みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
●国吉勇さん

遺骨収集家・国吉勇さん

太平洋戦争の激戦地だった沖縄県。約70年前、亜熱帯の島々に鉄の暴風が吹き荒れ、住民と日米両軍合わせて20万人以上が犠牲になったとされています。そんな戦没者の遺骨をボランティアで60年近く収集されている方がいます。

遺骨収集家・国吉勇さん

遺骨収集家・国吉勇さん

沖縄戦の最中、母親をマラリアで失い。兄が乗った本土への疎開船は近隣の海域で米軍の潜水艦に沈められています。収集を始めたきっかけは、少年期に終戦を迎え、多感な頃の遊び場が不発弾が転がる死屍累々の戦場跡だったから、とよく回想されます。当時、家計の助けになれば、とクズ鉄を拾いに行き、そこで遊び道具などを探しているうちに、自然と遺骨も拾うようになったそうです。そんな国吉さんを頼って、戦没者の遺族や友を亡くした元兵士らが、今も沖縄を訪れています。これまで数千柱の遺骨を納骨しており、見つけた遺品は数十万点に及ぶそうです。もう一人のお兄さんも鉄血勤皇隊として動員されて米軍と戦い、部隊のたった独りの生き残りとして、ハワイに抑留された経験をお持ちだと聞きます。作家・吉村昭先生の小説のモデルにもなったそうです。

掘り出した元兵士らの印鑑を手にする国吉さん

掘り出した元兵士らの印鑑を手にする国吉さん

私たち夫婦も毎年、国吉さんと一緒に遺骨収集活動をしています。出会った当初はとても厳しくて、掘り方が甘かったり、手を抜いて休んでいたりすると、厳しく叱責されました。10年以上通い続けて、ようやく叱られないレベルになってきましたが、時間があれば連日のように山野へ出向き、亜熱帯の太陽の下でも汗まみれで作業に臨む姿を見ていると、他人だけでなく自らにも大変厳しい方だと実感します。

掘り出した遺骨を並べる国吉さん(左端)ら、沖縄本島南部の八重瀬岳で

掘り出した遺骨を並べる国吉さん(左端)ら、沖縄本島南部の八重瀬岳で

そんな国吉さんが掘り出した遺骨や遺品を紹介します。旧日本軍が敗走した本東南部の岬近くで、開発のため切り開いた森の跡に大たい骨が岩に挟まった状態で突き出ていました。 

約60年間、野にさらされたままの骨は真っ白に朽ちていました(写真は突き出た状態を見せるため、埋まっていた骨の横に穴を掘りカメラをあおって撮影した)

約60年間、野にさらされたままの骨は真っ白に朽ちていました(写真は突き出た状態を見せるため、埋まっていた骨の横に穴を掘りカメラをあおって撮影した)

⑤の写真手りゅう弾S

すぐ脇に日本製の手りゅう弾が転がっており=写真上、軍服のボタンなどが一緒に落ちていたことから日本兵の骨と思われます。遺骨と一緒に、当時の人たちが使っていた生活用品や装身具、そして武器や医療器具などが出てきます。個人名が刻まれている場合は、遺族にお返しするよう努められていますが、それ以外のものは国吉さんが開設する「戦争資料館」に展示してあります。その一部を紹介します。旧日本兵が使っていたお茶碗。軍人の姿や旭日旗などが描かれています。

旧日本兵が使っていたお茶碗

旧日本兵が使っていたお茶碗

マラリア予防薬の容器。当時の沖縄はマラリアが大流行していた

マラリア予防薬の容器。当時の沖縄はマラリアが大流行していた

そして、マラリア予防薬の容器。当時の沖縄はマラリアが大流行していました。さらに、旧日本軍の兵士が立てこもっていた洞穴で、位の高い人の軍靴と一緒に出てきた「白粉(おしろい)」の容器です。「慰安婦さん」と呼ばれた人が使っていたのでは、と国吉さんは話されています。

「白粉(おしろい)」の容器

「白粉(おしろい)」の容器

これは、毒ガス用救急箱の一部です。近い場所から防毒面なども出てきており、化学兵器を使った戦闘も想定していたようです。実際に使用されたかは定かではありません。

毒ガス用救急箱の一部

毒ガス用救急箱の一部

防毒面

防毒面

国内の資源に乏しい旧日本軍は、鉄不足から陶器で作った兵器を使用していました。 

陶器で作った地雷

陶器で作った地雷

米軍の手りゅう弾と旧日本軍の陶器製の手りゅう弾を並べた

米軍の手りゅう弾と旧日本軍の陶器製の手りゅう弾を並べた

砲弾などの破片

砲弾などの破片

終戦後、あちこちに点在する洞穴は、大勢の人が亡くなった場所として忌み嫌われました。元々、お墓だった場所以外は、ゴミ捨て場にされたり埋められたりしました。そんな中にも戦没者の遺骨が数多く眠っているといわれています。この洞穴は海軍が使っていた手掘りの壕です。中の壁面は火炎放射器で焼かれて真っ赤に染まっており、この中からも国吉さんは多くの遺骨を掘り出されました。入り口付近が粗大ゴミの捨て場になっており、ゴミの間から毒蛇が見つかることもあり、出入りに苦労するそうです。

ゴミが捨てられている海軍の手掘りの壕。中の壁面は火炎放射器で焼かれて真っ赤に染まっている

大量のゴミが捨てられている海軍の壕。中の壁面は火炎放射器で焼かれて真っ赤に染まっている

これは、高温の熱で焼かれた遺骨です。銃弾が引っ付いていることから、兵士のものと思われます。火炎放射器などで焼かれたものではないかと見られています。焦げたお米も出てきました。

高温の熱で焼かれた遺骨

高温の熱で焼かれた遺骨

焼かれて焦げたお米

焼かれて焦げたお米

そうして、往時を忍ばせる丸い形が特徴的なメガネ。持ち主は最後に何を見たのでしょうか。 

丸い形が特徴的な当時のメガネ

丸い形が特徴的な当時のメガネ

よく出土する時計。約70年前に時の刻みを止めてしまいました。ほとんどが懐中時計です。

約70年前から時の刻みを止めてしまった時計

時の刻みを止めてしまった時計

溶けて原型を留めていない飯ごう。火炎放射器などで焼かれたものらしいです。

溶けて原型を留めていない飯ごう。火炎放射器などで焼かれたものらしいです。

溶けて原型を留めていない飯ごう

ある野戦病院の壕から出てきた体温計や薬のアンプルです。海軍の刻印があります。 

野戦病院の壕から出てきた体温計や薬のアンプル。海軍の刻印があります。

体温計や薬のアンプル。海軍の刻印がある

お茶碗にこびりついた遺骨も。焼かれたらしく、一部が焦げていました。  

お茶碗に付着した遺骨。焼かれたらしく、一部が焦げていました。

お茶碗に付着した遺骨。焼かれたらしく、一部が焦げていた

鋭利な刃物で切断された腕の遺骨は、野戦病院で切り落とされた負傷者の腕ではないか、と見られています。

鋭利な刃物で切断された痕跡が残る腕の遺骨

鋭利な刃物で切断された痕跡が残る腕の遺骨

国吉さんの友人が所持していた血判状=写真下画像の一部は加工してあります)。米軍に切り込みなどの特攻をするために分隊全員が血の結束を誓って押捺し、突撃したといいます。所持していた人だけが運良く生き残り、これが現在に伝えられました。

血判署

自らが経営する会社の事務所の一角に、数十万点の遺品が展示されています。ここには数多くの遺族が、帰ってこない肉親の手がかりを求めて訪ねてきます。そして、誰が来ても国吉さんは快く受け入れ、持ち主が見つかれば無償で返還されています。こうした活動をすべてボランティアでやってきた国吉さんは1939年生まれ。もう70半ばになり、最近はこの遺品をしっかりと管理してくれそうな公営の資料館へ、すべて無償で寄贈したいと話されています。

ただ、本業の消毒会社の運営や遺骨収集以外は、根っから不器用な国吉さん。独特な言い回しをされることが多く、数十万点の遺品を集めた苦労の対価をついお金で計ってしまい、「何千万円の値打ちがあるさ」と口走ることがよくあります。それが独り歩きして誤解を生み、一部のマスコミや団体などから疑問や非難の声があがりました。

戦争資料館について語る国吉さん

戦争資料館について語る国吉さん

まさにその通りで、国や家族のために戦った兵士たちや地獄の戦場で非業の死を遂げた民間人の遺留品をお金に換算した非はあると思います。でも、詳しい経緯を聞いてみると、「この資料館は自らの人生を注ぎ込んだ遺骨収集活動の集大成。それを理解して欲しかったので、つい金の値打ちで表現してしまった」と、反省されています。そして、「戦争体験者の願いとして、遺品が語る悲惨な事実を後世に伝えるため、しっかりとした公営の資料館に展示して貰いたかった」という思いが、売る売らないという騒ぎになってしまったそうです。齢を重ね、新しい家族も増え、自宅の一部を戦争資料館として提供し続ける事の難しさを感じられているのも、大きな理由です。そうした葛藤が、今回の騒動の一端になったのでは、と思われます。遺骨収集活動に関しては心より尊敬できる国吉さんですが、人間づきあいや言葉の選び方にとても不器用さを感じてしまい、今後もトラブルに巻き込まれないかと心配です。

戦争資料館で国吉さん(左端)から説明を受けるボランティアの学生たち

戦争資料館で国吉さん(左端)から説明を受けるボランティアの学生たち

最近は、沖縄から見てヤマトと呼ぶ本土から、様々な個人や団体が国吉さんを頼ってきます。戦争資料館で国吉さん(左端)から説明を受ける若者たちは、JYMA(日本青年遺骨収集団)という学生らが組織する遺骨収集ボランティアです。もう、数十年前から、国吉さんと一緒に活動している若者たちで、最近は、看護学校の女学生やマスコミを目指す青年らも参加しており、とても真面目に取り組んでくれています。彼ら以外にも、アルピニストの野口健さんたちのグループも頻繁に来られており、その情報発信力の大きさと確かさを心強く感じています。新しい世代層が参加してくださることを国吉さんも心から喜んでおられ、世代交代の担い手に大きな期待を寄せられています。

そしておっちゃんの旦那、おばちゃんの私ですが、国吉さんが山野に出向かれる限り、ツルハシとスコップ、カッチャギ(熊手)を手にして、ご一緒する所存ですよ。がんばりましょうね、国吉さん(律)。