
トーチカの中で発見したハーモニカを見せるエリちゃん
先日、糸満市の喜屋武と福地にまたがる旧日本軍のトーチカから出てきたハーモニカ。その背景を調べるために、まず、製造業者である「ヤマハ」さんに、製造時期や型番、その歴史などを聞いてみました。詐欺師のようにペラペラと喋る夫・哲二の電話に、最初は胡散臭そうにされていましたが、後日、すごく丁寧な返信が送られてきました。

トーチカ内で見つかったハーモニカ
その内容をまず、ご覧下さい。
弊社は、創業から戦前までの記録の多くを戦時中に焼失、紛失し、その後、資料等の積極的な収集をしてきていないため、調査をさせていただいたものの、十分な回答をご用意することができませんでした。
弊社では、1914年(大正3年)にハーモニカの製造を開始しました。当時国内市場を独占していたドイツ製ハーモニカに対抗して製造を始めましたが、同年に勃発した第1次世界大戦によって、ドイツ製ハーモニカの供給が減少したことにより生産数を伸ばし、翌1915年(大正4年)には、欧米への輸出も開始しました。
記録によると、初年度が約1500本の生産数に対し、5年後には年間約20万本を生産していますので、その急激な増産の様子がうかがえます。国内では若者を中心に流行したようです。1944年(昭和19年)に戦況により楽器生産を全面停止するまでの間、音の配列の改良や、国内初の複音20穴ハーモニカの完成など、ハーモニカ音楽の発展に尽力しました。
今回お問い合わせいただきましたハーモニカは、20穴のものであり、1919年(大正8年)以降に生産されたものですが、設計図やカタログ等の資料が残っていないことと、外観の痛みがひどいことから、製造年の判断ができませんでした。遺留品を収集された場合は、遺族の方へお届けする努力をされているとサイトにて拝見しました。皆さまの意義深きご活動のお役に立てず、心苦しく思っております。ご理解の程、何卒宜しくお願い申し上げます。
お返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。今後とも宜しくお願い申し上げます。

IVUSAのひとり一人の学生が手に取って、ハーモニカを見る
ヤマハさんは、楽器や半導体、スポーツ用品などの製造販売を手がけられています。ピアノの生産量は世界最大で、品質もトップクラスとされています。その前身は、1897年(明治30年)に発足した日本楽器で、その後、「ヤマハ・YAMAHA」の社名を経て、創業90周年を機にヤマハと改称したそうです。

国立戦没者墓苑へ納骨するため袋に発見日時や場所などを書き込むIVUSAの学生
ご返信頂いた内容を鑑みて、戦時中の国内状況の悪化で、楽器の製造どころではなく、戦争に巻き込まれてゆく様子が垣間見えます。ウィキペディアなどによると、1938年(昭和13年)には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産をしていたとされています。そして、返信文にあるように、1944年(昭和19年)11月には楽器類の生産を完全に休止。翌年夏、連合軍の戦艦から浜松の工場が砲撃され、全壊して終戦を迎えたそうです。

納骨するために仮安置される遺骨に祈る男子学生
この回答文などを見て驚いたのが、楽器を作る会社までが、当時、軍需産業にシフトされていたことです。様々な「音楽」が平和の象徴とされている現代。反戦歌もラブソングも、誰でも自由に口ずさみ、演奏することが可能です。でも、日本が戦争に突入してゆく70数年前、敵国のアメリカやイギリスの音楽として、ジャズなどが禁止されたそうです。そして、国民の戦意を高揚させる軍歌が、次々と世に送り出されました。

不発弾処理をする自衛隊員
私たちも子供の頃、よく右翼団体とされる方々が、街宣車から大音響で流す軍歌を不思議な想いで聞いたものです。「カッコいいし、勇ましい。何か心が沸き立つような感じ‥」と。でも、その音楽の多くは、当時の日本人を鼓舞し戦地へ送り出す、「死の行進曲」でもあったようです。

収集活動の最終日。戦没者の遺骨を納骨するために車に乗り込む学生たち
私たちが知っている中で最も怖い、と感じた軍歌は下記の歌です。その歌詞に注目して下さい。
「出征兵士を送る歌」(ウィキペディアより)
①
我が大君(おおきみ)に召されたる
命栄えある朝ぼらけ
讚えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征けつわもの日本男児
②
華と咲く身の感激を
戎衣(じゅうい)の胸に引き緊(し)めて
正義の軍(いくさ)行くところ
誰(たれ)か阻まんこの歩武(ほぶ)を
いざ征けつわもの日本男児
③
輝く御旗(みはた)先立てて
越ゆる勝利の幾山河(いくさんが)
無敵日本の武勲(いさおし)を
世界に示す時ぞ今
いざ征けつわもの日本男児
④
守る銃後に憂いなし
大和魂揺るぎなき
國のかために人の和に
大盤石の此の備え
いざ征けつわもの日本男児
⑤
あゝ万世の大君に
水漬(みづ)き草生す忠烈の
誓い致さん秋(とき)到る
勇ましいかなこの首途(かどで)
いざ征けつわもの日本男児
⑥
父祖の血汐(ちしお)に色映ゆる
國の譽の日の丸を
世紀の空に燦然と
揚げて築けや新亞細亞(あじあ)
いざ征けつわもの日本男児

終戦から70年が過ぎても、壕や土の中に眠っていた遺骨。国による収容は遅々として進まない
遺骨収集を続けていて、この歌の内容と意味を知った時、心が震えるほど憤りました。万歳の歓呼で送り出された「日本男児(にっぽんだんじ)」が、今も、数多く戦地に残されたままだからです。しかも、暗い洞窟の土に埋もれて、落下した大岩の下敷きとなり、砲撃を何発も浴びて粉々に散乱し、海中に沈んだ船内に閉じ込められています‥

収容した遺骨に祈る学生たち
これが、「水漬(みづ)き草生す忠烈」を誓った、「つわもの」たちの姿です。日本人は、肉親が行き倒れて亡くなっていたら、遺骨の引き取りを拒むでしょうか。余程の不貞を働いていない限り、大切にお迎えし、先祖からのお墓に納骨すると思います。まして、家族や国のために命を落とした人を蔑ろにするような国民性はない、と断言したいぐらいです。なのに、沖縄を始め、極東ユーラシア大陸や南太平洋の海と島々には、放置されたままの遺骨が数多く残されたままです。

遺骨を前に泣き出す女子学生
そして、「父祖の血汐(ちしお)に色映ゆる。國の譽の日の丸を世紀の空に燦然と、揚げて築けや新亞細亞(あじあ)」のくだり。日の丸の赤と父祖の血汐‥。それを、アジアの国々へ掲げる‥。怖ろしい。現代の平和な日本からは、連想できないような内容です。

国吉勇さんから、磁器製の手榴弾の説明を受けるIVUSAの学生たち
でも、あの時代、音楽に自由はなくなり、戦意の高揚と、天皇陛下を中心とした国粋を煽る歌詞が幅を利かせました。勇ましい歌で、前線で戦う兵士を称え、忍耐強い銃後の家族を励ます歌が、次々と生み出されたのです。そして、兵士と民間人を合わせて260万人~310万人の戦没者(ウィキペディアより)を生み出す一役を担ったとされています。

ハーモニカを見つけたエリちゃん。青空の下で、何が書かれているかをチェックする、
話を戻します。一体、このハーモニカの持ち主は誰であったのでしょうか。そんな軍歌に煽られて、沖縄で戦った出征兵士の持ち物ですか?。本来、入ることさえ適わない、陣地に隠れていた、歯も生えそろわない小さな顎の持ち主でしょうか。判っている事実は、日本軍が米軍を迎え撃つために構築した、トーチカ内の石垣の隙間に差し込まれていた、だけです。

出土した湯呑み(中央)やカフスボタン(左)。兵士の物とは思えない
子供の遺骨とみられる未成熟な骨が、数多く出土するこのトーチカ。要塞のような陣地壕から見つかる数々の民間人の遺留品‥。本島南端に位置する喜屋武と福地の丘陵が、沖縄戦終結時の戦場を浮き彫りにしているように見えてきます。圧倒的な力で迫りくる米軍に対し、軍も民も、ただ逃げ惑いながら、洞窟や岩陰で身をひそめている様子が。

トーチカから出てきた子供らしき顎の骨。奥歯などが生え揃っていない
積み上げられた石垣に隠れながら、ハーモニカの持ち主は、最後に何のメロディを奏でたのでしょう。戦意を高揚させる軍歌?。それとも、故郷の家族を想う唱歌の可能性も。もし、子供だったら、得意な童謡だったかもしれません。激しい空爆や砲撃のさなかに、そっと隠された小さな楽器。その持ち主の心情を考えると、涙が止まりません。どうぞ、これからの世は、音楽を平和のためだけに奏でる時代であって下さい。
Post Views: 11