
掘り出した遺骨を前にした梅原。胸中に様々な想いが巡っている
すっかりご無沙汰してしまいました。
この4月から「みらボラ」のリーダーを任された、中央大法学部3年の梅原あかねです。

白梅の塔横の壕内で手を合わせるみらボラのメンバー

白梅同窓会から戴いたご寄付
今回は私が報告いたします。
クラウドファンディングに「しあわせ募金」としてご寄付を戴いた、元女子学徒隊・白梅同窓会(旧沖縄県立第二高等女学校)の皆さまと交流会を開きました。那覇市内のホテルに4人の役員が集まって下さり、戦争中の話や戦後の平和活動などについて、時には熱く、時には静かに涙ぐみながら語って下さいます。

学徒の生き残りと同窓会の役員から話を聞く
会長の中山きくさまと副会長の武村豊さまは、御年90歳。学徒兵として従軍し、沖縄守備隊の第24師団第一野戦病院で、看護助手として働かれたました。そこで、ケガをした兵士の手術のお手伝いをしたり、切り取られた手足を運んだり、女子学生が担うにはあまりに過酷な体験をされたそうです。

戦時中の話をされる中山さん(手前の右端)と武村さん(その左)
さらに6月の上旬、米軍の侵攻により、八重瀬町にあった野戦病院壕が移動を余儀なくされ、突然の解散指令と同時に、砲弾が降り注ぐ戦場に放り出されたのです。数名ずつにわかれ、避難する民間人に混じりながら南部へ逃避行するも、46名いた同窓生のうち22名が戦死されました。

今年、掘り出した遺骨を納骨する梅原
きくさんたちが勤務した八重瀬の野戦病院壕や、糸満市の国吉地区にある白梅の塔横にある壕を見学しましたが、壁面などが火炎放射で真っ黒に焼かれていました。以前、ここで遺骨収集をした先輩たちによると、真っ黒に焼け焦げた遺骨や医療器具などが地面の下に埋もれており、過酷な戦闘の名残りが70余年過ぎた今も、色濃く残っていたそうです。

元学徒隊の話に身を乗り出して聞き入る学生
武村さんは、戦いのさなかに生き別れた母と姉の所在が今も判っていない、と呟かれます。こぼれ落ちそうな涙を手で押さえながら、「私が従軍したおかげで、母と姉は県外へ疎開できなかった。そのために・・。今も、責任を感じて、胸が苦しくなるときがあるの。せめて遺骨を見つけて、きちんと供養してあげたい」と語って下さいました。

掘り出した遺骨の前で泣き崩れる梅原
そして、「皆さんの活動は、私たち遺族にとって心の支えになる。ありがとう。今後もがんばってね」と励まして下さいます。優しい語り口調で聞かされる、凄惨な現場の様子。一緒に逃げ惑った友の死の瞬間や、悲しい別れの情景に、思わず身がすくみ、涙がこぼれました。

みんなで記念撮影

ずいせん学徒隊の碑にも慰霊のために立ち寄った
私がその場に立たされたら、どうしていいか判らなくなっていたでしょう。このみらボラの仲間たちが戦火にさらされ、一緒に逃げ惑う姿を思い浮かべると、身の毛がよだつようです。戦争は絶対に嫌。どんなことがあっても、起こしてはならないし、巻き込まれないようにしなければ、との決意がより強く固まりました。

抱き合って別れを惜しむ、白梅学徒の同窓生とみらボラのメンバー
私は中学、高校と沖縄県内の学校に通いました。そのため、他のメンバーよりは、沖縄戦の事を理解していたつもりでしたが、まだまだ不勉強であることを痛感させられました。そして今回の出会いが、さらに平和への願いを強くしてくれたように感じます。

白梅同窓会の中山会長と再会を誓い合う
ご寄付下さった白梅同窓生の皆さまへ、ささやかではありますが、破棄される予定だった琉球ガラスをリサイクルした「リボーンアクセサリー」のブローチをお贈りいたしました。喜んで頂けたようで、手渡した瞬間に胸へつけて下さる方も。そのおしゃれでお茶目な姿に胸がキュンとして、とても嬉しかったです。

進呈したアクセサリーを早速、身につけて下さる竹村さん
アクセサリーは、青森県で活動を支えてくれている斉藤ももちゃんが、たった一人で手作りしてくれました。そして、1個ずつに私たちの手書きのメッセージカードを添えました。過酷な戦争を生き抜いて、平和な時代を築いて下さった先人たちへの想いが届いてほしいと、願って。

みんなで心を込めて書いたメッセージカード

このブローチを同窓生の皆さまへ進呈した。ささやかなお礼の気持ちを込めて
来年は、学徒たちが働いた壕などで集めたガマ・ガラスを加工したアクセサリーをお渡しする予定です。ガラス集め中に手りゅう弾や遺留品が出てきたのには驚きましたが、まだ、遺骨収集も十分に行われていないのでしょう。これから私たちが、がんばります。長生きされて応援して下さい。

白梅の塔の上の壕で壕ガラス集めと遺骨収集

掘り出したガラスと手りゅう弾など
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