みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
●作井部隊の戦没者の遺留品を返還

野戦作井中隊に所属した戦没者の遺留品を返還

松木加造さんの印鑑。木製で中央が割れている

松木加造さんの印鑑。木製で中央が割れている

沖縄県の遺骨収集家・国吉勇さんが保管されている遺留品を再検索して、ご遺族へ返還する活動を続けています。今回は、2002年2月に糸満市大里の陣地壕で掘り出した印鑑のお話です。木製で、金具のついた印鑑ケースに入っていました。ケースの表面には、おそらく何かの革が張ってあったようです。印鑑には、フルネームの氏名が篆書体で彫られており、素人には読めません。専門家に問い合わせてみましたが、良い返事は帰ってきませんでした。

糸満市大里の陣地壕付近から掘り出した不発弾処理のため、警察官と相談する国吉勇さん(右端)

糸満市大里の陣地壕付近から掘り出した不発弾処理のため、警察官と相談する国吉勇さん(右端)

それで、壕などでの遺骨収集活動を終えた夕刻、妻と二人で泥まみれの作業着のまま平和祈念資料館に通い、その名前に近い字を様々に組み合わせて、戦没者のデータベースで検索してみました。2週間近く掛かって、ようやくそれらしい名前が。「松木加造」さん。長野県出身の戦没者です。沖縄や大阪市内にある老舗の印鑑屋さんにも見てもらって、字が合っていることを確認し、遺族探しの調査を始めました。

松木加造さんの印鑑。ケースに入っていたため、それほど劣化していない

松木加造さんの印鑑。ケースに入っていたため、それほど劣化していない

印鑑ケースの中に入って出土した

印鑑ケースの中に入って出土した

まず、長野県庁の健康福祉部地域福祉課・保護恩給係に問い合わせて、調べて戴きました。本来、戦没者の遺留品返還活動は、主に国の機関である厚生労働省が担当しています。が、調査に時間が掛かりすぎるのと、木で鼻を括ったような味気ない返答を繰り返すため、仕方なく今回も出身県の自治体へお願いしました。イレギュラーだと言う声も、問い合わせる度に聞こえてきますが、終戦から70年近くが過ぎ、遺族も高齢化するなか、悠長なことは言っていられません。直接依頼する例が少ないので、最初は戸惑っておられた県の担当者も、「最近は個人情報保護の規定が徹底されている。ゆえに簡単ではないが、できる限りのことはする」と、尽力してくださいました。すると、調査を始めて3ヶ月程で、ご遺族にたどり着くことができ、68年ぶりに印鑑が身内のもとへ帰ることになったのです。そして、松木加造さんが、どんな方であったのかが、朧げに見えてきました。

1Kのアパートの一室で、深夜まで戦没者の情報を検索する筆者、那覇市内で

1Kのアパートの一室で、深夜まで戦没者の情報を検索する筆者①、那覇市内で

沖縄守備隊第32軍の62師団野戦作井第14中隊に所属。中国東北部の旧満州から転戦してきた部隊でした。沖縄戦で組織的な戦闘が終了した翌日の6月24日に、「沖縄本島山城(現在の糸満市山城)」で戦死したと記録されています。亡くなった時の階級は伍長です。加造さんは1921年7月に7人兄弟の末っ子として誕生。兄弟のうち二人が出征し、次男であるお兄さんは生還して、結婚。無事に家庭も築かれたそうですが、加造さんは24歳の誕生日を迎えずに独身のまま戦死しました。

平和の礎に刻まれた松木さんの名前、糸満市で

平和の礎に刻まれた松木さんの名前、糸満市で

松木さんの名が刻まれている平和の礎

松木さんの名が刻まれている平和の礎

返還した印鑑は、親類であるご遺族のもとへ送り届けました。終戦から68年。加造さんを覚えている家族はすべて鬼籍に入っておられ、記憶している身内の方は誰もいないそうです。ただ、戦地から送られてきた白木の箱には、遺骨ではなく木片が入っていたと言い伝えられていました。ご遺族からは、「菩提寺と相談して、できれば遺骨代わりにお墓に納めようと考えています。加造の兄弟である亡き父も喜んでくれると思います。ありがとうございました」と、丁寧なお礼の言葉を戴きました。

糸満市大里の陣地壕などから出た不発弾の処理に来た若い自衛官ら。松木さんはどんな思いで彼らの活動を見つめているか

糸満市大里の陣地壕などから出た不発弾の処理に来た若い自衛官ら。松木さんはどんな思いで彼らの活動を見つめているか

国吉さんも、「おー、見つかったの。良かったねぇ。こうして、ご遺族が喜んでくれるのが一番のやりがいになるね」と話されています。そして、「野戦作井部隊?、何をする兵士たちだったのかな」と、疑問の声。防衛省のOBや専門家に聞くと、作井隊とは、主に軍の給水を確保する部隊で、井戸も掘れば、汚水を飲料水に浄化する役割も担ったそうです。インドネシアやマレー半島などでは、現地にある石油掘削などにも関わったとされる記録も残っています。

若い警察官と一緒に不発弾を見る国吉さん(右端)

若い警察官と一緒に不発弾を見る国吉さん(右端)

沖縄本島の中南部で、旧日本軍の大きな隊が駐屯していた壕や野戦病院壕などには、今も水を湛える井戸があるのを見かけます。だいたいが、50~100Cm四方のきちんとした正方形に掘られており、こんこんと清水が湧き出している場所もありました。そのほとんどが、沖縄のクチャという粘土質層の壕で、ジメジメして崩れやすく、コウモリなども数多く棲息していました。こんな過酷な場所で、加造さんも井戸掘削をしていたのかも知れません。

大里の陣地壕近くで見る買った旧日本軍の不発弾。近くに小中学校がある

大里の陣地壕近くで見つかった旧日本軍の不発弾。近くに小中学校がある、糸満市で

今回は、長野県庁が親身になって相談に乗ってくれ、尽力してくださったおかげで、戦没者の大切な遺品をご遺族の元へお返しすることができました。そして、ご遺族の代表者から、心のこもった感謝の気持ちを伝えて戴きました。関係各方面の皆さまに、心よりの御礼を申し上げます。

大里の陣地壕などから出た不発弾を警察官らに説明する国吉さん

大里の陣地壕などから出た不発弾を警察官らに説明する国吉さん

ただ本来は、国の手で迅速に進めてほしい仕事です。そして、強い憤りを感じます。赤い紙切れ一枚で召集して戦場に送り出し、国のため家族のために命を落とした日本人たちに、何たる仕打ちであるのか、と。せっかく無事に返還できても、何故かいつも、やるせない思いが募る仕事です。