みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

「記録」-沖縄戦・戦没者の遺骨収集

真っ黒に焼かれた遺骨(完結編)

懐中電灯の灯りに浮かぶ焦げた遺骨。作業終了間際に出てきたので、すべて発掘できていない

懐中電灯の灯りに浮かぶ焦げた遺骨。作業終了間際に出てきたので、すべて発掘できていない

沖縄本島中部にある壕から、真っ黒に焼かれた遺骨が出てきました。この壕で見つけた遺留品の持ち主が判ったので、関連の遺骨などがないかを探査中に出てきました。上腕骨と顎の骨などを掘り出したところで、時間切れとなって明日に持ち越しです。

焼かれた下顎骨を見る筆者②。歯の並びや親知らずの形からして若い方のようだ

焼かれた下顎骨を見る筆者②。歯の並びや親知らずの形からして若い方のようだ

焼けた遺骨が出てきた場所は、持ち主が判った遺留品が発掘された地点とは少し離れていますので、両者は無関係だと思われます。が、ここで亡くなられた方々は、その多くが壕内に噴射された火炎放射器か、馬乗り攻撃で流し込まれたガソリンなどで焼き殺されたと見られます。とても凄惨な光景です。

焦げた上腕骨を手にする筆者②。最初に発掘された

焦げた上腕骨を手にする筆者②。最初に発掘された

掘り出す遺留品のほとんどが焦げたり、溶けたりしており、当時の壕内部は相当な高温になったと想像できます。戦争とは言え、酷い行為です。この近くの別の壕からは、アンプルや注射器、薬瓶などが大量に出ており、そこは病院壕だったようです。

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす国吉勇さん。中にいた人たちは当時、こんな暗がりで息を殺しながら耐えていた

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす国吉勇さん。中にいた人たちは当時、こんな暗がりで息を殺しながら耐えていた

那覇市や浦添市、南風原町などは、本島南部の糸満市であった攻防に等しい大激戦地で、多くの兵士や学徒隊、民間人も亡くなっています。ただ当時は、軍が作った陣地壕や病院壕に民間人は入れなかったので、ここで見つかる遺骨や遺留品はたぶん兵士のものだと考えられます。

天井も壁面も焼け尽くされた壕。筆者①が国吉さんと遺留品の判別をしている

天井も壁面も焼け尽くされた壕。筆者①が国吉さんと遺留品の判別をしている

生きながら、炎に焼かれた方もいたのでしょうか。とても気の毒な最後の姿に胸が詰まります。自分の父親や兄弟、息子が、戦地でこんな死に方をしたと知ったら、私たちは耐えられそうにありません。でも、亜熱帯の島のあちこちに、こうした凄惨な現場は残されているようです。

見えてきた遺骨を少しでも掘り出そうとする筆者②。日没が迫ったので、翌日に持ち越すことになった。泥や砂にまみれながらも、毎日、作業を続けている

見えてきた遺骨を少しでも掘り出そうとする筆者②。日没が迫ったので、翌日に持ち越すことになった。泥や砂にまみれながらも、毎日、作業を続けている

遺骨周辺には巨岩もあり、掘り出すには時間がかかりそうです。本日の収骨はあきらめ、作業は翌日に再開することになりました。ごめんなさい、戦没者の皆さま。明日も朝一に駆けつけますので、もう少しだけお待ちくださいね。

同じ壕から出た黒焦げになったカンパン。その下は溶けた瓶の口。高温で焼かれたらしい

同じ壕から出た黒焦げになったカンパン。高温で焼かれたらしい

同じ壕から出た黒焦げになったカンパン。その下は溶けた瓶の口。高温で焼かれたらしい

同じ壕から出た溶けた瓶の口。高温で焼かれたらしい

結局、頭骨と肩、首の骨の一部が出ただけで、全身骨格の発掘には至りませんでした=写真下、焼けた顎の骨。焦げた色が骨に付着したのか、赤黒くなっていた。遺留品も何点か出ました。広く大きな壕なので、いつか隈なくやってみたいと思います。

焼けた顎の骨。焦げた色が骨に付着したのか、赤黒くなっていた。遺留品も何点か出ました。広く大きな壕なので、いつか隈なくやってみたいと思います

焼けた顎の骨。焦げた色が骨に付着したのか、赤黒くなっていた。遺留品も何点か出た。広く大きな壕なので、いつか隈なくやってみたい

JYMA(日本青年遺骨収集団)の若者たち

戦没者の遺骨に黙祷を捧げるJYMAの学生ら、糸満市大度で

戦没者の遺骨に黙祷を捧げるJYMAの学生ら、糸満市大度で

毎年、多くの遺骨収集団体が、遺骨収集家の国吉勇さんを頼って沖縄を訪れます。JYMA(日本青年遺骨収集団)もそのひとつです。私たちは、沖縄に長期滞在するようになったここ数年、彼らと一緒に活動をしています。メンバーは、日本国内だけでなく、アジア各地で亡くなった戦没者の遺骨を収集する大学生らが中心の若者たちです。

沖縄戦に動員された「白梅学徒隊」の生き残りから話を聞くメンバーたち

沖縄戦に動員された「白梅学徒隊」の生き残りから話を聞くメンバーたち

発足したのは1967年。厚生労働省が実施する国内外の遺骨収集活動に、派遣メンバーを送るなどの協力関係を保っています。JYMAとは、「Japan-Youth-Memorial-Association」の頭文字をとった略称で、東京都が2002年に特定非営利活動法人に認定しています。大学生が中心ですが、最近は社会人も参加しており、海外での収骨活動などにも、学生と社会人の混合チームが派遣されることもあるようです。

沖縄戦に動員された「白梅学徒隊」の生き残りから話を聞くメンバーたち

沖縄戦に動員された「白梅学徒隊」の生き残りから話を聞くメンバーたち

中には、看護師やマスコミ関係、教員などを目指す学生たちも参加し、あの戦争の教訓を学びながら、戦場で亡くなった犠牲者らの遺骨収集を手伝ってくれます。今年も十数人が沖縄に駆けつけ、暗くて狭い壕の中で、汗と泥にまみれながら、頑張ってくれました。去年は女子学生の比率が高かったのですが、今年は男子学生の方が多かったようです。

暗い壕内で遺骨収集活動をする学生たち、糸満市国吉で

暗い壕内で遺骨収集活動をする学生たち、糸満市国吉で

戦没者の遺骨は、一見するとサンゴ石灰岩のかけらや木片にそっくりで、慣れないと見分けることができません。そして、初めて参加する学生も数人いましたので、当初はまともに収集が出来るのか心配でした。でも全員が熱心に取り組んでくれたおかげで、ほとんどの学生が骨を見分けられるようになり、今年も10柱前後は収骨できたようです。短期間の成長ぶりに驚かされましたが、若さと集中力が生み出す力なのでしょう。

収集した遺骨を選別する学生たち

収集した遺骨を選別する学生たち

派遣の終了時には必ず、全員が集まって挨拶に来て下さり、今年もお礼の寄せ書きを戴きました。私たちの宝物にしています。最近は若者に囲まれる機会などないため、とても清々しくて頼もしく感じます

収集した遺骨を選別する学生たち

収集した遺骨を選別する学生たち

白梅学徒隊・同窓会の中山きくさんも、今回、同級生を亡くした壕の遺骨収集をしてくれた学生たちに、心よりのお礼を述べておられます。ありがとう、来年も来てくださいね。そして、一緒に頑張りましょう。

遺骨の前で手を合わせる高山寛・派遣隊長(右端)

遺骨の前で手を合わせる高山寛・派遣隊長(右端)

写真もいっぱい貼り付けちゃいます。

国吉勇さん(左から3人目から、遺骨の部位の説明などを受ける学生たち

国吉勇さん(左から3人目)から、遺骨の部位の説明などを受ける学生たち

地元新聞に紹介されました

私たちの遺骨収集活動が地元紙に紹介されました。1ページのグラフ面で写真5枚、約50行の記事です。最初はお断りしたのですが紆余曲折の末、取材を受けることになってしまいました。ビジュアル的に全くいけてない中年夫婦の情けない姿を、沖縄の方々に見ていただくのは忍びないです。しかし、時計のネジを逆さに巻くわけにはまいりません。恥ずかしながらメディアに初出することになってしまいました。

写真グラフの紙面

写真グラフの紙面

期間は1週間程度でしたが、取材する立場からされる側にまわると、勝手が違って思うように行動できません。そして、取材記者も24歳の青年カメラマンだったので、お互いが緊張して息が合わず、最初は苦労しました。でも、終盤になってくると、私たちもカメラマンが気にならなくなり、自然な形で取材を受けることができました

たくさんの遺骨を前に国吉勇さん(左端)と語る筆者。中央は地元紙のカメラマン

たくさんの遺骨を前に国吉勇さん(左端)と語る筆者。中央は地元紙のカメラマン

メディアへの露出はできる限り避けたいのですが、戦没者の遺骨がおかれている状況を鑑みますと、そうも言ってはいられません。自ら報道することも重要ですが、他のメディアへの橋渡しはもっと重要だと認識しています、ゆえに、今後も機会があれば、遺骨収集関係の記事・写真を仲介したり、紹介したりする役割を担っていこうと自負しています。

オシャレだったの?

ポマードの瓶。中身が残っていた、糸満市糸洲で

ポマードの瓶。中身が残っていた、糸満市糸洲で

遺骨が16柱も出てきた壕付近から掘り出される遺留品に注目しています。ポマードの瓶のほか、髪や髭を切るハサミ、中身が入った石鹸箱など、その壕内で暮らしていた方の生活感が漂う品々が出てくるからです

髪や髭を整えたのかハサミも出土

髪や髭を整えたのかハサミも出土

ここは丘全体に散兵壕、銃眼がついた塹壕やタコツボ、大きな陣地壕などもあることから、多数の旧日本兵が守備していた場所と思われます。摩文仁にあった司令部の手前に位置することから、重要な最終防衛ラインのひとつだったのでしょう。そんな場所から、個人の当時の暮らしぶりが伝わってくるものが出土すると、どんな人がそこに居たのか気になってしまします。

軍からの支給品らしい歯ブラシ

軍からの支給品らしい歯ブラシ

小さな顎の骨。向かって左の奥歯に未成熟の親知らずが見える

小さな顎の骨。向かって左の奥歯に未成熟の親知らずが見える

広大な丘に壕が点在していますので、作業が遅々として進みませんが、何年かかってもやり遂げたい場所です。その理由は、大人の男性の遺骨に混ざって子どもか小柄な女性の遺骨が出てきたからです。戦禍に巻き込まれた民間人こそ、まさに沖縄戦の真の犠牲者だと思います。兵士も民間人も命の重みに変わりはありませんが、暮らしていた場所が地獄に豹変し、鉄の防風が吹き荒れる逃げ場のない戦場をさまよい歩いた方々の事を思うと、気の毒で涙が止まりません

石鹸箱と針箱らしきものが出てきた。干からびているが中身の石鹸などが残っていた

石鹸箱が出てきた。干からびているが中身の石鹸が残っていた

針箱らしきものが出てきた

針箱らしきものも出てきた

以前、収集活動をした糸満市米須の壕は、入口付近からお年寄りの入れ歯と赤ちゃんの骨の一部が出土したことがありました。その壕の奥には、兵士たちの靴や手榴弾があったことから、民間人を入口において、兵士たちが壕の奥に隠れていた状況が発掘現場から想定されます。その壕も火炎放射器で内部が焼き尽くされていたので、隠れていた人はさぞかし辛い思いをしながら亡くなったのでは、と思います

お骨を遺骨収集袋に詰める作業。布袋に発掘場所と収集に関わった人の名前を書き込む

遺骨を収集袋に詰める作業。布袋に発掘場所と収集に関わった人の名前を書き込む

戦場とは思えないお洒落な道具を持っていた方は、生き残れたのでしょうか。旧日本軍兵士で男性だったと思いますが、これらの遺留品の上に2m以上の土砂が被っていたので安否は判りません。この遺留品の近くからは、まだ遺骨は出てこないので、この場から逃れて助かっているかもしれません。

お骨のすぐ下から出てきた腕時計。劣化が酷く元の形が判別できない

お骨のすぐ下から出てきた腕時計。劣化が酷く元の形が判別できない

 亜熱帯のジャングルに覆われている糸洲の丘。今から68年前のこの地は、米軍の物量による凄まじい攻撃を受けながら、南へ敗走する兵士と逃げ惑う民間人らがごったがえす、「地獄絵図」だったのでしょう。もう戦争は懲り懲りです、と語りながらも、近年、また日本の周辺国で、きな臭い動きが胎動しています。私らは、他国からの侵略もさることながら、一度走りだしたら止まらない日本人の持つ国民性が恐ろしいです。非常時である、という理由で民主主義はなくなり、誰も逆らえなくなった世相の中で、死の待つ戦場へ送り出された兵士たち。暮らしている地が戦場となり、ある者は戦い、ある者は逃げ惑う。そんな事態に国民を追い込んでも、あの戦争は正しかった、とする政治家や活動家の多いこと。これは失言というよりも、本心でそう思っているのかもしれません。

中身が残っている赤チンも出土

中身が残っている赤チンも出土

目薬の空き瓶も出てきた

目薬の空き瓶も出てきた

沖縄での遺骨収集で感じることは、68年前の地獄が発掘を通して見えてくることです。血肉が飛び散るような凄惨な光景ではありませんが、お骨や遺留品の状況が、それらを生々しく語ってくれます。そんな場で、時には涙し、時には憤りながら続ける作業。気力や体力が衰えない限り続けてゆくつもりです(律、哲)

国吉さん(左から二人目)と一緒に遺骨の選別をするJYMA(日本青年遺骨収集団)の学生たち。遺骨に触れる前に、そっと手を合わせ冥福を祈っていた。糸満市大度で

国吉さん(左から二人目)と一緒に遺骨の選別をするJYMA(日本青年遺骨収集団)の学生たち。遺骨に触れる前に、そっと手を合わせ冥福を祈っていた。糸満市大度で

次々と出る不発弾とその処理

壕などから出てきた旧日本軍の銃弾。900発近くある、糸満市で

壕などから出てきた旧日本軍の銃弾。900発近くある、糸満市で

これでもか、というほど、毎日、不発弾が出てきます。米軍の砲弾、旧日本軍の爆雷、手榴弾、地雷、銃弾‥。火薬量が多くて危険なものは、出てきたらすぐに通報するようにしていますが、銃弾などは連日のように十数発ずつ出てくるので、まとめて処理していただくようにしています。

壕から出てきた急造爆雷に入っていた火薬。10キロはあるとみられ、これが3個出土した、糸満市真栄里で

壕から出てきた急造爆雷に入っていた火薬。10キロはあるとみられ、これが3個出土した、糸満市真栄里で

今回は民家のすぐ裏手の丘にある元病院壕の出口付近で収集活動をしており、穴を掘り進めている場所は母屋から10メートルも離れていません。もし、山火事などで地面付近にある不発弾に引火して誘爆すると、不発弾の数や火薬の量からいって、間違いなく大惨事になると思われます

壕同じから出てきた地雷。これも日本製

壕同じから出てきた地雷。これも日本製

この家に住んでいらっしゃるご家族も、「戦没者の遺骨収集と不発弾処理が終わらない限り、私らの戦後は終わらない」と、憤っておられ、ボランティアの手でなく、国による抜本的な対策が望まれるところです。しかし、遺骨収集事業にしても、不発弾処理にしても、ほとんどは情報があれば動くという程度で、国を挙げて積極的に進めようとする姿勢は感じられません

同じ壕から出てきた砲弾。種類は不明

同じ壕から出てきた砲弾。種類は不明

この壕も約20年前に、反対側の入口で国による遺骨収集事業が行われ、半分ぐらいは収骨も終わっているとされています。でも、民家に近い側は20年近くも放置され、最近になってようやく国による新たな収集事業が検討されています。住んでいらっしゃる方々は、「一度で全部終えて欲しかった。戦中から戦後、私たちは不安と恐怖と共に暮らしてきた。早く何とかして欲しい」と訴えています。

通報を受けて駆けつけた警察官。銃弾の数の多さに目を丸くしながら、遺骨収集家の国吉勇さんの話を聞いていた

通報を受けて駆けつけた警察官。銃弾の数の多さに目を丸くしながら、遺骨収集家の国吉勇さんの話を聞いていた

68年前、数多くの貴重な命を戦場に送り込み、多くを帰らぬ人にしてしまった日本国。その無責任な体質は、当時も今もあまり変わらないなぁ、と遺骨収集や遺留品返還の活動をしていて感じます。仮定の話ですが、もし私たちが再度、他国と戦わなければならない事態になったとしたら、こんな他力本願な形でしか戦後処理を進めない国のためには、戦いたいとは思えません。投獄されてでも、戦争の反対を訴え続けたほうが、まだマシのような気がします。あくまでも仮定の話ですが。

陸上自衛隊の爆発物処理部隊が来てくれた。撮影していると、厳しい視線で一瞥。問答無用で排除された。危険な壕内から掘り出したのは私らなのに‥。せめてねぎらいの言葉でもかけて欲しかった

陸上自衛隊の爆発物処理部隊が来てくれた。撮影していると、厳しい視線で一瞥。問答無用で排除された。危険な壕内から掘り出したのは私らなのに‥。せめてねぎらいの言葉でもかけて欲しかった

今回掘り出した不発弾類は糸満警察署を通して陸上自衛隊に処理して戴きました。感謝の気持ちと共に、ご苦労さま、とお伝えしたいです。自衛隊は新聞記者時代に、カンボジアや旧ザイール(旧コンゴ民主共和国)の派遣に同行したこともあり、施設部隊などの能力の高さや、折り目正しい態度で勤勉に任務に励む派遣隊員の方々を高く評価しています。今回のような不発弾処理のことなどを考えると、沖縄や硫黄島での遺骨収集活動は、自衛隊の新人さんたちに担当していただけないかと、思ったりもします。今も数多くの遺骨が眠る海外での活動は、関係国の国民感情などから難しいと考えますが、日本国内だけでも自衛隊による遺骨収集が実現しないかと思います。もし、この記事を読んでくださる関係者の方がいらっしゃればご一考ください。

 

 

 

 

 

白梅学徒隊の生存者と遺骨収集の学生ボランティアが交流

写真上

「白梅学徒隊」の中山きくさん

太平洋戦争で、最も激しい地上戦があったとされる沖縄。その戦場では、県内から動員された男女の学生が、「学徒隊」として戦闘要員や補助看護婦として戦禍に巻き込まれていきました。昨年、「白梅学徒隊」の慰霊碑とゆかりのガマに、遺骨収集活動をする大学生のボランティア団体・日本青年遺骨収集団(JYMA)を案内したら、ぜひ、生き残った方の話が聞きたいという申し出。それで、旧日本軍の病院壕などで看護助手などをした「白梅学徒隊」の中山きくさんに、大学生に向けた沖縄戦の証言と平和学習をお願いしました。きくさんは、二つ返事で応じてくださり、女子学徒隊の生存者と遺骨収集活動をする大学生との交流が実現しました。

第24師団第一野戦病院壕の前で学生らに戦場での経験を話すきくさん、八重瀬町の八重瀬公園で

第24師団第一野戦病院壕の前で学生らに戦場での経験を話すきくさん、八重瀬町の八重瀬公園で

白梅学徒隊とは、沖縄県立第二高等女学校の4年生によって編成された部隊で、56名が補助看護婦として東風平国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊。米軍の攻撃の激化に伴って看護教育は短期間で打ち切られ、現八重瀬町にある八重瀬岳中腹の第24師団第一野戦病院壕に、事前に除隊した10名を除く46名が配属されました。兵隊さんの傷を消毒して包帯を交換するぐらいだろう、と漠然と思っていた学徒たちでしたが、現実は想像をはるかに超える厳しいものでした。運び込まれる負傷兵は、片腕がもげかけていたり、被弾した傷が悪化して血膿と蛆にまみれていたりする患者も。薬も包帯も足りず、不衛生を極める壕の中で、排泄物の処理や食事の介助などのほか、きくさんがいた手術場壕では、軍医によって切り落とされた手足を、壕の外に「棄てにいく」のも仕事でした。

きくさん(右端)の案内で野戦病院の手術場壕を見学する学生たち、八重瀬町で

きくさん(右端)の案内で野戦病院の手術場壕を見学する学生たち、八重瀬町で

6月初旬、米軍の猛攻で野戦病院が南部へ後退する事になり、白梅学徒隊にも解散命令が下りました。軍と行動を共にしたい、と申し出ましたが、軍命に逆らうことはできません。傷ついた兵士たちと共に地獄の戦場に放り出された少女たちは、それぞれ小さなグループを作って避難民に紛れ南へ向かったのです。その逃避行の最中に、数多くの犠牲者が出ました。そして、糸満市国吉に後退していたこの野戦病院に、解散後に再び合流していた学徒たちがいました。そのうち、6月21日から22日にかけての米軍の激しい攻撃によって10名が戦死し、最終的に従軍していた46名の生徒のうち計22名が亡くなる惨事となったのです。

様々な壕などから掘り出されたクシ

様々な壕などから掘り出されたクシ

沖縄戦に動員された女子学徒隊は白梅学徒隊の他にも8校あります。

①「師範学校女子部と県立第一高女(ひめゆり学徒隊)」

②「県立首里高女(瑞泉学徒隊)」

③「私立積徳高女(積徳学徒隊)」

④「私立昭和高女(梯姑学徒隊)」

⑤「県立第三高女(なごらん学徒隊)」

⑥「県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊)」 

⑦「県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊)」

⑧「八重山農学校(八重山農女子学徒隊)」

※順不同

きくさんが用意した当時の様子を描いたパネルに見入る学生ら

きくさんが用意した当時の様子を描いたパネルに見入る学生ら

これらの女子学徒隊から、総計で200人余りの戦没者が出ています。しかし、沖縄県では戦後、すべての高等女学校が廃止。彼女たちはよりどころをなくし、新たな後輩たちの支えを得ることもできなかったのです。太平洋戦争の末期、亜熱帯の小さな島々に吹き荒れた鉄の暴風と共に、女子学徒たちの記憶や記録を存続できる組織がなくなってしまったのです。

きくさんが用意した当時の様子を描いたパネルに見入る学生ら

きくさんが用意した当時の様子を描いたパネルに見入る学生ら

昨年末、沖縄を訪れた天皇、皇后両陛下が白梅学徒隊の生存者らと懇談されました。その時に皇后陛下が、白い菊の花を手渡した相手がきくさんでした。陛下は「白梅の塔は、どちらの方角ですか」と聞かれ、両陛下が揃ってその方向へ深く拝礼されたそうです。

白梅学徒隊が配属されていた病院壕などから掘り出された種々のアンプル類

白梅学徒隊が配属されていた病院壕などから掘り出された種々のアンプル類

女子学徒たちの悲惨な記憶を後世に伝えることは、一部の学徒隊を除いて難しい事態に追い込まれています。最近になって、草の根的な市民の動きや学徒隊同士の連携で、記憶を記録させる作業も本格化してきていますが、年月の経過と共に証言できる人が失われつつあるようです。

同級生らを亡くした壕の遺骨収集をする学生らと祈るきくさん。塔に向かい「皆んなのために学生さんが来てくれましたよ」と語りかけた

同級生らを亡くした壕の遺骨収集をする学生らと祈るきくさん。塔に向かい「皆んなのために学生さんが来てくれましたよ」と語りかけた

今回、きくさんと交流したJYMAは、学生らが中心となって太平洋戦争で亡くなった戦没者の遺骨を収集するボランティア団体です。国内で唯一の住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄、抑留者が亡くなったシベリア、餓死の島と言われたガダルカナルなどの南太平洋の島々にまで足を伸ばして、遺骨収集活動をしています。最近は看護学校の生徒さんやマスコミを目指す学生らも参加しており、遺骨収集に対する真摯な態度と熱心さから、ここ数年は現場で一緒に活動することがあります。

白梅の塔横の壕で遺骨収集活動をする学生たち、糸満市で

白梅の塔横の壕で遺骨収集活動をする学生たち、糸満市で

毎年のようにメンバーが更新されてゆく中、高いテンションで遺骨収集に望んでくれる姿勢は素晴らしいの一言です。ただ、沖縄で地獄の戦闘があった当時の時代背景をはじめ、地元の方々が持つ戦争への嫌悪感や遺骨への複雑な思い、現在の政治状況などを判断するには、短期間の参加だけでは少し若さが目立ちます。そのためにも、きくさんとの交流はお互いにとって有意義な時間になったようです。

この日発掘した遺留品。中央の四角いものは火炎放射器で焼かれて黒焦げになったカンパン。きくさんは「これは‥」と絶句。そして、「当時を思い出します。同窓生に見せたい」と語り、持ち帰った

この日発掘した遺留品。中央の四角いものは火炎放射器で焼かれて黒焦げになったカンパン。きくさんは「これは‥」と絶句。そして、「当時を思い出します。同窓生に見せたい」と語り、持ち帰った

きくさんの証言を聞いたある学生は、「体験談が生々し過ぎて、中途半端な気持ちでは聞けない、と背筋が伸びました。心の底から戦争をしてはならないと感じました」としみじみ。別の女子参加者は、個々の現場で聞く話に耐え切れなくて、涙が止まらない様子でした。今回、遺骨収集した白梅の塔横の壕は、過去に何度も収集活動が行われた壕です。にもかかわらず、学生たちは短時間で頭骨や足の骨などを捜してきてくれました。最後に全員でお骨を前に白梅の塔に拝礼し、きくさんは「こんな感動的な場面ははじめてです」と喜んでいらっしゃいました。

きくさんの証言を聞く学生ら。真剣な眼差しで見つめる

きくさんの証言を聞く学生ら。真剣な眼差しで見つめる

きくさんも学生たちも次の機会があれば、と共に話して下さります。出来る限り、そのお手伝いは続けてゆきたいと考えています。でも、お元気で凛とした佇まいのきくさんも84歳。いつかは第一線で沖縄戦の悲惨な体験を語るのが難しくなる時期が訪れそうです。そうした時にこそ、学生たちが正確な聞き取りと現場での遺骨収集活動の経験を活かして、この国を誤った方向へ導かないように進んで行ってもらいたいものです。

証言中に一休み。それでも学生たちとの会話を欠かさないきくさん

証言中に一休み。それでも学生たちとの会話を欠かさないきくさん

きくさんとは8年前、戦後60年の取材を通じて出会い、手紙のやりとりはしていました。それが、久方ぶりの再開で、開口一番、「わたし、三本足になったよ」と、杖を見せながら茶目っ気たっぷりな笑み。当時より元気のパワーがみなぎっているように感じました。その姿に自分たちの母親のような親しみを感じてしまいます。そして、どんなに忙しくても、沖縄戦のことを語る場があれば、必ず出かけて証言する姿に心より尊敬の念を抱きます。戦争で貴重な青春を、人生を奪われた友への想いを胸に活動するきくさんに、心よりエールを送りたいと思います。

杖を付きながらも他人の手助けなしで階段や坂道を上り下りするきくさん。「外で活動している事が元気の源なの」と笑う

杖を付きながらも他人の手助けなしで階段や坂道を上り下りするきくさん。「外で活動している事が元気の源なの」と笑う

いつまでも元気で長生きしてくださいね、きくさん。私たち夫婦はあなたが大好きです。

仲間たちにお線香を手向けられるきくさん。女子学生らがそっと寄り添った

仲間たちにお線香を手向けられるきくさん。女子学生らがそっと寄り添った

◎「教えてください」:発掘された印鑑の読み方が判りません?

何て読むの?

先日、糸満市内の壕で発掘した印鑑の読み方が判りません。

篆書体で掘られています。

私たちは「環」=「たまき」かなぁ、と思いましたが、確信が持てません。

そして、平和祈念公園の戦没者データベースを引いても、沖縄戦で亡くなられた方の中には、「環」姓の方は見当たりません。

読み方が違うのでしょうか‥。

どなたか、読み方がわかる方がいらっしゃれば、当HPまでご連絡ください。

よろしくお願いいたします。

2013年2月2日、機関銃の保弾板付弾倉と弾が出てきました

錆を落とせば今にも発射できそうな機関銃の銃弾、糸満市で

錆を落とせば今にも発射できそうな機関銃の銃弾、糸満市で

本日も1月29日から収集活動をしている壕で作業をしました。少しの遺骨と大量の遺留品が出土しました。そして、壕の入口の土砂の下から機関銃の弾と弾倉が多量に出てきました。戦後68年が過ぎた今も、こんな危険な武器が残っていることに、驚きよりも憤りを感じます。もう発射されることはないと思いますが、昨日発掘した爆雷のすぐ横に埋まっていたため、どちらかに引火したら、周辺の民家は大変なことになってしまいます。

火炎放射器で焼かれ弾けて、弾頭がなくなった機関銃の薬莢。500発前後はあった

火炎放射器で焼かれ弾けて、弾頭がなくなった機関銃の薬莢。500発前後はあった

そして、保弾板に付いていた銃弾は、火炎放射器で焼かれていたため弾頭が弾け飛んでいました。当時、轟音と共に何百発の銃弾が飛ぶ音が壕の中にも響き渡ったでしょう。

重機関銃の保弾板付弾倉

重機関銃の保弾板付弾倉

この壕は、旧日本軍が傷病者の収容に使っていた、と、近所の方々は証言して下さいます。でも現在は、人ひとりが屈んでようやく歩ける広さの通路しか残っていないため、作業は難航しています。その上、入口付近に大量の土砂とゴミが投げ込まれており、割れた瓶や金属片などもあって、とても危険です。更に、頻繁に爆雷や手榴弾などが出てくるため、先の尖ったツルハシなどを思い切って奮えません。

旧日本兵が使っていたアルミ製のカップ。焼かれてへしゃげていた

旧日本兵が使っていたアルミ製のカップ。焼かれてへしゃげていた

この壕は、県の外郭団体である「戦没者遺骨収集情報センター」が厚生労働省に依頼して、近々、大規模な発掘作業をする予定を立てているそうです。が、十数年前にも同省が反対側の入口から遺骨収集をしており、その時は壕全体の発掘が完全に終わらないまま、中途半端に終了したようです。それを受けた地元の方々は、「今度こそ、きちんと完遂して欲しい」と訴えておられます。私たち個人の労力では、入口の一部をやるので精一杯です。どうか、国や県など責任ある機関が住民の声に真摯に耳を傾け、最後まできちんと対処して欲しいと願っています

爆雷を発掘しました

爆雷に詰められた火薬を見る国吉勇さん、糸満市で

爆雷に詰められた火薬を見る国吉勇さん、糸満市で

糸満市の海に近い集落の脇にある壕から、旧日本軍の急造爆雷が出てきました。木箱の中にピクリン酸が含まれた火薬を詰めて使用されていました。3キロ、5キロ、7キロ、10キロ、15キロと区別されていたと記録が残っており、主に米軍の戦車対策として使われたようです。火薬量が少ないものは戦車のキャタピラを破損させる程度でしたが、10キロを超える大きなものは本体の破壊も可能だったとされています。

爆発物の処理をお願いする通報で、駆けつけた警察官と遺骨収集情報センターの職員

爆発物の処理をお願いする通報で、駆けつけた警察官と遺骨収集情報センターの職員

ただ、この爆雷、沖縄戦では、投げつけたり、仕掛けたりするのではなく、ほとんどが兵士が背負って戦車などに肉弾攻撃をしていたようです。なかでも、鉄血勤皇隊と呼ばれた学徒兵の一部が、この爆雷を背負って切り込み(特攻)させられたとする報告もあり、未来ある尊い命を軽視した無謀な戦い方に憤りを覚えます

ピクリン酸が含まれた黄色火薬と手榴弾。並んで出てきた

ピクリン酸が含まれた黄色火薬と手榴弾。並んで出てきた

この爆弾は、信管が傷んでいるのと火薬が湿気っているせいで爆発しないと思われます(素人考えです)が、民家から5mも離れていない壕の入口に68年間も放置されていたことに驚きました。一緒に手榴弾や機関銃の銃弾なども出てきており、沖縄の人々が、いまだ危険な不発弾と隣り合わせで暮らしているのが気の毒でなりません。一日でも早く調査を進め、国や県が責任を持って回収すべきだと思います。

故郷に帰った万年筆-七里伍長の帰郷

帰ってきた万年筆

帰ってきた万年筆

沖縄戦で亡くなった戦没者の万年筆が68年ぶりに出身地の滋賀県に帰郷しました。持ち主は、沖縄本島南部の摩文仁の丘で戦死した滋賀県出身の七里操(しちり・みさお)さん(当時25歳)。記録によると、操さんは第62師団通信隊の分隊長として沖縄を守備していましたが、組織的な戦闘が終了する直前の1945年6月22日、守備隊司令部壕の近くで命を落としました。

写真上、操さんの似顔絵。志ま乃さんが大切に保管されていた

操さんの似顔絵。志ま乃さんが大切に保管されていた

操さんは若くして徴兵されたため、結婚しておらず、直系のご遺族はいらっしゃいません。一番近い方は、操さんの姉・故七里志ま乃さんの息子さんたちです。長男の伝夫(つたお)さんによると、操さんは四人兄弟の末っ子。両親と二人の兄、すぐ上の姉の志ま乃さんに慈しまれて育ちました。兵役に就く前は、国鉄で運行や連絡に欠かせない通信の仕事をしていたそうです。

操さんの万年筆を眺める甥の伝夫さん(手前)と妻の紀美子さん。「半世紀以上ぶりに帰ってくるなんて、奇跡だ‥」とつぶやいた、滋賀県長浜市で

操さんの万年筆を眺める甥の伝夫さん(手前)と妻の紀美子さん。「半世紀以上ぶりに帰ってくるなんて、奇跡だ‥」とつぶやいた、滋賀県長浜市で

「操は今、どうしているのかな」、「おなかは空いていないかな」、「無事でいるかなぁ」‥。終戦直後、ご両親と志ま乃さんは、一日千秋の思いで操さんの帰りを待ちわびていたようです。が、それも空しく、操さんの戦死公報が届きます。その知らせは南太平洋の島々や沖縄で戦死した多くの日本兵と同じで、遺骨も、遺品も、なに一つ戻って来ない悲しい報告でした。

万年筆に刻まれた名前を見る伝夫さん。現在もJR東海にお勤め中だ

万年筆に刻まれた名前を見る伝夫さん。現在もJR東海にお勤め中だ

終戦前後に、操さんだけでなく、二人の兄も亡くした志ま乃さんにとって、操さんの存在は特別だったようです。本土に復帰する前の沖縄は、交通も通信も発達していない占領された外国で、多くの日本人にとっては「遠い国」でした。その沖縄で、操さんが、どこで、どのように戦い、どんな最期を遂げたのか、知りたいと姉は思ったようです。結局、何もわからないまま月日が過ぎて、家を継いだ志ま乃さんは弟の墓を建て供養し続けていました。

佐敷さんから七里さん宅へ届いた手紙

佐敷さんから七里さん宅へ届いた手紙

そんな志ま乃さんの元に、戦後二十五年近く過ぎたある日、一通の手紙が届きます。沖縄で操さんと共に戦った一人の元学徒兵・佐敷興勇さんからの便りでした。戦後、沖縄県で日本高校野球連盟の仕事に携わっていた佐敷さんは「どうしてもご遺族に会って、七里さんの最期の様子を伝えたい」とずっと遺族を探しておられたのです。

操さんの写真と似顔絵を並べて母への思いを語る伝夫さん

操さんの写真と似顔絵を並べて母への思いを語る伝夫さん

そして、対面の時がやってきました。1970年8月、兵庫県の阪神甲子園球場で開催された夏の全国高校野球選手権大会。沖縄県代表のチームに同行してきた佐敷さんが、志ま乃さんを訪ねてきて、「七里操さんは、まさに命の恩人。私にとっては『瞼(まぶた)の日本兵』なんです」と、打ち明けました

佐敷さんが書き残した沖縄戦記

佐敷さんが書き残した沖縄戦記

動員された当時、佐敷さんは沖縄県立第二中学校の二年生。

年は14、5歳で、顔立ちにまだ幼さの残る少年兵でした。

そして操さんが分隊長を務める通信隊に配属され、首里、津嘉山、米須と行軍しました。

戦局が悪化するにつれて、日本軍は次第に本島南部に追い詰められ、摩文仁の丘一帯は激戦の地と化しました。1945年6月22日、佐敷さんの分隊もその只中にいて、壕に隠れて最後の突撃の号令を待っていたそうです。

凄まじい砲弾と銃弾の音が響き渡る中、米軍の火炎放射の戦車が佐敷さんらが潜む壕に近づいてきました。覚悟を決めたとき、分隊長の操さんの静かな声が耳に届きました。

「おまえたちはまだ若い。こんなところで死んではいけない」。

生きて虜囚の恥ずかしめを受けず、と教育され、国のため、家族のために死ぬ覚悟をしていた佐敷さんたちは戸惑いました。

すると操さんが、近くにあった戦友たちの遺体を積み上げて学徒兵をその下に隠し、「私は軍人だ。捕虜になってまで生きるつもりはない。だが、君たちは生きろ」と強く言い放ち、爆弾を抱いて一人で敵陣に突入して行ったそうです。

生き残った佐敷さんは、「操さんがいなかったら、たぶん私たちは死んでいました。今の私があるのは操さんのおかげです。目をつぶれば、恩人の最期の姿と言葉がいつも浮かんできます」。

深く頭を下げて報告する佐敷さんを前に、志ま乃さんは号泣しました。

「弟がどんな生き方をしたのか、惨めな死に方をしたのではないか、と不憫でならなかった」と、志ま乃さん。佐敷さんの話を聞いて、心より安堵の表情を見せていたそうです。

操さんが戦死した摩文仁の丘。ここで収集した遺骨を整理していたら当時の佐敷さんたちと年齢が近い高校生らが通りかかった、沖縄県糸満市の平和祈念公園で

操さんが戦死した摩文仁の丘。ここで収集した遺骨を整理していたら当時の佐敷さんたちと年齢が近い高校生らが通りかかった、沖縄県糸満市の平和祈念公園で

そして、万年筆を見つけたのは、沖縄県で60年近く遺骨収集を続ける国吉勇さん。15、6年前、摩文仁の丘にある福島県の塔横にある壕で、数十柱の遺骨を収集しました。「まったく手つかずで、遺骨が折り重なっていた」と、国吉さんは振り返ります。歯の1本でも、骨のひとかけらでも集めて納骨する国吉さんは5年前の9月、再度、この壕へ向かいました。垂直に近い崖に面した穴なので、ロープを伝って降りてゆきます。穴の底で地面に堆積した土をどけると、折れて半分になった万年筆と残骨を発見しました。持ち帰って洗浄しましたが、折れた本体に名前が刻んであることに気づかず、保管されていました。

平和祈念公園内にある壕で測量する国吉勇さん(手前右端)らのグループ。この壕も操さんが戦死した場所から100メートルも離れていない

平和祈念公園内にある壕で測量する国吉勇さん(手前右端)らのグループ。この壕も操さんが戦死した場所から100メートルも離れていない

昨年の冬、私たちが国吉さんと一緒に遺留品の整理をしていたら、万年筆など十数点に氏名らしきものが刻まれているのがわかりました。高熱で溶けていたり、一部が砕け折れていたりしており、文字も不鮮明で、名前なのかメーカーのロゴなのかの判別は困難を極めました。その1本にこの万年筆が混ざっていたのです。ペン先は吹き飛び、軸だけになっていましたが、「七里美佐男」と判読できます。「七里」いう名前は珍しいようで、沖縄県の戦没者データベースの中では七里操さんただ一人です。しかし、刻まれている下の名前が「美佐男」で、読み方は同じですが字が一致せず、別人なのかとあきらめかけていました。ところが、戦史に詳しい遺骨収集仲間らが、戦争の語り部や防衛研究所の関係者などに話を聞いてくれ、「『操』という名は当時、女性に命名されることが多かったので、戦地に向かう男としては持ち物に刻めなかったのでは」、と推測。また、万年筆が発見された場所が、佐敷さんの証言の中で「操さんが最期をとげた」という場所と一致し、すべてのパズルの断片が組み合わさるように、身元判明につながりました。

平和の礎に刻まれた操さんの名前

平和の礎に刻まれた操さんの名前

今回は滋賀県庁の援護課が、遺族探しに全面的に協力してくださいました。そのおかげで、短い期間で身元判明に至り、ご遺族の元へ届けることができました。でも、最愛の弟の帰りを待ち侘びて、戦死の知らせを聞いた後も心を寄せ続けていた志ま乃さんは2009年7月、92歳でこの世を去り、万年筆を手にすることはできませんでした。そして、操さんに命を助けられた佐敷さんも昨年末、返還の知らせを聞くことなく亡くなってしまいました。

操さんの万年筆が帰ってきたことを喜ぶ七里伝夫さん夫妻。母の志ま乃さんに届けてあげたかった‥

操さんの万年筆が帰ってきたことを喜ぶ七里伝夫さん夫妻。母の志ま乃さんに届けてあげたかった‥

これまでの遺骨や遺留品の返還は、厚生労働省に種類や発見場所、遺骨の有無などを報告して、ご遺族を探してもらっていました。しかし、申請しても1年近く待たされ、結果は1枚の紙切れで報告が来るだけ。ご遺族が見つからないのは仕方ないにしても、その探索の過程がボランティアに知らされることはありません。遺族が受け取りを拒否しているのか、受け取る人がいないのかまったく判りません。そして、国吉さんらの遺骨収集活動がすべてボランティアであり、遺留品をお返しするにあたって、経費など金銭の要求は一切ないことを説明して戴いているのか疑問です。その理由は、ご遺族と連絡がついても、金品を要求されるのではとか、何か見返り行為が必要なのか、と不安に思われているのを感じ取れるからです。

全国紙の新聞記者たちに取材される七里さん夫妻

全国紙の新聞記者たちに取材される七里さん夫妻

68年前、家族のため、国のために命をかけて戦った人たちの亡骸が、今も太平洋の島々や海中に残されています。沖縄でも4000柱近くが残っているとされていますが、収集時にきちんと1柱分として計上されていないこともあるようで、現実はもっと多くの遺骨が洞窟内や土の下に埋もれていると思われます。本来ならば、国が召集し、戦地へ駆り出したのですから、国が責任を持って、骨を拾うのが近代国家に課せられた責務だと考えます。それが、戦後70年近くが過ぎた今も遺骨は残されており、ボランティアが無償で収集した遺骨や遺留品の返還活動も、おざなりなお役所仕事で終わらせているのです。

沖縄平和祈念公園内の壕付近で昨年、掘り出した遺骨。後方に見えるのは平和祈念資料館

沖縄平和祈念公園内の壕付近で昨年、掘り出した遺骨。後方に見えるのは平和祈念資料館

収集ボランティアたちは、酸欠や落盤の恐怖に怯えながら、不発弾を叩けば一巻の終わりと覚悟して壕の中で汗と涙を流しています。七里さんの万年筆のように、一つでも故郷へ送り届けることができ、ご遺族に喜んでもらえたら、という思いだけで活動しています。この国の政治家や役人たちに、「国民の命と財産を守りたい」とする一片の矜持があるのなら、せめてご遺族の元へ返還する活動に力を入れてもらいたいものです。(哲、律)