮て、灰汁を掬いきったら、先ほど取ってあった骨のスープを投入します。このスープに白菜の芯やコンニャクなどを入れて先に少し煮込んでおくと、味が染み込んだトロトロの白菜も楽しめます=写真上、骨のスープで煮込んだ白菜をスープと一緒に投入。量は適量で

味噌投入hp

親方の奥さまが、大豆の栽培から手がけた手づくりの味噌を投入。分量は親方の味見で決まりました。4人前で山盛りの大さじ4~5杯ぐらいかな=写真上、親方の奥さまが手づくりした自家製の味噌も投入

味見hp

ここで、味見。味噌を投入したあと、風味付けのため醤油を大さじ3杯ぐらい入れます。東北風の味付けだったので、私らには少し濃いように感じましたが、塩辛いわけではありません。とても美味です=写真上、親方が味見。「うん、いいんでねか」。ちょうど良い具合で、これでOKだった。

具材投入①hp

最後に、下ゆでしたサトイモなど、野菜の具材を投入。約10~20分間煮込むと、ゴボウやニンジンなどの根菜類にスープが染み込んで最高に美味です。スープの量が減ってきたら適宜追加してやります。少し濃い目の味付けが、この追加分で丁度良くなりました。白菜の葉の部分は、食べる直前に投入してやります=写真上、ゴボウやニンジン、サトイモなどの具材を投入

乾杯①hp

そして、完成。お鍋にしたウサギの肉は、鳥の砂肝とレバーを足したような味と食感で、とても美味しく戴けました。牛や豚とはまったく違うもので、やはり鳥に近いのですが、煮込んでもブロイラーのようにパサパサしていません。野生の鴨にも似ていますが、まさにウサギの味です。親方によれば、産前産後の女性に最適な肉だといいます。赤身が多いので、鉄分やミネラルが豊富なのでしょう。いずれにせよ、癖になるジビエです。カロリーも低く、とてもヘルシーなお肉のようです。青森まで来ていただければ、我が家のマイナス60度で凍る冷凍庫に、あと1羽分保存してあります。仲間の来訪をお待ちしています。早い者勝ちですよ=写真上、出来上がり。笑顔で乾杯。左端が親方、右端は奥さま。中央が筆者①

産土講(うぶすなこう)の神事:後編

この地区の稲荷神社、深浦町で

この地区の稲荷神社、深浦町で

産土講の準備作業、深浦町で

産土講の準備作業、深浦町で

稲荷神社のしめ縄も新調され、新年を迎える準備が整いました。産土講の当日です。

野菜や魚、果物などのお供え物が運び込まれた

野菜や果物などのお供え物が運び込まれた

野菜や魚、果物などのお供え物が運び込まれた

お供え物の魚「ソイ」が運び込まれた

まず、男衆が神社に集まって、準備を始めます。各自が持ち寄った酒、餅、魚、野菜など、海の物、山の物、田から収穫された物を平等に供えます。生ものはすべて地元で収穫したものばかりです。前夜に降った雪が参道に積もり、気温も氷点下から上がりません。まさに凍(しば)れる朝です。

氷点下の朝、板の間の床に座って始まるのを待つ地区の方々

氷点下の朝、板の間の床に座って始まるのを待つ地区の方々

前夜、降り積もった雪が残る山道を登ってくる神主さんら

前夜、降り積もった雪が残る山道を登ってくる神主さんら

準備が整うと、暖房もない社殿内で待ちます。ほどなく地区の役員さんの案内で、神主さんが来られました。まだ20歳代で、過疎と高齢化が進んだ集落には珍しく若い神官です。終戦後、GHQの指令で国家神道を司る制度上の神官はすべて廃止されました。それだけが理由ではないのですが、氏子も少ない地方の神社の管理と神職だけでは、とても食べてはいけません。他の職業を掛け持ちしながらも、集落の神事には必ず駆けつけて職務を果たして下さいます。

神事の冒頭に太鼓を叩く神主さん

神事の冒頭に太鼓を叩く神主さん

産土講の祝詞を唱える神主さん

産土講の祝詞を唱える神主さん

太鼓を合図に産土講の神事が始まりました。祝詞が唱えられ、地区の方々が玉串を奉納されます。これまでの経験では、仏式の行事はとかく時間がかかるように思えましたが、神式はあっという間に終わります。準備時間も含めて1時間を少し過ぎたでしょうか、正座の足が痺れたかな、と感じ始めた頃に終わりました

地区役員さんらが玉串を奉納した。一番最後に夫もさせてもらっていた

地区役員さんらが玉串を奉納

地区役員さんらが玉串を奉納した。一番最後に夫もさせてもらっていた

役員さんらが玉串を奉納。一番最後に夫もさせてもらっていた

この後は直会(なおらい)です。神事に参加した方々が、一同に集まってお神酒(みき)を戴き、神饌(しんせん)食べる共飲共食の儀礼です。簡単に言えば打ち上げの宴会のようなものですが、この地区の産土講では、神事を構成する重要な行事として捉えています。

神事が終わった後、自分たちで編んで飾り付けたしめ縄を見上げる地区の方々

神事が終わった後、自分たちで編んで飾り付けたしめ縄を見上げる地区の方々

特に神饌には、地元で収穫した季節の野菜や魚介類などが供えられています。それを調理した郷土料理を食べることによって、生まれた故郷の海、山、田の守護神に感謝し、先祖から受け継がれてきた山や田畑などの自然遺産や、狩猟や採集などの伝統文化を受け継いでゆくための重要な行事として続けられてきたようです。

女衆が直会の準備をする。今回はきりたんぽ鍋が振舞われた。及ばずながら、賄いを手伝った

女衆が直会の準備をする。今回はきりたんぽ鍋が振舞われた。及ばずながら、賄いを手伝った

実際に参加してみると、地域の方々が和気合い合いと酒を飲み、美味しい郷土料理に舌鼓を打つ宴会です。が、毎年、班毎に集まって地域の信仰の場である神社を大切に守り続けてきた方々の想いが伝わってくような会でした。

無事に終わりホッとした面持ちで飲む。最も手前の方が次期の総代さん

無事に終わりホッとした面持ちで飲む。最も手前の方が次期の総代さん

たみえさん①bwhp

キヌさん②bwhp

参加者では、他所者の私たちが最年少でしたが、ごく自然に受け入れて下さいました。そして、これ以外の地域の様々な行事にも誘って下さり、古くから伝わる伝統や風習なども教えて頂けます=写真左右下、とても働き者で頼りになる地区の女衆。今後とも、お世話になります

ハルさん②bwhp

三ヶ月に1回、回ってくるゴミ箱の掃除当番。季節ごとにある全員参加の草刈や植樹など、都会ではまったく経験出来なかった地域の共同作業に加わってみると、誰もが文句を言わず黙々と従事されます。それどころか、集まれることが楽しいかのようにお喋り仕合い、一服時には持ち寄ったお菓子で茶会が始まったりします。

ニタさん②bwhp

利助さんbwhp

新聞記者時代は転勤に次ぐ転勤で、隣に住んでいる方の名前すら判らないことがありました。当然、地域の活動に参加した経験は皆無です。ここに移住してきて、地域の結びつきが強いことに驚かされましたが、郷に入ってみると、それはそれでとても心地よいものです=写真左右下、中国の故事である「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)仁に近し」を地で表現するような地区の男衆。普段は無口で無骨な雰囲気だが、とても働き者で、仲良くなると仲間を大切にしてくれる、心篤き方々

津梅②

まだ、3年間しか暮らしていませんが、この町が、この集落が私たちの故郷に成りつつあります。それも、産土で育った作物や魚介類を食べているからかも知れません。深浦の産神さまと地域の皆様に心より感謝致します。

笑顔の長老。齢90歳を越えるが、元気に畑仕事や薪割りに精を出すスーパーお祖父ちゃん。博学で、とても親切な好々爺

笑顔の長老。齢90歳を越えるが、元気に畑仕事や薪割りに精を出すスーパーお祖父ちゃん。博学で、とても親切な好々爺

砂子田さんbwhp

残念なことに、地域の神事を司って下さっていた若き神主さんが、年明け早々に急逝されました。享年29歳だったそうです。まだお若くて、ご家族もいたのに‥。心より、ご冥福をお祈りいたします