みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
●井上徳男さん夫妻

兄の遺骨を探す井上徳男さんご夫妻

 

兄の戦死公報に記されていた地名の標識の下で、慰霊の祈りを捧げる徳男さんと富美子さん。この標識を墓標代わりにしている、沖縄本島南部の旧具志頭村で

兄の戦死公報に記されていた地名の標識の下で、慰霊の祈りを捧げる徳男さんと富美子さん。この標識を墓標代わりにしている、沖縄本島南部の旧具志頭村で

遺骨収集をする上で、忘れられないご夫婦がいらっしゃいます。2005年まで毎年、沖縄県を訪問され、冬の約2~3ヶ月間、ほとんど休日も取らないで兄の遺骨を探していた井上徳男さんと富美子さんのご夫妻です。井上さんは1927年生まれの85歳、富美子さんは80歳。中国戦線から、沖縄へ転戦されたお兄さんが、本島南部で戦死。息子の遺骨や遺品が帰ってこなかったことを、嘆きながら亡くなった父母の想いをかなえるのも目的のひとつでした。

 お兄さんの名前は「井上清隆さん」。徳男さんより、4歳年上でした。優しく親孝行な兄で、徳男さんも後を追って兵士になる覚悟を決めていた、と当時を振り返られます。

国戦線で戦う兄から家族に届いた手紙。徳男さんは模写された兄の手にそっと自らの手を重ね合わせた

中国戦線で戦う兄から家族に届いた手紙。徳男さんは模写された兄の手にそっと自らの手を重ね合わせた

本島南部の海岸線で、海を見下ろす丘の上にお兄さんが所属していた部隊の慰霊碑があります戦死したとされる場所とは少し離れていますが、毎年、ここにも献花されていました。大きな碑なので、石に映り込むご夫婦の姿が小さく見えます。収集を休む日には、お兄さんの足跡をたどりながら、慰霊を続けられていました。

お兄さんが所属していた部隊の慰霊碑

お兄さんが所属していた部隊の慰霊碑

井上さんたちが遺骨収集を卒業されてから7年が過ぎました。ご夫婦は1990年頃から約15年間、沖縄で収集活動をされ、その後は慰霊のためだけに訪れられているようです。心優しくて働き者のお二人が大好きで、「いずれは井上さんたちのように齢を重ねようね」と夫と話し合ったものでした。

壕内の地面をかっちゃぎで掘る井上夫妻、旧具志頭村で

壕内の地面をかっちゃぎで掘る井上夫妻、旧具志頭村で

そのお二人ですが、遺骨収集の技術は国吉さんに次ぐ熟練度で、まさに職人技のようでした。1トン以上はある大岩を当時、70半ばだった井上さんが、ツルハシ1本で簡単に向きを変えて移動させます。

汗まみれで掘る徳男さん

汗まみれで掘る徳男さん

富美子さんは、食事をする時間も惜しみながら地面を掘り、小指の爪のような骨片まで丁寧に収集されていました。

掘り出した遺骨を並べる富美子さん

掘り出した遺骨を並べる富美子さん

私たちも、このお二人から収集の技術を学ばせていただきました。 

国吉さん(左端)と一緒に納骨する井上夫妻、本島南部の沖縄戦没者墓苑で

国吉さん(左端)と一緒に納骨する井上夫妻、本島南部の沖縄戦没者墓苑で

お兄さんの遺骨や遺品を探しながら、毎日山野に出向き、時には壕の中へ、時にはアダンのジャングルへと足を伸ばし、収集をされます。当然のことながら、他の方の遺骨や遺品も出てきますので、それも丁寧に発掘され、納骨されていました。 

ご夫妻が中部の浦添町にある壕から掘り出した旧日本陸軍兵士の認識票

ご夫妻が中部の浦添町にある壕から掘り出した旧日本陸軍兵士の認識票

時には、国吉さんに代わって遺品の持ち主の身元を探されたこともあります。ステンレスなどの金属で作られている米軍の認識票と違い、日本軍のものは真鍮で作られていました。穴の中に紐を通し、服の下にたすき掛けにして身につけていたようです。

国吉さんが見つけた沖縄戦当時の米兵の認識票。身元は不明

国吉さんが見つけた沖縄戦当時の米兵の認識票。身元は不明

戦況が悪化するにつれ、物資が不足してくると、真鍮から鉄に変わり、最後は竹や木製で間に合わせた事もあったと聞きます。戦場で亡くなる兵士の身元を記す唯一の証だけに、何とも心もとない装備です。

国吉戦争資料館に展示される鉄製の認識票。錆びてボロボロだ

国吉戦争資料館に展示される鉄製の認識票。錆びてボロボロだ

認識票から身元を判明させるためには国や都道府県が管理していた「留守名簿」が使われます。兵士たちの名前や出身地、血液型などを記録したもので、認識票に刻印された数字などから、名簿と照らし合わせて個人を特定する仕組みです。が、ポツダム宣言を受諾する8月15日前後、機密資料を含めた公文書を焼却処分する命令が下され、あろうことか留守名簿も一緒に焼かれてしまったのです。

兄清隆さんの遺影にロウソクを灯す夫妻。宿泊先のホテルでも、毎朝祈りを捧げていた

兄清隆さんの遺影にロウソクを灯す夫妻。宿泊先のホテルでも、毎朝祈りを捧げていた

アリューシャン列島のアッツ島や北マリアナ諸島のテニアン島など、早い時期に総員が玉砕(戦死)した場所の名簿は残っているのですが、終戦直前まで戦闘が続いていた島々の名簿は全く残っていないのです。管轄する厚生労働省や専門家によると、本人番号が特定される名簿は、戦犯の証拠品になるのを恐れ、他の公文書と共に焼却された、と伝えられているそうです。

八重瀬岳にある公園の岩の隙間にあった遺骨。一箇所にまとめて放置されていた

八重瀬岳にある公園の岩の隙間にあった遺骨。一箇所にまとめて放置されていた

当然、沖縄で闘った部隊の名簿も残っていません。井上さんたちが見つけた認識票も、野戦高射砲第81大隊や歩兵第22連隊までは判明しましたが、個人の名前の特定には至りませんでした。部隊名の判別は防衛省や米軍が残していた戦史などの資料から判明したのです。遺族に返せる、喜んでもらえる、との期待は一気に萎んでしまいました。こうした苦労が報われないのは収集作業を続ける上で、もっとも辛い時です。国や家族を守るため、命を賭して闘った兵士の帰りを待つ留守家族の心情を思うと、あまりにも厳しく哀れな現実です。こんな後方支援しかできなかった国は、二度と戦争を起こしてはならないし、戦いに巻き込まれてもいけないと感じました。 

戦死した兄の名を平和の礎から紙に複写する井上夫妻、本島南部の摩文仁の丘で

戦死した兄の名を平和の礎から紙に複写する井上夫妻、本島南部の摩文仁の丘で

ただ、稀に部隊名や名前が書かれている認識票も出てきます。位が高い将校や民間の軍協力者が所持していたとみられています。井上さんたちが掘り出した認識票にも=写真下、「留萌町南山手通 高藤義冶と刻まれていました。これならばと戸籍などを頼りに身元を追跡しましたが、持ち主の特定には至りませんでした。何とかならないものかと、持てる手段はすべて使いましたが、解りませんでした。専門家に聞くと、家族や親戚が死に絶えて戸籍が消えてしまったか、もしくは戦時中の特務機関関係者で偽名を名乗っていたのでは、と憶測されていました。

認識表2認識表2表

残念な結果ですが、沖縄戦では遺骨と一緒に旧日本兵の認識票が出てきても、家族のもとへ戻ることができません。私たちも沖縄守備隊の司令部壕から、複数枚の認識票と遺骨、遺品を掘り出しましたが、すべてが手がかりなしで返還に至りませんでした。とても、悲しく悔しい現実です。

終戦から60年の時、掘り出した100柱を超える遺骨を納骨する国吉さん(左端)と井上ご夫妻、沖縄戦没者墓苑で

終戦から60年の時、掘り出した100柱を超える遺骨を納骨する国吉さん(左端)と井上ご夫妻、沖縄戦没者墓苑で

井上さんご夫婦は、北海道の知床に住んでいらっしゃいます。若い時から働き詰めに働いて農地を次々と開拓し、定年後の最初の旅行が遺骨収集での沖縄への旅でした。そして孫も生まれ隠居する年齢になっても、壕の中で掘り続けられました。終戦から60年の年、NHKのドキュメンタリー番組に取り上げられ、それを最後に遺骨収集は卒業されましたが、今も電話でお話すると、掘りに行きたくてウズウズしている、とおしゃいます 。

壕の入口で一服する井上夫妻。左端は国吉さん、本島南部の旧具志頭村で

壕の入口で一服する井上夫妻。左端は国吉さん、本島南部の旧具志頭村で

律儀な方なので、番組で「もう終わりにする」と、宣言してしまった手前、収集活動には来られませんが、お身体が動く限りは、また、あの熟練の手際を見せて頂きたいものです。

大勢の方が亡くなり、波打ち際を埋め尽くした海岸で慰霊する井上夫妻、本島南部の大度海岸で

大勢の方が亡くなり、波打ち際を埋め尽くした海岸で慰霊する井上夫妻、本島南部の大度海岸で

大先輩。いつまでもお元気で長生きしてください。不肖の後輩ですが、私たちが引き継ぎます(律)。