みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
手紙返還での大学生の想い⑤ 田崎汐莉

手紙返還での大学生の想い⑤ 田崎汐莉

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太田宅次郎さんのご遺族へ報告する田崎(中央)

大学2年の田崎汐莉と申します。
2019年7月下旬から8月上旬にかけて実施した、北海道でのお手紙返還活動に参加させて戴きました。
多くのご遺族宅にお邪魔しましたが、今回は、沖縄で戦没された太田宅次郎さんの息子や娘さんを訪ねたときの所感を綴ります。

ご遺族へ伊東大隊長の想いを伝える学生たち

お返しできたお手紙は、太田宅次郎さんの奥様である太田梅野さんが、伊藤大隊長へ宛てたもの。
受け取って下さったのは、太田宅次郎さんの長男・孝次さん(81)、長女・初枝さん(82)、次女・千恵子さん(76)とそのご家族です。

母・梅野さんの手紙に目を通す千恵子さん

まず、お手紙を返還し、梅野さんの想いを込めながら私が朗読しました。色褪せた便せんに目を落としながら、静かに聴き入る3人の子どもたち。読み終えた後、宅次郎さんの戦死状況などを説明すると、ご遺族の表情が徐々に変化して行くのが印象的でした。

父親の面影を思い出そうにも、幼すぎた千恵子さん

私たちの報告を、年齢が最も若い千恵子さんが朗らかに受け答えして下さいます。が、最高齢の長女・初枝さんは、体調がすぐれなかったのか、伏し目がちに私たちの言葉を聞いていました。


遺留品の写真を見せる学生た

そこで、「宅次郎さんは、どのような方でしたか」と聞いてみました。すると、終戦当時3歳で父の記憶がない千恵子さんに代わって、初枝さんが堰を切ったようにたくさんの思い出話をして下さるのです。

太田宅次郎さんの遺影が、両親、妻と一緒に飾られていた

家の床が水浸しになったときに、積み上げた畳の上に子供たちを乗せてくれたことだったり、宅次郎さんが大切にしていた鉄道の本を初枝さんが間違った場所にしまったときに酷く怒られたことだったり。少女のようなキラキラした目で語られます。

父親の写真を眺める初枝さんら

また、長男である孝次さんは、宅次郎さんと一緒にスキーをした話を披露されました。明るく、快活で、仲間が大勢訪ねてくる社交的な父が大好きだった、と振り返られます。

別れ際の長男・孝次さん。見えなくなるまで手を振って下さった

この活動に参加して、ご遺族とお会いし、亡くなった家族のことを聞くと、「今までこんなに話したことはなかった」「戦没者の事はあまり教えられていないので、わからない」という言葉をよく耳にしました。
父親や兄弟、親類が戦争で亡くなったのに、その話題を戦後、取り上げることはほとんどなかった、というご遺族が多かったのです。

爆弾で破壊された水筒を見つめる

それは、私にとって衝撃でした。
自分の身内を戦争で亡くしたなれば、他人事でなく自分の事として捉えているのではないか。ゆえにご遺族たちは、戦争という言葉に対して意識が高い方ばかりだろうと、勝手に思い込んでいたからです。

一緒に報告を聞くために、父親の遺影を持って来てくださった。

ただ考えてみれば、その状況は当然のことかもしれないと感じるようになりました。 戦没者の奥様やご兄弟など、故人を深く知る人であるほど、思い出話などが出来なくなってしまう。思い出すことが、大切な人を亡くした悲しみや苦しい体験を想起させることになってしまうからです。

父親の遺影を見ながら涙ぐむ千恵子さん

また、戦没者をあまり覚えていないご遺族にとって、祖父母や母親、親類らに当時のことを聞き出すことが難しかったのでは、と考えられます。その理由は、戦争で亡くなった親族を知りたいという好奇心、人間が殺しあったという重いトピックを体験者に切り出す勇気、辛い経験を思い出させて相手を傷つけてしまう恐れを振り切る覚悟、を持って臨むことが簡単ではないからです。

別れ際、初枝さんが手を握って下さった

そして、誰にも辛い体験をした家族を思いやる気持ちがあるはずです。そんな家庭の状況や自分の好奇心などを天秤にかけて、「まぁ、今すぐに聞かなくてもいいかな」と後回しにされた方も多かったのではないでしょうか。あくまで憶測ですが…

仏壇に手を合わせる田崎

だからこそ、宅次郎さんの話題で盛り上がるなか、初枝さんが次第に喜々とした表情に変わっていったことが印象に残ったのです。孝次さんや千恵子さんと共に父親の思い出を懐かしむ様子をみて、お手紙をお届けできてほんとうに良かったと感じました。そして、戦没者を思い出し、語り合える場を設けることが、この活動の意義のひとつでもあると気づかされたのです。。

お手紙を返還したみらボラのメンバー

●太田梅野さんから伊東大隊長へのお手紙

拝啓 御書面、有難く拝見申し上げます。開戦以来、出征将兵の方々には、異郷の地にて、食うに食なく、水と草とに貴い生命を授け(さずけ)、銃を枕の数々ならぬご苦労を、私達は映画に新聞にと何度か見聞いたし、ただただ感謝感激のほかはありません。

愚夫(おっと)応召以来、老母と幼い子供を抱え、何としたらと案じられましたが、隣人のお情けにより、今日(こんにち)まで大過なく、家庭を守り、ひたすら愚夫(おっと)の武運長久を祈り申し上げておりました。すると、昨年三月末日、沖縄より電報為替により送金があり、不思議だと思っておりましたところ、数日にて、沖縄作戦の発表がありました。

夫の働きが走馬燈の如く目前に浮かび、勲功を家人と語り合っていましたが、数日後、沖縄作戦に利あらず、の報に何かと案じておりました。

宅次郎さんが所属した中隊が使っていたとみられる重機関銃の保弾板。兄妹が手に取って眺めた

八月十五日、終戦の報に接し、出征将兵の方々の奮闘も、私達の苦労も水泡に終わり、一同悔し涙を絞りました。

沖縄へ送った夫も、討死(うちじに)したのではないか、と案じられましたが、多数の復員軍人を見るにつけても、もしや、と胸を轟(とどろ)かせた事が何度かありました。これも女の未練とお笑いください。

沖縄より復員の方々をお尋ねいたしましたが、確たる報がなく、案じられ、一同心痛いたしておりましたので、貴官よりの報に接し、安堵つかまつりました。夫の生命は、もとより国家に捧げたものと覚悟いたしておりましたが、今となっては、まったく残念に思われてなりません。

さぞかし夫は、何かと貴官はじめ戦友の方々の厄介に相成りました事と思いますが、一死報国の心に免じ、ご容赦下されたく存じます。

水漬く屍(かばね)草むす屍の例のごとく、出征の折、残されましたる頭髪のみにて、心細く思っておりましたが、沖縄の土砂(つちすな)、ご送付くだされたので、永久の形見として保存し、記念といたします。

ご貴官お望みの写真一葉、同封つかまつりましたので、ご受納くだされたく思います。なお、今後も公私ともに、宜しくお願い申し上げます。乱筆ながら、とりあえずお返事まで。 草々 

              昭和21年5月26日 太田梅野 伊東孝一殿

初枝さんと別れを惜しむ高木乃梨子

太田宅次郎さん 歩兵第32連隊第一機関銃中隊に所属

5月3日~4日、西原町幸地と首里石嶺町の境にある146高地で戦没されました。ご遺族にお伝えした、戦死した当時の状況です。生き残りの兵士や日米両軍の資料などを参考に、憶測を交えて報告しました。

伊東大隊は、米軍に占領された146高地を奪還する戦いに4月30日から臨みます。夜襲を掛けて一度は奪い返しますが、敵の攻撃も激しく、歩兵を伴った戦車が、高地を守備する大隊に襲い掛かります。

この時、隣の120高地を同24師団の89連隊が奪還する予定だったのですが、攻撃に失敗して、後退。その戦況を連隊長が師団司令部へ曖昧な報告をしたために、同高地に残った米軍の存在を知らされなかった伊東大隊が不意打ちのような攻撃を受けて、苦戦を強いられた、と記録されています。

大隊は日本軍の反転攻勢のために、この後、棚原高地へ転戦させられます。太田宅次郎さんが所属した第一機関銃中隊は、前進する歩兵中隊を援護する形で120高地と146高地の間にある低地で敵中突破を計ります。が、予期せぬ形で高地に残存していた米軍とぶつかる形になり、激しい銃撃戦の末、そこで宅次郎さんは戦死されたようです。

仏壇に手を合わせる高木

その時の様子を同機関銃中隊の生き残りである、浦河町の笹島繁勝さんが話してくださいました。米軍の攻撃で、足のふくらはぎや足首を負傷した宅次郎さんが、這いながら散兵壕へ逃げ込んで来られました。ひと目見て助かりそうにない傷。「笹島、殺してくれ、ひとおもいに殺してくれっ」と叫びます。躊躇していると、腰にぶら下げた手りゅう弾にまで手を伸ばしてくる始末。

最前線の兵士は医薬品を所持しておらず、野戦病院へ連れて行くにも、壕から身を乗りだした途端に集中砲火を浴びます。「こんなに苦しんでいるのならば、殺してやろうか‥」と、笹島さんは手りゅう弾を握り締めたそうです。が、満州から行動を共にしてきた同郷の戦友は兄弟以上の存在。涙を呑んでその場を後にされます。「辛くて、辛くて、一生忘れられない瞬間だった」と目頭を押さえられました。

終戦後、捕虜になった笹島さんは、戦友の遺骨を探すため米兵に頼み込んで、146高地周辺を歩かれました。そこで、二人分の遺骨を見つけ、持ち帰られます。復員後、ご遺族の元へ届けられましたが、宅次郎さんの遺骨は見つけられなかったそうです。大勢の日本兵がその近辺で亡くなっていたため、見覚えのある装備をつけていたり、場所が特徴的であったりしないと、誰の遺骸かわからなくなっていた、と話されます。

笹島さんは、戦場で宅次郎さんを助けられなかったことを今も後悔されています。そして、お骨を見つけられなかったのも。ご遺族へは、謝罪の言葉とくれぐれもよろしくお伝えください、と承っています。激戦地だった146高地付近は、丘の一部が削られて、現在、老人福祉施設や病院が立ち並んでいます。外観からは、激しい戦闘があった面影は見られませんが、付近に点在する洞窟や岩の割れ目には、今も遺骨や不発弾が残っており、戦争の傷跡は癒えていません。

手を握って労って下さった

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