
北海道の札幌護国神社にある、慰霊碑の礎に刻まれている戦没者の名前
沖縄県で続けている戦没者の遺骨収集活動。終戦から70年、その節目の年が暮れる直前、とても感動的な場面に立ち会うことができました。今回は、その物語です。

真栄里の壕から出てきた、持ち主が戦没者と思われる印鑑

濱岡と刻まれた印鑑
2年前の2月、糸満市真栄里の旧野戦病院壕の入り口で見つけた印鑑の話です。IVUSA(国際ボランティア学生協会)と一緒に遺骨収集をするために、事前に試し掘りをしていたら、数多くの武器弾薬と一緒に1本の印鑑が出てきました。

IVUSAの学生が見つけた旧日本軍の手榴弾

糸満市真栄里にある野戦病院壕の入り口
「濱岡」と刻まれた印章。地元のはんこ屋さんに見て貰ったら、水牛の角製で、珍しい形の物だそうです。学生たちと一緒に、印鑑の持ち主と遺族捜しをスタートさせました。

収集活動をする学生たち

沖縄で戦没が確認された4人の濱岡さん
検索してみると、沖縄戦で戦死した濱岡姓の戦没者は4人です。二人が北海道出身で、残りは兵庫と広島県の出身者。戦没した場所や時期、部隊などを調べ、最終的に第24師団歩兵32連隊に所属していた北海道の二人に絞って調査を開始しました。

真栄里の壕から出てきた遺留品

真栄里の壕から出てきた銃弾。千発以上あった
そこで問題になるのが、行政が掲げる「個人情報保護」の壁。遺族もしくは、その関係者でない限り、絶対に情報は教えてもらえないし、遺族からの依頼や委任がなければ、捜してくれようともしません。遺族が見つからない状態で、動いてくれる役所はありません。

トーチカ跡で収集活動する学生

厚労省から帰って来た遺留品探索の用紙。ほとんどが、見つからない
また、厚生労働省にお願いしても、様々な制約を付けられ、最終的に遺留品の権利を放棄しない限り、調査に着手してもらえないのです。それに、過去の経験から、苗字しかわからない遺留品を、本気になって捜してくれると思えません。

真栄里の壕口近くのトーチカから出てきた遺骨

収容した遺骨を学生たちに説明
ただ、まったく情報がないので、ダメ元で、北海道庁の援護課に捜してくれるように掛け合いました。が、「厚労省を通せ」の一点張りで、耳を傾けてもらえません。案の定です。仕方なく、自分たちで捜索を開始しました。

真栄里の壕の入り口付近で収集活動

国吉さんから遺留品の説明を聞く
まず、二人の濱岡さんのどちらの遺品であったかということです。そこで重要なのが、亡くなった場所と時期です。戦死場所はお一人が首里近郊、もう一人が糸満市国吉付近です。前者の戦没時期は5月初旬、後者は6月19日です。

印鑑と一緒に出てきた急造爆雷の火薬

印鑑と一緒に出てきた対人地雷。穴が開いている
歩兵32連隊の戦闘の記録を見ると、4月~5月頃は、本島中部付近の首里近郊で戦死者を数多く出しています。そして、糸満市国吉や真栄里の高地では、6月上旬から中旬にかけて、米軍と激しい戦闘を繰り広げ、一部を残してほぼ全滅した場所です。

溶けたビール瓶も出土

納骨袋へ遺骨を収容する学生
これで、ほぼ絞り込めました。国吉で戦死したと記録に残る「濱岡敏雄」さんの印鑑ではないかと。そして、もう一人の濱岡さんは、名前の漢字が簡単な「浜」になっており、該当しないことが判ったのです。

濱岡敏雄さんの名が刻まれている礎

夕日に映える沖縄のサトウキビ畑
これで、北海道・渡島支庁出身の濱岡敏雄さんが持っていた印鑑ではないか、と断定しました。生き残って帰った方が落とした可能性も捨てきれませんが、この野戦病院壕は、戦時中に重傷を負った兵士たちが数多く収容されていた、と地元の長老が証言されており、生き残りが少なかった壕とされています。

掘り出した遺骨を掲げる国吉さん

黙とうするIVUSAの学生
それを裏付けるように、数十年前、厚労省が遺骨収集をしたら、数多くの戦没者の遺骨を出てきました。更に、遺骨収集家の国吉勇さんらも、「戦後、何回も収容活動をしたが、その度に、何十という遺骨を集めた」と証言されています。

火炎放射器で焼かれた機関銃の保弾板。印鑑と一緒に出てきた

第24師団の司令部壕近くにある散兵壕跡に飾られた短冊
日本軍の最後の防衛線のひとつとされた地域。そこを守るため、兵士たちは死に物狂いで戦い、そのほとんどが命を落とした場所だとされています。ゆえに、持ち主が戦死している確率の方が高い、として検索を開始しました。

真栄里の病院壕周辺から掘り出した遺骨

不発弾を処理しに来てくれた自衛隊と国吉さん
持ち主捜しが1年を過ぎた頃、戦没者の身元が判る貴重な情報が寄せられました。「北海道沖縄会」の黒田練介会長が、「濱岡さんの遺族が判りました。函館市に住んでいた濱岡セイさんという方です」と知らせて下さったのです。

北海道出身者らでつくる沖縄戦の遺族会「北海道沖縄会」の黒田会長

黒田会長からお話を聞く学生たち
セイさんが、戦没者の敏雄さんの母親なのか、兄弟なのか、奥さんなのかはわかりません。藁をもすがる思いで、函館市役所や、かつて住んでいたとされる近隣の寺社に連絡をとりました。

函館市役所が所蔵する戦没者の名簿

函館市内の古い地図を見る
すると、函館護国神社に敏雄さんが祭神として祀られており、戦後、函館市に暮らす遺族がお参りした記録が残っていることがわかりました。が、手掛かりはこれだけ。現在、遺族がどこにいるのか、ぷっつりと足取りは途絶えてしまったのです。

函館護国神社

真栄里で活動するIVUSAの学生たち
函館は商都として栄えた古い町。もしかしたら、地域のお年寄りの中には、濱岡さんを知っている人がいるかもしれない‥。でも、今までの遺留品返還活動の中で、これは限りなく見つかる確率が低いケースです。

沖縄戦の戦没者の印鑑。身元は判明していない

真栄里の壕内から見つかった鹿島姓の印鑑
直接、函館へ出向いて聞き取り調査をしても、無駄足になってしまう恐れがあります。が、学生に話すと、「私たちにお任せください」と力強い返事。敏雄さんを、家族の元へ返してあげたいという想いを胸に、私たち夫婦とIVUSAの学生3人が、北海道へ飛びました。(㊥へつづく)
北海道に到着。札幌護国神社を訪ねる学生たち
札幌護国神社を黒田会長訪ねた学生たち
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忍耐と想いが実を結びますように!