深浦町に唯一ある高等学校が、青森県立木造高校深浦校舎です。以前は、独立した全日制の県立深浦高校でしたが、生徒数の減少などで2007年に、分校化されてしまいました。2014年現在の生徒数は70余名。このまま減少が続くと、廃校になる可能性も心配されます。
深浦高校と言えば、1998年の全国高校野球選手権大会の青森大会で、記録的な大敗を喫したとして、全国に名前が響き渡ってしまいました。生徒数が少ない過疎の学校で、野球などのスポーツ人口も限られていた当時、経験の少ない深高球児たちは、屈辱的な結果で伝統校に敗れてしまいました。この記録は、高校野球史に今も残っています。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 計 | H |
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東奥義塾 | 39 | 10 | 11 | 17 | 16 | 12 | 17 | 122 | 86 |
深 浦 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
しかし、この汚名を挽回すべく、教員や父兄らが球児を盛り立て、最近は記録的大敗どころか、接戦で僅差の勝利を得る程に、実力がつき始めています。わずかな生徒数で、ほとんどの男子が野球部かサッカー部に所属する過疎化が進んだ学校としては、大善戦を続けています。
その深浦校舎の生徒たちと昨年から、徐々にお付き合いを始めています。最初は、分校からお招きを戴き、深浦のマタギ・伊勢勇一親方と一緒に、白神の森の授業をしてきました。昨年夏、全校生徒たちの前で、マタギの暮らしや白神山地の生き物の生態などを講演させて戴いたのです。
これまで小学生にしか接したことがなかったので、高校生がどんな反応をするのか不安でした。案の定、生き物の写真を見せても、笑いを誘う話をしても、生徒たちは身じろぎもしないで聞き入っています。まさに咳払いひとつ聞こえてこない体育館で、親方も私らも、心配になってきました。もしかしたら、話の内容が面白くないのかと。
が、実は熱心さのあまり、真剣に講義に臨んでくれていたのだと、後で判りました。それは、講演後、真面目な顔で、「白神の森の凄みが見えた」、「親方の弟子になりたい」、「親方の生き物の追い方や写真の仕事に興味がある」との質問が相次いだからです。
そして講義を聞いた生徒たちの感想文を伊藤ゆずる教頭先生から戴いて、みんなが真面目に、純真に、一生懸命に私らの話を受け止めてくれていたのが判りました。まさに素晴らしい生徒たちです。小学生もそうでしたが、深浦の高校生も大好きになりました。みんな、凛々しくて、可愛い‥
そして講演の後、私らを学園祭に招いて下さいました。夫婦揃って、それは約30年~35年ぶり。時代は違えど、楽しさは同じです。みんな可愛いし、楽しいし、精一杯頑張って、お客さんをもてなそうと頑張っています。その姿を見て、嬉しくて、懐かしくて、涙が少しこぼれそうにました。
そして今年から、同時期に世界自然遺産へ登録された鹿児島県の屋久島高校との交流に向けた動きが出て来ています。まだ、水面下で調整中ですが、昨年末から始まった小学生同士の交流プログラムに継いで、両地域の高校生たちも動き始めたのです。私らも、何とか手助けするために、あちこち走り回って情報を収集しています。
本来ならば、秋に書き上げなければならない話を今頃アップする無精をお許しください。あまりに忙しかったために、書き残した話がたくさんあります。これからは勤勉に働く所存です。そして、高校生との活動の続きは、今後も随時アップして行きます。また飽きずにのぞきに来てやってください。
深浦校舎の経歴
1948年(昭和23年)6月 「青森県鰺ヶ沢高等学校深浦分校」(定時制)設置。設置者は深浦町
7月 「青森県鰺ヶ沢高等学校大戸瀬分校」(定時制)設置
1951年(昭和26年)3月 「青森県立鰺ヶ沢高等学校深浦分校」に改称
1955年(昭和30年)7月 町村合併により、大戸瀬村が深浦町に統合
1957年(昭和32年)4月 「青森県深浦高等学校」(定時制普通課程)として独立
1960年(昭和35年)4月 通常制商業課程(後の全日制課程商業科)を設置
1962年(昭和37年)4月 通常制商業課程を全日制課程商業科に、定時制普通課程を定時制課程普通科に改称
1970年(昭和45年)4月 県に移管。「青森県立深浦高等学校」に改称。定時制の募集停止。全日制課程普通科を新設
2007年(平成19年)4月 青森県立木造高等学校に統合。普通科と商業科の募集を停止。総合学科を新設
2009年(平成21年)3月 普通科と商業科を廃止
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