みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
伊東孝一大隊長への356通の手紙 70通目の返還(52番目の家族)

伊東孝一大隊長への356通の手紙 70通目の返還(52番目の家族)

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   沖縄で戦没した阿子島基さん(右)と姉のヨシさん

今回の北海道での取り組みで、どうしてもご遺族へ届けたかった一通の手紙です(文・高木乃梨子、写真・浜田哲二)

https://www.youtube.com/watch?v=jUBJf8toUxs

北海道テレビ(HTB)さんが放映して下さいました。

   阿子島さんの手紙

どれも平等に扱っているつもりですが、ほぼ3年かけてご遺族を探し続けたこともあり、一層力が入ってしまいます。手紙は、沖縄戦で亡くなった第24師団歩兵第32連隊第一大隊の阿子島基(あこしま・もとい)さんの母・マサノさんの心情や近況を基さんの姉・ヨシさんが代筆されていました。

   安平町で調査する学生たち

浜田夫婦と一緒に、電話をかけたり、行政機関へ問い合わせたり‥。あの手この手で捜索し、様々な人の協力を得ましたが、ご遺族の消息は霧の中でした。もう、諦めざるを得ないか・・、との浜田さんの呟きに、おもわず「出身地を訪ねて、歩きながら探したい」と強く申し出ていました。

   安平町で調査する学生たち

そして終戦から74回目となる夏、阿子島さんのご遺族が住んでいたとされる北海道安平町を訪ねました。去年、発生した「平成30年北海道胆振東部地震」の爪痕が今も残る街並みで、メンバーの大塚千里(東京家政大・4年)と一緒に聞き込みを開始します。

   地元の方に聞き込みをする学生ら

まず、手紙に記されている住所、「安平町追分地区」。そこを歩き回り、道行く方々に、「阿子島さんという方をご存じないですか?」と尋ねました。すると、あちこちで有力な情報が。

   地元の方々に聞き込みをする学生ら

「地区の公民館の近所に住んでいたかな」

「クリスチャンの家族だね」

「15~6年前に引っ越したようだよ」

   安平町を歩いて調査する学生

情報のあった公民館の近隣の方々にも、同じような質問をぶつけてみました。「阿子島さんがどこへ行かれたかご存じないですか。そして、どんなご家族でした?」。育てた野菜を軒先で仕分ける姉妹や仕事帰りのご婦人など、対応して下さるのは高齢の方ばかり。

   地元の方々に聞き込みをする学生ら

「ご主人を亡くした奥さんが娘さんと二人で暮らしていたけど・・」

「物静かで、上品そうな母娘だった。近所づきあいはあまり盛んではなかったね」

「たしか札幌方面に娘さんがいると聞いたけど」

   阿子島さんが住んでいたお宅を発見。すでに引っ越されていた

昭和、平成を経て令和の時代、74年の歳月が人の出入りが激しかった開拓民の記憶を薄れさせているようです。が、阿子島さんが住んでいたお宅の隣人に辿り着き、「隣町のパーマ屋さんが親しかったなぁ。たぶん親せきだったはず」との情報を得ました。

  阿子島さんと関係が深いパーマ屋さんに到達

早速、訪ねてみました。が、お盆休みで店を閉めておられ、誰もいらっしゃいません。少しずつ遺族が見えてきているのに一歩届かない、もどかしい気持ちが続きます。北海道を発つ日が迫ってきました。明後日がタイムリミットだな、と話し合ったいた矢先、一本の電話が。

   関係者と電話で連絡を取り合う

「基は私の伯父です。祖母の手紙があるのならば読んでみたい・・」。なんと戦没者の姪・原田美鈴さん(65)からでした。聞き込みに協力して下さった近所の方々が引っ越し先を探して、連絡するように伝えて下さったようです。美鈴さんは、阿子島基さんの弟・弘さん(享年62歳)の長女で、母・靜江さん(91)もお元気だそうです。

   阿子島さんのご遺族と対面

飛びあがって喜ぶメンバーたち。探し求めた人に会える嬉しさと、ようやく手紙を返せる安心感で胸がいっぱいになりました。もう、涙が止まりません。予約していた帰りの船便をキャンセルして、石狩市に住む美鈴さん宅へ駆けつけます。そこには、靜江さんと美鈴さんの夫・政則さん(65)も同席して下さいました。

   阿子島さんの遺族と学生

封筒の宛名を見た途端、「これは伯母のヨシさん(1950年頃に逝去、享年28歳)が、祖母のマサノさんの代わりに書いたものよ」と高揚を抑えきれない母子。一つひとつの文字を追う目に涙が浮かびます。手紙には、マサノさんとヨシさんの万感の想いと、家族の厳しい暮らしぶりが綴られていました。

   阿子島基さんの遺影を見る学生ら

★★★

昭和21年6月14日の手紙

北海道の野にも山にも、さわやかな初夏の薫風が吹いております。小鳥はなき、花々は咲き、白い蝶はその喜びに躍っております。

隊長様、ご復員おめでとうございます。我が弟になる基、色々お世話様に相成り、幾重にも御礼(おんれい)申し上げます。母の手一つで育てられし弟、きっと皆さまにご迷惑をおかけいたした事と存じます。母共々おわびいたします。

昨年の十一月には長男の戦死を、又この度は次男の基の戦死を、三男が復員いたし、四男は千島にて生死不明です。昭和九年に父死亡後、十五才を頭に、七人の兄弟を、母の手一つで育てられました。父死亡と共に破産いたし、無一文での生活の、母の苦労をお察しくださいませ。母は、子供が大きくなったら、と、それのみを楽しみにして、辛酸ものともせず、労働いたしておりました。

だがこの度の戦争で、男兄弟四人全部が現役服役。度重なる労苦にすっかりやつれし母。長女の私は勤めておりましたが、胸の病に倒れ、ブラブラいたしておりましたが、生活の窮迫にまたまた勤務いたしたのです。その為、益々の病の進行に、ついに退職。今また静臥(せいが)の身となり、退屈の毎日を送っております。母をなぐさめる立場の私までが、母の悲しみを増すのです。母の相談相手として、まだしばらく生きたいのですが・・・・・。

母は、ただただ、グチを言っております。これからの世は、生きていても、さほど幸福でもありますまい、とて、言い聞かせるのですが。復員された方が、チョイチョイいらしては母をなぐさめて下さいますが、何としても心の淋しさは致し方ありません。

隊長様、どうぞ弟の分も、いやいや部下の分も、再建日本の為にお励み下さいませ。沖縄の弟が、草葉の陰で、きっとあの大きな双眸に、万斛(ばんこく)の哀愁を含んで、その成功を祈っている事でしょう。

誰かの言に「人は困難と逆境にある事を決して怨むべきでない。むしろ、人類の真剣なる努力を即発する、神の偉大なる賜(たまもの)として天に感謝すべきなり」 と。何かしらぴんと来る言葉ではありませんか。

私は寝てはおりますが、若い方々にいつもお願いいたすのですよ。「あなた方が最重要なる国家再建者ですから」と。体は思うように使えませんが、口だけは達者です。健康であったらと、それのみ残念で、残念でなりません。

何だかくだらぬ事ばかりを書きならべまして、すみません。隊長様のご成功とご健康をお祈りいたして、ペンをおきます。

昭和二十一年六月十四日 (母)阿子島マサノ 伊東隊長様

二伸 基の写真、その内、焼増しをいたしてご送付いたします。

★★★

   阿子島マサノさん

マサノさんは1934年(昭和9年)に夫・安一さんを亡くした後、破産。借金を抱えながら、七人の兄弟を育て上げます。早朝3時から農家へ働きに出て、女手一つで家族の暮らしを支え続けました。戦後は、鉄道関係の宿舎で働きながら、出征した四人の息子の帰りを待ち続けたそうです。

   沖縄戦の遺留品を見るご遺族

が、長男に続き、次男・基さんの戦死の報が届きます。三男・弘さんは復員しますが、四男は千島列島で行方不明になり、戦後、シベリアに抑留され続けました。マサノさんは、「なんで我が家だけ男の兄弟全員を兵隊にとられたんだ、と嘆いていたみたい。それを近所の人から、『非国民だ』と貶されたのよ」と義娘・静江さん。

   戦没した基さんやその兄弟を想い手を合わせる靜江さん

手紙の文面にも、その想いが溢れています。「子供が大きくなったら、と、それのみを楽しみにして、辛酸ものともせず、労働いたしておりました」。苦労を重ねながら育てた子どもたちを戦争に奪われた母の悲痛な心情を訴える、代筆した長女・ヨシさんの気遣いが胸をうちます。

   マサノさんの手紙を読む学生

そして、心痛のあまり、伊東大隊長へ返信できなかった母に代わって手紙を書いたヨシさんの事も、靜江さんは語って下さいます。「生活に困窮する人を見ると、自宅へ連れ帰ってでも世話を施す慈愛に満ちた義姉でした。肺を患って早逝する直前まで、キリスト教を信仰し、休むことなく教会で祈り続けていました」

   阿子島ヨシさんの写真と靜江さん

病に侵されながらも、男兄弟がいない家族を支えるために働きに出たヨシさん。症状が悪化して寝たきりに近い状態なっても、母や弟妹たちを気遣い続けたそうです。しかし、大切な息子を失った母を慰めようにも自らの病の進行に抗えない葛藤が、手紙を通して訴えかけられているようで、涙がこぼれました。

   早逝した阿子島ヨシさん

この手紙を読んだ学生たちが、最も知りたかったのは基さんの容姿です。「沖縄の弟が、草葉の陰で、きっとあの大きな双眸に、万斛(ばんこく)の哀愁を含んで、その成功を祈っている事でしょう」と認められた文章。写真が同封されていなかったので、戦没者がどんな人だったのか、大きな双眸とされており目が大きい人だったのかな、と想像を膨らませていました。

   戦没者の阿子島基さん

返還の時に、美鈴さんが持って来て下さったアルバムには、ぱっちりとした目の青年のすまし顔が。まだ、幼さが残る風貌と立派な制帽。基さんが鉄道員として働いていたと聞き、学生たちが訪ね歩いた「鉄道の町・追分」の原風景を思い浮かべました。

   靜江さんの手を握る高木乃梨子

戦没当時の年齢は22歳。今の私と同い年です。もっとやりたい事がたくさんあったろうな、好きな人はいたのかな、復員したら鉄道の仕事を続けていたのかな・・。手紙から紐解く戦没者や遺族に想いを馳せると、もう他人とは思えません。マサノさんとヨシさん、基さんの写真を前に涙が止まらなくなってしまいました。

   阿子島マサノさん、ヨシさん、基さんの写真を見せて下さる靜江さん

今回は、現地での調査が功を奏して、手紙の返還まで辿り着きました。藁にも縋る思いで僅かな情報を追い、現地で多くの人の協力を得られたことが生んだ奇跡と言えそうです。美鈴さんからは、「お盆だからなの?。戦没した義兄のことが綴られた手紙が74年もの歳月を経て返ってくるなんて・・。探して下さってありがとう。義母も義姉も父も、きっと喜んでいるでしょう。何かの導きを感じるようです。それが嬉しい」とお言葉を戴きました。

   阿子島さんの遺族に説明する学生ら

手紙を返したい一心で、ご遺族を探し続けた努力が報われた瞬間でした。そして、糸満市で今年、掘り出した戦没者とみられる遺骨と、基さんの遺族とのDNA鑑定を進めてもらえるよう、国へ申し入れる準備を始めています。さらなる続報をお待ちください。

   DNA鑑定の手続き書類を書き込む遺族

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コメント

  • 匿名 より:

    わかりました。
    頑張ってください。

    • hamatetsu より:

      ご理解頂き、ありがとうございます。
      今後とも、よろしくご支援下さい。

      浜田哲二

  • 匿名 より:

    バカンスじゃないのだから、サンダルはまずいと思いますよ。

    • hamatetsu より:

      今年の北海道は異常に暑かったので、歩き回る活動に限って許しました。
      ご遺族宅などへ伺う時には細心の注意を払いますが、ほぼ一日中歩き詰めで探し回る学生に無理を強いるのは、と考えました。
      不届きに見えるかもしれませんが、本人たちは一生懸命に頑張っていますので、お許しください。

      再三、コメントを頂いているようですが、匿名ではなく、実名で呼び掛けて戴けませんか。
      その方が、真正面からの指摘として、主張を聞き入れやすく。
      公表するのがまずければ、こちらが匿名にすべく配慮いたします。
      いずれにせよ、あなた様へ不快な思いをさせて、申し訳ありません。
      取り急ぎの返答です。

      浜田哲二

  • 土屋功 より:

    現場の情景や想いがよく伝わります。
    このように、喜ばれる取材はごく僅かでしょうが。ほんの僅かな喜びのため、取材を続けて下さい。

    • hamatetsu より:

      ありがとうございます。
      浜田さんにご指摘頂きながら書きました。
      少しでも伝わるものがあれば嬉しいです。
      今回は親切な方々に取材出来ましたが、記者の現実は厳しいのだろうなと想像します。
      気合を入れて頑張っていきます。
      高木乃梨子

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