みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
真っ黒に焼かれた遺骨(完結編)

真っ黒に焼かれた遺骨(完結編)

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懐中電灯の灯りに浮かぶ焦げた遺骨。作業終了間際に出てきたので、すべて発掘できていない

懐中電灯の灯りに浮かぶ焦げた遺骨。作業終了間際に出てきたので、すべて発掘できていない

沖縄本島中部にある壕から、真っ黒に焼かれた遺骨が出てきました。この壕で見つけた遺留品の持ち主が判ったので、関連の遺骨などがないかを探査中に出てきました。上腕骨と顎の骨などを掘り出したところで、時間切れとなって明日に持ち越しです。

焼かれた下顎骨を見る筆者②。歯の並びや親知らずの形からして若い方のようだ

焼かれた下顎骨を見る筆者②。歯の並びや親知らずの形からして若い方のようだ

焼けた遺骨が出てきた場所は、持ち主が判った遺留品が発掘された地点とは少し離れていますので、両者は無関係だと思われます。が、ここで亡くなられた方々は、その多くが壕内に噴射された火炎放射器か、馬乗り攻撃で流し込まれたガソリンなどで焼き殺されたと見られます。とても凄惨な光景です。

焦げた上腕骨を手にする筆者②。最初に発掘された

焦げた上腕骨を手にする筆者②。最初に発掘された

掘り出す遺留品のほとんどが焦げたり、溶けたりしており、当時の壕内部は相当な高温になったと想像できます。戦争とは言え、酷い行為です。この近くの別の壕からは、アンプルや注射器、薬瓶などが大量に出ており、そこは病院壕だったようです。

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす国吉勇さん。中にいた人たちは当時、こんな暗がりで息を殺しながら耐えていた

真っ暗な壕内を懐中電灯で照らす国吉勇さん。中にいた人たちは当時、こんな暗がりで息を殺しながら耐えていた

那覇市や浦添市、南風原町などは、本島南部の糸満市であった攻防に等しい大激戦地で、多くの兵士や学徒隊、民間人も亡くなっています。ただ当時は、軍が作った陣地壕や病院壕に民間人は入れなかったので、ここで見つかる遺骨や遺留品はたぶん兵士のものだと考えられます。

天井も壁面も焼け尽くされた壕。筆者①が国吉さんと遺留品の判別をしている

天井も壁面も焼け尽くされた壕。筆者①が国吉さんと遺留品の判別をしている

生きながら、炎に焼かれた方もいたのでしょうか。とても気の毒な最後の姿に胸が詰まります。自分の父親や兄弟、息子が、戦地でこんな死に方をしたと知ったら、私たちは耐えられそうにありません。でも、亜熱帯の島のあちこちに、こうした凄惨な現場は残されているようです。

見えてきた遺骨を少しでも掘り出そうとする筆者②。日没が迫ったので、翌日に持ち越すことになった。泥や砂にまみれながらも、毎日、作業を続けている

見えてきた遺骨を少しでも掘り出そうとする筆者②。日没が迫ったので、翌日に持ち越すことになった。泥や砂にまみれながらも、毎日、作業を続けている

遺骨周辺には巨岩もあり、掘り出すには時間がかかりそうです。本日の収骨はあきらめ、作業は翌日に再開することになりました。ごめんなさい、戦没者の皆さま。明日も朝一に駆けつけますので、もう少しだけお待ちくださいね。

同じ壕から出た黒焦げになったカンパン。その下は溶けた瓶の口。高温で焼かれたらしい

同じ壕から出た黒焦げになったカンパン。高温で焼かれたらしい

同じ壕から出た黒焦げになったカンパン。その下は溶けた瓶の口。高温で焼かれたらしい

同じ壕から出た溶けた瓶の口。高温で焼かれたらしい

結局、頭骨と肩、首の骨の一部が出ただけで、全身骨格の発掘には至りませんでした=写真下、焼けた顎の骨。焦げた色が骨に付着したのか、赤黒くなっていた。遺留品も何点か出ました。広く大きな壕なので、いつか隈なくやってみたいと思います。

焼けた顎の骨。焦げた色が骨に付着したのか、赤黒くなっていた。遺留品も何点か出ました。広く大きな壕なので、いつか隈なくやってみたいと思います

焼けた顎の骨。焦げた色が骨に付着したのか、赤黒くなっていた。遺留品も何点か出た。広く大きな壕なので、いつか隈なくやってみたい

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