青森県深浦町の小さな集落     
●望郷の認識票が執念の帰還

望郷の家族の元へ執念の帰郷-歌手・正木麻衣子さんが認識票をご遺族へ返還

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出身県と個人の氏名が刻まれた認識票

出身県と個人の氏名が刻まれた認識票

沖縄県糸満市大里にある壕の中から、旧日本兵が身に付けていた認識票が掘り出されました裏の面に「茨城県・池田豊次」と刻まれており、通常の表部分には部隊名と個人識別番号が記されています。

認識票の表

認識票の表

発見したのは神戸市の歌手・正木麻衣子さん。沖縄県で10年近く遺骨収集活動を続けています。この場所からは、複数の遺骨や遺留品も一緒に出土しました。これまで見つかっている旧日本軍の認識票には、位が高い兵士以外は識別番号しか記されていません。が、これには県名と氏名が刻まれています。直ちに、関係各機関に連絡を取り、この兵士の検索を開始しました

発見した壕で発掘作業をする麻衣子さん、糸満市で

発見した壕で発掘作業をする麻衣子さん、糸満市で

その結果、茨城県大津町(現在は北茨城市)出身の池田豊次さん(1922年1月生まれ)が身に付けていたものと判明。陸軍船舶工兵第26連隊(通称:暁一六七四四部隊)に所属していた豊次さんは、1944年8月に沖縄県の那覇港に上陸し、45年5月3日に沖縄本島西海岸付近で戦没した、と戦死公報に記録されていました。最終階級は伍長でした。直ちに返還に向けた遺族探しを始めました。

池田豊次さんの名が刻まれた平和の礎、糸満市の平和祈念公園で

池田豊次さんの名が刻まれた平和の礎、糸満市の平和祈念公園で

写真

刻印された名前

が、ここで大きな疑問にぶつかりました。認識票が見つかった糸満市大里は沖縄本島南部の内陸部に位置しており、豊次さんが亡くなったとされる西海岸とは直線距離で20キロ前後も離れています。史上稀に見る激戦だったので、記録などに混乱があったのかもしれませんが、あまりに違いがありすぎます。そのため、可能な限りの理由を調べてみることにしました

戦没者の一片の骨も逃さず収集しようと試みる麻衣子さん。この緻密な作業の積み重ねが多くの遺留品を見つけ出す足がかりとなる

戦没者の一片の骨も逃さず収集しようと試みる麻衣子さん。この緻密な作業の積み重ねが多くの遺留品を見つけ出す足がかりとなる

まず、戦史に詳しい方々からは、「主に陸軍の兵士に配られていた認識票は、切り込みなどの特攻に出撃するときは、個人が特定されないように部隊長らが集めていた」、とする証言を得ました。また、「亡くなった戦友の認識票を持って敗走した」、という生き残りの兵士の証言も聞きました。これらのケースでは、戦死場所と認識票の発見場所が違ってもおかしくありません。が、集められたものならば同じ場所からもっと多くの認識票が見つかるはずだし、戦友のものを持って逃げたのならば、その兵士の認識票も同時に見つかる可能性があるはずです。この壕を徹底的に掘り進めましたが、池田さんの認識票しか出てきません

真っ黒に焦げた壕内を掘り進む麻衣子さん

真っ黒に焦げた壕内を掘り進む麻衣子さん

この戦死場所の違いは、今も解決できていません。結局、詳しい戦闘状況を調べるために、更に生き残った兵士の探索と戦争記録を探し続けました。終戦から68年が過ぎた今、簡単には生き残りの方は見つかりません。ただ、同隊に所属し、戦後、自ら体験した沖縄戦を手記にしていた高知県出身・野村正起さんの「沖縄戦敗残兵日記」(太平出版社)が見つかりました。野村さん自身は、すでに他界された後でしたが、この記録が大いに役立ちそうです。と、同時に、茨城県の援護課が献身的にご遺族を探して下さり、茨城県と東京都に姪御さんと甥御さんがいることが判明したのです。直ちにご遺族へ連絡を取り、返還に向けての活動を始めました

茨城県の実家に残っていた池田豊次さんの写真。1944年撮影と裏書きされていた

茨城県の実家に残っていた池田豊次さんの写真。1944年撮影と裏書きされていた

豊次さんと直接、血の繋がりがあるご遺族は、3人兄弟だった豊次さんの兄・善一さんの長男・池田善夫さん(67)でした。豊次さんの甥にあたります。認識票を発見した経緯などを話すと、「ぜひ、現地へ出向き、お線香の一本でも手向けたい」と仰いました。東京都に住まわれ、店を経営されていましたが、仕事が多忙なのと、体を壊されたことも影響して、旅に出ることが難しくなってしまいました。そこで、麻衣子さんが東京に届けることになりました

善夫さん(左)に認識票などを手渡す麻衣子さん、東京都で

善夫さん(左)に認識票などを手渡す麻衣子さん、東京都で

善夫さんと妻の良江さん(66)にとっては、若くして戦死された豊次さんのことは、父・善一さんからの話でしか聞いたことがありません。茨城県の実家に残されていた写真などを東京に持ち帰り、迎えてくださいました。ここで話題になったのは、本来ならば名前を打ち込める階級ではないとされた豊次さんが、なぜ、名前入りの認識票を持っていたのか、ということです。防衛研究所など、戦史に詳しい方々に話を聞いても、詳しいことは判明しません。

認識票と豊次さんの写真にあった裏書き。戦地から送られた手紙に同封されていた写真なので、豊次さんが書いた字と思われる

認識票と豊次さんの写真にあった裏書き。戦地から送られた手紙に同封されていた写真なので、豊次さんが書いた字と思われる

戦没者の遺留品を数多く発掘されている沖縄県の遺骨収集家・国吉勇さんは、「戦死後に伍長である兵士が、名前入りの認識票を所持しているのは、見たことも聞いたこともない。遺留品が何十万点とある私の資料館に同じ暁部隊のものがあるが、どれも名前は刻まれていない。今まで数十枚発掘したが、極めて珍しい例だ」と首をひねります。そして、収集現場からは文字を刻むためのタガネも数多く出土するので、「もしかしたら、自分で打ち込んだのかもしれないね」と話します。

豊次さんの認識票を手に笑顔を見せる善夫さんと良江さん

豊次さんの認識票を手に笑顔を見せる善夫さんと良江さん

そして、善夫さんと良江さんに認識票を見せたら、「打ち込まれた字が写真に裏書してある叔父の字に似ている」と驚かれています。こうなると、豊次さんが自ら打ち込んだ可能性も出てきました。では、なぜ西海岸で戦死したはずの兵士の認識票が南部の糸満市大里で見つかったのか、ということが気になります。そこで、同じ部隊で戦いながら日記を書き綴り、戦後ハワイ抑留をへて帰国し、記録を残した野村正起さんの著書がヒントをくれました

豊次さんの名前が刻まれた平和の礎の刻銘場所を記した用紙

豊次さんの名前が刻まれた平和の礎の刻銘場所を記した用紙

船舶工兵第26連隊は、豊次さんが戦死されたとされる5月3日夜、本島西海岸の宜野湾市付近に陣地や司令部を設営していた米軍への総攻撃を命じられました。沖縄を守備する旧日本軍が、大規模な反転攻勢をかけた日です。それまで一方的に押されていた日本軍が、各地で一斉に反撃に出たようです。豊次さんの部隊も海上から船を使って、陸にいる米軍を急襲する作戦を遂行しようとしました

豊次さんの認識票が見つかった壕の様子などを善夫さん(手前)らに話す話す麻衣子さん

豊次さんの認識票が見つかった壕の様子などを善夫さん(手前)らに話す話す麻衣子さん

そして、同隊の本部があった豊見城村(現在の豊見城市)から数十隻の「サバニ」と呼ばれる手漕ぎの刳舟(沖縄の漁師が使っていた小舟)に4~6人ずつ同乗し、400余名で切り込み攻撃を仕掛けました。が、移動の途中、現在の宜野湾市牧港付近で米軍に発見され、集中攻撃を受けて部隊のほとんどが戦死したと記録されています。豊次さんの戦死公報も、「沖縄本島西海岸で戦死」となっており、この戦いで亡くなったとみられていました

十字の紋章を付けた軍服姿の豊次さん。顔つきは善夫さんに似ている。右下は認識票

十字の紋章を付けた軍服姿の豊次さん。顔つきは善夫さんに似ている。右下は認識票

が、野村さんの日記などからは、この戦闘で生き残った兵士が本隊へ戻ってきたり、敗走する野村さんらと途中で出会ったりした、との記載がありました。そこには残念ながら、豊次さんの名前は出てきません。ただ、北茨城の漁師町で生まれ育った豊次さんは、米軍からの攻撃を海に逃れながら避けて、生き残った可能もあるようです。そして、当時の切り込みは特攻作戦であり、失敗したら生きての帰還は許されない戦いでした。生き延びたとしたら、豊次さんも部隊へ戻ることができず南部へ逃れる大勢の民間人に混じって敗走したのでは、と予測されます。善夫さんも「実家は漁師だったので、泳ぎは得意だったでしょう。気性が激しく度胸があった親父の弟ならば、なにくそ、海で死ねるかと脱出したかもしれません」と当時に思いを巡らせました。

善夫さんご夫妻のもとへ届けた認識票に、「帰って来れて良かったね」と、話しかける麻衣子さん(中央)。右手前で取材するのは朝日新聞の伊藤恵里奈記者

善夫さんご夫妻のもとへ届けた認識票に、「帰って来れて良かったね」と、話しかける麻衣子さん(中央)。右手前で取材するのは朝日新聞の伊藤恵里奈記者

そして、その途中で認識票に自らの名前と出身地を打ち込んだのでは、と国吉さんや元自衛官の遺骨収集ボランティアらはみています。それは、「死を覚悟しながらも、自らが生きた証を最期の場所に残したかったのでは」と憶測されています。麻衣子さんは、豊次さんは亡くなった後、魂だけでなく、遺留品も故郷に帰したかったのでは、と涙ぐみながら話してくれました。

納骨袋に収骨者の氏名を書き込む麻衣子さん、糸満市で

納骨袋に収骨者の氏名を書き込む麻衣子さん、糸満市で

この認識票と一緒に、遺骨や他の遺留品も数多く出土しました。しかし、身元判明につながる遺留品は、他にはありませんでした。そして、遺骨も大きな骨はすべて収められた後で、複数の歯や指の骨などの小さな破片しか見つかりません。これだと、厚生労働省は個人の身元判明につながるDNA鑑定を行ってはくれません。同省に問い合せてみましたが、つれない回答が戻ってきただけでした。結局、この場所で麻衣子さんらが集めた骨は、沖縄県の国立戦没者墓苑に納骨されることになりました。

写真上、納骨袋に入れた遺骨を愛おしむように抱きかかえる麻衣子さん、糸満市の平和祈念公園で

写真上、納骨袋に入れた遺骨を愛おしむように抱きかかえる麻衣子さん、糸満市の平和祈念公園で

麻衣子さんは、豊次さんの遺骨をご遺族に届けられなかったことを悔やまれています。「私たちがもう少し早く遺骨収集に関わり、この壕も丁寧に収骨できていれば、善夫さんの元へ返せたかも知れなかった」と、唇を噛み締めます。冷たい地面の下に埋もれ続けてきた戦没者を一日でも早く掘り出し、故郷のご遺族の元へお返ししてあげたい思いで、麻衣子さんは遺骨収集のボランティア活動に参加されています。

認識票が見つかった壕で、豊次さんに思いを馳せる麻衣子さん、糸満市で

認識票が見つかった壕で、豊次さんに思いを馳せる麻衣子さん、糸満市で

しかし、終戦後から68年の年月が過ぎた今、戦争体験者は次々と亡くなり、出征した家族の帰りを待ち続けているご遺族も高齢化しています。遺骨や遺留品の返還活動も、年を追うごとに難しくなってきているのが実情です。そんな中、豊次さんのような例は奇跡に近い出来事でした。善夫さんご夫妻にも、とても喜んで戴けました。麻衣子さんも胸がいっぱいで、もう言葉が出ないぐらい感無量だ、と話されています。

返還活動の最中、善夫さんご夫妻の前で感極まって涙ぐむ麻衣子さん、東京・足立区で

返還活動の最中、善夫さんご夫妻の前で感極まって涙ぐむ麻衣子さん、東京都で

今回、豊次さんの認識票が見つかった壕は、南下しながら攻めてくる米軍に対し、旧日本軍が最後の防衛ラインとして死守しようとした陣地のひとつでした。畳6畳ほどでの広さで、大人が5人も入れば満員になる岩の割れ目。内部の壁は火炎放射で焼かれており、他の多くの壕と同じように落盤しています。終戦後、地元の方々が、原野に残されていた戦没者の遺骨をこの壕周辺の穴に入れたとする証言もあり、この付近から見つかる遺骨は、戦闘中に壕内で戦死した日本兵とは関係のない人が含まれている可能性もあります。

小さな遺骨も素手で掬って納骨袋に入れる麻衣子さん。作業中も絶えず涙がこぼれ落ちた、糸満市で

小さな遺骨も素手で掬って納骨袋に入れる麻衣子さん。作業中も絶えず涙がこぼれ落ちた、糸満市で

豊次さんの遺骨も身につけた認識票と共に、この壕に投げ込まれたのかもしれません。また、この地で戦死した戦友のポケットに入っていた可能性もあります。結局、判明している事柄を元に想像するだけで、詳しい事実を解明することはできませんでした。こうして、時間の経過と共に体験者は鬼籍に入り、遺骨や遺留品の返還を待つ遺族の希望も消えて行きます。そして、国や研究機関による戦史の調査や研究も進まないまま、戦争の記憶や記録は薄れてゆくのです。

写真下、認識票が出た壕の遺骨を納骨する麻衣子さん。遺骨収集情報センターの職員が手を合わせて迎えた、糸満市の平和祈念公園で

認識票が出た壕の遺骨を納骨する麻衣子さん。遺骨収集情報センターの職員が手を合わせて迎えた、糸満市の平和祈念公園で

ただ、軍の機密上、本来は認識票に記してはいけない氏名を刻み込んでまで、生きた証を残そうとした豊次さんの執念。それが、万感の思いを込めて丁寧に遺骨収集する麻衣子さんを呼び寄せた、と思えるような出来事でした。この返還活動を終えて、麻衣子さんは一時的に体調を壊したそうです。今は回復して、元気にステージで歌い続けていますが、「豊次さんやご遺族への想いが募りすぎたからかな」と、照れ笑いされています。戦争で亡くなった方は、皆、故郷に帰りたかったはずです。豊次さんの証はお届けできたけれど、名前を刻むことができなかった多くの兵士がいたことや、大多数の戦没者の遺骨がご遺族のもとへ帰れていないという事実を、忘れてはならないと改めて思いました、と麻衣子さんは涙ぐまれていました。

ステージで元気に歌う麻衣子さん、神戸市で

ステージで元気に歌う麻衣子さん、神戸市で

麻衣子さん、これからも一緒に頑張りましょうね。

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