
明石山と刻まれた津村重治さんのメダル

名前が刻まれたメダルと遺族の写真
「えっ!、相撲大会の記念メダル?。ほんまにお父さんの物なん。もう、何も帰って来んと、思っていたのに。どないしよう‥」。沖縄戦で、1945年(昭和20年)6月に父親を亡くした兵庫県稲美町の西川慶子さん(74)が、私たちの電話での問いかけに、絶句しながらも、絞り出すように答えられた言葉です。
★神戸新聞に掲載して戴けました↓
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201603/0008921166.shtml
★3月21日にサンテレビ、23日に日本放送協会(nhk) に放映されました

裏面には「相撲大会出場記念」と刻まれている

平和祈念公園にある戦没者のデータベース
そのメダルには、表面に「明石山 津村重治」と、裏面には「相撲大会出場記念 昭和十九年五月二七日」と刻まれています。懸命に説明する哲二。「遺骨収集中の学生が沖縄本島南部の糸満市国吉で見つけました。沖縄戦の戦没者データベースを検索しても、津村重治さんは一人しかいません。兵庫県出身とされていますので、間違いないと思います」

平和の礎の兵庫県の戦没者刻銘にある津村重治さんの氏名

現場へ向かう学生たち
が、哲二のオレオレ詐欺のように、畳みかけるような話しかけ方が悪かったのか、慶子さんからの信用を得られません。残念ながら、この日は、受け取る意思を示すご返事を戴けませんでした。「うーん、難しいなぁ」と、落ち込む哲二。しかし、何としてでも、ご返還したい。やはり相手が女性だから、ここは私の出番のようです。

遺骨収取活動に臨む学生たち

津村さんのメダルが見つかった陣地壕の入り口を掘る学生たち
二度、三度と、たわいない世間話をしながら、慶子さんの心の奥底にある真意を探ります。電話口での会話ながら、とても、心優しい気配りをされる方です。学生や私たちへ、感謝の言葉を述べながらも、何か引っ掛かりがあって、受け取りを躊躇されています。

津村さんのメダルが見つかった横から出てきた認識票。第32野戦兵器廠の兵士の所有物

裏面にも数字が刻まれている
そこで、学生と相談。一度、メダルを故郷の兵庫県へ連れ帰り、家族に触れてもらおう。そして、受け取って戴けないときは、墓前にお供えした後、持ち帰ろう、と決めました。そのお伺いを立てる連絡を慶子さんへすると、「ありがとうございます。ようやく決心が付きました。そのメダルは、私の父の物だと確信しています。喜んで受け取ります」との返答。

学生からメダルを手渡される西川慶子さん(中央)

メダルを手にした西川慶子さん
思わず、小躍りしました。お互い涙声が上ずったままの会話。嬉しくて、細かな内容を覚えていません。その時の慶子さんの言葉です。「もの心が付いたときには、戦争が終わっていました。そして、いろんな事がありました。とても、つらい出来事も‥。それゆえ躊躇ってしまいましたが、支えてくれた夫や家族に背中を押されて、心が決まりました。今は、一日でも早く、父に会いたいです」

学生や報道陣に囲まれてお返しが進む

父の遺留品の帰還に笑顔を見せる慶子さん
県や神社関係などの記録によると、旧日本陸軍伍長の津村重治さんは、1941年(昭和16年)に第54師団の輜重兵第54連隊へ召集。3年後、第32軍の第32野戦兵器廠に転属し、沖縄戦へ投入されました。そして、1945年6月13日、糸満市摩文仁で戦没したとされています。

旧日本陸軍の津村重治・伍長

遺族や本人の写真とメダルなどの遺留品
でも、メダルが見つかったのは、摩文仁から約3㎞離れた国吉台地の壕内です。ここは、第24師団歩兵32連隊が、日本軍最後の防衛線の西端として、死守する戦いを繰り広げていた丘です。なぜ、ここに津村さんがいたのか。戦史叢書などの記録本を調べても、第32野戦兵器廠が国吉に進駐した記録はありません。

岩山を覆うジャングルで活動する学生ら

学生たちから、現場の話などを聞く
が、戦後、米軍の捕虜になった同部隊兵士の証言に、小隊レベルで国吉へ派遣された、という内容が残っていました。同時に、野戦兵器廠は、陣地や砲台の構築などを担っていた部隊なので、要塞のような壕が掘り巡らされていた国吉台地で、その仕事に従事したのかもしれません。いずれにしても、国吉に部隊の足跡をみつけたので、このメダルは津村さんの遺留品に間違いないであろう、と結論付けました。

納骨袋にお骨を入れる

学生たちからの報告に涙する慶子さん
発見したIVUSA(国際ボランティア学生協会)のメンバー6人と、兵庫県へ向かいます。広々とした田園の風景の中に、慶子さんのお宅がありました。思っていた通り、優しい笑顔でお迎えしてくださりました。受け取りを躊躇したことを、何度も詫びながら。その瞬間から、私の涙腺は緩みっぱなしです。哲二に小声で、「泣くな」と、突かれますが、耐えきれません。

慶子さんへの報告の途中も、涙が止まらない

母タズ子さんに抱かれた慶子さんと幼少時の写真
学生から渡された遺留品のメダルを手に、「大変やったね。大変やったと思う」と、帰ってきた父へ小声で囁きかけながら、撫でまわす慶子さん。発見現場のことや当時の状況を伝える学生たちへ、何度もお礼を述べながら、涙をぬぐいます。その言葉を受けて、胸がいっぱいになり、泣き出す女子学生も。

同じ場所から出てきた認識票などを見る

涙が止まらない慶子さん
メダルを掘り出した関西大2年の川原稜平くんは、「発掘場所では、大小の岩や石を数百個も動かしました。そんな過酷な現場で掘り出した遺留品なので、無事にご遺族の元へお届けできて、肩の荷が下りた気分です」と爽やかな笑顔。でも、「あの現場で亡くなった方々を思うと、正直、胸が詰まります。まして、ご遺族の涙を見ていると‥」と、もらい泣き。

津村重治さんの名が刻まれた石碑の前に座る川原凌平くん

集めた遺骨についた土を払う学生たち
戦争で最愛の父を亡くした遺族の悲しみと、71年ぶりにその生きた証と再会できた喜びを垣間見て、学生たちは感無量のようです。今回の派遣リーダーの同志社女子大4年・合原波穂さんは、「私らの活動やお届けする遺留品が、ご遺族の負担になっていないか、とても不安でした。が、結果的に喜んでいただけて、ホッとしています」と満足げに語ります。

納骨袋を手にした合原リーダーと学生たち

津村重治さんの墓標の前で
津村さんの実家は、現在の神戸市西区にあるそうです。お墓代わりにされている慰霊の墓標も、その近くにあると聞きました。慶子さんに案内をお願いし、学生たちと一緒に訪ねてみることに。ため池や田畑が点在する平野に、先の尖った兵士の墓標が、何本か立っています。その彼方には、未来都市のような西神ニュータウンが広がります。

津村さんの墓標に祈りをささげる。後方は西神ニュータウン

刻まれた名前を手でなぞる学生
慶子さんは、この近くで、津村重治さんと妻・タズ子さんの一人娘として、1941年(昭和16年)9月に生まれました。が、父は、長女の誕生後、35日目で出征。一度だけ、姫路市内で再会したそうですが、慶子さんの記憶には残っていません。その後、沖縄で戦死したことが伝えられ、届いた白木の箱の中に何が入っていたのか、今も判らない、と話されます。

津村さんの名が刻まれた平和の礎の刻銘

学生たちに頭を下げられる慶子さん(左)
父の死後、母タズ子さんは、津村家を離れ、新しい家庭を持たれました。そして、慶子さんは両親の祖父母に育てられ、結婚後、現在の稲美町で暮らし始めたそうです。とても思いやりのある夫・良一さん(78)と、子や孫に囲まれて、幸せな日々を送っている、と語られます。

献花する学生を見守る慶子さんと良一さん(左端)

お母様に抱かれる慶子さん。二人一緒の写真はこの1枚だけ

慶子さんへ説明する学生たち
しかし、「戦争が私から、大切な家族を奪ったんです。目をつぶるたび、辛かった幼少期を思い出します。父が生きていたら、どんなに良かったか。子と別れる母の辛さが、同じ立場となって、身に沁みるように理解できるんです」と涙ぐみます。

田園地帯にあるお墓へ向かう一行

父親の墓標に手を合わせながら語りかける慶子さん

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる
お花を供えに来た学生たちと一緒に、父の名が刻まれた石碑に手を合わる慶子さん。「お父さんの生きた証を学生さんたちが見つけてくれたんよ」と報告。そして、静かな口調で、「やっと、帰ってきてくれたねぇ。これからは、ずっと一緒に暮らせるんやから。安心してな」と語りかけました。

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる

重治さんの墓標を見る一行

学生の手を握り、労いとお礼を述べられる
別れ際に慶子さんが学生に掛けた言葉です。「ほんまにありがとう。もう、言葉では感謝しきれへんくらい、嬉しかったわ。でもね、これだけは聞いてほしい。私のような体験を繰り返さないためにも、戦争は絶対にあかん。二度としたらあかんのよ」。一人ひとりの手を握りながら、強く訴えられました。
学生たちにお礼をする慶子さん(後方中央)
涙ながらに学生に訴えかける慶子さん
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