みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
手紙返還での学生の想い⑦ SAKURA

手紙返還での学生の想い⑦ SAKURA

このエントリーをはてなブックマークに追加
戦没者の息子さんから、当時の話を聞くSAKURA 

今年の夏休みに約二週間、北海道を訪ね、沖縄で戦没された方々のご遺族にお会いしてきました。74年前に亡くなられた兵士たちが所属していた部隊の大隊長とそのご遺族が、終戦直後にやりとりされた手紙をお届けするためです。この活動に携わり、私は大切な家族を戦争で奪われた皆さまにできる限りのことを尽くしたい、と強く感じました。

吉田さんのご遺族へ自らが口語訳した手紙を朗読するSAKURA(右から二人目)

沖縄で戦没した兵士の遺骨や遺留品が、ほとんどのご遺族の元へ帰っていないことを実感したのは、旧河西郡大正村(現在の中札内村付近)から出征された吉田義勝さんの母・ふくよさんのお手紙をご遺族へお届けした時でした。戦没した義勝さんの弟・宣貞さん(86)と菅野之孝さん(83)らが涙ぐみながら受け取って下さる姿に感動しました。そして、ありがたく思えたのです。

ご遺族へ沖縄戦の犠牲者の説明をする

実は、手紙をお届けするために、ご遺族とみられる方に電話をかけると、詐欺ではないか、と疑われ、警察へ通報されたり、受け取りを断られたりすることがある、と大学生の先輩から聞いていました。実際に、オレオレ詐欺で大金を騙し取られたお年寄りが大勢いることを、新聞やテレビなどのニュースが伝えています。手紙をお届けしたご遺族からも、「君たちとは違うが、これまでにも変な電話が何度も掛かってきているんだ。残念だけど、疑わざるを得なかったよ」と苦笑いされました。

沖縄守備隊だった歩兵第32連隊第一大隊の戦没兵士の写真を並べた

さらに、「昔の辛い出来事を今になって掘り起こすなんて‥」というご遺族もいらっしゃいました。大切な肉親を戦禍で亡くされた残酷で悲しい体験を思い出したくない、と涙されます。また、「面識のない叔父のことを74年も過ぎた今になって知らされても、どうしていいのか判らない」と戸惑う、甥御さんや姪御さんにお会いしてきました。縁のない戦没者のことを問いかけられ、対応したくない気持ちが優先されてしまうのは寂しいですが、詐欺が横行するこの時代、やむなきことだと理解できます。

戦没した兵士のお墓参りをする学生たち

  しかし、一生懸命に取り組む学生たちの誠意を感じ取って、お手紙を受け取ってくださるご遺族と対面できたとき、嬉しさで胸がいっぱいになりました。そして、苦心して口語訳した手紙の朗読や戦没状況をお伝えした後、満面の笑顔で「ありがとう。兄が帰って来たようだった。今日の事は忘れないよ」と手を握られて、涙がこぼれました。私たちへの労いだけでなく、戦没した家族へ思いを寄せているご遺族がいることが、何よりもありがたかったです。 

笑顔が似合うSAKURA。ご遺族の手を握って、苦労の年輪と温もりを感じ取る

知床半島の付け根にある斜里町のご遺族は、私たちを自宅に泊めて下さり、朝昼晩の食事もご馳走になりました。社会人や先輩の大学生は面識があったようですが、私は初対面です。そんな見ず知らずの中学生に、お兄さんやお父さんを沖縄戦で亡くした体験を語り、「戦没者とその遺族のために働いてくれてありがとう」との感謝の言葉を戴きました。私たちを信頼して下さるだけでなく、今後の取り組みを託されているとの思いに身が引き締まります。この活動を続けていきたいと強く感じました。

笑顔で学生に握手を求める戦没者の弟さん

手紙をお届けしたご遺族は高齢の方が多かったです。それゆえ戦没者を記憶され、思いを寄せられている方に遺骨や遺留品、手紙などをお返しできる時間は限られている、と気づかされました。今後は、戦没者の遺骨を返還するために鑑定するDNAの採取も、より近い肉親からの提供が受けられなくなるのでは、と社会人メンバーらが顔を曇らせます。今でも難しい状態なのに、時の流れが恨めしいです。

手紙を受け取り帰路につかれる戦没者の兄弟
ご遺族の話を聞いてこみ上げてくるものが‥

そして今、若い世代による戦争への意識の低下が招く、危険な風潮も気になります。国のため家族のために命を落とした戦没者に思いを寄せ、愚かで悲惨な戦いを二度と起こしてはいけない、という意識を世間の人たちに強く持ってもらいたいです。私はまだ、沖縄で遺骨収集をしたことはありません。が、近いうちに参加しようと考えています。絶望的な戦いで亡くなった戦没者の想いとそのご遺族の悲しみを伝えることで、現在の平和を継続させたいからです。

笑顔で手を振るみらいを紡ぐボランティアのメンバー

●吉田ふくよさんから伊東大隊長へのお手紙

拝啓 夏気(かき)はなはだしき折柄(おりがら)、ご貴殿にはご壮健のよし、何よりと存じております。先日は、実に愚息・義勝戦死につき、ご親切なるお言葉、並びにお悔やみを下され、これまた家族の者ども、心中より御礼(おんれい)申し上げます。

義勝さんの二人の弟。左端が萱野之孝さん、その隣が吉田宣貞さん

一億国民、皆、必ず勝つものと思い、一生懸命に努力いたしたる思いにございますが、その実(じつ)、まだ至らざる所多きか、ついに敗戦の結果を見、実に残念に思います。

世の人は、種々(しゅじゅ)に申されますが、すべてが与えられたる運命と、思い諦めて、一日も早く、第二の帝国を再建いたさずは、多くの英霊に対して、申し訳なき事と思っております。愚息も、死して満足いたしておると思う事です。

生き残りの元兵士に写真をお見せした。手元が吉田義勝さん

多くの部下を失って、ご奮闘なされたる貴官らは、実に只今の時世では、残念に思われる事と思います。故に、国家再建のため、ご尽力を下さらば、再建を早め、また立つ時があると思います。

お言葉に対して、愚息の写真一葉、送付いたしておきました。お受け取り下さらば幸甚(こうじん)と思います。

ご遺族が持参した義勝さんの写真。右が手紙に同封されていた

なお、またその内、遺骨も参る事と思います。この上は、遺骨を待っている次第であります。

何とぞ今後、いろいろとお世話になる事と思います。何分、宜しくお願いいたします。まったく取りとめなき事を書き、失礼いたしました。悪しからずお許し下さい。まずは貴殿のご多幸をお祈りしております。

二伸 勝手ながら、ご受納あらば、ご一報下されます様、お願い申し上げます。

昭和21年8月10日 吉田ふくよ 伊東孝一様

ふくよさんの手紙を読むご遺族

吉田義勝さん 歩兵第32連隊第一大隊第三中隊に所属

4月28日、西原町小波津の戦闘で戦没されました。ご遺族にお伝えした、戦死した当時の状況です。生き残りの兵士や日米両軍の資料などを参考に、憶測を交えて報告しました。

学生の説明を聞くご遺族たち

25日から始まった小波津地区での戦闘は、壕などの陣地もなく、急造で掘ったタコつぼに入りながらの厳しい状況で始まりました。まず米軍は、小波津の東方二㌔に広がる中城湾に集結した艦隊から、前線へ絶え間なく艦砲弾を撃ち込んできます。その後、複数の戦車と随行する歩兵が連携する態勢で、日本軍陣地に攻め込んできました。吉田義勝さんが所属した第三中隊は、最前線で戦う第二中隊を支援する形で配備につきます。

縄の慰霊碑に刻まれた義勝さんの名に水を手向ける

まともに戦えば、旧日本軍の貧弱な装備では、物量に勝る米軍に敵う訳がありません。戦車の装甲を簡単に貫けるような武器も少なく、唯一通用するとされた連隊砲や速射砲の部隊も、弾薬が乏しいため、米軍のように何千発も打ち込めるような戦い方は出来ないのです。ゆえに、持ち運びが簡単な小隊用の軽迫撃砲(擲弾筒です)を巧みに使い、兵士一人ひとりが戦車の下に爆雷を放り込むか、背負ったまま飛び込む肉弾特攻が、重要な戦法になりました。義勝さんは、そんな戦闘で命を落としたとみられています。

義勝さんとふくよさん

ただ32連隊が小波津を守備している間は、一度も要衝を落とされることはありませんでした。伊東大隊長は、部下にバンザイ突撃などで命を粗末することを固く禁じていました。そのため、ほとんどの兵士が、命を落とす時まで勇敢に戦ったそうです。その戦果を讃えられ、師団長から大隊と所属部隊へ賞詞(しょう・し)が与えられました。でも、この戦いで、大隊の200名前後の将兵が帰らぬ人となったのです。「勝ち戦」でしたが、その犠牲は計り知れないものでした。 

手紙を返還後、手を握って労って下さるご遺族

このとき伊東大隊長は、師団本部への電文で、「飛行機も艦砲も戦車も我が兵は恐れず、極めて勇敢なり。しかれども陣地設備の不備なるため、第二線の兵すら毎日十名余り砲弾に死傷するを如何ともなす能(あた)わず」と報告されており、それを受けた司令部は胸をえぐられるような思いだった、とされています。

お別れの時、名残惜しくて見送る学生に笑顔で応えて下さるご遺族

現在の小波津地区は、平野部から続く丘の斜面に沖縄地方の古いお墓が並ぶ閑静な森になっています。そのすぐ脇にゴルフ場が隣接しており、高台からは中城湾を一望できます。戦争中は、この湾内が米軍の艦船で埋め尽くされたそうです。

返還後、みんなで記念撮影

«

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください