みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
●帰れない遺留品

帰れない遺留品-島守の塔下にある軍医部壕の発掘調査

私たちの沖縄県での2013年遺骨収集活動も無事終了し、後は遺留品を届けるだけとなりました。今年は遺骨も遺留品も多数掘り出すことができ、とても有意義な活動の年となりました。

平和祈念公園内で昨年、掘り出した遺骨。同公園内の「平和の礎」前で撮影した、糸満市摩文仁で

平和祈念公園内で昨年、掘り出した遺骨。同公園内の「平和の礎」前で撮影した、糸満市摩文仁で

でも、辛い事例もいくつか突きつけられました。それは、国や県にお願いしていた遺留品の返還活動が、うまくいかなかった事です。

軍医部の壕で昨年行った測量と発掘作業、糸満市摩文仁で

軍医部の壕で昨年行った測量と発掘作業、糸満市摩文仁で

昨年、糸満市摩文仁の「島守の塔」下にある「軍医部の壕」から出土した、旧日本陸軍兵士の2枚の認識票の身元調査を厚生労働省にお願いしました。ほぼ6ヶ月後、調査結果が返送されて来ましたが、身元の手がかりにつながるものは何一つ判明しませんでした。球1616A78球1616 O80沖縄で戦った兵士らの認識票は、部隊名や出身地、氏名などを書き込んだ原本となる「留守名簿」が、焼却処分されて存在しないため、まず身元判明に繋がることは難しいとされています。でも、万に一つの希望を持って、調査をお願いしましたが、予測した通りダメでした=写真左右、軍医部の壕から出た2枚の認識票球1616が部隊名でOやAは血液型、78番、80番は個人の識別番号。

身元調査をしたのは認識票だけではありません印鑑に石鹸箱、万年筆など、十数点の身元と遺族探しを試みました。いくつか素晴らしい朗報があったのですが、多くは厳しい結果を受け止めざるを得ませんでした。それらを紹介いたします。

「モリテツ」と刻まれた石鹸箱

「モリテツ」と刻まれた石鹸箱

この石鹸箱は、糸満市大里にある陣地壕から昨年1月に出土しました。モリテツいしじ鹿児島県出身で沖縄戦で戦死された「森哲」さんが該当するのではと、鹿児島県庁に問い合わせました。が、「遺留品の持ち主や遺族探しは、国がやるので、県ではできない。だから、国の担当省庁である厚生労働省に問い合わせろ」の一点張りで、まったく聞く耳を持ってくれません。厚生労働省に調査をお願いすると、早くて半年、遅いと1年以上かかることがあります。終戦から68年、ご遺族はどんどん高齢化し、1日でも早く返さないと、間に合わなくなる恐れもあります。ゆえに、県が独自で動いてくれないかと、何度も電話で掛け合ってみましたが、頑として受け付けてくれません。結局、県から「厚生労働省に最速でやって欲しい」との要望をする形で試みました。その結果ですが、やはり8ヶ月も掛かって、「該当者の特定に至りませんでした」との返答が、一枚の紙切れで送られてきました。

遺留品の返還活動を手伝ってくださる小倉暁さん。昨年も自ら調査して、鳥取県などのご遺族へ遺留品を返還された。元自衛官の頼もしい仲間。

遺留品の返還活動を手伝ってくださる小倉暁さん。昨年も自ら調査して、鳥取県などのご遺族へ遺留品を返還された。元自衛官の頼もしい仲間

名前に「モリテツ」という読み方が含まれる沖縄戦の戦没者は、他にも岡山、大分両県にいらっしゃいました。でも、紙切れ一枚の回答なので、鹿児島県の方であったのか、他県の方であったのか解りません。また、該当者がいたとしても、ご遺族がいたのか、受け取りを拒否しているのか、それらもまったく解りません。個人情報の保護という名目で、ボランティアで返還を試みる私たちには何も知らされませんし、ご遺族にどう伝わったのかも判りません。どこまで熱心に返還活動されるのかは、すべて役所のやる気ひとつで決められているようです。

しっかりと対応して下さる自治体の担当者もいらっしゃいます。おかげで発見から2ヶ月あまりでご遺族へ返還できた例もありました。が、厚生労働省の仕事だからと、門前払いする自治体の態度には、心よりがっかりさせられます。そして、依頼された遺留品がたくさんあるからという理由で、調査に1年近くもかける厚生労働省の対応にも不満です。これが、約70年前に国が招集して戦地へ送り出し、家族や国のために戦って命を落とした戦没者の方々と、その帰還を信じて待っていた家族らにする仕打ちでしょうか。過去も現在も変わらない日本政府の本性を垣間見るようで悲しくなってしまいます。

同じ壕から出た飯ごう

同じ壕から出た飯ごう

この飯盒の蓋も軍医部の壕から出てきました。「石山」と書かれていますが、沖縄戦の戦没者で、石山さんは大勢いらっしゃいます。現在も調査中ですが、苗字しか書かれていない品は、故郷へ帰ることは限りなく難しくなります。

島田知事の痕跡を探るため、軍医部壕内の測量や発掘作業に臨む「島守の会」のメンバーや国吉勇さんら

島田知事の痕跡を探るため、軍医部壕内の測量や発掘作業に臨む「島守の会」のメンバーや国吉勇さんら

軍医部の壕には、当時の島田叡・沖縄県知事がいたとされ、最後に確認された場所とも言われています。そのため、沖縄県庁のOB職員らで作る「島守の会」のメンバーらが、知事の足跡や遺留品などを求めて、調査を進めています。また、兵庫県出身だった島田知事を偲んで、同郷の元自衛官・小倉暁さんも、この壕の測量や発掘に力を注いでおられます。でも、知事の存在や足跡を確認できるものは、まだ見つかってはいません。

軍医部壕から出土したカバンの留め具を眺める島守の会のメンバー。誰のものかは不明

軍医部壕から出土したカバンの留め具を眺める島守の会のメンバー。誰のものかは不明

こうしたことからも、沖縄戦の戦跡から出土する戦没者の遺留品は、亡くなった方々の当時の姿や、その人となりを思い起こさせることにつながります。そして、印鑑や万年筆など、本人の名前が刻まれていれば、ご遺族へ返還できる大きな手がかりになります。ただ、68年という歳月が、大きなネックになり始めています。

洒落た装飾が施された18金のネックレス。手書きで「タカノ比真」と刻まれている、国吉戦争資料館で

洒落た装飾が施された18金のネックレス。手書きで「タカノ比真」と刻まれている、国吉戦争資料館で

このネックレスは04年1月、糸満市の与座陣地壕から出土しました。名前らしきものが刻まれていますが、現在の調査では該当者は見つかっていません。そして、国吉勇さんの戦争資料館に保管中、何者かに盗まれてしまいました。見学に来たとされる不届き者が持って帰ったようです。戦没者の形見かもしれないのに‥。信じられない行為です。

洒落た装飾が施された18金のネックレス。手書きで「タカノ比真」と刻まれている、国吉戦争資料館で

洒落た装飾が施された18金のネックレス

瀧野・判子hp

印鑑はご遺族へお返しできる可能性が高い遺留品です。が、フルネームが判るか、珍しい苗字以外は、返還は困難を極めます。そして、ご遺族が判明したとしても、受け取りを断られる場合もあるのです。

この「瀧野」姓の印鑑=写真左は1998年1月、糸満市の新垣病院壕で見つけました。でも、下のお名前が判りません。沖縄戦の戦没者で瀧野姓は5人いらっしゃいます。氏名がすべて一致しないと、検索できません。この印鑑に見覚えのあるご遺族が名乗り出てくだされば、返還に至ります。手がかりになる特徴といえば、水晶製品としか記せません。判子・長谷川hp

そして、篆書体で掘られた「長谷川」姓の印鑑=写真右も、同姓の戦没者の数が多過ぎるため、検索が難しいです。フルネームが判れば、身元を特定し、ご遺族へお届けできるヒントになるのですが‥。

いずれにせよ、この印鑑たちは、ご遺族側からの情報がない限り、故郷へ戻ることは難しいと思われます。残念なことです。

 

珍しい苗字の印鑑も出土しました=写真左判子・良廣hp「良廣」姓は非常に珍しかったので期待したのですが、該当者はいらっしゃいませんでした。そして、生還された方は沖縄戦の戦没者名簿に出ていないので、お返しするすべがありません。

塩田・判子hp

また、読み方が解らない印鑑も困りものです=写真右。これは、旧字の「塩田」と見られます。が、苦労して解読しても、この姓の戦没者は大勢いらっしゃいます。このページを見て、ご遺族が申し出て下さらない限り、返還は難しい状況です。判子・政松hp

更に=写真上中央は、「政松」さまと読むのでしょうか、珍しい名前なのですが、該当者はいません。何て読むの?そして、極めつけはこれです=写真左。印鑑屋さんも書家の先生も判りませんでした。日本人ではない、との声もありますが、未だ何と読むのか判りません。こうなってくると、戦没者のご遺族を探すというよりも、珍名の検索作業をしているようです。上原・判子①

上原・判子②hp

よくある苗字ですが、形が特徴的なものもあります=写真中央と右。「上原」姓の戦没者は沖縄戦でも50人以上いらっしゃいます。でも、生き物を形どった印鑑と珍しい印相。もし、見覚えがある方がいらしたら、ぜひ申し出てください。01年に発掘されて以来、ずっと資料館に眠っています。可能な限り、お返ししてあげたい遺留品たちです。

万年筆も、当時高価だったせいか、氏名が刻まれていることがあります。先日お伝えした滋賀県の七里さんの例は、滋賀県庁の担当者の献身的な対応と、関係した市町村の努力で、感動的な返還につながりました。ご遺族にも関係者にも大変喜んで戴き、私たちも嬉しさと感動で感無量です。

北生と名前が刻まれた万年筆

北生と名前が刻まれた万年筆

ただ、名前が刻まれていても返還できない例も多々あります。この万年筆には「北生浩」と読める名前が刻まれています。糸満市大度の陣地壕で07年に発見されました。が、戦没者の中に、この氏名の方は見当たりません。生きて生還されていれば良いのですが。

溶けて潰れた万年筆。僅かに文字が見えるが身元の特定には至っていない

溶けて潰れた万年筆。僅かに文字が見える

溶けて潰れた万年筆。僅かに文字が見えるが身元の特定には至っていない

溶けて潰れた万年筆。身元の特定には至っていない

この潰れて溶けたような万年筆にも文字が刻まれていますが、内容は不明です。日岡町と刻まれているように見えますが、細かなものは判読できません。手がかりに繋がるような書き込みも判読不能です。

水筒・西田hp

この水筒にも西田と刻まれています=写真上。08年に那覇市の真嘉比陣地壕で見つかりました。「西田」姓も数多いため、本人特定にはまだ至っていません。

倉増・認識票hp

この「倉増」姓の認識票は3年前、糸満市の糸洲第二外科病院壕で見つかりました=写真上。沖縄県の戦没者データベースによると、沖縄戦で亡くなった倉増姓は、山口県出身の倉増清さん一人だけ。戦死公報などによると、沖縄群島で戦没したと記録にあるそうです。これも返還に至るかと思いきや、ご遺族が見つかりませんでした。

硯・石川hp

「2-2 石川勝太郎」と書き込まれた硯は、浦添市にある茶山の食料壕から00年4月に出てきました=写真上。当時の沖縄県内の小学生が使っていたのかと思って調べてみましたが、該当者はいませんでした。よく似た名前の方はいらっしゃるのですが、年齢と名前の漢字が違っています。

厚生労働省から届いた遺留品返還の返信文書

厚生労働省から届いた遺留品返還の返信文書

軍民合わせて数十万人が亡くなったとされる沖縄戦。その戦没者の遺留品は、68年が過ぎた今も原野や壕内から次々と発掘されます。でも、その身元を特定し、ご遺族に返還できるのは、ごく僅かです。氏名が完全に一致しなかったり、遺族が見つからなかったり、見つかったとしても受け取りを拒否されたり‥。年月が過ぎれば過ぎるほど、戦争の記憶が薄れ、戦没者を知る遺族も鬼籍に入りつつあります。沖縄は日本国民が初めて巻き込まれた地上戦。その歴史的な惨事は、戦争を記憶している方々がいなくなれば、書物や聞き書き以外は消え去ります。でも、過去の戦場から見つかる遺留品は貴重な戦争の記録として残るはずです。そして、遺族には戦没した肉親を思い起こせる貴重な形見となります。その発掘と返還活動は、本来は国が責任を持ってやるべき仕事だと思います。今からでも遅くないので、心血を注いで責務を果たして欲しいものです。