遺骨が16柱も出てきた壕付近から掘り出される遺留品に注目しています。ポマードの瓶のほか、髪や髭を切るハサミ、中身が入った石鹸箱など、その壕内で暮らしていた方の生活感が漂う品々が出てくるからです。
ここは丘全体に散兵壕、銃眼がついた塹壕やタコツボ、大きな陣地壕などもあることから、多数の旧日本兵が守備していた場所と思われます。摩文仁にあった司令部の手前に位置することから、重要な最終防衛ラインのひとつだったのでしょう。そんな場所から、個人の当時の暮らしぶりが伝わってくるものが出土すると、どんな人がそこに居たのか気になってしまします。
広大な丘に壕が点在していますので、作業が遅々として進みませんが、何年かかってもやり遂げたい場所です。その理由は、大人の男性の遺骨に混ざって子どもか小柄な女性の遺骨が出てきたからです。戦禍に巻き込まれた民間人こそ、まさに沖縄戦の真の犠牲者だと思います。兵士も民間人も命の重みに変わりはありませんが、暮らしていた場所が地獄に豹変し、鉄の防風が吹き荒れる逃げ場のない戦場をさまよい歩いた方々の事を思うと、気の毒で涙が止まりません。
以前、収集活動をした糸満市米須の壕は、入口付近からお年寄りの入れ歯と赤ちゃんの骨の一部が出土したことがありました。その壕の奥には、兵士たちの靴や手榴弾があったことから、民間人を入口において、兵士たちが壕の奥に隠れていた状況が発掘現場から想定されます。その壕も火炎放射器で内部が焼き尽くされていたので、隠れていた人はさぞかし辛い思いをしながら亡くなったのでは、と思います
戦場とは思えないお洒落な道具を持っていた方は、生き残れたのでしょうか。旧日本軍兵士で男性だったと思いますが、これらの遺留品の上に2m以上の土砂が被っていたので安否は判りません。この遺留品の近くからは、まだ遺骨は出てこないので、この場から逃れて助かっているかもしれません。
亜熱帯のジャングルに覆われている糸洲の丘。今から68年前のこの地は、米軍の物量による凄まじい攻撃を受けながら、南へ敗走する兵士と逃げ惑う民間人らがごったがえす、「地獄絵図」だったのでしょう。もう戦争は懲り懲りです、と語りながらも、近年、また日本の周辺国で、きな臭い動きが胎動しています。私らは、他国からの侵略もさることながら、一度走りだしたら止まらない日本人の持つ国民性が恐ろしいです。非常時である、という理由で民主主義はなくなり、誰も逆らえなくなった世相の中で、死の待つ戦場へ送り出された兵士たち。暮らしている地が戦場となり、ある者は戦い、ある者は逃げ惑う。そんな事態に国民を追い込んでも、あの戦争は正しかった、とする政治家や活動家の多いこと。これは失言というよりも、本心でそう思っているのかもしれません。
沖縄での遺骨収集で感じることは、68年前の地獄が発掘を通して見えてくることです。血肉が飛び散るような凄惨な光景ではありませんが、お骨や遺留品の状況が、それらを生々しく語ってくれます。そんな場で、時には涙し、時には憤りながら続ける作業。気力や体力が衰えない限り続けてゆくつもりです。(律、哲)











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