太平洋戦争で、最も激しい地上戦があったとされる沖縄。その戦場では、県内から動員された男女の学生が、「学徒隊」として戦闘要員や補助看護婦として戦禍に巻き込まれていきました。昨年、「白梅学徒隊」の慰霊碑とゆかりのガマに、遺骨収集活動をする大学生のボランティア団体・日本青年遺骨収集団(JYMA)を案内したら、ぜひ、生き残った方の話が聞きたいという申し出。それで、旧日本軍の病院壕などで看護助手などをした「白梅学徒隊」の中山きくさんに、大学生に向けた沖縄戦の証言と平和学習をお願いしました。きくさんは、二つ返事で応じてくださり、女子学徒隊の生存者と遺骨収集活動をする大学生との交流が実現しました。
白梅学徒隊とは、沖縄県立第二高等女学校の4年生によって編成された部隊で、56名が補助看護婦として東風平国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊。米軍の攻撃の激化に伴って看護教育は短期間で打ち切られ、現八重瀬町にある八重瀬岳中腹の第24師団第一野戦病院壕に、事前に除隊した10名を除く46名が配属されました。兵隊さんの傷を消毒して包帯を交換するぐらいだろう、と漠然と思っていた学徒たちでしたが、現実は想像をはるかに超える厳しいものでした。運び込まれる負傷兵は、片腕がもげかけていたり、被弾した傷が悪化して血膿と蛆にまみれていたりする患者も。薬も包帯も足りず、不衛生を極める壕の中で、排泄物の処理や食事の介助などのほか、きくさんがいた手術場壕では、軍医によって切り落とされた手足を、壕の外に「棄てにいく」のも仕事でした。
6月初旬、米軍の猛攻で野戦病院が南部へ後退する事になり、白梅学徒隊にも解散命令が下りました。軍と行動を共にしたい、と申し出ましたが、軍命に逆らうことはできません。傷ついた兵士たちと共に地獄の戦場に放り出された少女たちは、それぞれ小さなグループを作って避難民に紛れ南へ向かったのです。その逃避行の最中に、数多くの犠牲者が出ました。そして、糸満市国吉に後退していたこの野戦病院に、解散後に再び合流していた学徒たちがいました。そのうち、6月21日から22日にかけての米軍の激しい攻撃によって10名が戦死し、最終的に従軍していた46名の生徒のうち計22名が亡くなる惨事となったのです。
沖縄戦に動員された女子学徒隊は白梅学徒隊の他にも8校あります。
①「師範学校女子部と県立第一高女(ひめゆり学徒隊)」
②「県立首里高女(瑞泉学徒隊)」
③「私立積徳高女(積徳学徒隊)」
④「私立昭和高女(梯姑学徒隊)」
⑤「県立第三高女(なごらん学徒隊)」
⑥「県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊)」
⑦「県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊)」
⑧「八重山農学校(八重山農女子学徒隊)」
※順不同
これらの女子学徒隊から、総計で200人余りの戦没者が出ています。しかし、沖縄県では戦後、すべての高等女学校が廃止。彼女たちはよりどころをなくし、新たな後輩たちの支えを得ることもできなかったのです。太平洋戦争の末期、亜熱帯の小さな島々に吹き荒れた鉄の暴風と共に、女子学徒たちの記憶や記録を存続できる組織がなくなってしまったのです。
昨年末、沖縄を訪れた天皇、皇后両陛下が白梅学徒隊の生存者らと懇談されました。その時に皇后陛下が、白い菊の花を手渡した相手がきくさんでした。陛下は「白梅の塔は、どちらの方角ですか」と聞かれ、両陛下が揃ってその方向へ深く拝礼されたそうです。
女子学徒たちの悲惨な記憶を後世に伝えることは、一部の学徒隊を除いて難しい事態に追い込まれています。最近になって、草の根的な市民の動きや学徒隊同士の連携で、記憶を記録させる作業も本格化してきていますが、年月の経過と共に証言できる人が失われつつあるようです。
今回、きくさんと交流したJYMAは、学生らが中心となって太平洋戦争で亡くなった戦没者の遺骨を収集するボランティア団体です。国内で唯一の住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄、抑留者が亡くなったシベリア、餓死の島と言われたガダルカナルなどの南太平洋の島々にまで足を伸ばして、遺骨収集活動をしています。最近は看護学校の生徒さんやマスコミを目指す学生らも参加しており、遺骨収集に対する真摯な態度と熱心さから、ここ数年は現場で一緒に活動することがあります。
毎年のようにメンバーが更新されてゆく中、高いテンションで遺骨収集に望んでくれる姿勢は素晴らしいの一言です。ただ、沖縄で地獄の戦闘があった当時の時代背景をはじめ、地元の方々が持つ戦争への嫌悪感や遺骨への複雑な思い、現在の政治状況などを判断するには、短期間の参加だけでは少し若さが目立ちます。そのためにも、きくさんとの交流はお互いにとって有意義な時間になったようです。
きくさんの証言を聞いたある学生は、「体験談が生々し過ぎて、中途半端な気持ちでは聞けない、と背筋が伸びました。心の底から戦争をしてはならないと感じました」としみじみ。別の女子参加者は、個々の現場で聞く話に耐え切れなくて、涙が止まらない様子でした。今回、遺骨収集した白梅の塔横の壕は、過去に何度も収集活動が行われた壕です。にもかかわらず、学生たちは短時間で頭骨や足の骨などを捜してきてくれました。最後に全員でお骨を前に白梅の塔に拝礼し、きくさんは「こんな感動的な場面ははじめてです」と喜んでいらっしゃいました。
きくさんも学生たちも次の機会があれば、と共に話して下さります。出来る限り、そのお手伝いは続けてゆきたいと考えています。でも、お元気で凛とした佇まいのきくさんも84歳。いつかは第一線で沖縄戦の悲惨な体験を語るのが難しくなる時期が訪れそうです。そうした時にこそ、学生たちが正確な聞き取りと現場での遺骨収集活動の経験を活かして、この国を誤った方向へ導かないように進んで行ってもらいたいものです。
きくさんとは8年前、戦後60年の取材を通じて出会い、手紙のやりとりはしていました。それが、久方ぶりの再開で、開口一番、「わたし、三本足になったよ」と、杖を見せながら茶目っ気たっぷりな笑み。当時より元気のパワーがみなぎっているように感じました。その姿に自分たちの母親のような親しみを感じてしまいます。そして、どんなに忙しくても、沖縄戦のことを語る場があれば、必ず出かけて証言する姿に心より尊敬の念を抱きます。戦争で貴重な青春を、人生を奪われた友への想いを胸に活動するきくさんに、心よりエールを送りたいと思います。
いつまでも元気で長生きしてくださいね、きくさん。私たち夫婦はあなたが大好きです。














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