みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
2015遺骨収集活動344日目 戦没者の遺留品の返還活動(中)~IVUSAの学生たちの頑張り

2015遺骨収集活動344日目 戦没者の遺留品の返還活動(中)~IVUSAの学生たちの頑張り

このエントリーをはてなブックマークに追加
沖縄戦没者の慰霊碑に献花する学生たち

沖縄戦没者の慰霊碑に献花する学生たち

㊤から続きます。

北海道へやってきたIVUSAの学生たち。同志社女子大4年の合原波穂さん、関西大学3年の戸高幸星さん、拓殖大学3年の久野未稀さんの3人です。大学の授業やアルバイトがある中、やりくりして駆けつけてくれました。

札幌護国神社の境内で、黒田会長から沖縄戦や遺族会の話を聞く

札幌護国神社の境内で、黒田会長から沖縄戦や遺族会の話を聞く

札幌に入った学生たちは、まず、ご遺族の情報を下さった「北海道沖縄会」の黒田練介会長にお会いしました。沖縄で戦没した北海道出身者の遺族会の代表として、長年、慰霊の活動や遺骨収集なども実施されてきた方です。

濱岡さんの名が刻まれた礎を探す

濱岡さんの名が刻まれた礎を探す

黒田会長は、首里近郊の弁ケ岳で、軍医だったお父様を亡くされました。その遺骨も遺留品も帰ってきていないそうです。戦後は、お母様の手で育てられ、札幌市内で医師をされていました。今回の印鑑の話を聞いて、出来るだけのことはお手伝いしたいと、申し出て下さったのです。

礎に濱岡さんの名を発見

礎に濱岡さんの名を発見

札幌護国神社の境内にある沖縄戦没者の慰霊碑と黒田会長

ただ、遺族会と言っても、その遺族が会合に参加したり、便りを下さったりしない限り、消息を追えるものではありません。結局、待っておられたご遺族の名と、登録されていた函館の住所が判っただけで、それ以上の情報はありませんでした。

降り積んだ雪が積もった境内でお話を聞く

降り積んだ雪が積もった境内でお話を聞く

合原さんをリーダーとする学生の捜索チームは、一路、函館へ。この活動、ボランティアなので、経費はどこからも出ません。夫の運転する浜田家の自家用車にすし詰めになりながら、片道6時間の道のりを走ります。折り悪く、北海道はドカ雪。おっかなびっくりの旅程です。

東川町の角谷町内会長(左端)から話を聞く

東川町の角谷町内会長(左端)から話を聞く

函館ではまず、濱岡セイさんが住んでいたとされる同市東川町で、町内会の角谷隆一会長をお訪ねしました。御年94歳。アジア・太平洋戦争の生き残りで、主に中国東北部などで戦い、1946年に復員されました。

角谷会長が戦時中に家族へ宛てた手紙

角谷会長が戦時中に家族へ宛てた手紙

終戦後、材木屋を営みながら、3人の子どもを育てられ、現在は奥さまと二人、同町内で余生を過ごされています。角谷会長に濱岡さんの消息を聞きましたが、まったく覚えがない、と話されます。同じ町内に住んでいたのなら、接点があるかと思ったのですが‥

残念ながら、手掛かりになる情報はなかった

残念ながら、手掛かりになる情報はなかった

次は、敏雄さんの情報を下さった函館護国神社(大橋東城・宮司)です。戦争で亡くなられた旧日本軍の兵士は、靖国神社や地元の護国神社に「祭神」として祀られています。敏雄さんも、ご多分に漏れず、名簿に名前があるそうです。

函館護国神社に参拝する学生たち

函館護国神社に参拝する学生たち

境内にある「なでふくろう」に福をもらう

同神社の後藤隆博・事務長をお訪ねしました。私たちからの連絡を受けて、名簿を再確認したり、古い資料を見直したりして、調べて下さっていました。特に、命日祭に、ご遺族へ案内状を送っていた、記録が残っているそうです。

印鑑の印章を同神社の後藤事務局長と確認する

印鑑の印章を同神社の後藤事務局長と確認する

ここで、新たな事実が判明しました。敏雄さんには「信雄さん」という家族が存在していることが判ったのです。戦後、命日祭の案内を、同市新川町の信雄さん宛に出されていたことが判りました。

函館護国神社の本殿に参拝

そして、濱岡セイさんが、敏雄さんの母親であることも判明したのです。これは大発見です。もしかしたら信雄さんは、敏雄さんの兄弟や従妹の可能性もありそうです。早速、学生たちと新川町へ向かいました。

とっぷりと日が暮れた後、新川薬局を訪ねる

とっぷりと日が暮れた後、新川薬局を訪ねる

ここで、1930年代から、「新川薬局」という調剤薬局を営まれている内山光重さんを訪ねました。とてもご親切な方で、見ず知らずの学生からの問い合わせを受けて下さり、地元の戦争体験者や長老たちから、濱岡家の情報を聞いて回って下さいました。

店主の内山さんからお話を聞く

店主の内山さんからお話を聞く

が、ここでも、記憶がある方はいません。皆が、「濱岡ねぇ。この地域には珍しい名前なので、いたら判るんだけど‥」と、首をひねります。こうなったら、足を使うしかありません。学生たちが、地元の家を1軒1軒周り、聞き込みを開始します。

頑張ってね、と手を取って激励される。とても親切に対応して下さった

頑張ってね、と手を取って激励される。とても親切に対応して下さった

特に、お年寄りが暮らしている家を重点的に訪ねます。時には、親切なおばあちゃんを外へ連れ出し、一緒に知り合いの所を回ります。「濱岡?、ハマグチさんなら知っているけど‥」

地元の高齢者のお宅を1軒1軒訪ねて、行方を追う。スマホも活躍

地元の高齢者のお宅を1軒1軒訪ねて、行方を追う。スマホも活躍

時には案内を乞うて、手掛かりを追う

時には案内を乞うて、手掛かりを追う

東川、新川両町内で、飛び込みの行脚を続けましたが、結局、手掛かりになる情報は得られませんでした。一同、途方に暮れてしまいました。ここで、学生に密着取材してくれているNHKのクルーから、「千歳町に沖縄戦の生き残りがいるんだけど、会ってみる?」との提案。

沖縄戦の生き残り村瀬さんと対面

沖縄戦の生き残り村瀬さんと対面

二つ返事で、了承。対面することに。敏雄さんと同じ第24師団に配属されていた村瀬幸雄さん。同じ山部隊ながら、歩兵32連隊(山3475部隊)の敏雄さんに対し、村瀬さんは師団付きの通信隊(山3482部隊)に所属していたそうです。

94歳とは思えない矍鑠としたいでたち。記憶も鮮明だった

94歳とは思えない矍鑠としたいでたち。記憶も鮮明だった

旧満州から沖縄に転戦。最前線で、斥候や通信網の整備などをされていました。戦闘が激化した4月末、作戦を終えてからの帰隊中に、米軍の放った砲弾の破片が背中にあたり、重傷を負った、と振り返られます。

背中の傷を見せて戴いた

背中の傷を見せて戴いた

生死をさまようような大きなケガで、野戦病院壕を転々としながら、南部へ敗走。戦況が悪化し、他の重傷の仲間と同じく、自決用の手榴弾を手渡されそうになりましたが、「最後は太陽の元で死にたい」と戦うことを志願。

腕の傷も重傷だった。戦後も、思うように動かなかったと話される

腕の傷も重傷だった。戦後も、思うように動かなかったと話される

その後、沖縄本島南部の壕を転々としながら、生き延びたそうです。時には、戦友や軍馬などの死体を食べて、丸々と太ったネズミを捕まえて飢えをしのいだことも。「沖縄の戦場は地獄だった。もう二度と戦争を起こしてはいけないよ」と、諭すように語り掛けてくれます。

穏やかな口調で、学生たちに話し掛けて下さる

穏やかな口調で、学生たちに話し掛けて下さる

御年94歳。記憶も口調もしっかりとされており、凛として歩く姿を見る限り、20歳以上は若く見えます。そんな村瀬さんに聞いても、濱岡敏雄さんの記憶はない、とおっしゃいます。

自ら書いた沖縄戦の手記を元に話して下さった

自ら書いた沖縄戦の手記を元に話して下さった

「私の部隊は277人中、17人しか生き残れなかった。それでも、全員の氏名や顔を覚えている訳ではない。ましてや師団や故郷が同じであっても、大人数の軍隊で、お互いの消息を確かめ合うのは難しい。部隊が違うと、機密上、横の連絡を取り合うことは許されなかったよ」と申し訳なさそうに、話されます。

敏雄さんなど、」戦没者の記録が書かれた資料を閲覧

敏雄さんなど、戦没者の記録が書かれた資料を閲覧

これで、可能性のある個人の調査対象はすべて回りました。残念ながら、手掛かりは掴めませんでした。仕方がないので、事前に連絡してあった函館市役所地域福祉課を訪ね、今回の経緯を話し、遺族捜しの協力をお願いしました。

担当課の職員に印鑑を見てもらう

報道関係者の前で、担当課の職員に印鑑を見てもらう

同課の職員の方々も、一生懸命に訴える学生たちの真摯な言葉に耳を傾けて下さり、お手伝いして下さることに。でも、手掛かりが途切れた今、これ以上は北海道には滞在できません。皆、授業やアルバイトがあるのです。

3人がそれぞれ資料を元に説明し、協力をお願いする

3人がそれぞれ資料を元に説明し、協力をお願いする

後ろ髪をひかれながら、各々の所属する大学がある、京都、神戸、東京へ帰ってゆきます。別れ際、目に涙を浮かべていたリーダーの合原波穂さんは、「絶対にあきらめません。私たちの手で、必ず、印鑑をご遺族の元へ届けます」との強い決意。

参拝の途中、感極まって涙がこぼれる

なかなか手掛かりが得られない。参拝の途中、涙がこぼれる

が、70年の時の壁は、健気な学生たちの行く手を大きく阻んだままです。悔しいけど、これまでかな、と思った矢先、奇跡のような一報が飛び込んできました。

(㊦に続く)

函館の市内が見える境内で、後藤事務長と再会を誓いながら記念撮影

函館の市内が見える境内で、後藤事務長と再会を誓いながら記念撮影

« »

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.