みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
●故郷に帰った万年筆

故郷に帰った万年筆-七里伍長の帰郷

帰ってきた万年筆

帰ってきた万年筆

沖縄戦で亡くなった戦没者の万年筆が68年ぶりに出身地の滋賀県に帰郷しました。持ち主は、沖縄本島南部の摩文仁の丘で戦死した滋賀県出身の七里操(しちり・みさお)さん(当時25歳)。記録によると、操さんは第62師団通信隊の分隊長として沖縄を守備していましたが、組織的な戦闘が終了する直前の1945年6月22日、守備隊司令部壕の近くで命を落としました。

写真上、操さんの似顔絵。志ま乃さんが大切に保管されていた

操さんの似顔絵。志ま乃さんが大切に保管されていた

操さんは若くして徴兵されたため、結婚しておらず、直系のご遺族はいらっしゃいません。一番近い方は、操さんの姉・故七里志ま乃さんの息子さんたちです。長男の伝夫(つたお)さんによると、操さんは四人兄弟の末っ子。両親と二人の兄、すぐ上の姉の志ま乃さんに慈しまれて育ちました。兵役に就く前は、国鉄で運行や連絡に欠かせない通信の仕事をしていたそうです。

操さんの万年筆を眺める甥の伝夫さん(手前)と妻の紀美子さん。「半世紀以上ぶりに帰ってくるなんて、奇跡だ‥」とつぶやいた、滋賀県長浜市で

操さんの万年筆を眺める甥の伝夫さん(手前)と妻の紀美子さん。「半世紀以上ぶりに帰ってくるなんて、奇跡だ‥」とつぶやいた、滋賀県長浜市で

「操は今、どうしているのかな」、「おなかは空いていないかな」、「無事でいるかなぁ」‥。終戦直後、ご両親と志ま乃さんは、一日千秋の思いで操さんの帰りを待ちわびていたようです。が、それも空しく、操さんの戦死公報が届きます。その知らせは南太平洋の島々や沖縄で戦死した多くの日本兵と同じで、遺骨も、遺品も、なに一つ戻って来ない悲しい報告でした。

万年筆に刻まれた名前を見る伝夫さん。現在もJR東海にお勤め中だ

万年筆に刻まれた名前を見る伝夫さん。現在もJR東海にお勤め中だ

終戦前後に、操さんだけでなく、二人の兄も亡くした志ま乃さんにとって、操さんの存在は特別だったようです。本土に復帰する前の沖縄は、交通も通信も発達していない占領された外国で、多くの日本人にとっては「遠い国」でした。その沖縄で、操さんが、どこで、どのように戦い、どんな最期を遂げたのか、知りたいと姉は思ったようです。結局、何もわからないまま月日が過ぎて、家を継いだ志ま乃さんは弟の墓を建て供養し続けていました。

佐敷さんから七里さん宅へ届いた手紙

佐敷さんから七里さん宅へ届いた手紙

そんな志ま乃さんの元に、戦後二十五年近く過ぎたある日、一通の手紙が届きます。沖縄で操さんと共に戦った一人の元学徒兵・佐敷興勇さんからの便りでした。戦後、沖縄県で日本高校野球連盟の仕事に携わっていた佐敷さんは「どうしてもご遺族に会って、七里さんの最期の様子を伝えたい」とずっと遺族を探しておられたのです。

操さんの写真と似顔絵を並べて母への思いを語る伝夫さん

操さんの写真と似顔絵を並べて母への思いを語る伝夫さん

そして、対面の時がやってきました。1970年8月、兵庫県の阪神甲子園球場で開催された夏の全国高校野球選手権大会。沖縄県代表のチームに同行してきた佐敷さんが、志ま乃さんを訪ねてきて、「七里操さんは、まさに命の恩人。私にとっては『瞼(まぶた)の日本兵』なんです」と、打ち明けました

佐敷さんが書き残した沖縄戦記

佐敷さんが書き残した沖縄戦記

動員された当時、佐敷さんは沖縄県立第二中学校の二年生。

年は14、5歳で、顔立ちにまだ幼さの残る少年兵でした。

そして操さんが分隊長を務める通信隊に配属され、首里、津嘉山、米須と行軍しました。

戦局が悪化するにつれて、日本軍は次第に本島南部に追い詰められ、摩文仁の丘一帯は激戦の地と化しました。1945年6月22日、佐敷さんの分隊もその只中にいて、壕に隠れて最後の突撃の号令を待っていたそうです。

凄まじい砲弾と銃弾の音が響き渡る中、米軍の火炎放射の戦車が佐敷さんらが潜む壕に近づいてきました。覚悟を決めたとき、分隊長の操さんの静かな声が耳に届きました。

「おまえたちはまだ若い。こんなところで死んではいけない」。

生きて虜囚の恥ずかしめを受けず、と教育され、国のため、家族のために死ぬ覚悟をしていた佐敷さんたちは戸惑いました。

すると操さんが、近くにあった戦友たちの遺体を積み上げて学徒兵をその下に隠し、「私は軍人だ。捕虜になってまで生きるつもりはない。だが、君たちは生きろ」と強く言い放ち、爆弾を抱いて一人で敵陣に突入して行ったそうです。

生き残った佐敷さんは、「操さんがいなかったら、たぶん私たちは死んでいました。今の私があるのは操さんのおかげです。目をつぶれば、恩人の最期の姿と言葉がいつも浮かんできます」。

深く頭を下げて報告する佐敷さんを前に、志ま乃さんは号泣しました。

「弟がどんな生き方をしたのか、惨めな死に方をしたのではないか、と不憫でならなかった」と、志ま乃さん。佐敷さんの話を聞いて、心より安堵の表情を見せていたそうです。

操さんが戦死した摩文仁の丘。ここで収集した遺骨を整理していたら当時の佐敷さんたちと年齢が近い高校生らが通りかかった、沖縄県糸満市の平和祈念公園で

操さんが戦死した摩文仁の丘。ここで収集した遺骨を整理していたら当時の佐敷さんたちと年齢が近い高校生らが通りかかった、沖縄県糸満市の平和祈念公園で

そして、万年筆を見つけたのは、沖縄県で60年近く遺骨収集を続ける国吉勇さん。15、6年前、摩文仁の丘にある福島県の塔横にある壕で、数十柱の遺骨を収集しました。「まったく手つかずで、遺骨が折り重なっていた」と、国吉さんは振り返ります。歯の1本でも、骨のひとかけらでも集めて納骨する国吉さんは5年前の9月、再度、この壕へ向かいました。垂直に近い崖に面した穴なので、ロープを伝って降りてゆきます。穴の底で地面に堆積した土をどけると、折れて半分になった万年筆と残骨を発見しました。持ち帰って洗浄しましたが、折れた本体に名前が刻んであることに気づかず、保管されていました。

平和祈念公園内にある壕で測量する国吉勇さん(手前右端)らのグループ。この壕も操さんが戦死した場所から100メートルも離れていない

平和祈念公園内にある壕で測量する国吉勇さん(手前右端)らのグループ。この壕も操さんが戦死した場所から100メートルも離れていない

昨年の冬、私たちが国吉さんと一緒に遺留品の整理をしていたら、万年筆など十数点に氏名らしきものが刻まれているのがわかりました。高熱で溶けていたり、一部が砕け折れていたりしており、文字も不鮮明で、名前なのかメーカーのロゴなのかの判別は困難を極めました。その1本にこの万年筆が混ざっていたのです。ペン先は吹き飛び、軸だけになっていましたが、「七里美佐男」と判読できます。「七里」いう名前は珍しいようで、沖縄県の戦没者データベースの中では七里操さんただ一人です。しかし、刻まれている下の名前が「美佐男」で、読み方は同じですが字が一致せず、別人なのかとあきらめかけていました。ところが、戦史に詳しい遺骨収集仲間らが、戦争の語り部や防衛研究所の関係者などに話を聞いてくれ、「『操』という名は当時、女性に命名されることが多かったので、戦地に向かう男としては持ち物に刻めなかったのでは」、と推測。また、万年筆が発見された場所が、佐敷さんの証言の中で「操さんが最期をとげた」という場所と一致し、すべてのパズルの断片が組み合わさるように、身元判明につながりました。

平和の礎に刻まれた操さんの名前

平和の礎に刻まれた操さんの名前

今回は滋賀県庁の援護課が、遺族探しに全面的に協力してくださいました。そのおかげで、短い期間で身元判明に至り、ご遺族の元へ届けることができました。でも、最愛の弟の帰りを待ち侘びて、戦死の知らせを聞いた後も心を寄せ続けていた志ま乃さんは2009年7月、92歳でこの世を去り、万年筆を手にすることはできませんでした。そして、操さんに命を助けられた佐敷さんも昨年末、返還の知らせを聞くことなく亡くなってしまいました。

操さんの万年筆が帰ってきたことを喜ぶ七里伝夫さん夫妻。母の志ま乃さんに届けてあげたかった‥

操さんの万年筆が帰ってきたことを喜ぶ七里伝夫さん夫妻。母の志ま乃さんに届けてあげたかった‥

これまでの遺骨や遺留品の返還は、厚生労働省に種類や発見場所、遺骨の有無などを報告して、ご遺族を探してもらっていました。しかし、申請しても1年近く待たされ、結果は1枚の紙切れで報告が来るだけ。ご遺族が見つからないのは仕方ないにしても、その探索の過程がボランティアに知らされることはありません。遺族が受け取りを拒否しているのか、受け取る人がいないのかまったく判りません。そして、国吉さんらの遺骨収集活動がすべてボランティアであり、遺留品をお返しするにあたって、経費など金銭の要求は一切ないことを説明して戴いているのか疑問です。その理由は、ご遺族と連絡がついても、金品を要求されるのではとか、何か見返り行為が必要なのか、と不安に思われているのを感じ取れるからです。

全国紙の新聞記者たちに取材される七里さん夫妻

全国紙の新聞記者たちに取材される七里さん夫妻

68年前、家族のため、国のために命をかけて戦った人たちの亡骸が、今も太平洋の島々や海中に残されています。沖縄でも4000柱近くが残っているとされていますが、収集時にきちんと1柱分として計上されていないこともあるようで、現実はもっと多くの遺骨が洞窟内や土の下に埋もれていると思われます。本来ならば、国が召集し、戦地へ駆り出したのですから、国が責任を持って、骨を拾うのが近代国家に課せられた責務だと考えます。それが、戦後70年近くが過ぎた今も遺骨は残されており、ボランティアが無償で収集した遺骨や遺留品の返還活動も、おざなりなお役所仕事で終わらせているのです。

沖縄平和祈念公園内の壕付近で昨年、掘り出した遺骨。後方に見えるのは平和祈念資料館

沖縄平和祈念公園内の壕付近で昨年、掘り出した遺骨。後方に見えるのは平和祈念資料館

収集ボランティアたちは、酸欠や落盤の恐怖に怯えながら、不発弾を叩けば一巻の終わりと覚悟して壕の中で汗と涙を流しています。七里さんの万年筆のように、一つでも故郷へ送り届けることができ、ご遺族に喜んでもらえたら、という思いだけで活動しています。この国の政治家や役人たちに、「国民の命と財産を守りたい」とする一片の矜持があるのなら、せめてご遺族の元へ返還する活動に力を入れてもらいたいものです。(哲、律)