みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
手紙返還での大学生の想い⑥ 大塚千里

手紙返還での大学生の想い⑥ 大塚千里

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札幌の護国神社にある沖縄戦の戦没者慰霊碑を訪ねた大塚

大学4年の大塚千里です。
今夏、北海道で実施したお手紙返還とDNA鑑定の希望者を募る活動に参加させて戴きました。まったく顔も分からないし、どういう人かもよく分からないけれど、自分の親族だからとDNA 鑑定を受けて下さったご遺族。また、一縷の望みをかけて喜んでDNA鑑定を受けて下さったご遺族。同じように沖縄戦で家族の誰かを亡くしたにも関わらず、その反応は様々でした。

ご遺族へお手紙を返還する大塚(左から2人目)

何軒かのご遺族をお訪ねするうちに色々な家族の形があって、どんな形であれ、家族のことを想う気持ちは共通で、その温かさにわたし自身が優しい気持ちになりました。 そもそも、ご遺族が私たちを受け入れて下さった、ということに心が温かくなり、その優しさで胸がいっぱいです。

沖縄戦で亡くなった武藤勇さんの仏壇に手を合わせる大塚

今回、北海道でお会いしたご遺族の方、また様々な方に感謝申し上げます。ありがとうございました。私が担当したのは、歩兵第32連隊第一大隊第三中隊に所属された武藤勇さんの甥・武藤幸男さまです。勇さんの母・フヨノさんが、伊東孝一大隊長へ書かれたお手紙についてご報告いたします。

安平町で戦没者のご遺族宅を探す大塚(右端)
武藤フヨノさんの手紙を朗読する大塚(左から2人目)

●武藤フヨノさんから伊東大隊長へのお手紙

拝啓 お手紙ありがとうございました。勇の戦死は、以前より覚悟いたしておりました。二月に戦友より、戦死の便りを受け取っておりましたが、未だに役所からは、何の事も便りがありませんので、なんだかおかしな気持ちで暮らしておりました。が、この度、隊長様よりのお便りを拝見いたし、残念にも思い、また、心が落ち着き、ただ、勇のめい福を祈るのみでした。

沖縄で戦没した武藤勇さんの写真を見る甥・武藤幸男さん(右)と長女・浅沼恵子さん

勇も、きっと立派な戦死をした事と存じます。勇は入営する時、「俺は天皇に上げた体だ。きっと立派に働くぞ」と言って、元気に出発して行きました。昨日は色々と、勇の出発の時や、以前の事などを思い出しておりました。

勇が一人前になるまでは、さぞ隊長様のご厄介になった事でしょう。私らとしては、立派な兵隊になったと思い、喜んでおります。またお便りの中に、遠き勇を思う、沖縄の土をお送り下され、誠にありがとうございました。写真と共に仏壇に供えてあります。

先月五月二十九日が勇の命日と聞きましたので、一年忌をいたしました。お手紙に同封いたしましたが、勇の新兵時代の写真が一枚ありましたので、お送りいたします。これは、満州で写した写真です。どうぞお受け取り下さい。

お手紙を受け取って下さった武藤幸男さん。孫の碧翔くんも同席した

勇の父・幾三郎は、昭和十九年八月十五日に、心臓病で死にました。勇も戦死して、父に面会いたしております事でしょう。私ら一同は、ただただ勇のめい福を祈るのみです。

では隊長様、何とぞ御身(おんみ)大切に、元気でお働き下さい。またお暇がありましたら、何時(いつ)でもよろしいですから、勇の戦死の様子を知らせていただけないでしょうか。心遠く待っております。勇の様子を思い出しながら、この手紙を書きました。サヨウナラ 母・フヨノより 隊長様

                          昭和21年6月7日

武藤フサノさんの手紙を読む父親を見つめる浅沼恵子さん

武藤 勇さん 歩兵第32連隊第一大隊第三中隊に所属

5月29日、首里石嶺町で戦没されました。 ご遺族にお伝えした、戦死した当時の状況です。生き残りの兵士や日米両軍の資料などを参考に、憶測を交えて報告しました。

第32連隊第一大隊の伊東大隊を離れて、首里北方の石嶺高地にある戦車陣地を守備することになった工藤隊。戦車兵と共に、首里の司令部を目指してくる米軍を迎え撃ちました。首里街道に面した斜面の壕に中隊本部を置きますが、晴れているときは敵のM3戦車と歩兵が、雨が降ると陸海からの砲撃と飛行機が襲い掛かってきます。

戦没者の遺留品を見る武藤さんら

小さな陣地壕を転々としながら戦いますが、昼間に壕を出て銃を構えていると砲弾が降り注ぎ、夜は切り込み隊として宿営する敵兵にゲリラ戦を挑みます。中隊将兵の数は日を追うごとに減り続け、小隊、分隊が籠っている壕の上からも馬乗り攻撃を受けることに。それは、中隊の本部壕も例外ではなく、出入り口から手りゅう弾や爆雷を投げ込まれ、火炎放射を吹き込まれます。こうした戦闘で、武藤勇さんは戦死されたようです。

武藤勇さん

結局、石嶺高地は守り切れず、南部への転進を決めた32軍司令部を追いかけるように中隊は南へ撤退します。その時も最後尾で、追い縋って来る米軍との小競り合いを続けながらでした。第32連隊第一大隊は、小波津、146高地、棚原、140、150高地、石嶺高地などの最激戦地で、数多くの戦果をあげてきました。なかでも第三中隊は、何度も配置換えをさせられ、その都度、激戦地に送り込まれた部隊でした。

最後は、糸満市の国吉と照屋の丘陵で、背水の陣を引いての戦闘に臨みます。ここでも米軍の攻撃に屈することなく、沖縄守備隊の組織的な戦闘が終結した6月23日以降も、100人近い将兵が生き残って抵抗を続けていました。こうした姿から、第32連隊第一大隊と配属各隊は、「日本軍の最高の指揮官が率いる最強の部隊」として米軍からも恐れられていたのです。勇さんが戦死した時のことを語れる方は、現在、いらっしゃいません。あと1か月生き延びていたら復員できた可能性もありました。伊東大隊長は、「最後までその一員として誇りある行動と態度を取られていたのだろう」と話されています。

手紙の朗読を聞く武藤幸男さんと家族

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