遺骨収集というと、戦没者の遺骨のみを発掘する作業だと思われがちですが、一緒に出てくる遺留品も、実は大切にしなければなりません。その理由は、遺骨をご遺族にお返しできることは、血縁関係にある遺族の減少などで年々、難しくなっていますが、氏名の刻まれた遺留品は、関係のある親族へお届けできる可能性があるからです。
沖縄戦・戦没者のほとんどのご遺族へは、戦死公報と共に、空っぽか石ころが入った白木の箱が届くだけで、遺骨や遺留品など故人を偲ぶものは何一つ送られていません。当然、形見のような品をお持ちでない場合が多く、一昨年に開始した遺留品の返還活動では、何度も感動的な場面に遭遇しました。
そうした戦没者とご遺族の「69年間の空白」を、一気に埋めてくれる遺留品。今回、出土したいくつかを、ご紹介致します。まず、糸満市喜屋武岬近くで見つけた認識票です。発見した場所は、旧日本軍の陣地になっており、多くの壕やトーチカ跡などが数多く残っています。ほとんどが、米軍からの砲撃を受けて崩落していますが、入り口部分の巨岩を退けたり、人が入れるぐらいの隙間を掘ってやったりすれば、中に入ることができます。
この認識票に刻まれている「山3475」部隊は、陸軍歩兵第32連隊に所属。喜屋武に配属されていましたが、司令部があった首里に近い中部の前田高地へ転戦し、上陸してきた米軍と激しい戦闘を繰り広げた部隊として知られています。真鍮製の一つは、小さな壕を入ってすぐの地面の上に転がっていました。
付近を掘ると、次々と計4枚の認識票が見つかりました。残念ながら2枚は鉄製で、錆びてしまって判読不明でしたが、遺骨収集家・国吉勇さんによると、「これだけまとまって一か所から出るのは初めてだ」と、驚かれています。同じ場所から1~2枚出てくることはあっても、まとまって4枚出土する例は、今まで経験にない、と話されています。
なぜ、1メートル四方の場所から、これだけ多くの認識票が出たのでしょうか。「切り込み」といわれた特攻に出る時、身元を明かさないために置いて行ったのか。それとも、亡くなった戦友の認識票を集めて所持していたのか。集団で降伏する際、日本兵とわからないよう捨てたのでしょうか。
ただ、認識票を掘り出したすぐ脇から、当時のメガネが出土したので、所持品を捨てて降伏したのではなく、戦没されている可能性が高そうです。この認識票の持ち主たちは、大切な戦友同志だったのでしょうか。地獄の戦場で、お互いの故郷や家族の話をして、一度でも心癒される時があったことを願ってやみません。
そして、大量の軍服のボタンがメガネや認識票の近くから出てきました。また、同じ壕の少し離れた場所から、軍服の生地が付着したままのボタンも出土しました。これは、過去に見かけた例はなく、国吉さんの戦争資料館にもありません。大抵は、焼かれたり、朽ちたりして、服地は無くなっているのですが、ボタンを繋ぎ留める糸までがきれいに残っています。遺留品としては極めて珍しいもので、国吉さんも、「奇跡だ!」と、驚かれています。
付近の壕からは、薬瓶やアンプルも出土しました。化粧品で有名な資生堂製の軍用の歯ブラシやランプの芯などもあり、やはりある程度の規模を持った部隊の陣地だったことが伺えます。そして、謎の遺留品。何なのか、どういう目的で使われたのか、国吉さんにもわからないそうです。もし、使用法をご存知の方がいらしたら、お教えください。
沖縄戦末期の島尻の壕には、追い詰められて逃げ場を失った民間人や敗残兵が混在していたらしく、軍の装備品以外にも、お年寄りの入れ歯や子どもの学用品、生活道具などが数多く見つかります。この認識票を掘り出した陣地の近くにある壕からは、子どもの遺骨や歯が見つかりました。
そして、この喜屋武の壕で収集活動をしている最中に、なんと震度4の地震に見舞われました。なんか地鳴りのような音がするなぁ、と思っていたら、グラ、グラグラ。穴掘りに邁進する夫は、ほとんど気づいていないようでしたが、私は肝を冷やしました。だって、大きな岩がお互いを微妙に支え合いながら均衡を保っている狭い壕です。どれかが崩れたら、間違いなく生き埋めになります。
「お願いだから、落ちて来ないで。崩れないで!」と祈りながら、静まるのを待ちました。揺れたのは数秒でしたが、地鳴りはしばらく続いたので、生きた心地がしません。が、夫は、「ん、なんの音。軍用ジェット機が飛んでいるのかな」と、恍けた顔でこちらを見つめています。あんたの頭の上にある巨岩が、一番危ないのよ!。
そして、遺族へお返ししたい遺留品を紹介します。今回、素晴らしい働きを見せてくれた学生ボランティア「IVUSA(イビューサ)」のメンバーが掘り出してくれた万年筆です。糸満市真栄里の病院壕で見つけました。「セーラー万年筆」製で、ペン先も金の完全品です。当時、万年筆は高価だったため、氏名が刻まれているケースが多いのですが、残念ながら今回は見当たりませんでした。ただ、削り取ったような痕跡があり、何らかの理由で名前の部分を消したのでしょう。
同じく、真栄里の病院壕から、学生ボランティアの「JYMA(ジェーワイエムエー)」が見つけた「鹿島」と刻まれた印鑑です。摩文仁にある平和の礎の検索システムで探したところ、本土から出兵してきた戦没者の中に、12人の鹿島さんがいらっしゃることがわかりました。下記の皆さまです。もし、お心当たりのある方は、このホームページにコメントしてください。何としてでも、お返ししたいと考えています。
「鹿島 秀雄」さん(北海道宗谷支庁)
「鹿島 勇」さん(北海道上川支庁)
「鹿島 源熊」さん(東京都)
「鹿島 貞三」さん(東京都)
「鹿島 壬四郎」さん(新潟県)
「鹿島 繁夫」さん(愛知県)
「鹿島 利直」さん(愛知県)
「鹿島吉之助」さん(兵庫県)
「鹿島 石男」さん(徳島県)
「鹿島昭雄」さん(福岡県)
「鹿島 秀夫」さん(大分県)
「鹿島 堅」さん(鹿児島県)
私たちは、返還の活動もすべて無償のボランティアで行っています。もしかしたら、と思う方があれば、HPにコメントしてください。連絡先を書き込んで下さっても、一切公開することはありません。個人のプライバシーは最大限に配慮いたしますので、安心してお問い合わせ下さい。ご連絡をお待ちしています。




























はじめまして。
突然のコメントで申し訳ありません。
私、立命館大学の教職沖縄研修という団体に所属している◎◎と申します。
2月に平和学習を主とした研修で沖縄に行くのですが、その際に国吉さんの戦争資料館へ伺いたいと考えています。しかし、連絡先が分からず困っています。
もしよろしければ国吉さんの連絡先を教えていただけないでしょうか。
メールアドレスを入力してありますのでそちらにご連絡いただけたら幸いです。
宜しくお願いいたします。
立命館大学教職沖縄研修 ◎◎