みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
2015年遺骨収集61日目 「お帰り、あんちゃん」。瞼の兄の万年筆

2015年遺骨収集61日目 「お帰り、あんちゃん」。瞼の兄の万年筆

このエントリーをはてなブックマークに追加
国吉勇さんと梶原さんの万年筆

国吉勇さんと梶原さんの万年筆

戦争資料館で朝日新聞の木村記者の取材を受ける国吉さん

戦争資料館で朝日新聞記者から取材を受ける国吉さん

沖縄県浦添市沢岻(うらそえし・たくし)の壕で昨年11月、那覇市の遺骨収集家・国吉勇さん(76)が発見した、旧日本海軍所属の梶原隼人さん(戦没当時23)の万年筆が、故郷の福岡県に住むご遺族の元へ返還されました。

★沖縄タイムスに掲載されました

www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=108105

★NHKで放映されました

www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022621000.html

帰ってきた万年筆を見る梶原敦さん(手前右)、妻の(手前左)、長男のさん(後方右)

帰ってきた万年筆を見る梶原篤さん(手前右)、妻のみち子さん(手前左)、長男の秀康さん(後方右)

NHKの取材を受ける梶原篤さん

NHKの取材を受ける梶原篤さん

受け取られたのは、同県篠栗町高田に住む隼人さんの弟・梶原篤さん(86)です。終戦から70年。戦没者の遺留品が、二親等以内の家族へ帰る例は極めて珍しいです。

故梶原隼人さん

故梶原隼人さん

厚生労働省などの記録によると、隼人さんは1944年(昭和19年)6月、千葉県にあった海軍砲術学校の第149防空隊へ入隊。その年の9月、海軍沖縄方面根拠地隊の司令部へ配属されました。

兄隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

兄隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

そして、翌45年(昭和20年)5月3日、南西諸島で米軍などとの戦闘中に戦死、と公報されています。弟さんの話によると、砲撃を担当されていたそうです。

隼人さんの名が刻まれた平和の礎

隼人さんの名が刻まれた平和の礎

隼人さんの名が刻まれた礎と平和祈念公園

隼人さんの名が刻まれた礎と平和祈念公園

沖縄戦の記録などによると、旧日本海軍は、那覇市や豊見城市で、上陸してきた米軍を洞窟戦などで迎え撃ち、ほとんどの兵士がそこで戦没した、とされています。なぜ、浦添市で隼人さんら海軍兵が亡くなっていたのかは、謎のままです。

梶原隼人さんの万年筆

発見された現場で、梶原隼人さんの万年筆を撮影

梶原さんの遺留品などが見つかった壕

梶原さんの遺留品などが見つかった壕

隼人さんの万年筆は、「浦添御殿の墓」がある沢岻公園内のお墓の横に繋がる壕内で、3~4柱の遺骨と一緒にみつかりました。他にも海軍の装備品や武器などが複数出土しています。

浦添御殿の墓

浦添御殿の墓

浦添御殿の墓を説明する立て看板

浦添御殿の墓を説明する立て看板

収容した国吉勇さんは、「畳三畳ほどの狭い壕で、複数の遺骨が岩の下敷きになっていた。隠れていたところを攻撃されたのだろう」と現場の状況を説明されます。他の兵士の万年筆も、4本出てきたそうです。

発見場所の前でNHKの取材チームに説明する国吉勇さん

発見場所の前でNHKの取材チームに説明する国吉勇さん

万年筆の発見現場の高台から、米軍の上陸方面を望む

万年筆の発見現場の高台から、米軍の上陸方面を望む

「お帰り、あんちゃん」。帰って来た万年筆を手に、71年前に別れた瞼の兄を偲ぶ篤さん。ご自身は、隼人さんよりも二カ月早く、愛媛県の松山海軍航空隊・飛行予科訓練生(予科練)に入隊されました。

帰ってきた万年筆を眺める梶原篤さん

帰ってきた万年筆を眺める梶原篤さん

篤さんが出征する時、旧国鉄・飯塚駅(現在のJR飯塚駅)まで見送りに来てくれた優しい兄の姿を忘れられない、と話されます。息子が戦地へ出向く姿を見ることが出来なかったご両親に代わって、送り出してくれたのだ、と当時を振り返られます。

梶原家の集合写真。後方右端が隼人さん。手前右から4人目が篤さん

梶原家の集合写真。後方右端が隼人さん。手前右から4人目が篤さん

当時の自らの写真を手に笑顔で語る篤さん

軍服姿のご自身の写真を手に笑顔で語る篤さん

松山市や宇和島市などで、厳しい訓練を受けていた篤さんのもとへ、隼人さんの達筆な字で、「元気にしているか」などと、励ます手紙が何通も届いたそうです。

隼人さんに贈られた勲八等の表彰状

戦後、隼人さんに贈られた勲八等の表彰状

「それが、この万年筆で書かれたのでしょうか」と、折れた本体に刻まれた氏名を、何度も指でなぞられます。そして、「この万年筆は、あんちゃんのために私が、お店から買って来たものだと思います」と懐かしみます。

帰ってきた万年筆を何度も指でなぞる篤さん

帰ってきた万年筆を、何度も指でなぞる篤さん

あの時代、万年筆は貴重品でもあり、文字を書く上では必需品でした。ゆえに、「万年筆の病院」があったそうで、そこで篤さんが兄のために購入した商品に間違いない、と話されます。

万年筆を仏壇に供え、手を合わせる篤さん

万年筆を仏壇に供え、手を合わせる篤さん

終戦後、「隼人さん」として届いた白木の箱に、手を合わせ続けてきた篤さん。一族の祖霊と共に、供養を怠らなかったそうです。が、どうしても箱の中身は確認できなかったと、うなだれます。

隼人さんの写真を手荷物篤さん

隼人さんの写真を手に持つ篤さん

「兄は沖縄で戦死したと伝え聞いていました。あの地獄のような戦場です。遺骨や遺留品が、故郷へ帰って来られるはずがない。それを知るのが、辛くて、怖くて‥」

万年筆を愛おしげに何度も触る篤さん

手慣れた様子で万年筆を使う篤さん

自らも予科練に志願して、戦地へ赴いた篤さん。71年ぶりの兄の帰宅に、最初は気丈に振る舞われていました。でも、耐えきれないように、「これで、やっと本当のあんちゃんを供養できます」と、溢れ出る涙を拭いながら呟かれました。

隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

隼人さんの肖像画を手に笑顔を見せる篤さん

息子の秀康さん(後方)や妻のみち子さん(手前左)と万年筆について語る篤さん

息子の秀康さん(後方)や妻のみち子さん(手前左)と万年筆について語る篤さん

隼人さんの万年筆は、篤さんと他の兄弟、家族たちと過ごした後、福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館で、戦後70年企画として開かれている「物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦」で、他の遺留品と共に展示されています。

大刀洗平和記念館の山本館長(中央)と語る篤さん(左端)

大刀洗平和記念館の山本館長(中央)からの展示依頼を快諾する篤さん(左端)

この企画展は、沖縄戦が終結した時期に合わせた6月末まで開催されています。問い合わせは、同館(0946-23-1227)まで。興味がある方は、ぜひ、お訪ねして、ご覧になってください。

物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦の展示場

物言わぬ証言者 遺物が語る沖縄戦の展示場

»

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください