みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
柴田学園大学の学生さんへ講演をしました

柴田学園大学の学生さんへ講演をしました

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    熱心に沖縄戦の遺留品を見る学生たち

 七夕を前にした7月6日、青森県弘前市の柴田学園大学(加藤陽治・理事長)で昨年に引き続き、講演を実施しました。前回は短大生でしたが、今回は大学の1年生。中村光宏・特任教授の「学園と地域を知る」教養必修科目の授業として、お話しをさせて戴きました。

    青森県出身の戦没者の名が刻まれている礎の前で泣く斉藤桃子

 今回も、弘前東ロータリークラブに所属されている大水達也さんが橋渡しをして下さり、学園の講堂がびっしり埋まるほどの参加者。ご遺族が書かれた手紙の朗読時には、涙ぐむ学生さんもいらっしゃいました。詳しい内容は後日、斉藤桃子がお伝えいたします。

真剣な面持ちで動画を見る柴田学園大の学生たち

 みらボラは最近、中核を担っていた大学生たちが次々と社会へ巣立ったので、学生メンバーが少なくなっているのです。今は、高校生を含めて3人しか残っていないません。ゆえに、この講演で興味を持って下さった方が、新たに参加してほしいなぁ、と一同、願っています。

    沖縄の男子学徒隊の碑の前で

 講演後に何人かの学生さんが、「活動に興味がある」と申し出て来られました。が、当方のメールアドレスが古いままでしたので、メッセージを送って下さっても届きません。申し訳ありませんが、このホームページに連絡先を入れてコメントを下されば、当方から返信いたします。その際、プライバシーは一切、公開されませんのでご安心ください。二度手間で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

    講義内容を熱心にメモする学生たち

 青森県の社会人メンバー、斉藤桃子です。

 今回の講演は、みらボラ・メンバー3名で行いました。同大学は保育士のほか幼稚園教諭や小学校教諭を目指す「こども発達学科」と、管理栄養士を養成する「健康栄養学科」があります。出席してくれたのは両学科の1年生97名と、柴田学園高等学校の生徒14名の計111名。準備で遺留品などの展示物を並べ終わったころ、予鈴とともに大勢の学生さんが入室し、講堂は一番前まで満席に。昨年11月、短期大学部の2年生を対象とした際は学生が60名ほどだったので、約2倍です。人数に圧倒され、緊張で背中に汗がつたいました。

    今年、活動した糸満市の壕で掘削作業をする筆者の斉藤桃子(手前)

 講演は三部構成で行い、みらボラの活動を紹介するショートムービーを上映。土の下にまだ遺骨が埋もれている現状や、沖縄で見つかった遺留品を受け取る遺族の表情などに衝撃を受ける学生もいたようです。が、皆さん熱心にメモを取りながら、前のめりになって耳を傾けてくれます。動画の後はスライドショーを流しながら、部隊の大隊長と遺族がやりとりした手紙と、それにまつわる物語の紹介です。愛する父を亡くし、極貧の中で戦後を生き抜いてきた子供たちが涙ながらに語る言葉や、死ぬまで戦没した部下と遺族を忘れなかった大隊長の想いを朗読しました。

   沖縄県の平和祈念公園で手を合わせる筆者(左から3人目)

 学生たちに、しっかり伝えようと何度も練習したのですが、実際にお会いした遺族の表情が頭に浮かび、思わず原稿を握る手に力が入り、声も震えます。読んでいる間は学生の反応を伺うことはできませんでしたが、後日、嬉しい感想をいただきました。後半で改めて紹介します。最後は、沖縄で掘り出してきた遺留品と遺族の手紙、同封されていた戦没者の写真を見てもらいました。実際に戦場から出土した武器や生活道具などを前に恐るおそる、といった様子。が、「手に取って、直接、触ってみて」と声をかけると、手りゅう弾に軍刀、銃弾の薬きょうなど武器類の重さを感じたり、「意外ときれいに形が残っている」と茶碗や薬瓶を撫でたりしていました。「えっ、これがおにぎり?」と、焦げて炭になった米の塊を見て驚く姿が印象に残りました。

    火炎放射などで焼かれて炭化したおにぎりをかかげる筆者

 一角に壕で発掘したガラスや琉球ガラスの廃ガラス、深浦町の砂浜で拾ったシーグラスを加工したアクセサリーを展示していたところ、女子学生だけでなく男子学生も興味を持って見に来てくれます。「すごい、おはじきみたいで綺麗‥」と目を輝かせながら手に取ります。壕で拾ったガラスでアクセサリーを作り、遺族へ進呈していることを説明すると、「そっか、家族の所には何も帰っていないですもんね・・」と、また違った面持ちで見つめていました。

 DNA鑑定の結果、故郷へ帰れた戦没者が見つかった場所で手を合わせる筆者(奥)

 遺留品を見ている女子学生から、「遺骨が出たときって怖くないんですか?」との質問。この活動をしていると、会う人ほぼ全員に訊かれます。振り返ってみると最初は、壕に霊的な怖さがあるのではないかと想像していました。ちょうど学生さんと同じ、18歳くらいの時です。が、今は、「お骨はそれほど怖く」ありません。ただ、そこに至るまで、どんな心境の変化があったのか振り返ってみます。

    2年前に掘り出した遺骨の土を掃う筆者(右)

 昨年、二度目の訪沖で、未調査かと思われる壕へ潜り込みました。人ひとりがギリギリ入れるくらいの小さな穴だったので、メンバーの中で最も身体の小さい私が選ばれたのです。正直、怖い。構造もわからなければ、どこに続いているのかも不明。中は真っ暗で、ヘルメットに付けた小さなライトの明かりだけが頼りです。噓でしょ、と心の中で呟きましたが、残されている遺骨があるならば放置するわけにはいかない、と自らに言い聞かせます。ただ、本音は涙目、足元に大勢の遺骨があったら、悲鳴を上げちゃうかも‥

    今年から本格的に着手した壕で、遺骨収集をする筆者(左)

 強がって、平静を装ったことを後悔しながら、防塵防水のビデオカメラを握りしめて芋虫のように足から進入します。すると、簡単に地面へ足が着地、落ち着いて内部を見渡すと、土砂や岩が綺麗に片づけられていました。ホッとしながら、壕の外で見守るベテランの浜田へ状況を報告すると、「お、そうか。ごくろうさん」と気が抜けるような素っ気なき返答。この壕は既に調査済みで、私が入った穴は「銃眼」と呼ばれる、小銃や機関銃などを撃つための小窓だろう、という結果でした。ドキドキしたのに‥

熱心に講義を聞く学生

 なので、「率直に言うと、怖いこともある。でも、一人でも多くの遺骨を見つけてあげたい想いのほうが強い」というのが正直な気持ちです。もし、この活動に興味を持って下さる学生さんがいましたら、安心してください。無理強いは絶対にしないし、初めて参加するメンバーを一人で潜らせることもありませんから。

青森県板柳町出身の戦没者遺族の墓参り

   青森県出身の戦没者のお墓参りの折、隣のリンゴ園でポーズをとる筆者(左)

 しかし、そんな暗くて狭い壕の中で、敵の攻撃がいつ来るか分からない恐怖を抱えながら、何か月も戦い、生活し続けた戦没者や生き残りの方々。その気持ちを慮ると、想像しきれないほど辛く、苦しかったはずです。戦後77年が過ぎた現場は、周りがジャングルと化し、入口に土砂が流れ込んでいます。その壕口の隙間から見える空を戦没者も見上げていたのかな、そして、彼方の空の下で暮らす故郷の家族に思いを馳せていたのかな‥、と想像しながら活動しています。

    青森県出身の戦没者の名が刻まれた平和の礎の前で泣く筆者

 授業が終わった後、ずっと講堂に残って遺留品を熱心に見たり、話を聞きに来てくれたりした学生さんが何人かいました。その中の一人が帰り際、「今日のこと、家族に伝えます」と言ってくれたのです。やったかいがあった、と疲れが吹き飛びました。

   今年、着手した壕から出土した遺留品

 講演を終えた翌日、すぐに中村光宏・特任教授が学生からのアンケートを送ってくださいました。一部を抜粋して紹介します。

熱心に動画を見る学生たち

 まず、健康栄養学科の学生さんから、「戦争の怖さを忘れかけている我々が、改めて戦争を知るべきだと気づかされました。最近では、戦争ゲームや銃を使ったゲームが数多く作られています。あんな恐ろしいものをゲームにし、それを楽しむ今の我々を見て、戦没された方々はどう思うのか、守って良かった国なのか、と考えさせられる講義でした」との意見。伊東大隊長も、同じような指摘をされていました。

    今年、着手した野戦陣地で活動する筆者(手前)

 確かに、銃を使ったゲームは、野外で行うサバイバルゲームだけでなく、オンラインでも急速に広まっているようです。そのゲーム自体を非難する訳ではありませんが、多くの若者へ娯楽として量産される現状が怖いです。ウクライナとロシアの戦いが連日のように報道されていますが、無意識にゲームと同じような感覚で受け入れているのかもしれない、と気づかされました。

    講演で紹介した戦没者の名が刻まれている礎を指す筆者(中央)

 そして、「70年以上前の手紙は色あせてボロボロになっていても、認められた文字から伝わってくる遺族の思いや感情は、あせることはないのだと思いました」との感想。こども発達学科の学生さんです。細部に目が届く、柔らかな感性が光ります。

    遺留品の万年筆を調べる筆者(左)

 さらに、第二部でのスライドショーの朗読で、警察官だった北海道出身の兵士が徴兵される前に息子へ伝えた、「悪いことをした人を罰するより、悪いことをしない人を育てることが大切」という言葉。それが印象に残った、との声は、将来、教職を目指す立場ならば素晴らしき反応です。ショートムービーの中で紹介した、第24師団の野戦病院に従軍した白梅学徒隊の中山きくさんが、戦後、小学校の先生になり、退官後も、「戦争を起こさない為には、何よりも教育が大事」と、繰り返し諭して下さっていました。

    真剣な眼差しで講義を聞く高校生ら

 高校生からは、「戦争の悲惨さ、命の儚さ、大切さ、帰らぬ人への願い‥。私自身では受け止めきれず、とても心が辛くなった。これは、私たちが無視できない、目を背けてはいけないものだと思った」との訴え。それを受けて、「未来へ語り継ぐことを、私は紡げたのだろうか」と講義が終わった後も、ずっと自問自答しました。が、落ち着いて、すべての感想を読み終えると、戦争の悲惨さやご遺族の想いが少しでも伝わったかな、との満足感を得ています。

    沖縄で支援して下さる地元の方々と交流

 白梅と呼ばれた沖縄県立第二高等女学校と同じ「梅」をシンボルとした校章を持つ柴田学園。その学生さんに戦争を伝える機会をいただき、とても光栄です。昨年に引き続き講演を開いてくださった学園の皆さま、今回も橋渡しをして戴きました弘前東ロータリークラブの大水さま、そして最後まで聴いてくださった学生さんたち、本当にありがとうございました。

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