みらいを紡ぐボランティア

ジャーナリスト・浜田哲二と学生によるボランティア活動

青森県深浦町の小さな集落     
手紙返還での大学生の想い④ 梅原あかね

手紙返還での大学生の想い④ 梅原あかね

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    佐々木さんの消息を知るため、資料館で調査する梅原(右)

こんにちは、中央大学2年の梅原紅音(うめはら あかね)と申します。

私は中学、高校を沖縄で過ごしたことがあり、沖縄戦は自分にとって身近なもので、見過ごせないことです。
今年のゴールデンウィークから活動に参加していますが、8月の北海道での手紙返還は自分の人生の中で最大の衝撃でした。なかでも、沖縄本島南部の糸満市で戦没された、佐々木高喜さんの万年筆をご遺族へお返しできた件は、特筆すべきことになりました。
その報告と感想をお伝えいたします。

ご遺族から手を握られる

あの衝撃的な体験から、はや二か月が過ぎ去ろうとしています。が、時の移ろいとは関係なく、私たちに対峙された佐々木家のご遺族の表情が極めて印象的だったことを、今でも鮮明に覚えています。

 佐々木高喜さんの万年筆

高喜さんの万年筆をお渡しする時、72年前に宛先不明で返却された手紙をお渡しする時、開封される時、読まれている時、私たちが戦況報告をしている時‥。 戦没者の甥にあたる幸雄さんが、目を真っ赤にして、こちらをずっと見つめられていました。そのお顔が、今でも脳裏に焼き付いているのです。

 万年筆を受け取った佐々木幸雄さん(中央)

この一幕で、私には涙が堪えられなくなる瞬間がありました。それは大隊長が、ご遺族に出された手紙の一部を読みあげている時のことです。手紙は、戦死された状況や、戦死現認証明書以外の内容は、どのご遺族の時でも同じ。何度も目を通していたので、その場にいた仲間からも、「なぜ?」と、訝しがられます。率直にいえば、届くことのなかった手紙がご遺族の手によって開封された時、「高喜さんの帰りを待ち続けた方々に本当の戦死報告ができた」と、感極まったからです。

山形のご遺族宅で戦没者の遺影などを見る

そして、手紙を読んでいる時、私は不思議な感覚と想像に苛まれました。それは72年間ずっと封が開けられなかった手紙の中から、過去の情景が蘇って来るように感じたのです。当時の劣悪な環境と、勝てる見込みがない戦場。その鬱蒼と繁るジャングルの中で、一人でも多くの敵を倒そうと駆け回る高喜さん。戦友が毎日、死んでいく中、この万年筆だけでも故郷に帰したいという一心で、暗い壕の中で自らの名を懸命に刻む姿が、目の前に浮かび上がってきました。沖縄のジャングルや気候を肌で感じたことのある私にとって、タイムスリップして自分もその場にいるような感覚に襲われたのです。

奈井江町の郷土資料館でも調査

頭に浮かんだ遣る瀬無い情景から、ふと我に帰った時、ご遺族の手に固く握りしめられている、くだんの万年筆が目に入りました。「あー、高喜さん、お帰りなさい。やっと、やっと、大切な親族の元へ、戻って来ることができたのですね」。鉄の暴風が吹き荒れた73年前の地獄から、戦没者が帰郷した瞬間を目の当たりにできたことが胸中に溢れ、もう涙が止まりません。二の句を告げられないほど、泣きじゃくってしまったのです。

ご遺族宅を歩いて探す

今回は、一つひとつのファクトを積み上げながら、ご遺族へ到達できました。その途中、様々な形で支援して下さった協力者の方々がいなければ、ここまでたどり着くことは出来なかったと思っています。もしかしたら、万年筆に込められた高喜さんの想いが導いてくれたのかもしれません。私には、そう思えてならないのです。

高喜さんが戦地から出された手紙。お返しした万年筆で書かれた文字か

戦争はこの世の中に必要のないものです。負の遺産しか生みません。手紙をお返しできたご遺族も、戦後、貧困と家族を失った喪失感に苦しめられたそうです。そして、新たなご遺族の手紙に目を通すたびに、戦没者たちの「二度と戦争を引き起こしてはならない」という叫びが私の心に響きわたります。これを胸にとめて、できることを精一杯、続けて行きたいです。

佐々木家のご家族と記念撮影

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