手紙に同封されていた歩兵32連隊第一大隊の中村石太郎さんの写真
東奥日報に掲載されました↓(記事末尾に紙面イメージあり)
お預かりした356通の中で、どうしても返還したかったのが、青森県の中村いよさんのお手紙でした。リンゴで有名な板柳町出身の戦没者・中村石太郎さんの奥さま。私たちが暮らす津軽地方のご遺族の手紙は、なんとこれ一通だけです。昭和21年(1946年)に返信されていました。
石太郎さんの妻・いよさんの手紙を朗読する学生たち
大好きになって移住した青森県の方への返還。すべて平等に扱っているつもりですが、なぜか力が入りすぎます(笑)。板柳町役場などの協力を得ながら、時にはご遺族宅の前にはり込んで、一年がかりで探しあてた石太郎さんの血縁者は首都圏にお住まいでした。
興次さん(左端)と興三郎さんに(左から二人目)に手紙を渡す高木乃梨子
青森で、との目論見が外れ、返還は東京都内での実施となりました。受け取って下さったのは、石太郎さんの二男・興次さん(81)と三男・興三郎さん(79)。お孫さんや親族の皆さんも駆けつけて下さいました。
いよさんの手紙を読むご遺族
とても明るく、快活に受け答えして下さるご兄弟ですが、母の手紙を開き、その内容を見るなり、表情が一変しました。一つひとつの文字を指で追いながら、何度もうなずいています。時には、見つめあい、囁くことも。「代筆と書いてあるけど、これは母さんの言葉だよ」と目に涙が。
石太郎さんが戦没した場所を説明する学生ら
「父の記憶は声しかありません」と興次さん。手紙に目を落としたまま、言葉を詰まらせます。「兄と喧嘩していたら、やめなさい、と叱る声。それだけです」。たった一つの父の思い出を語ると、突っ伏して号泣、後は言葉を紡げません。
号泣する興次さん。思わず手を握ってしまった
隣でうなずく興三郎さんも、涙を拭おうともしないで、兄に代わって語り続けます。「兄貴は苦労したんだ。だから余計に堪えるんだよ・・」。手紙をお届けした学生たちも、祖父と同年代の方々が、人目もはばからず泣き伏す姿に息をのみます。
流れる涙を拭おうとせず話し続ける興三郎さん
小作農家だった戦前の中村家では、石太郎さんを筆頭に3人の男子が家計を支えていました。が、中国大陸での戦火が太平洋の島々へ広がるなか、全員を兵役に取られます。大切な働き手の農耕馬2頭も軍馬として供出、いよさんは3人の幼子と年老いた親を支えながら、一家の大黒柱の帰還を待ち望んでいました。
石太郎さんの3人の息子たちといよさんが写った写真
そこへ、伊東大隊長から、石太郎さん戦死の知らせが。悲しみと落胆に打ちひしがれますが、女性の一文とは思えない力強い言葉で返信されます。その文面からは、夫の死を受け入れ、その無念さを押し殺そうとする強さも感じられました。
ご遺族の話を聞く学生たち
しかし、行間には、虜囚(捕虜)となってでも生きていて欲しかった儚い願いと、それを断ち切られ、敗戦の厳しい現実を受け入れざるを得ない、悲しい女心が揺れ動きます。代筆の文章ながら、大切な夫を亡くした妻の悲哀と終戦後の暮らしへの不安が滲み出ていました。
沖縄で掘り出してきた遺留品を見せる
そんな折、石太郎さんの末弟・幸一郎さんが復員しました。いよさんは家を継ぐため、一回り年下の弟と再婚されます。が、終戦間もなき時代、生活は困窮。石太郎さんの長男・準一さんが、風邪をこじらせて死亡したのも、貧しさゆえ医者にかかれなかったからです。
母の手紙を読んで涙ぐむ興次さん
そして、思春期を迎えた次男・興次さんは、家族を支えるため、中学校を卒業後、地主の所へ5年間、奉公入りしました。そこでは、給金は一銭も貰えず、地面を這いずり回るように働いたそうです。ようやく年季が明けた時、「良く辛抱したな」と土地を少し譲って戴けた、と振り返られます。
石太郎さんやいよさんが入るお墓に線香を手向ける学生ら
ただ、長男・準一さんが夭逝した後、「母は何かあるたびに、私にあたり散らしました。思い返せば、石太郎の一番年上の息子となった私にしか、気持ちをぶつけられなかったのかもしれません」と遠い目で語ります。
父母に手向けの曲を吹く前に尺八を掲げる興次さん
「でも、それが、辛くてつらくて・・」。その時、目に留まったのが、「東京・世田谷の農場で牧夫募集」の新聞広告。親兄弟には何も告げずに、長靴履きのまま作業着を包んだ風呂敷を抱え、片道切符を手に家を飛び出します。
青森の自宅の前で撮影された母の写真を見入る
「とにかく貧しい田舎の暮らしから、抜け出たい一心だった」そうです。そして、「元々は叔父だった新しい父は、私と10才前後しか年が離れていません。そのわだかまりや母への反発心にも、強く背中を押されたのです」と俯きます。19歳の春のことでした。
母の手紙を読んで、泣きながら思い出を語るご遺族たち
故郷を捨てた興次さんですが、いよさんや弟たちを忘れたわけではありません。必死で働き、牧場主にも認められ、妻をめとり家族ができました。その間、実家へ仕送りを続け、自分が丁稚奉公して手に入れた土地へ、母や新しい兄弟たちが暮らせる家を建てることができたそうです。
号泣する興次さん。この後、机に突っ伏してしまった
私たちがお届けした、いよさんの手紙を握りしめて、「夫を愛する妻の想いと、戦時下の思想統制がぶつかり合って苦悩する、母の内心が伝わってきます。鬼のような厳しさで私たちに接したのは、実父を失った兄弟に『強く生きろ』と伝えたかったのでしょう。戦争で家族の絆が壊れそうになりましたが、父のことを語り続けてくれた母の愛が、私たちを繋ぎとめてくれたようです。この手紙を読んで、ようやく理解できました」と感極まっておられました。
母の手紙と父の写真を並べて
興三郎さんは、「今まで大切に保管して下さった伊東大隊長に感謝の気持ちで御礼を申し上げたい。そして、学生さんたち。よくぞ探し当てて、届けてくれましたね。ほんとうにありがとう。もう感動で胸が一杯です」とのお言葉を戴きました。
学生たちと手を握り合って別れを惜しむご遺族
みんなで記念撮影
板柳町に何度も足を運んだ結果が報われた瞬間でした。最後に、興次さんが、石太郎さんといよさんに手向ける、慰霊の尺八を演奏。参加した学生や報道関係者の方々も、戦没者と残された家族の戦後史に思いを馳せて、静かに聞き入っていました。
亡くなった父母へ手向けの曲を吹く興次さん
学生たちの前で尺八を吹く興次さん
現在、故郷で留守を守っているのは、興次さんらと父親の違う五男・司さん(68)です。案内してもらい、学生らとお墓参りしてきました。リンゴの産地、板柳町らしく、たわわな赤い実を結んだ樹々に囲まれた青森県らしい風景の墓地です。
青森でお墓を守る司さん
興次さんらは、「齢を重ねたせいで、最近は永らく足を運んでいません。が、来年は兄弟揃って、両親の墓参りをします。そして、ありがとうと伝えます」と前を向かれました。ぜひ、青森で再会できますよう、願っています。
ご遺族が見えなくなるまで手を振ふる学生たち
東奥日報の紙面
Post Views: 37
コメントを残す