青森県深浦町の小さな集落     
●遺骨収集のきっかけ

沖縄戦・戦没者の遺骨収集活動

この骨の山は2005年、太平洋戦争が終結して60年目の沖縄県で撮影しました。すべてが、同島南部の壕(ガマ)やサンゴ石灰岩の割れ目に散らばっていた戦没者の遺骨です。

ほぼ100柱(百人分)。終戦から60年が過ぎるまで、ずっと地面の下や岩の隙間に埋もれていました

ほぼ100柱(百人分)。終戦から60年が過ぎるまで、ずっと地面の下や岩の隙間に埋もれていた

新聞記者時代、取材で訪れた沖縄で、「やれ夕刊の締切だ。朝刊の早版に突っ込むぞ」などと、取材相手の立場や心情も察しないまま、日々の紙面を埋めるために走り回っていました。そんな折、数十年に亘って同島で戦没者の遺骨を収集されている方々と出会い、「あんたらも一時的な取材で戦争を伝えるのではなく、ひと欠片でもいいから亡くなった人の骨を拾ってあげなさい。そして沖縄で何があったかを知りなさい」と諭されました

大岩の下から兵士の遺骨が掘り出された。その現場で祈る井上徳男さんと富美子さんご夫妻。沖縄で戦死した兄の遺骨を探しに北海道から15年間通って来られた、沖縄本島南部で

大岩の下から兵士の遺骨が掘り出された。その現場で祈る井上徳男さんと富美子さんご夫妻。沖縄で戦死した兄の遺骨を探しに北海道から15年間通って来られた、沖縄本島南部で

過酷な地上戦に巻き込まれて亡くなった非戦闘員の民衆を含め、数多くの戦没者を出した沖縄戦。その実態を伝えるために、戦争の体験者から話を聞くことばかりに気を取られ、60年以上が過ぎた今も数多くの遺骨が残されたままになっているとは、思いもしませんでした。そして、自分が踏みしめている大地の下に、平和な時代の礎を築いた方々が非業の死を遂げたままの姿で眠っていることも。その時、刹那的な仕事しか出来ていないのが無性に恥ずかしく、沖縄に出張命令を出したデスクに1日だけ休暇をもらい、収集のお手伝いをしました。

旧日本軍の壕から発掘された通信機器。遺骨収集で戦没者とどう向き合えるか‥、那覇市の国吉勇・戦争資料館で

旧日本軍の壕から発掘された通信機器。遺骨収集で戦没者とどう向き合えるか‥、那覇市の国吉勇・戦争資料館で

その作業は驚愕の連続でした。まず、怖い。懐中電灯とロウソクの灯りに照らされる洞窟の天井は今にも崩落してきそうで、えも言われぬ恐怖感がじわじわと押し寄せてきます。そして、作業が無茶苦茶にしんどい。幅や高さが1メートルもない洞窟内で、ツルハシとスコップを使って時には1メートル~2メートル掘り下げないと、埋もれた遺骨は出てきません。ほとんどの壕は、アメリカ軍が爆雷を放り込んだり、馬乗り攻撃をしたりして天井や壁が崩れてしまい、元の地盤まで多くの土砂が堆積しています。その土砂も、沖縄の呼び名でクチャと呼ばれる粘土質のものが多く、水を含むとドロドロになって粘り、乾燥すると硬くて重くなる厄介な存在です。そして、掘り進むと骨かと思われる小さな破片が多数出てきますが、ほとんどがサンゴ石灰岩の破片で、これを遺骨と見分けるのは素人には不可能です。昼休みをはさんで6~7時間の作業でしたが、まさに苛酷な肉体労働で沖縄の亜熱帯の暑さも重なって、地獄のような1日でした。

元地盤まで掘り下げる国吉勇さん。深い穴に長い影が伸びる

元地盤まで掘り下げる国吉勇さん。深い穴に長い影が伸びる、伊江島で

でも、小さな破片であっても骨が出てくると、ホッとするというか嬉しくなるというか、気持ちが高揚しました。不謹慎な話ですが、宝物を掘り出したような気分になるのです。あまりに作業が過酷だったからかもしれませんが、作業を初めて4~5時間後に手の骨の一部が出てきた時には、声を出して喜んでしまいました。そして、小さな破片となって埋もれていた方のことを思うと、熱いものがこみ上げてきます。これがきっかけで、遺骨収集のボランティアに嵌りました。あれから10年以上、毎年、冬になると収集のために沖縄へ通っています。勤めを辞めた今は、40~50日間は現地に滞在し、掘り続けています。来年も、行く予定です。未だに埋もれたままの方を掘り出して、太陽の下で供養ができるように(哲)。

洞窟内のあまりの暑さに井上さんの背中から汗の蒸気が上がった、沖縄本島南部で

洞窟内のあまりの暑さに井上さんの背中から汗の蒸気が上がった、沖縄本島南部で