みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
●2014年遺骨収集24日目 散兵壕の遺骨と地元マスコミ

2014年遺骨収集24日目 散兵壕の遺骨と地元マスコミ

ほぼ完全な状態で出土した頭骨。が、掘り出す時に割れてしまったようだ

ほぼ完全な状態で出土した頭骨。が、掘り出す時に割れてしまったようだ

昨日、糸満市真栄平の旧日本軍陣地壕前に張り巡らされた散兵壕から、兵士の遺骨が見つかりました。全身のほとんどの部位が残っており、終戦から69年、これほど完全な形で出土される例は珍しいです。私たちは、少し離れた岩の裂け目で作業をしていましたが、別のボランティアグループが発見して、掘り出されました。長い事、放置され気の毒な兵士の遺骸でしたが、多くの方々の手で日の目を浴びることが出来たのは何よりの喜びでした。高齢者が多い、このグループの方々も、全身骨を発掘されるのは初めての経験らしく、皆さん、やや興奮した様子。それぞれに、感想を述べられながら、丁寧に収骨されていました。

発掘現場で、北海道斜里町出身の生き残りの方が戦友のために残した短冊。辛い胸の内が記されている

発掘現場で、北海道斜里町出身の生き残りの方が戦友のために残した短冊。辛い胸の内が記されている

が、気になる事象が幾つかありました。まず、現場を訪れた報道関係者です。遺骨が出てきた状況を取材する上で、その場で口々に話される憶測を、あまりにも簡単に受け入れすぎるということです。現場の説明をされる方を非難する気は毛頭ありません。皆さま、それぞれの思い込めながら頑張られているボランティアの方々で、多様な意見をお持ちなのは当然の事だからです。しかし、その発言を鵜呑みにして、新聞に記事を書き込んでいる姿を見て、記者の取材力もここまで落ちたのか、とガッカリしました。まず一つは、当時の状況への知識不足です。ボランティアの発言する用語が、理解できないのです。そして、現場の状況を注視しないで、巧みに話される方からだけ取材するため、残されている事実を検証することなく取材を終えています。

土に埋まっていた状態から掘り出される頭骨

土に埋まっていた状態から掘り出される頭骨

この2つの新聞社が書いた記事には、「手を胸に置いてあおむけに寝かされた形」とか「他の兵士が弔った形跡がある」とあります。倒れていた兵士の形が偶々、そのようにあったので、発見された方々は「そう憶測された」のだと思いますが、私たちがこの現場を見たときは、決してそうは見えませんでした。まず、弔ったのならば、なぜに兵士らの重要な通行場所となる散兵壕に戦友を埋めるのでしょうか。埋めた後を、通信のため、斥候のため、仲間が走り回ることになります。終戦後に埋めたのでしょうか。この散兵壕からは、粉々になった他の兵士の遺骨や遺留品が、同じ土の深さから多数出て来ており、後から埋めたのならば深さや土の被りが違います。

掘り出された全身の骨の部位。後方に収集をサポートしていた夫が写っている

掘り出された全身の骨の部位。後方に収集をサポートしていた夫が写っている

そして、なぜか兵士の遺留品が極端に少ないのです。更に、両足首から先の骨がないのと、手の指の骨が少なかったことです。このグループが収骨した後、国吉さんと夫婦二人で、目を皿のようにして、遺留品と残骨を探しました。結局は、遺骨と一緒に見つかった陸軍の上着のボタン一つと小銃弾の部品が一つでした。本来は、兵士が亡くなっていた場合は、鉄兜や手りゅう弾、靴もしくは地下足袋、その他の個人所有物などが残っているのですが、それらがまったく見当たりません。倒れている形から、仲間が埋葬したのでは、と憶測されているのですが、艦砲射撃などによる鉄の暴風が吹き荒れている壕の前に、命を懸けてわざわざ埋葬しに行く理由が判らないのです。戦友が傷つくと、普通は壕の中に引きこんで、治療を試みるのでは、と考えてしまいます。

腕の部分などがきちんと撮れていなかったダメ写真。この日は妻が撮影を担当

腕の部分などがきちんと撮れていなかったダメ写真。この日は妻が撮影を担当(怒)

で、私たちの推測です。主観が入り混じっていますので、関係者の皆さまは、お気になさらず聞き流してください。この遺骨のお腹の部分に、艦砲か榴弾砲などによる巨大な鉄の破片(厚さ7、8cmの携帯電話ぐらい)が2個、残っていました。散兵壕を移動中、真っ赤に燃えて回転しながら飛んできた破片が腹部にあたり、衝撃で仰向けに倒されたんでしょう。手が合わさっているように見えるのは、飛び出てくる内臓をとっさに両手で抑えたんだと思います。その塊の大きさからして、被弾の衝撃は全身に及んでいるはずで、たぶん、ご本人は数分間も生きられなかったと思います。そして、鉄兜や身に着けた遺留品がまったく見当たらない理由は、亡くなった兵士から、戦中、戦後のどちらかに、誰かが奪い取っていったのではないか、とみています。残酷な話ですが、足首から先の骨がないのは、遺骨になった後に、中に足首の骨が入ったまま靴ごと持ち去ったのかもしれません。戦後、革製品の靴は貴重品でした。更に、鉄不足から、戦場跡の鉄兜なども集められたといいます。倒れた日本兵から、米兵が金目のものを奪った、という証言も残っています。戦場で人間が見せる狂気と終戦後の貧しさから、死者の持ち物を奪ってでも、という時代があったと聞きます。この付近に進駐してきた第24師団は、北海道を中心に編成され、中国大陸で歴戦を重ねた勇猛な部隊だったそうです。でも、沖縄では敗走に次ぐ敗走で、多くの将兵が戦死したとされています。最高司令官だった雨宮中将も、この地で自決されたと記録にあります。壕からの住民の追い出しやスパイ嫌疑など、旧日本軍に対する住民感情も、決して良くはなかったようです。この現場の遺骨を取材するだけでも、多くの立場の方の意見を聞き、様々な過去の出来事を積み重ねながら、事実がどこにあるのかを複層的な視点で探る必要があるのです。

でも、良かった。69年ぶりに日の目が見れて

でも、良かった。69年ぶりに日の目が見れて

長々と書き連ねましたが、意見があるのはマスコミに対してです。遺骨が見つかる度に、充分な取材もしないで現場の一部の声だけを聞き、簡単に紙面化してしまうセンスに、同じ新聞記者をしていた身として、寂しさを感じてしまいます。終戦から、69年間も埋もれていた日本人が出てきたのですよ。もう少し、戦史を勉強し、現場をよく知って、より多くの人から話を聞き、人間の尊厳に迫れるような深い取材をしてやるぞ、という気構えが見たかったです。そして、この地域が持つ沖縄戦への感情をしっかりと加味しながら、きちんと事実を追求して伝えるという、地元マスコミの利点と力量を発揮する姿を示して欲しかった。それは、国内で数少ない地上戦があった沖縄で、ジャーナリストをしている立場なのですから。

壕の入り口にぶら下がっていた生き残りの兵が記した短冊。この方とも遺骨収集を一緒にした

壕の入り口にぶら下がっていた生き残りの兵が記した短冊。この方は大先輩の井上さんと同郷の元兵士

そして、夫の写真が紙面に出ている社もありましたが、本人から掲載の許可を取りましたか。今までこの新聞社には、「載せないで」と言っているのに2回。無許可で1回載せられています。社に知り合いがいるので笑い話として事情を聞くと、「使える写真がなかったから仕方なく」(笑)、といった具合でした。別段、罪に問う気持ちはありません。が、肖像権や本人の希望は二の次なのでしょうか。ため息が出てしまいます。私たちは、毎年、遺骨を収集するために1か月~2か月、沖縄に滞在して活動しています。このホームページで、その様子を情報発信することもあれば、マスコミに声を掛けて、報道してもらうこともあります。自らも、ジャーナリストとして活動しているので、このような報道の姿勢に大きな失望を感じてしまいます。嫌な意見だと思いますが、何よりも平和と民主主義を大切にする沖縄の新聞社を応援したいがための発言です。だから、今後は現場で声を掛けて下されば、私たちで良ければお手伝いします。様々な課題が山積みな沖縄を報道するために、今後もがんばってくださいね!