みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
2015遺骨収集活動345日目 戦没者の遺留品の返還活動(下)~奇跡の帰還

2015遺骨収集活動345日目 戦没者の遺留品の返還活動(下)~奇跡の帰還

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濱岡梅枝さん(左端)へ印鑑をお届けするIVUSAの合原波穂さん。中央は次男の尚志さん

濱岡梅枝さん(左端)へ印鑑をお届けするIVUSAの合原波穂さん。中央は次男の尚志さん

㊥から続きます。

※NHKテレビで放映されました

http://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20151208/4099061.html

※朝日新聞に掲載されました

http://www.asahi.com/articles/CMTW1512070100010.html

学生たちが帰った後、私たち夫婦も、お世話になった方々へ挨拶を済ませて、青森へ帰る準備をしていました。その時、一連の捜索活動を取材して、放送して戴いたNHKの記者さんから、一本の電話が。

NHKにインタビューされる濱岡梅枝さん

NHKにインタビューされる濱岡梅枝さん

「当局のコールセンターに、番組を見たという、濱岡敏雄さんの遺族を名乗る方から電話がありました」と、連絡が入ったのです。「えー、どんな方」と夫の哲二。「どうも、弟さんの関係者の様ですが、詳しいことは判りません」。冷静な口調ながらも、記者さんも興奮している様子。

沖縄戦没者の慰霊碑の前で

沖縄戦没者の慰霊碑の前で

届けてくれた学生たちに手を合わせる梅枝さん

届けてくれた学生たちに手を合わせる梅枝さん

お互い、驚きと、嬉しさに、感情を抑えきれません。「やりましたねぇ。いや、やったぞ!。帰青の船や青森での仕事を、すべてキャンセルして対応します」と哲二。記者さんも、「その方がいいと思います。学生さんはどうされますか」

札幌護国神社にある沖縄戦の慰霊碑に参拝する梅枝さんら

札幌護国神社にある沖縄戦の慰霊碑に参拝する梅枝さんら

「うーん、もう一度、呼ぶとなると、費用がなぁ。でも、声は掛けます」。アルバイトして貯めたお金で来ている学生には、酷な出費。で、合原波穂さんに電話すると、「ほんとですか!。行きます、絶対に行きます。う、う、ぅ‥」と、電話口で号泣する声。

あるし日の濱岡敏雄さん

ありし日の濱岡敏雄さん

日を置かずして、3人の学生が駆けつけて来ました。前回と同じ、同志社女子大の合原波穂さん、関西大学の戸高幸星さん、そして、新メンバーに神奈川大学2年の根本里美さんです。拓大の久野さんは、授業の関係で、参加できませんでした。

細雪が降るなか、学生たちと護国神社を訪ねた梅枝さん

細雪が降るなか、学生たちと護国神社を訪ねた梅枝さん

NHKから聞いた相手先へ連絡すると、敏雄さんの弟さんの奥さまでした。梅枝さん(90)。そのお話では、「台所で夕食の準備をしていると、テレビから濱岡という名が聞こえてきました。何かなぁ、と見に行くと、なんと義兄の印鑑が映されています。全身に鳥肌が立ちました」と、興奮した口調。

敏雄さんの写真と印鑑を手にする梅枝さん

敏雄さんの写真と印鑑を手にする梅枝さん

濱岡家の家族構成を伺うと、敏雄さんは6人兄弟の次男で、梅枝さんは三男・義雄さんの奥さま。大正14年生まれで、終戦の時は20歳。竹やりを持って軍事教練に明け暮れた軍国少女だったと、当時を振り返られます。

名前が刻まれた護国神社の礎に参拝する梅枝さん

名前が刻まれた護国神社の礎に参拝する梅枝さんと学生

「敏雄さんの父母や兄弟は、ほとんど鬼籍に入っています。私の夫も、24年前に逝去しました。皆、それぞれ、お墓や納骨堂などに入っていますが、義兄の遺骨や遺品は何もないのです。欲しい。受け取って、亡くなった義母と一緒にさせてあげたい‥」。電話口ですすり泣く声が聞こえてきました。

礎に刻まれた敏雄さんの名前をなでる梅枝さん

敏雄さんの母・セイさんは、早くに夫を亡くし、刑務所の看守をしながら、女手ひとつで6人の子を育て上げました。長男、次男、三男と3人の子を戦争に取られますが、2人は無事に復員。でも、次男の敏雄さんが、沖縄で帰らぬ人となってしまったのです。

学生たちが提示する資料を見る梅枝さん

学生たちが提示する資料を見る梅枝さん

濱岡家の家族写真。手前右から、三男・義雄さん、次男・敏雄さん、長男・重雄さん、四男・信雄さん。その後方が母セイさん、その隣はお父さん

濱岡家の家族写真。手前右から、三男・義雄さん、次男・敏雄さん、長男・重雄さん、四男・信雄さん。その後方が母セイさん、その隣はお父さん

梅枝さんによると、最も親孝行だったとされる敏雄さん。裁判所関係の仕事をされていましたが、旧満州に渡り現地で召集。第24師団歩兵32連隊へ入隊後も、戦地で得る収入をすべて母へ仕送りしていたそうです。

濱岡敏雄さん

濱岡敏雄さん

電話口で、涙ながらに語る梅枝さんに、「学生たちとお届けにあがります。そこで、もっと敏雄さんやご主人さま、お義母さまのお話を聞かせてください」とお声がけし、電話を切りました。よほど、嬉しかったのか、電話を切ろうとなさらないのです。

梅枝さんに学生たちの活動を説明

梅枝さんに学生たちの活動を説明

細雪の中を歩く一行

細雪の中を歩く一行

早速、敏雄さんの印鑑を手に訪ねてみました。お住まいは札幌市内。夫・義雄さんが公務員だったため、転勤が多く、数十年前に、函館市から移り住まれていました。どうりで、函館で繰り広げた、学生たちの懸命の捜索に引っかからなかったはずです。

印鑑を確認する梅枝さんと尚志さん

印鑑を確認する梅枝さんと尚志さん

合原さんから、印鑑を受け取った梅枝さん。最初は涙ぐみながら、静かに見つめていました。時折、印章部を撫でまわします。そして、「義兄さん、お帰り。大変だったね‥」と、胸に抱きしめるような仕草。それを梅枝さんの次男・尚志さんが、優しく見守ります。

学生から手渡された印鑑を見つめる梅枝さん。胸に抱くような仕草も

学生から手渡された印鑑を見つめる梅枝さん。胸に抱くような仕草も

敏雄さんの名が刻まれた礎を前に

敏雄さんの名が刻まれた礎を前に

梅枝さんの夫・義雄さんは、敏雄さんと満州で同じ屋根の下で暮らしていたそうです。やはり、満州で召集され、終戦後、3年間もシベリアに抑留されていました。復員して、梅枝さんと結婚、3人の子どもに恵まれ、幸せに暮らすも、67歳で亡くなったそうです。

資料を見る梅枝さん

資料を見る梅枝さん

そんな義雄さんは、一つ上の兄・敏雄さんを最も慕っていた、と梅枝さんは語ります。「終戦後、少しでも兄の消息が掴めればと、夫は何度も沖縄を訪ねていました。そして、夫を含めた兄弟のほとんどが死去し、残された家族もあきらめていたのに‥」と、印鑑の発見に驚かれています。

沖縄戦戦没者の慰霊碑へ向かう

沖縄戦戦没者の慰霊碑へ向かう

そして、「まさに、奇跡のご縁を感じました。NHKに放映された2日は、夫の月命日。翌日、お坊さんを呼んで拝んでもらう予定でした。きっと、あの世の夫が引き合わせてくれたと信じています」と、涙を拭われました。

慰霊碑の前で、沖縄の方角に手を合わせる梅枝さんや学生

慰霊碑の前で、沖縄の方角に手を合わせる梅枝さんや学生

翌日、学生たちと一緒に、敏雄さんの名が刻まれた礎がある、札幌護国神社へ参拝しました。90歳とは思えない足取りで、背筋をピンと伸ばし、降り積んだ雪で凍り付いた参道を難なく歩かれます。学生が介助しようとするも、「大丈夫。自分の足で歩かないとダメになるから」と気丈な振る舞い。

神社の境内を歩く一行。梅枝さんは凛とした振る舞い

神社の境内を歩く一行。梅枝さんは凛とした振る舞い

奇跡の返還に立ち会って下さった北海道沖縄会の黒田会長も、「このお年なら車椅子の方も多いのに‥。医師だった私が見ても、こんな元気な90歳はめったにいらしゃいません。敏雄さんも良い方の元へ戻られたようですね」と目を細められていました。

遺族会の黒田さんから話を聞く梅枝さん

遺族会の黒田さんから話を聞く梅枝さん

受け取っていただいた印鑑は、梅枝さんのご家族や敏雄さんの兄弟のご家族と一緒に過ごした後、濱岡家の納骨堂がある北斗市の東光寺へ納められる予定です。その中には、母のセイさんも入られており、70数年ぶりに親子が再会できそうです。

沖縄戦で戦没した実兄の上嶋誠さんの名にも水を掛ける梅枝さん

沖縄戦で戦没した実兄の上嶋誠さんの名にも水を掛ける梅枝さん

学生たちも当初、梅枝さんと一緒に、東光寺を訪ね、母が待つ納骨堂へ印鑑を届けるつもりでした。が、ご高齢なのと、雪道の道中が危険なので、学生だけで東光寺を訪ねました。

敏雄さんの写真と梅枝さん親子

合原さんの説明を聞く、写真の敏雄さんと梅枝さん親子

印鑑は、梅枝さんにお渡ししたので、母のセイさんやご兄弟へ報告するためです。副住職さまが迎えて下さり、濱岡家のお話をして下さいます。そして、納骨堂の前へ行き、印鑑が見つかった場所の状況を説明した後、それぞれが想いを述べました。

東光寺の副住職さんに、今回の顛末を報告

東光寺の副住職さんに、今回の顛末を報告

最年少の根本里美さんは、感極まって言葉が出なくなり、その場で号泣してしまいました。それだけ、この印鑑の返還に掛ける学生たちの想いや願いが強かったのです。

納骨堂の前で、母セイさんに敏雄さんの印鑑のことを報告

納骨堂の前で、母セイさんに敏雄さんの印鑑のことを報告

今回の返還活動で、リーダー役を担ってくれた合原波穂さんは、「ご遺族が心より喜んでいる姿に感動しました。よかった‥、ほんとうによかった。私たちの活動がお役に立てて、何よりの幸せです。来年も、沖縄で遺骨収集活動を実施します。今回の経験が、また励みとなり、次へ繋げそうです」と満足げに語ります。

新川薬局の内山さんにも、遺族へ返還したことを報告

新川薬局の内山さんにも、遺族へ返還したことを報告

たった一人の男子としてチームを支えた戸高幸星さんは、「親孝行だった息子さんの印鑑をお母さまにお届けできて、何よりも嬉しかった。今回の活動で得た出会いや体験は、何ものにも代えがたい貴重な宝物になります。参加して良かった。素晴らしい経験が出来た、と仲間に報告できそうです」と胸を張りました。

梅枝さんとのお別れを惜しむ学生たち

梅枝さんとのお別れを惜しむ学生たち

ごくろうさま、IVUSAの学生さんたち。ほんとうに良く頑張りましたよ。君たちの熱い情熱と行動が奇跡を産みましたね。浜田夫婦の活動だけでは、きっと、敏雄さんの印鑑を遺族へ届けることは出来ませんでした。

全員で慰霊の碑に参拝

全員で慰霊の碑に参拝

君たちがいたからこそ、地元の方々や行政機関の関係者たち、神社やお寺の皆さまが、協力して下さったのです。そして、発見のきっかけになったNHKや朝日新聞などのマスコミの皆さんも、報道して下さったのです。

印鑑を受け取って下さった梅枝さん。学生たちに感謝の言葉を述べ続けられた

印鑑を受け取って下さった梅枝さん。学生たちに感謝の言葉を述べ続けられた

ありがとう。私たち夫婦だけでなく、敏雄さんやその家族のみなさまに成り代わってお礼を申し上げます。そして、来年も、沖縄で一緒に頑張ろうね。一柱でも多くの遺骨を収容し、名前の描かれた遺留品を見つけたら、お返しに行こうね。

礎に刻まれた名前を撫でる梅枝さん

礎に刻まれた名前を撫でる梅枝さん

最後に、学生にかけた梅枝さんの言葉が印象的でした。「ほんとうに、ありがとう。素晴らしい若者ね、あなたたちは。でもね、知っていて欲しいわ。戦争は、前線で戦っている兵隊だけでなく、国民全員が巻き込まれてゆくの。老若男女は関係ないのよ。私はそれを体験したの。だから、絶対にしてはいけない」

夕暮れの函館の町。お返しできた喜びに沸く一同

夕暮れの函館の町で迎えた活動の最終日。お返しできた喜びに沸く一同

お世話になった皆さまへ、心からの感謝と御礼を申し上げます。

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