早春の森で樵(きこり)の修業(下) ツイート 冬枯れた樹々と下生えの緑。この季節の山も美しい 深浦町に移住して、3年と7カ月が過ぎました。まさに、光陰矢のごとし、あっという間の日々でした。もっとのんびり暮らせるのでは、と思っていましたが、山での仕事、子供たちとの活動、親方の人生の記録‥。想像以上の忙しさで目が回りそうになることもあります。でも、やりがいのある、とても楽しい事ばかりです。 急斜面でも、機材を手に天狗のように歩き回る伊勢親方。アスファルトの平地よりも動きが速い そして、白神の麓で暮らしてみて、自然の一部として人が生きてゆく事の厳しさと難しさを思い知らされました。そのひとつが、「命を頂く」という行為です。親方と一緒に、山で獲るウサギやクマ、ヤマドリなどの獣肉。山菜やキノコなど原生林からの収穫物。海からの寄りものである海藻やタコ、イカなど。すべてに命が宿る、自然からの貴重な恵みです。それがなければ、太古の昔から人は生き続けることができなかったでしょう。 冬枯れた樹々の下は思わぬ青草が茂っていた。それは猛毒の‥ なぜか、この山に多く見られるトリカブト。シドケ(モミジガサ)の若芽に似ているので要注意! その中で、最も重要な存在のひとつが、冬場の燃料になる薪です。今よりも燃料事情が悪かった時代、灯油やガスは田舎の村にほとんど届きませんでした。そして、現金収入が少ない家庭は、山から得る薪や自ら焼いた炭で暖を取り、煮炊きをしたのです。その風潮は今も引き継がれており、白神山地周辺の村では、薪ストーブを使っている家庭が数多く残っています。 伐採したキハダの木を玉切る伊勢親方。切り粉で親方が霞んで見える。この木は漢方薬にもなる 伐採する木を見上げる伊勢親方。この傾斜で60度以上ある キハダの木を玉切りする伊勢親方。この木の皮をむくと黄色い地肌が出てくる 伊勢親方のお宅の暖房も、薪ストーブです。所帯を持った時から、ずっと使っていると話されます。それを見習って、我が家も薪ストーブを導入しました。それがもう、メロメロになるほど暖かくて、気持ち良いのです。灯油や電気のストーブでは味わえない温もりを感じます。そして、ゆらゆらと燃え続ける炎を見ていると、心が癒され、時の経過を忘れるほど。でも、最高の温もりと癒しの代償として、木の命を頂きます。申し訳ない気持ちでいっぱいですが、人が生きてゆくうえで避けては通れない道として、感謝の気持ちを込めて焚かせてもらっています。 伐採の現場で花を咲かせていたカタクリ。この森はカタクリの大群落がある その薪ですが、我が家では、だいたい一冬で2棚分使います。この地域の1棚は、約1.8㍍の長さに切った原木を幅1.8㍍×高さ1.8㍍に積み上げた量です。地元の森林組合や業者から購入すると、2棚で45000円前後の費用が掛かります。でも、山から切ってくると、その半分ぐらいの費用で、3倍~5倍の量が手に入るのです。危険と大変な労力が必要で、その年によっては伐採をあきらめざるを得ない、険しすぎる場所もありますが、十二分に見合う作業といえます。 フキノトウなどが顔をのぞかせる山道を歩く伊勢親方 でも、そのためには、地域の薪炭材を供給する組合に入らなければなりません。それは、代々引き継がれてきた地元の山の入会権を得るためです。こうした風習は、薪を燃料としていた時代には、全国のあちこちであったとされていますが、今はほとんど残っていないようです。伐採する場所は、主に国有林や町有林などで、関係各所と協議して払い下げを受けます。当然、集落の水源地や防風林、貴重なケヤキなどには、手を付けません。そして、一度伐採した森は数十年間休ませ、また木が生え揃ったら薪炭材として命を頂くのです。 薪ストーブの暖かい炎のありがたみを堪能する夜。とても癒される時間だ 積み上がった我が家の薪。伊勢親方と折半したが、お互い2~3年分ぐらいは集まった 親方との樵の仕事も、本日が最終日。未熟な夫はまだ、チェーンソーで山の立木を伐らせて貰っていませんが、次の機会には挑戦できるでしょう。少し心配ですが、この森の住人になるためには、必ず通らなければならない道です。今回手に入った薪は、約9~10棚。当然、親方と山分けしました。一緒に行動する限り、必ず親方は獲物を山分けにして下さいます。こちらの働きがいくら悪くとも、です。 麓の集落が見える山肌に残る伐根(手前)。この森の木が地域の燃料として使われてきた 私たちが暮らす集落の裏山にも、春の息吹きが感じられます。冬枯れた木々の林床には、紫色の可憐な花を咲かせたカタクリが風に揺れています。そして、猛毒のトリカブトも、一斉に出てきました。この山は、トリカブトが多い場所で、芽吹きが、山菜の女王と呼ばれるシドケ(モミジガサ)に似ており、注意が必要です。 冬枯れの樹々の下に可憐な花を開かせるカタクリ 人間の営みに何が起ころうと、白神の自然はダイナミックな四季を感じさせてくれます。自然から命を頂くという行為も、私たちが食物連鎖の一部に組み込まれている証でしょう。恵みに感謝しつつ、この森の自然と、ここで暮らして来た人々の生活文化を守る一助でありたい、との想いを強くしています。 トリカブトの若葉をかき分けて斜面を登ってくる伊勢親方 Post Views: 132 « 早春の森で樵(きこり)の修業(上) 豊饒の海に流れ着いた厄介者② »
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